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1997年の冬が、いまの廊下に触れるとき

1997年の広島・草津の冬は、海の湿気を含んだ冷たい空気が夜になるとマンションの外廊下にまとわりつき、2階という高さであるはずなのに、地面とほとんど変わらない位置で風を受けているような感覚があった。
草津港の方から吹き上げてくる風は、鉄製の階段や手すりをかすかに震わせ、その細かな振動が足裏からじわりと伝わってくる。
外廊下に取り付けられた古い蛍光灯はどこか緑がかった白さをしていて、夜になるとその光がコンクリートの壁に薄く反射し、湿気を含んだ空気の中でぼんやりと滲んで見えた。

遠くでは国道2号線を走る車の音が絶え間なく続いていた。
エンジン音が低く伸びては消え、また別の音が重なっていく。
その繰り返しは静寂とは違う、しかし確実に何かを削り続けるような単調さで、そこにいるだけで自分という輪郭が少しずつ薄くなっていくような感覚を伴っていた。

築年数の経ったマンションのコンクリートは、
冬になると外気をそのまま吸い込んだように冷たくなり、夜になると床の底からじわじわと冷えが上がってきた。
スリッパ越しでもそれは分かり、裸足で歩けば一歩ごとに体温が削られていく。
ベランダに出ると潮の匂いが微かに漂い、洗濯物にまで海の気配が移るほどの距離で、湿った空気は窓を閉めていてもどこかから入り込み、部屋の中にまで薄く広がっていた。

その環境の中で、自分の意識はいつも一箇所に固定されていた。
彼女のことだった。

DVから逃げてきた22歳の彼女は、外では年齢相応の顔をしていた。
だが、部屋に入った瞬間に、何かがほどけるように表情が変わった。
玄関で靴を脱ぎ、わずかに肩の力が抜けたその瞬間だけ、年齢という輪郭が曖昧になる。
そこに現れるのは、大人でも子どもでもない、
どこにも属していない表情だった。

彼女はあなたのシャツを勝手に引っ張り出して着て、そのまま何事もないように部屋の中を歩き回った。
サイズの合っていない布が身体を包み、袖が少し余る。
その姿は無防備というより、均衡を失っているもののように見えた。
守ればいいのか、触れれば崩れるのか、その境界が分からない種類の危うさだった。

ときどき、そのまま外に出ようとすることもあった。
外廊下の冷えた空気と、彼女の無防備さがあまりにも噛み合っていなくて、現実の中に置かれていないものを見ているような違和感があった。

彼女はあなたの匂いが好きだと言った。
あなた自身は、それをどこかで否定的に捉えていたのに、彼女は確かめるように深く吸い込んだ。

何かと比べるように。

その仕草のたびに、胸の奥に鈍い痛みが残った。自分の家の異常さや、両親の気配が呼び戻され、ここにこのまま置いてはいけないという考えが、遅れて浮かび上がってくる。

だが彼女は、ここを離れようとしなかった。

場所そのものに理由があるわけではない。
冷えたコンクリートも、湿った空気も、夜になると強まる風も、外廊下に響く足音も、何ひとつ彼女を守ってはいなかった。
それでも、彼女は同じように戻ってきて、同じ場所に座り、同じ距離で呼吸をした。

一度だけ、小さく呟いたことがあった。
ここは静かだから、と。

それが何を意味していたのか、最後まで分からなかった。

あなたは何度も言葉を選びながら、ここを出るべきだと伝えた。
職場に近い場所へ移り、もっと安定した生活に戻るべきだと。
だがその話になると、彼女はわずかに笑って、
それ以上踏み込ませなかった。
拒絶でもなく、同意でもないまま、話はいつも宙に浮いた。

そしてまた、何事もなかったかのように同じ空間に戻ってくる。

草津の冬の夜は早く暗くなり、港からの風が強まると外廊下の音が際立った。
誰かが階段を上がる足音、手すりに触れる金属音、ドアが閉まる鈍い音。
それらがすべて距離の近い現実として入り込み、2階という中途半端な高さは、どこにも逃げ場がない位置に自分たちを固定していた。

あなたはその空気の中で、何度も距離を取るべきだと考えた。
だが部屋に戻ると、彼女はそこにいた。

その空間の中だけで見せる表情が、決意を削っていく。
強く揺さぶるのではなく、静かに、しかし確実に。

二人の方向は一致していなかった。
それでも同じ部屋で、同じ空気を吸い続けていた。

時間は大きく動くこともなく、何かが決定的に起きるわけでもなく、ただゆっくりと積み重なっていった。
曖昧で、危うく、しかしどこかで均衡を保っているような状態のまま。

そのすべてが、湿った冬の空気と混ざり合い、
冷えたコンクリートの感触や、遠くの車の音や、潮の匂いと一緒に、ひとつの層として沈んでいった。

あの時間は終わっているはずだった。
だが、途切れてはいなかった。

いま、妻はここにはいない。
最後に一緒に過ごした住居はすでに手放され、
自分は少し小さな貸し家で、次女と二人で生活している。
部屋の広さも、窓から見える景色も、あの頃とはまるで違う。

それでも、ふとした瞬間に浮かび上がるのは現在ではなく、あの最初の時間のほうだった。

1997年の冬。
さおりと、まだ何も決まっていなかった時間。

もしあのとき出会っていなければ、いまの人生はまったく違うものになっていたはずだった。
隣にいる家族も、ここには存在していなかったかもしれない。

それが良かったのかどうか、その判断はまだどこにもない。

ただ、確実に繋がっている。

今の貸し家の廊下を歩いていると、冬の朝、足元からゆっくりと冷えが上がってくる瞬間がある。そのとき、ごく短い時間だけ、草津のあの2階の床の感触が蘇る。
もうそこには誰もいないはずなのに、湿気だけが時間を越えて入り込んでくる。

次女が眠る部屋の前を通ると、静かな呼吸が聞こえる。
その音が、かつての夜と重なることがある。

あの頃、部屋の中にあったのは、布の擦れる小さな音だけだった。
いまは違う音があるのに、なぜか同じ温度を持つ瞬間がある。

終わったはずのものが、消えていない。

あの冬は、切り離されずに残っているのではなく、どこかでまだ続いているように感じられることがある。

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nao46222 チップをありがとうございます。 そのまま宝にしておきます。^_^