広告は、ありません|4章 同じビル、同じ階
同じビル、同じ階
前の夜、中野の自宅に着いたのは23時を過ぎていた。
玄関のドアを開けると、廊下の奥にテレビの音はなかった。
妻はもう寝ていた。
息子の蓮の部屋のドアの下からも光は漏れていなかった。
書斎に入った。
革鞄を机の上に置いた。
中の書類は出さなかった。
出せばたぶん、もう一度何かを考えた。
考えないために、革鞄を閉じたままにした。
着替えだけして、布団に入った。
眠るまでに、いつもより時間がかかった。
眠れない理由を探さなかった。
その理由はたぶん、革鞄の中にあった。
朝、4時45分のアラームで起きた。
いつもより2時間早かった。
妻は起きなかった。
着替えをして家を出た。
妻にも、蓮にも何も言わずに出た。
妻には朝食を用意しないことを、自分のスマートフォンのメモに残した。
妻のスマートフォンには通知されない種類のメモだった。
だから妻は朝、起きたとき彼がいないことだけを確認することになる。
それでよかった。
説明をしたくなかった。
6時40分に、ジーリンク本社の7階の蛍光灯は、まだ3分の1しか点いていなかった。
経理部にも、広告事業部のフロアにも、誰もいなかった。
空調はもう動いていた。
空調だけが、人より先に出社していた。
浅倉は、自分の席に着いた。
着く前に、フロアの入口で一度だけ止まった。誰もいないフロアの絨毯が、自分の足音を吸った。
革鞄をデスクの右端に置いた。
革鞄は昨夜と同じ重さだった。
違いは重さの種類が、紙の枚数では説明できないものから、紙の枚数そのものに戻っている、ということだった。
戻っているように、彼は感じようとした。
PC画面を立ち上げた。
社内ポータルが自動でログインに走った。
月次の確報がまだ開いたままになっていた。
左下の七十万円の赤字は昨夜と同じ位置に、同じ大きさで残っていた。
彼はその赤字をしばらく見た。
それから、革鞄を開けた。
書類をデスクの上に順に並べた。
媒体資料が三枚。
発注書、下流代理店の指定リスト、成果レポートのテンプレート、入金予定の一覧が一枚ずつ。
すべて、昨夜と同じ順序で並んだ。
並んだあとで、もう一度、赤字を見た。
確認したというよりは、今朝の自分がこれを見ていることを、自分に確認した。
昨夜、考えるのを止めた。
今朝は、止めたところから先を自分で再開する。
そうすると決めて、書類の一枚目を取り上げた。
発注書
上流代理店「ASKトレーディング合同会社」
本社所在地:東京都品川区東品川二丁目五番地八号 青木ビル六階
聞いたことのない代理店だった。
聞いたことのある代理店なら、こういう発注の仕方はしない。
彼は住所を、頭の中で一度、繰り返した。
東品川二丁目、五番地八号 青木ビル六階
次の書類を取った。
下流代理店の指定リスト。
三社のうちの一社。
「合同会社サザンプロモーション」
本社所在地:東京都品川区東品川二丁目五番地八号 青木ビル六階
浅倉は紙の上で、指を一度止めた。
止めたあとで、息も一度、止まった。
止めようとしてではなく、読んだ瞬間に勝手に止まった。
彼はもう一度、指を動かして、一枚目の発注書を、隣に置いた。
二枚を並べて、住所欄だけを見た。
東品川二丁目、五番地八号 青木ビル六階
同じだった。
番地まで号まで、ビル名まで階数まで、同じだった。
止まっていた息をようやく吐いた。
吐いた息はいつもより、少しだけ長かった。
彼は三枚目を取った。
下流代理店指定リストの二社目。
「株式会社ヴェルテックメディア」
本社所在地:東京都港区赤坂三丁目十二番地二号 赤坂シーガルビル三階
これは別の住所だった。
彼は少しだけ安心したというよりは、自分が安心しかけたことに、自分で気づいた。
気づいたあとで、その安心を棚に上げた。
下流代理店指定リストの三社目
「合同会社プライムリンク」
本社所在地:東京都品川区東品川二丁目五番地八号 青木ビル六階。
また、同じだった。
三社のうちの二社が、上流代理店と同じ住所に入っていた。
東品川二丁目、五番地八号 青木ビル六階
同じビル、同じ階。
浅倉は椅子の背に、深くもたれかかった。
寄りかかったというより、体が自然に倒れた。
腕時計を見た。6時48分。
それから、登記情報の確認サイトを頭の中で思い浮かべた。法務局の登記情報提供サービス。会社の登記情報を500円弱で取れる。
月額契約ならもう少し安い。
会社のクレジットカードでも、個人のクレジットカードでも取れる。
会社のクレジットカードで取れば、後でログに残る。
個人で取れば残らない。
取らなくても分かる。
書類の上に、すでに同じ住所が書いてある。
取っても書類の住所と一致することをもう一度、確認するだけの作業になる。
一致することは、もう、分かっている。
取らないことに決めた。
書類の上の意味を、頭の中で組み立てた。
上流代理店からジーリンクに、三千八百万円が入る。
ジーリンクから下流代理店の三社に、合計で三千七百三十万円が出ていく。
差額の七十万円が、ジーリンクの粗利として残る。
下流代理店三社のうちの二社は、上流代理店と同じビルの、同じ階にいる。
その二社に出ていった金は、その後、どこに行くか。
書類には、書かれていない。
書かれていないが、想像はつく。
同じビルの、同じ階の、別の事務所から、上流代理店の口座に入る。
入金の名目は、たぶん、「広告掲載依頼」になる。
媒体は、たぶん、最初に上流から発注された案件とは別の見せ方になる。
つまり、金はジーリンクを真ん中に置いて、外で一周する。
循環の側から見れば、その七十万円は、一周ごとにジーリンクへ支払われる手数料だった。
これが何という言葉で呼ばれるものなのかは、浅倉は、まだ口に出さなかった。
口に出さないあいだは、それは、まだ言葉ではなかった。
書類の意味は、それで分かった。
分かったうえで、もう一度、月次の確報の左下を見た。
七十万円の赤字は変わっていなかった。
来月の見通しを、頭の中で立てた。
決まりかけている案件は、いくつかある。
だが、決まっていない。
決まっているのは、入金予定の一覧の中だけだった。
三千八百万、三千八百万、三千八百万と、3ヶ月分が機械的に並んでいた。
来月も、その七十万円は要る。
要る、というのは、自分が要ると思っているということだった。
七十万円分の架空売上だけ、別の方法で作る、というオプションは頭をかすめなかった。
頭をかすめないことは、すでにひとつの方法に決めていたことを認めなければならなかった。
今月だけ、これで通す。
今月の七十万円が消えれば、四半期の見通しが少し楽になる。少し楽になれば、来月から本物の案件で巻き返す余裕が生まれる。
本物の案件は、3月から5月の予算編成のタイミングでいくつか動かせる。
動かせれば、半年あれば抜けられる。
半年で、抜ける。
彼はその六文字を、もう一度繰り返した。
それから、もう一度、今度は声に出さずにゆっくりと繰り返した。
決裁ワークフローを立ち上げた。
社内システムの発注決裁書の既定のフォーマットが登録されていた。
画面の右側にフォームが並んだ。
発注先名、案件名、発注金額、納期、特記事項、添付ファイル、承認ルート。
承認ルートの欄には、経理部長とコンプライアンス部長の名前が、すでに自動で入っていた。広告代理事業の発注はその二人で完了する。
実体確認の承認者はいない。
承認者がいないというのは、確認しないということだ。
発注先:ASKトレーディング合同会社
案件名:アフィリエイト広告代理事業(媒体パッケージ・成果報酬型)
発注金額:三千八百万円(税別)
納期:当月末
特記事項:媒体構成および下流委託先は、業界慣行に基づき、別添リストの通り。
「業界慣行」の文字は、ひな型のままだった。
改めて入力する必要は、本当はなかった。
だが、彼は自分の指で、もう一度、上書きするように打ち直した。
打ち直すという動作の意味をその場では考えなかった。
添付ファイル欄に、媒体資料と下流代理店指定リストと入金予定の一覧を、スキャンしてPDFにしたものをアップロードした。
3枚のPDFを上げるのに、20秒もかからなかった。
承認ボタンをクリックした。
経理部長の承認待ちに、ワークフローが進んだ。経理部長は8時半に出社する。
9時前後に確認するだろう。
コンプライアンスの確認は、形式的に走る。
実体の確認は降りてこない。
降りてこないことを浅倉はすでに、何度も別の事業で見てきた。
決裁は通ると彼は思った。
通ると思ったあと、自分の指を見た。
震えていなかった。
震えていないことを確認した。
確認したあとで、確認したという事実を忘れることに決めた。
忘れることに決めたというのは、覚えていることに決めたということと、ほとんど同じだった。
社内のメモアプリを開いた。
「個人メモ」というフォルダがある。
社内のすべてのメモアプリは、暗号化されたうえでサーバーに保存される。だが、自分のフォルダの中身は自分以外には、社内システムの上では開けない。
彼は新しいメモを作った。
タイトルはつけなかった。
本文の一行目に、自分にしか分からない記号で、12文字を打った。
数字とアルファベットを混ぜた、簡単な置き換えだった。「あ」を「A1」、「い」を「A2」と、五十音をローマ字行に対応させ、行と段の数字で組み合わせるというやり方だった。中学生のころに、教科書のあいだに挟んでいた、彼の最初の暗号だった。
その暗号で、打った。
打つ指は震えなかった。
中学生のころ、教科書のあいだに挟んだ暗号は、好きだったクラスメートの名前だった。
挟んだまま、誰にも見せずに卒業まで持ち越した。
卒業の前の春、教科書を全部捨てた。
暗号も捨てた。
暗号の中身を、その捨てた日に誰にも見せないまま、忘れることに決めた。
30年以上前の暗号を初めて、仕事で使った。
打ち込んだ文字を、外して平文に戻すと、六文字になる。
「半年で抜ける」
メモを保存した。
画面を閉じる前に、メモの作成時刻を、一度だけ確認した。
2018年2月26日、月曜日、午前6時57分
その時刻を、忘れないでおこうと思った。
なぜそう思ったかは、その場では分からなかった。
7時10分に、警備員がフロアの蛍光灯を点けて回った。
警備員はフロアの北側の入口から入って、壁に並んだスイッチを左から右へ順番に倒した。
12のスイッチがひとつずつ上から下へ、わずかなクリック音を立てた。
12回のクリック音のあいだに、フロアの12の電球が順番に白い光を加えていった。
最初の電球が点いてから、12番目の電球が点くまで10秒もかからなかった。
フロア全体が明るくなった。
警備員は振り返らずにフロアを出た。
彼は浅倉のいる位置を視界に入れた可能性があった。
だが視界に入れたとしても、何も言わなかった。
月曜の朝、社員が一人、早く出社しているのは警備員にとっては、何度も見ている光景だった。
浅倉のデスクの上に、明るくなる前と同じ書類が、明るくなった後も同じ位置で並んでいた。
書類の上の数字は変わっていなかった。
書類の上の住所も変わっていなかった。
東品川二丁目、五番地八号 青木ビル六階
その住所が、同じ朝の白い光の中で、二枚の紙の上にもう一度、並んで存在していた。
7時15分
最初の社員がフロアのドアを開けて入ってきた。
「おはようございます」
その社員は浅倉に向かって、少し驚いたように頭を下げた。
浅倉はいつもの声でいつもの言葉を返した。
「おはよう」
返した声はいつもと同じ高さだった。
書類は、すでにデスクの上から消えていた。
革鞄に戻されていた。
書類が消えた音は、自分でも聞こえなかった。
彼は月次の確報のPC画面を、いつもの角度に直した。
七十万円の赤字は、もう左下にはなかった。
決裁ワークフローの承認待ちに進んだ瞬間に、月次の見通し画面では、その赤字が緑色の「処理中」マークに自動で書き換わっていた。
緑は、好きな色だ。
理由は、特になかった。
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