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広告は、ありません|3章 整いすぎた書類

整いすぎた書類

恵比寿駅の西口を出たのは、20時45分だった。
店の場所は、当日の昼、黒瀬からのショートメッセージで届いた。

住所だけだった。
店名はなかった。
駅から徒歩8分と最後の行に書かれていた。

浅倉はいつもより5分早く出た。
駅の西口の信号は青だった。

青のうちに渡れる距離だったが、彼は渡らなかった。
まだ、自分の中で、何かの準備が整っていなかった。

信号が一度赤になって、もう一度青になったとき、渡った。

裏通りに入った。
表通りより、街灯が少なかった。
看板の小さなビルが、ほぼ等間隔で並んでいた。

目当てのビルは、その並びの真ん中あたりにあった。
外から見ると、看板のないビルだった。
エントランスの右側に、テナント一覧のプレートはあるが店名は書かれていない。
階数と部屋番号だけが打たれていた。

浅倉はそのプレートの前で、もう一度止まった。
止まったあと、足が勝手にエレベーターのほうへ動き出していた。


エレベーターは3階で止まった。
降りると廊下に絨毯が敷いてあった。

靴音がそこから消えた。
突き当たりの扉に、店名はなかった。
代わりに、小さな金属のプレートに店の番号だけが書かれていた。

扉の前で、浅倉は一度だけベルトの位置を確認した。
確認は必要なかった。
出社のときから、ずっと同じ位置にあった。
それでも、確認した。

扉を開けた。
中に入ると、黒瀬は奥のソファに座っていた。

店内は薄暗かった。
天井のダウンライトが、テーブルをピンポイントで照らしていた。
客は黒瀬の他に二組だけだった。
一組は奥の個室に消えていて、もう一組は入り口に近いカウンター席で、男女が互いに視線を合わせずに話していた。

ウエイターが黒瀬のソファの方角を指した。
浅倉は絨毯の上を歩いた。


濃紺のジャケット、白いシャツ、ネクタイなし。胸ポケットには何も挿していない。前職時代より服が体に馴染んでいた。

20年のあいだに、彼は服の選び方を変えたというより、自分の体を服に合わせたように見えた。

腕時計は控えめなスイス製だった。
文字盤は黒で、針も短くロゴはほとんど見えなかった。
値段の高い時計を値段の高さに見せない種類の時計だった。

浅倉が近づくと、黒瀬は立ち上がった。
握手を求められた。

浅倉は手を出した。

黒瀬の手は乾いていた。
それは普通の乾き方ではなかった。
冬の乾燥でも手を洗ったあとでもない、意識的に乾かしている乾き方だった。

指の腹も手のひらの中央も、同じ温度で乾いていた。
握り返してくる力は、余分なところがなかった。強くもなく、弱くもなくただ握り返すというだけの動作だった。

浅倉はその手を、1秒だけ覚えておこうと思った。
なぜそう思ったかは、その場では分からなかった。

握手は2秒で終わった。
黒瀬はソファの自分の側に戻った。
浅倉は向かいに座った。

革のソファは、背中が冷たくなかった。
店が室温で常に温めている種類の温度だった。


ウエイターが、グラスとおしぼりを置いて、それから黙って引いた。注文を取りには戻ってこなかった。たぶん、黒瀬がすでに何かを頼んでいた。

「変わらないですね」と、黒瀬は短く言った。

それが昔話の入口だった。
浅倉は答えた。

「黒瀬さんも、変わりません」

実際には、変わっていた。

だが、変わっていないと言うのがこの席での最初の作法だった。

退職した上司の名前がいくつか出た。
潰れた部署の名前も出た。
新規事業の話が一瞬出て、その新規事業はもう存在しないという確認で終わった。

「あの一階の、自販機のところに、いつもいた山田課長」
黒瀬がそう言った。

「あの人、退職してから地元に戻ったらしいですね」
「ええ、新潟だったかな」

「結婚はされてました?」
「離婚して、戻ったって聞きました」

「ああ」
黒瀬の「ああ」は、昨夜の電話の「ああ」より、わずかに伸びていた。

梶谷の名前が出たのは最後だった。

「梶谷さんは、もう」
と、浅倉が言いかけたとき黒瀬は短く頷いた。

「2010年でしたか」
「ご存じでしたか」

「業界の人から、なんとなく」
それ以上、どの業界の誰から聞いたかを黒瀬は言わなかった。浅倉も聞かなかった。

「ええ。脳卒中で」
「あの人は、最後まで朝礼を自分の儀式だと思っていましたね」

黒瀬はそう言って、それ以上、梶谷の話はしなかった。浅倉もしなかった。

二人ともその朝礼にいた。

「未達の人間に意見はない」を、二人とも聞いた。

聞いたことを、20年経って、いま黙って共有していた。
黒瀬はその共有を長く引きずらなかった。

「で」

と、黒瀬は短く区切った。

「ご用件は」

「で」と「ご用件は」のあいだに、1秒だけ間があった。その1秒は昔話の終わりという意味と、ここから先は別の話、という意味の両方を含んでいた。


浅倉は水を一口だけ飲んだ。

「今月、少し足りない」
「いくら」

「三千八百万」

黒瀬は眉ひとつ動かさなかった。
それは粗利の話ではなかった。月次の粗利が七十万、足りない。

その七十万を取り戻すために必要な売上が、三千八百万だった。広告代理事業の粗利率は、それくらい薄かった。だから、口に出すのは売上のほうだった。粗利の話は社内の説明では使われない。社外で動かす相手にも使わない。
黒瀬はその薄さを聞き返さなかった。

「期末まで、何ヶ月ですか」
「あと2ヶ月」

「来月以降の見込みは」
「決まりかけている話は、ある」

「決まっていないですね」
「決まっていない」

黒瀬はそれ以上聞かなかった。
聞かなかったことが、聞いた、ということだった。

短い沈黙があった。
その沈黙のあいだ、奥の個室からグラスがテーブルに置かれる音が、カウンター席から男の低い笑いが、浅倉の耳に届いた。どれも、自分たちの会話にはまったく無関係に聞こえた。

それから、黒瀬は短く区切るように言った。

「ひとつ、動かせる話があります」

声は低くも高くもなかった。提案、というよりは、すでに準備してあった、という響きだった。


黒瀬は革鞄を膝の上に置いて、開けた。
中から、薄い封筒と何枚かの書類を出した。

媒体資料が三枚。
発注書が一枚。
下流代理店の指定リストが一枚。
成果レポートのテンプレートが一枚。
入金予定の一覧が一枚。

すべてA4で、印刷の余白が不自然に同じだった。

浅倉はそれをテーブルの上で順に見た。
媒体資料には、聞いたことのない広告代理店のロゴが入っていた。

アフィリエイト広告の媒体一覧、と上に書かれていた。
文字のフォントは、よく見るタイプの明朝体だった。
だが、行間の刻み方がわずかに広かった。
整っている、というより整いすぎていた。

発注書は、上流代理店から「広告代理依頼」を受ける形式だった。

金額三千八百万、納期今月末、発注元の印影は濃淡が機械的に均等だった。

下流代理店の指定リストには、三社の名前が並んでいた。
Web媒体運営会社が二社、広告制作会社が一社。

それぞれの所在地、口座番号、振込予定額が記載されていた。

普通の代理店業務なら、ジーリンク側で下流の外注先を選ぶ。

原価管理も品質管理も、その選定の中で行われる。
だが、この書類には、ジーリンクが発注すべき会社がすでに決められていた。

成果レポートのテンプレートは、表だった。
媒体ごとの表示回数、クリック数、コンバージョン率、成果単価——欄が並んでいて、数字は空欄だった。

数字は後で誰かが入れる。
誰が入れるかは、書かれていない。

だが入れるのは、ジーリンク側の誰か——つまり浅倉自身か、彼の指示で動く部下ということだった。

入金予定の一覧には、月別の数字が並んでいた。

三千八百万、三千八百万、三千八百万。

同じ額が3ヶ月続いていた。続いている、というのは、続けることが先に決まっている、ということだった。

これは普通の案件ではない、と浅倉は思った。
下流の指定も、成果レポートの空欄も、すべて、最初から決まっていた。
そこまで考えて、考えるのを止めた。

それ以上、書類の意味を細かく追えば、たぶん、自分は止める。

止めるべきだ、と頭のどこかが言っている。

返すべきだ、とも言っている。

だが、その声に沿って手を動かせば、月次の七十万円は来月もまた、左下の赤字として残る。

残ったまま、四半期に膨らみ、期末に届く。

届いたら、どうなるか。

考えるのを止めた。
というよりはその先を見ないことに決めた。

書類の整い方は社内の決裁を通すには十分に見えた。経理は印影と数字を見る。コンプライアンスは契約書の形式を見る。実体の確認までは降りてこないだろう。

代理店の先の商流について、誰かに聞かれたら業界の慣行だと言っておけばたぶん通る。

アフィリエイト広告の代理事業というのは、そういう商流が普通にある世界だと聞いたことがある。
本当にそうかは調べていない。
調べないで済ますなら、それで済む。

今月だけ通せばいい。
来月から本物の案件で巻き返せばいい。

来月から、本物。

浅倉はその言葉を、自分の中で一度、繰り返した。


書類から、目を上げた。

黒瀬と、視線が一度だけ合った。
黒瀬は浅倉から目を逸らさなかった。
逸らさなかったが、責めてもいなかった。彼の目は、書類を見ているときの自分の目と同じ角度で浅倉に向けられていた。

書類を見ていた目で、人間を見ていた。
浅倉の口は勝手に動いていた。

「これは、後で——」

そこまで言ったとき、黒瀬の声が上から重なった。

「後で困らない仕事なんて、今どきありますか」

声は大きくなかった。
だが、浅倉が言いかけた言葉の続きを、その一言がちょうど覆うかたちで止めた。

笑顔は目に届かなかった。
口の端だけがわずかに上がった。

浅倉は「これは」の続きを、もう自分の中でも言わなかった。

言いかけた言葉が、自分の口に戻ってこないこと——戻ってこなくてよかったと、どこかで思った。戻ってきたら、たぶん自分は書類を返した。

浅倉はその言葉を、聞いた瞬間に別の言葉で塗りつぶした。
助かったかもしれないと、浅倉は自分の中で言った。

塗りつぶした、という自覚はあった。塗りつぶすという行為自体、その夜の選択の中でもう、何番目かの選択だった。

書類を革鞄に入れた。
革鞄を閉じる音が、ソファのあいだで小さく鳴った。

入れる手は震えていなかった。
震えていないこと自体を確認しなかった。

黒瀬は立ち上がった。

立ち上がるとき、彼はもう一度、軽く笑った。今度は、口の端も動かなかった。ただ、目元のしわがわずかに深くなっただけだった。

「気をつけて、お帰りください」

それだけ言って、黒瀬はソファから離れた。
会計は、黒瀬が入り口のレジで済ませた。
浅倉は呼ばれなかった。
財布を出すタイミングも、与えられなかった。


浅倉はラウンジを出て、エレベーターを降りた。
ビルの1階の自動ドアが開いた瞬間、冬の2月の空気が顔に当たった。
空気はラウンジの中より、10度くらい冷たかった。

恵比寿の駅の方向へ歩いた。
革鞄はいつもより少しだけ重かった。
重さの種類は、紙の枚数では説明できなかった。

駅の手前で立ち止まった。
裏通りから表通りに出る、最後の角だった。

表通りに出れば、タクシーも通っている。
電車もまだある時間だった。
彼はそのどれを使うかも、まだ決めていなかった。

革鞄の中の書類を、彼はもう一度、頭の中で確認した。
明日の朝、社内に持ち込む。

発注決裁書を起こす。
経理に回す。先方からの請求書は月末に届く。
入金は翌月の20日に入る。
決裁の流れは頭の中では、すでに最後まで通っていた。

通せる、と思った。
通せると思ったあとで、彼はもう一度、確認した。
二度の確認は、決意ではなかった。
決意のかたちをした、引き返さないという宣言だった。

彼は歩き出した。

革鞄の重さは、もう気にならなかった。
歩き出した足は駅の改札の方向ではなく、タクシー乗り場の方向に向かっていた。

電車には乗りたくなかった。
誰かと同じ車両に揺られる時間に、いまの自分は耐えられそうになかった。

タクシー乗り場で、彼は一台目に乗った。

「中野まで」
「了解しました」

会話はそれで終わった。
20年前、月末の達成の夜に彼がタクシーの後部座席で口にしたのと同じ駅の名前だった。
同じ運転手ではなかったが運転手はそれ以上、話しかけなかった。

話しかけられないことのありがたさを20年前と同じ位置で、また感じた。


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