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広告は、ありません|6章 あと数回だけ

あと数回だけ

7月の第1四半期決算が締まったのは、月末の金曜日だった。

広告代理事業部の第1四半期の数字は計画値に対してわずかにプラスで着地した。

劇的なプラスではなかったが、2月の月次で出た七十万円の未達から、ここまで戻ってくる事業部の決算を神谷以下、経営陣はひと呼吸、まじまじと見た。

社内のチャットに、簡単な慰労のメッセージがいくつか流れた。

「第1四半期、お疲れ様でした」
「整いましたね」

整いました、という言葉を浅倉亮介はメッセージ画面の上で二度読んだ。

整った、というのは計画値に着地したという意味だった。
だが、その言葉は別の意味でも耳に残った。

整った数字が、自分の手で作られたものであることを、メッセージを送ってきた相手たちは知らない。

知らないことが、いま彼の安心の輪郭をはっきりさせていた。


慰労会の夜、浅倉はラウンジルームの隅でーノンアルコールのジンジャエールを半分だけ飲んだ。

「広告事業部、回復しましたね」
「これでまた、楽になりましたね」

そのたびに同じ角度で頷いた。
頷く動作は、いつもよりわずかに楽だった。
楽だった、ということをその場で自分に確認しなかった。

会の途中で抜けた。
たぶん、楽な動作を長く続けると楽でないことを思い出すからだった。

タクシーは使わずに電車で帰った。


月曜の朝、神谷が経理フロアに降りてきた。
降りてくるのは月に一度か二度、経理部長との週次の打ち合わせのときだけだった。
それ以外は、上の階で紙の資料を読んでいる。

経理部長の席に向かう途中で、神谷は浅倉のデスクの近くを通った。
通り過ぎると思った瞬間、立ち止まった。

「浅倉さん」
声は、いつもの声だった。

浅倉は椅子から少しだけ振り返った。
「はい」

「最近、表情がいいですね」
それだけ言って、経理部長の席のほうに歩き始めていた。
浅倉は神谷の背中が経理部長の席に着くまでを見送った。

それから、手元の資料に視線を戻した。

視線を戻したあと、戻したことを自分に確認した。
確認したあと、確認したことをその場では忘れなかった。


「最近、表情がいいですね」
その短い一言を自分の中でもう一度組み立てた。

最近、というのは2月の月次以降のことだった。
表情がいい、というのはたぶん肩のあたりだった。
肩の落とし方が、2月以前と今とでわずかに違う。

神谷はその違いを月例の経営会議で肩の角度から読み取っている。
読み取られたということを自分の奥のほうにしまった。
妻にも神谷にも黒瀬にも、自分以外の誰にも見せないということだった。


経理画面の左下を見た。
赤字はなかった。

月次の確報も4月、5月、6月、7月と、4ヶ月続けて緑色の「達成」が並んでいた。

黒瀬経由の取引は、2月以降いくつか続けて動いていた。
回数は、もう自分でも正確には数えていなかった。
2月の初回は三千八百万円

最近は月に一件か二件、合計で一億円を少し超える。
第1四半期からの累計は本物の案件と合わせて十億近くまで膨らんでいた。
十億のうち、幾らが本物かをはっきり区別できるのは、フロアの中で自分一人だった。

経理画面の右側のグラフは、6月までで右肩上がりになっていた。
グラフの傾きが6月の半ばで少し急になった。

誰かが気にする傾きではなかった。
だが、見る人が見れば気にする傾きだった。

見る人が見れば、というのは見ない人は見ない、ということだった。

経理部長は見なかった。
コンプライアンス部長も見なかった。
内部監査担当者は、たぶん見ていた。
だが、見ているとも、見ていないとも報告書には書かなかった。

書かれなかった、ということを浅倉は社内ポータルの監査関連のページで一度だけ確認した。


その日、浅倉は早めに会社を出た。
早めに出るのは数ヶ月でほとんど初めてのことだった。
19時前にデスクの上の鞄を持って立ち上がった。

立ち上がるとき、自分の椅子の位置を机の下にいつもより少しだけきれいに戻した。

戻すという動作の意味を自分でも、その場では検討しなかった。

一階のロビーで、すれ違う何人が彼に小さく頭を下げた。
下げる角度が、いつもよりほんの少しだけ深かった。
その角度が何を意味するかを彼はもう、知っていた。
知っているということを、その場では自分に言わなかった。

19時前の電車は、座席が半分くらい空いていた。
窓の外を夏の東京の灯りが順番に流れていった。

電車の揺れに合わせて、頭の中を半年分の場面が通り過ぎた。

2月の七十万円の赤字。
決裁ワークフローの承認済の緑色。

「広告主の社名が記載がないですが」
「ああ、そうですか」

それから4月、5月、6月、7月
緑色の「達成」が月に一度、画面に表示され表示されるたびに、社内のチャットの「お疲れさま」が少しずつ長くなった。

そして、今朝の「最近、表情がいいですね」

その全部を並べたあとで、彼はひとつだけ気づいた。

数字が戻ると、人の態度が変わる。
それは、喜びというより、安堵だった。

誰の安堵なのかを、すぐには判定できなかった。
神谷の安堵か、経理部長の安堵か、コンプライアンス部長の安堵か、それとも自分の安堵か。

たぶん、全員の安堵だった。
全員の安堵の中心に、いま自分の事業部が置かれていた。


20年前のタクシーの後部座席を急ーーに思い出した。
25歳の冬、月末の達成の夜。

「数字を作れば、人間扱いされる。過程は問わない」

20年間、その安堵を求めて働いてきた。
求めてきた、ということを初めて言語化した。

言語化した瞬間に、もうひとつ別の声が薄く響いた。

これは、求めてきた安堵か。

それとも、自分が作った数字によって人の態度が変わったことに対する安堵か。

どちらか判定できなかった。
判定できないまま電車は次の駅で止まった。


改札を出て、駅前のスーパーの前を通った。
スーパーは21時で閉まる。

半分閉まったシャッターの内側で店員がかごを片付けていた。
浅倉はその光景をいつもより少しだけ長く見た。

駅から徒歩で12分。
沿道のマンションの上階に、夕食の灯りがいくつもついていた。
誰かが食卓に座っていた。
誰かがテレビを見ていた。
誰かが子供に何かを言っていた。
自分の住む窓も見上げると見えた。

リビングの窓は、いつも通り灯りがついたままだった。


自宅に着いたのは、21時前だった。
21時前に帰宅するのは、ここ数ヶ月で初めてのことだった。
玄関を開けると、廊下の奥からテレビの音が聞こえた。
いつもより、少し大きかった。

「ただいま」

声を廊下の奥に向けて一度出した。
返事はなかった。

蓮の部屋のドアの隙間からはいつも通り、ゲームの音が漏れていた。

リビングのドアを開けた。
友美はソファに座って、いつもの夜の番組を見ていた。
彼が入ってきた音には、いつもと同じテンポで反応した。

「ご飯、ある」
「うん。早かったね」

それだけ言って、友美はソファから立ち上がった。
立ち上がるとき、彼女は一度だけ浅倉の方を見た。

見た、というよりは、視線がテレビからこちらに移った、というのが正確だった。

長さは、2秒もなかった。
だが、視線が止まった、ということは何かを見た、ということだった。


食卓に、夕食が並んだ。
肉じゃがと、ほうれん草の和え物と、ご飯と、味噌汁。
いつものメニューだった。
浅倉はいただきます、と声を出さずに口だけ動かして箸を取った。

友美も自分の席に座った。
しばらく、二人とも何も話さなかった。
味噌汁を一口飲んだとき、友美が自分の方を見た。

「あんた、ちょっと、痩せた?」
彼女は、それだけ聞いた。

浅倉は箸を止めた。
止まった箸の先で、肉じゃがの煮汁がわずかに揺れた。

痩せた、と聞かれたのは、何年ぶりだろう。
たぶん、4年か、5年かそれ以上聞かれていなかった。
聞かれなくなった理由は、自分の体が変わらなくなったからではなかった。
彼女が自分をもう、見なくなっていたからだった。
それがいま見られていた。

「うん。忙しいから」
それだけ答えた。

「そう」
友美は、それ以上聞かなかった。

それで会話は終わった。


夕食の後、風呂に入った。
湯船の中で、二人の言葉を頭の中に並べた。
肩の落とし方。顔の輪郭。
それを神谷は「表情がいい」と言い、友美は「痩せた」と言った。

変えたのは、黒瀬経由の取引だった。
二人とも見ているが、何が原因かは知らない。
知らないのは、彼が知られないように動いているからだった。
知られないように動いている、ということが、いま彼の安堵の正体だった。


湯から上がって鏡を見た。

今夜は、鏡を見た。
鏡の中の顔は、いつもの顔だった。
いつもの顔ではない、ということを自分だけが知っていた。
その「いつもの顔ではない」が、神谷と友美の目に、それぞれの言葉で映っていた。
そう映っていることを、その夜初めて認めた。

認めた瞬間、彼の中で、ひとつだけ不穏な声が響いた。

この安堵は、異常に甘い。
甘いものに、人は、長く、留まる。
長く留まれば、留まったぶんだけ、出にくくなる。

その声は、湯気の中で2秒だけ響いて消えた。


寝室のベッドに横になった。
天井の蛍光灯の常夜灯が、薄い緑色に光っていた。

眠気は、すぐに来た。
来た眠気を、止めなかった。
止めなくていい、という日が、半年ぶりに訪れていた。

半年ぶりに安堵の中で眠った。
その眠りは、25歳の月末の達成の夜の眠りと、たぶん同じ種類の眠りだった。

20年経って、同じ眠りに戻った。
戻った、ということが、いちばん怖いことだった。

怖い、と思った瞬間にもう眠っていた。


9月最初の月曜の夜
ショートメッセージが届いた。
22時12分

浅倉は寝室のベッドの端に座って、スマートフォンを膝の上に乗せていた。

妻はまだリビングにいた。
蓮の部屋から、対戦ゲームの音がわずかに漏れていた。
通知の音はいつもの音だった。

ロックを解除した。
メッセージは短かった。

「明日の夜、お時間ありますか」
差出人の欄に「黒瀬 携帯」と表示されていた。

下の名前は、17年経ってもまだ入っていない。
浅倉はその一行をしばらく見た。

彼の中で、何かがゆっくり一回、回った。

ゆっくり回ったあと返信した。
「明日は、難しい。来週なら」

それだけ打った。

返信はすぐに来た。
「来週、月曜の9時。前と同じ場所で」

それだけだった。
店の名前は、書かれていなかった。

画面を閉じた。
閉じたあと、しばらく画面を見ていた。
画面はもう暗かった。


来週の月曜まで、5日あった。
そのあいだ、いつも通りに過ごした。
9月度の数字は、本物の案件でほぼ計画値に届きそうだった。
ほぼ、というのは四十万円か五十万円、本物だけでは届かないということだ。

その差を口には出さなかった。
口に出すと、2月の七十万円の話と繋がってしまう。
繋いではいけないというのが自分の中での暗黙のルールになっていた。


火曜の朝に神谷が経理フロアに降りてきた。
先週は降りてこなかった。
今週は降りてきた。

経理部長の席に向かう途中で、浅倉のデスクの近くを通った。
通り過ぎると思った瞬間、神谷はまた立ち止まった。

「浅倉さん」
「はい」

「九月も、順調そうですね」
「ええ、おかげさまで」

それだけだった。
神谷は、それ以上は聞かなかった。
聞かなかったが、神谷の足がいつもよりほんの1秒だけ長く止まっていた。

1秒というのは、たぶんある質問が出かかった時間だった。
出かかって出なかった。

その理由を、その場では追わなかった。
追えば、火曜の朝の自分の手が止まる可能性があった。


来週の月曜が来た。
朝から雨が降っていた。
9月の最初の長い雨だった。

夕方に雨は止んだが、空気の冷たさは残った。
会社を出るとき、薄手のジャケットを着た。

9時に、恵比寿の駅に着いた。
改札を出て、裏通りに入った。
半年前と同じ道だった。
看板の小さなビルの3階。

廊下の絨毯は、半年前と同じ感触で靴音を吸った。
扉を開けた。

黒瀬は、同じソファに座っていた。
服装も、ほとんど同じだった。
濃紺のジャケット、白いシャツ、ネクタイなし。
前回より少しだけ、髪が短くなっていた。

浅倉が近づくと、黒瀬は立ち上がった。
握手はなかった。
立ち上がる動作だけで礼に代えていた。
浅倉もそれを承知して求めなかった。

向かいに座った。
ウエイターが水とおしぼりを置いて黙って引いた。

「お変わりないですか」
と、黒瀬は短く言った。

昔話の入口ではない、形式上の挨拶だった。
「ええ」

「ここまで、整いましたね」
「おかげさまで」

「いえ、私は何も。整えたのは、浅倉さんのほうです」
そこで、黒瀬はわずかに笑った。
口の端だけが上がる種類の笑いだった。

その笑いを、浅倉は前回も見た。
二回目の今夜、その笑いは前回より少しだけ軽かった。


黒瀬は、革鞄を膝の上に置いた。

開けた。
中から、薄い封筒と何枚かの書類を出した。

前と同じだった。

媒体資料が三枚
発注書が一枚
下流代理店の指定リストが一枚
成果レポートのテンプレートが一枚
入金予定の一覧が一枚

すべてA4で、印刷の余白が不自然に同じだった。

発注金額が見えた。

三千五百万円だった。
前回より三百万円、少なかった。

今月、黒瀬経由の取引はこれで三件目になる。
月初に、別の上流代理店からの発注で八千万円。
中旬に、また別の上流から六千万円。

今夜の三千五百万円は、月の最後の調整としてぴったり収まる額だった。

三件合わせて、月の合計は一億七千五百万円。
事業部全体の9月度の未達粗利をちょうど埋める売上額だった。

上流代理店の名前は、前回の東品川のASKトレーディングではなかった。
別の名前で住所も港区に変わっていた。

下流代理店三社の名前も、前回とはすべて異なっていた。

書類のフォーマット、印影の濃淡、行間の刻み方、印刷の余白

——それらは前回と、完全に同じだった。

同じフォーマットを別の会社の名前で使い回す運用が、向こう側にあった。
向こう側、というのがどこまで広いのかをその場では、考えなかった。

考えればたぶん、黒瀬の背中の向こうに、別の人間が何人か立っていることを理解する。

確認する手段は、浅倉にはなかった。
手段がない、ということがいまの彼にとってひとつの安心だった。

少ない、ということはたぶん9月度の本物の案件の差分に合わせて調整されている、ということだった。
先方は、9月度の見通しを、知っている。

知っている、ということを浅倉はその場では深く追わなかった。
追えば、誰が「先方」なのかを考えることになる。

考えれば、その「先方」は、自分の事業部の数字をどこから入手しているのかを考えることになる。

考えれば、たどり着く先がいまの自分の楽さを、たぶん壊す。


「もう一件、動かせる話があります」
と、黒瀬は短く言った。

声は、前回と同じだった。
浅倉は書類をテーブル上で見なかった。
見なくても、分かった。
前と同じ書類で、同じ構造の取引だった。

彼は書類のほうを見ずに黒瀬のほうを見た。

「先月までで、ひとまず整いました」
「ええ」

「今月以降は、本物の案件で十分回ります」
「ええ」

二回の「ええ」のあいだに、黒瀬の表情は変わらなかった。

浅倉は続けた。

「今回は、申し訳ないのですが、見送りで」

それだけ言って、彼は書類のほうに手を伸ばさなかった。

手を伸ばさないことが、断る、という意思表示だった。


黒瀬は書類を引っ込めずにもう一度、短く言った。

「先方の都合上、断ると次回がなくなりますよ」
声は、前と同じ高さだった。

脅かしているのでも、釘を刺しているのでもなかった。
事実を、短く述べている、だけのトーンだった。

浅倉はその一言を、耳の中で一度だけ反芻した。

「先方」と黒瀬は言った。

「誰」とは言わなかった。

「次回がなくなる」と言った。
いつの次回かは、言わなかった。

黒瀬の一言には、具体的な情報はひとつも入っていなかった。
入っていないというのは、嘘の可能性がある、ということだった。

たぶん、嘘だった。

黒瀬は浅倉を引き留めるためにそう言っている。
引き留めれば、次の月もその次の月も、黒瀬の取引は回り続ける。
先方の都合、というのは黒瀬の都合だった。

そこまで整理がついたあとで、さらに書類のほうに手を伸ばした。


手を伸ばす動作を、自分で止めなかった。
止めなかったのは、止める理由が彼の中で、なくなっていたからだった。

嘘だと分かることが、断る理由にはならなかった。

それをいまこの瞬間まで認めないでいたことだった。
そして、もうひとつ彼の中で認められる理由があった。

達成率は、来期の目標に跳ね返る。

これは社内の慣行だった。
会社の予算編成は、前期の実績を基準に翌期の目標を引き上げる。
20年以上、それを別の事業部で何度も見てきた。

今期、本物の案件だけで届きそうな数字を、黒瀬経由の取引で上に乗せれば来期の目標は、その上振れた数字から計算される。

来期の目標が上がれば、その目標を達成するために、また、何かを「整える」必要が出る。

黒瀬を、今夜、切ることはできた。

だが切れば、来期目標が上がったときに、整える手段がなくなる。
切らずに繋いでおく、というのは来期の自分のための保険だった。

保険、という言葉を今夜、初めて自分の中で使った。
黒瀬の論理と、浅倉の論理は別だった。

別の論理が、いま同じテーブルの上で一致していた。
黒瀬はたぶん、それを承知していた。

承知している黒瀬の顔を、浅倉は見なかった。
ただ、もうひとつ彼の中で答えの出ない問いが残った。

黒瀬の論理、というのはいったい何か。

今夜の取引で、ジーリンクは粗利を六十数万円計上する。
その粗利は、黒瀬の側から見れば、出ていく金だった。

損をしてまで、毎月書類を準備して提示し続ける理由は、何か。

浅倉はその問いの入口で止まった。

止まったのは、その問いの先に立ち入った人間が戻ってこられなくなる領域があると、直感で感じたからだ。

黒瀬はたぶん、向こう側で別の何かのために、この取引を動かしている。

別の何かは、ジーリンクの粗利よりもはるかに大きな利益を、黒瀬側にもたらしているということだった。

その「別の何か」が何なのかを、浅倉は想像しかけて止めた。
止めた、というよりは、想像が自分の生活の中の言葉では組み立たなかった。

立ち入る手段が、彼にはなかった。

書類は、手元に来た。
革鞄を、膝の上に置いて開けた。

入れた。
入れる手は、半年前と同じく震えなかった。

震えないことを、確認しなかった。
確認しないことも、半年前と同じだった。


「ありがとうございます」
と、黒瀬は短く言った。

ありがとう、と黒瀬が言うのを浅倉は初めて聞いた。
2月の夜は、黒瀬はそれを言わなかった。

今夜は言った。
たぶん、それは礼ではなかった。

ありがとうございました、とは二度目以降の人にしか言わない。

一回目の人には、まだ言えない。
一回目の人は、断る可能性がまだある。
二度目以降の人は、断らない可能性が断る可能性より大きい。

その差を、黒瀬は「ありがとうございます」の一言で確定させた。
浅倉はその一言を、頭の中の別の場所にしまった。

しまったというのは、別の日に取り出す可能性を、自分のために残したということだった。


ラウンジを出た。
恵比寿の駅の方向へ歩いた。

革鞄は、半年前より軽く感じた。
重さが軽くなったということではなかった。
重さの種類に慣れたということだった。

電車に乗った。
新宿で中央線に乗り換えるときいつもの改札の前で、一度立ち止まった。
立ち止まったあいだ、頭の中で別の言葉が響いた。

2月の月末、自分に言い聞かせた。
「今月だけ通せばいい」
あのときの「今月だけ」というのは、2月のことだった。

2月から、9月になっている。
「今月だけ」では、もう言えない。

だが、「あと数回だけ」なら言える。

「数回」を何回か決めなかった。
決めないことで、自分で許せる範囲を広げる。

広げた範囲の中で、ようやく息を吐いた。
吐いた息は、改札の前の冷たい空気にわずかに白く見えた。

9月の初旬に、息が白く見えるはずなかった。
たぶん彼の息のほうが、いつもより温度が高かった。


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