広告は、ありません|5章 業界の慣行
業界の慣行
決裁の承認通知は、火曜日の午前10時12分に、社内ポータルの右上に届いた。
赤いバッジが、決裁トレイのアイコンの上にひとつ点いた。
浅倉亮介はその点を1秒ほど見た。
クリックすると、ASKトレーディング合同会社向けの発注決裁書が画面いっぱいに開いた。
経理部長の電子印が左下に、コンプライアンス部長の電子印がその右に並んで押されていた。実体の確認が降りてきた形跡は、どこにもなかった。
決裁書の上部、ステータス欄に緑色の文字が表示されていた。
承認済
先週の月曜日の朝に見た緑色の「処理中」マークが、今日は「承認済」に変わっていた。
緑の色は同じだった。
同じ色だということを、浅倉は一度だけ確認した。
確認したあと、確認したことを忘れることに決めた。
月次経営会議は、午後2時から本社8階の大会議室で開かれた。
浅倉は午後1時50分にエレベーターで8階に上がった。
上がるあいだに一度だけ、ベルトの位置を確認した。
確認は必要なかった。
8階の大会議室は窓のない部屋だった。
蛍光灯がすべて点いていた。
テーブルの上のペットボトルは、誰が決めた配置でもないのに、毎月同じ位置に並んだ。
参加者は神谷徹社長、各事業部の責任者、経理部長、コンプライアンス部長、内部監査担当者、合わせて14名。
長机が口の字型に並んでいた。
資料は紙とPDFの両方で配られていた。
神谷だけがいつも紙の資料を選んだ。
浅倉の出番は議題の四番目だった。
「広告代理事業の前月実績報告」
一番目、二番目、三番目の報告が進むあいだ、浅倉は自分の手元の資料を二度めくった。
読まなくても、何が書かれているかは知っていた。
めくる動作が自分の指を動かしておくための動作だった。
席を立った。
手元の資料の一ページ目を、もう一度だけ確認した。
前月の売上、前月の粗利、前月の上流取引先一覧、商流概要図、来月の見通し。
商流概要図には、ASKトレーディング合同会社の名前が上流代理店として一行で記載されていた。
下流代理店三社の名前は、別添資料に住所を伏せて社名だけが書かれていた。
広告主の社名は、概要図にも別添資料にも書かれていなかった。
黒瀬から渡された書類にも、最終的な広告主の名前はもとから記載がなかった。
媒体資料にも発注書にも下流代理店リストにも、成果レポートのテンプレートにも、入金予定の一覧にも、その欄はひとつもなかった。
書かれていないものを、浅倉は社内向けの資料にもそのまま持ち込んだ。
記載欄を作らなければ「ない」ということ自体が消える。
書かないことを選んだというよりは、書かれていない状態をそのまま温存することを選んだ、というのが正確だった。
「広告代理事業、2月度の実績をご報告いたします」
声はいつもの高さで出た。
2月度の売上は、前月対比で6パーセント増加。前々月対比では10パーセント増加。
月次の利益は、計画値に対して約5万円のプラス。
「プラス、5万円」のところで、浅倉は資料の数字を口で読み上げた。
本当はぴったりに揃えられた。
ASKトレーディングからの三千八百万円の発注で、粗利として七十万円が計上に残った。
2月度の事業部全体の未達は、ちょうど七十万円だった。
差し引きすれば、計画値ぴったりで達成ということになる。
だが、ぴったりにしなかった。
月末締めの直前まで未達予測だった事業部が、最終結果で計画値ぴったりで達成というのは整いすぎる。
整いすぎる数字は、目を留められる。
あの夜、黒瀬から渡された書類が「整いすぎていた」のと同じ理由だ。
だから、5万円だけ上に出した。
本物の進行中案件のひとつで、来月計上予定だった小さな売上を、月をまたぐ前に当月の計上に動かした。
事業部長の裁量で動かせる範囲。
出した5万円は、来月以降の見通しの幅の中でちょうど吸収できる程度の数字だった。
達成の幅をわざといびつにする。
ぴったり揃えるより、少しだけ歪ませる方が難しかった。
読み上げた数字は、PC画面の左下から消えた七十万円ではなかった。
整いすぎないように整えた、新しい数字だった。
参加者は誰も口を挟まなかった。
経理部長は資料の数字を、紙の上で指で追っていた。
コンプライアンス部長はコーヒーカップに手を伸ばしていた。
内部監査担当者は、自分の手帳に何かを書き込んでいた。
書き込まれた内容は、浅倉の位置からは見えなかった。
「上流の取引先について、2月から新たに1社、追加で取引が始まっております。ASKトレーディング合同会社ということで、こちらは——」
浅倉はいったん資料をめくる動作で、間を置いた。
「アフィリエイト広告の代理事業を中心に扱う、専門代理店でございます。商流の上流側で、今月、月次三千八百万円の発注をいただいておりまして、来期以降も継続して月次の取引が見込まれております」
「ご見込み、なんですね」
経理部長が短く言った。
「ええ。先方からの入金予定の一覧もいただいておりまして、3ヶ月分はおおむね確定でございます」
経理部長は頷いて、それ以上聞かなかった。
浅倉は資料の次のページに進もうとした。
そのとき、神谷が手元の資料のページをゆっくりとめくった。
紙の音が、会議室の中で一度だけ鳴った。
神谷は商流概要図のページを長く見ていた。
それから、紙面の上のある一点に人差し指を置いた。
神谷の人差し指は、長くも短くもない、技術者だった頃の指だった。
爪は短く切ってあった。
指先で紙の繊維を感じる触れ方だった。
「広告主の社名が、ここには記載がないですが」
声は静かだった。
咎める声でも、糾す声でもなかった。
資料の中の事実を、ただ確認するだけの声だった。
浅倉は、その問いにすでに準備されていることを、その場で自分に確認した。
あの夜、恵比寿のラウンジで頭の中で予行した一文。
先週の月曜日の朝、決裁書の特記事項欄に、ひな型のままで通せたのにわざわざ自分の指で打ち直した四文字。それらが今日、自分の口から出る五文字に繋がっていた。
「ええ」
と、浅倉は答えた。
「上流から下流までの全関係先は、業界の商習慣として、書類には記載しないことになっておりまして」
そこまで言って、彼はわずかに付け加えた。
「アフィリエイト広告の代理事業では、媒体パッケージの内訳と、最終的な広告主の情報は、上流代理店側のノウハウとして秘匿されるというのが業界の慣行でございます」
「業界の慣行」
と、神谷はその五文字をもう一度繰り返した。
繰り返したあと、資料をもう一ページめくった。
「ああ、そうですか」
神谷の頷きは納得したというよりは、それ以上は踏み込まないと決めた、というかたちに浅倉の目には見えた。
だが、その「踏み込まない」が「信じた」動作なのか、それとも「信じることにした」動作なのか、その違いまでは判定できなかった。
判定しないことに決めた。
経理部長も、コンプライアンス部長も、内部監査担当者も、誰も追加の質問をしなかった。
浅倉は資料の次のページに進んだ。
「では、来期の見込みについて——」
声は、いつもの高さに戻っていた。
会議は、午後3時20分に終わった。
浅倉が大会議室を出るとき、他の事業部長の何人かと廊下で短く言葉を交わした。
来期の予算、新規事業の進捗、人事の話。
誰も浅倉の今日の報告について特別な言及をしなかった。
特別な言及がないということは、議題の四番目はすでに、今日の14名の中で終わったものとして扱われているということだった。
エレベーターで7階に降り自席に戻った。
経理画面を開いた。
月次の確報の左下には、もう赤字はなかった。
先月の月末まで、そこにあった七十万円の数字は、今月の画面では別の場所に緑色の文字で「達成」と表示されていた。
達成の文字を長く見た。
それから、自分の手を机の上に置いた。
震えていなかった。
震えていないことを確認した。
確認したことを、いくつ目の確認なのか数えていなかった。
「業界の慣行」
社内のチャットアプリの、自分宛のメモ欄に、彼はその五文字を平文で打った。
打ち込んだあと、しばらく見て削除した。
先週の月曜日の朝、自分にしか読めない暗号で打った六文字
——半年で抜ける——は、まだメモアプリの中に消されずに残っていた。
今日打った言葉は削除した。
残すか消すかの違いを、その場では考えなかった。
考えなくていいということだった。
夜の10時過ぎに、浅倉は自宅に戻った。
13年前に新築で買った3LDKのマンション。
住宅ローンの返済は、あと15年残っていた。
玄関を開けると、廊下の奥からテレビの音が小さく聞こえた。
「ただいま」
声を廊下の奥に向けて、一度だけ出した。
返事はなかった。蓮の部屋のドアの隙間から、ヘッドホンの音漏れがわずかに廊下に滲んでいた。リズムゲームか対戦ゲームかそのどちらかをやっている時間帯。父親の声がドアの内側まで届いたかどうかは、たぶん本人も気づいていなかった。
リビングのドアを開けた。
友美はソファに座って、夜のニュースを見ていた。膝の上に新聞のテレビ欄が広げてあった。彼が入ってきた音には反応した。
だが、視線はテレビの方を向いたままだった。
「ご飯、ある」
「うん。温めたら出すね」
友美はニュースのコマーシャルが入ったタイミングで、ソファから立ち上がった。
テレビはつけたままだった。
食卓の上に味噌汁と、肉じゃがと、ほうれん草の和え物とご飯と、漬物が並んだ。
二人分。
蓮は先に食べ終えていた。
浅倉はいただきます、と声を出さずに口だけ動かして箸を取った。
友美も自分の席に座った。
彼女のご飯の量は、彼の半分くらいだった。
「今日、寒かった?」
「うん。会議室、暖房がきいてたから出るとよけい寒かった」
「そう」
会話はそれで終わった。
友美はニュースの音をつけたままにしていた。アナウンサーの声が、肉じゃがの上で聞き取れる程度の大きさで流れていた。
政治のニュース、天気、それからCMの音楽。
浅倉は味噌汁を一口だけ飲んだ。
仕事の話を友美は聞かなかった。
去年も、一昨年もその前も聞かなかった。
聞かれなくなったのがいつからだったかは思い出せない。
だんだん、というのが正確だ。
聞かないということをたぶん選んでいた。
自ら選んでいることを気づいていた。
気づいているということを口に出して友美に伝えたことはなかった。
伝えないことも選んでいた。
肉じゃがを半分まで食べたとき、彼は自分が安心していることに気づいた。
仕事の話を聞かれない夕食は、楽だった。
今日、会議室で言った「業界の慣行」を、家でもう一度説明する必要はなかった。
神谷が「ああ、そうですか」と頷いたあの動作の意味をもう一度、家でも判定する必要はなかった。
楽になっていると思った瞬間に、彼の中で別の声が薄く響いた。
楽になっているというのは、何かを選んでいるということではないか。
その声は、味噌汁を一口飲んだら、すぐに消えた。
消えるのに合わせて、もう一口飲んだ。
ニュースの音が、急に別の音楽に変わった。
スポーツコーナーの音楽だった。
友美がご飯をひとくち食べた。
「蓮、最近、剣道行ってる?」
と、彼女がテレビに目を向けたまま言った。
「うん。先週も行ってた。試合が来月にあるって」
「観に行く?」
「……行けるかな。月末、繁忙期だから」
「そう」
それで会話は終わった。
友美は、それ以上聞かなかった。
彼女が「そう」と言うときの語尾の伸び方を、しばらく見ていた。
怒っていない伸び方だった。
期待していない、というのが正確だった。
それはもう数年続いていることだった。
夕食は、9時50分に終わった。
友美は食器を片付け、テレビの音量を少し下げた。
浅倉は風呂に入った。
風呂の湯はいつもの温度より、わずかに熱かった。設定は変えていなかった。たぶん、自分の皮膚の温度の方がいつもより低かった。
湯船に肩まで浸かった。目を閉じた。
目を閉じると、会議室の白い天井が、まぶたの裏にもう一度映った。神谷の人差し指が紙面の一点に置かれていた。「広告主の社名が、ここには記載がないですが」その声と自分の答えが、同じテーブルの上で繋がっていた。
繋がっていることが、今日、社内で公式に確認された。
確認されたということが、彼は安心だった。
安心であること自体が、彼の罪のもう一段深い形だった。
その自覚は、まだ言葉にならないところで、湯気と一緒に、彼の体の表面を撫でていた。
湯から上がるとき鏡を見なかった。
鏡を見ても、自分の顔はいつもの顔だ。
いつもの顔ではないということを確認したくなかった。
風呂を出て、リビングを通った。
友美はソファに戻って、別の番組の途中を見ていた。バラエティ番組の笑い声の音がリビングに広がっていた。
リビングのドアをいつもより少しだけ静かに閉めた。
理由はわからなかった。
階段の途中で、蓮の部屋のドアの隙間から音漏れがまだ続いていた。リズムゲームの軽快なテンポの音だった。
寝室に入りベッドの端に座った。
座ってから、自分のスマートフォンを一度だけ見た。
通知は何もなかった。
黒瀬からも、誰からもなかった。
しばらく画面を見ていた。
見ているあいだ、何を考えていたのか、わからなかった。
ベッドに横になると、すぐに眠気が来た。
眠気が来るということは、眠れるくらいには、何かが楽になっていたということだった。
楽になっていることを認めなかった。
楽になっていることを認めずに眠るというのは、楽になっていることを認めて眠ることと、たぶん同じだった。
その違いまでは、もう判定しなかった。
判定しないまま眠った。
天井の蛍光灯の常夜灯が、薄い緑色に光っていた。
決裁画面のあの緑と同じ色だった。
同じ以上のことは考えなかった。
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