見出し画像

広告は、ありません|2章 十七年ぶり

十七年ぶり

17年ぶりに電話をかけた相手は、最初にこう聞いた。

「金の話ですか」

その会話まで、まだ9分あった。


時計は21時4分を過ぎていた。
浅倉亮介はPC画面の連絡先一覧を開いたままにして、椅子から立ち上がった。

立ち上がる動作は、自分でもいつ始まったかが分からなかった。決めて立ったというよりは、足が先に動いて上半身が遅れてついてきた。

鞄も上着も、机の上に置いたままだった。
スマートフォンだけを手に持っていた。

フロアを横切った。
経理部の蛍光灯はまだ点いていた。

広告事業部のフロアは、半分以上が消されていて自分の靴音だけが響いた。

非常階段のドアの前で一度、立ち止まった。

立ち止まったのは、ドアを開けるかどうかを決めかねたからではなかった。
開けてから、何階に上がるかをまだ決めていなかったからだった。

ドアを開けた。
階段の中の空気は、フロアより二度くらい冷たかった。


7階の踊り場から上がった。
7階と8階のあいだに、コンクリートの床の踊り場がある。

窓は北向きで、窓ガラスの内側に冬の結露が薄く一筋、残っていた。
蛍光灯はひとつだけ点いていた。

浅倉はその踊り場で止まった。
8階まで上がるつもりだったのか、踊り場で止まるつもりだったのか、自分でも分からなかった。

止まりやすい場所がここだった。
オフィスの中ではない。
会議室でもない。
誰かに見られる場所でもない。

誰かが偶然降りてきても、黙って通り過ぎるそういう場所だった。

冬の二月の空気が、窓の縁から漏れて入っていた。
彼は窓のほうへ、一歩寄った。

窓の向こうに、夜の東京の灯りが横に長く広がっていた。
1階分くらいずつ、横に消えていく窓の灯りもあった。
誰かがいま、仕事を終えて帰っていく時間だった。

腕時計を見た。

21時11分


スマートフォンを取り出した。
ロックを解除すると、連絡先の画面は、自席で開いたまま、「く」の行で止まっていた。

黒瀬 携帯

下の名前は入っていない。
入れなかったのは、入れる必要がないと判断したからだ。
判断したのは、たぶん自分だった。

2001年の年末、黒瀬が辞める日、浅倉は彼の連絡先をその場で打った。
打ったときの状況はもう覚えていない。
だが、下の名前を打たなかったということだけは、17年経った今もはっきりしていた。

下の名前を打たないことは、その人物を連絡先の中に置きながら、生活の外側に置くことだった。

2001年の年末、自分は黒瀬を生活の外側に置くと決めていた。
その黒瀬に、電話しようとしていた。


浅倉は黒瀬のことを覚えていた。

2001年の年末に、最後に見た。あれから17年。黒瀬の顔は少しずつ薄くなっていたが、声と立ち方と手の動かし方だけは、はっきりと残っていた。

黒瀬は前職時代の後輩だった。
三つ下。
1998年に中途で入ってきて、2001年末に辞めた。

3年半、同じ部署にいた。
当時から数字を整えるのが上手かった。

客先に出さない方の仕事——前倒し、後ろ倒し、伝票の切り方、月末の整え方——が誰よりも巧い男だった。

浅倉はあのころ、黒瀬を「便利だが、深く関わってはいけない種類の男」だと感じていた。

便利だったのは、困っているときに黒瀬が静かに動いてくれたから。

深く関わってはいけないのは、その動き方が、誰にも説明できない種類のものだったからだ。


黒瀬が辞めた日のことを、浅倉は踊り場の窓のほうを見ながら、もう一度思い出した。

2001年の年末、12月の最後の営業日だった。
終業後、フロアで簡単な送別会があった。

黒瀬は紙コップのビールを半分だけ飲んで、残りはそのまま置いた。
乾杯もいつもより低い位置で当てていた。

「お世話になりました」

黒瀬はフロアの全員に向かって、それだけ言った。
誰か個人に向かって、特別な挨拶はしなかった。
浅倉にもしなかった。

辞めた後の連絡先を、黒瀬は誰にも教えなかった。
次の会社の名前も言わなかった。
「いろいろやります」と、それだけ言った。

会が終わって、フロアから出るとき、浅倉は廊下で黒瀬を呼び止めた。

「番号、もらえるか」

それだけ言った。
理由は、自分でもまだ言葉にできていなかった。
黒瀬は一度だけ、浅倉を見た。

「ああ」

それだけ言って、自分の携帯電話をポケットから取り出した。
当時はまだ折りたたみ式だった。
画面を開いて、自分の番号を浅倉に向けて見せた。

浅倉はその番号を自分の携帯に打った。
打ち終わったあと、浅倉は自分の番号も読み上げた。
伝えるとも、伝えてくださいとも言わなかった。
ただ、口で11桁を、ゆっくり読み上げた。

黒瀬はそれを自分の携帯に打ち、画面を一度だけ浅倉に見せて確認を取ってから閉じた。

二人とも、相手の名前の登録欄に何を打ったかは見せ合わなかった。

下の名前を打たなかったのは、その夜の浅倉の最後の節度だった。

節度というには控えめな動作だったが、17年経っても消さなかったのは、それだけが自分の中に残っていたからだ。


17年のあいだ、浅倉は黒瀬を何度か思い出した。

最初は、2005年、別の部署で月次の数字に困った時だった。
整え方があったらいいな、と一瞬思ってすぐに考えなかったことにした。

二度目は、2010年、梶谷が亡くなったと聞いた時。
葬式の連絡が、前職時代の同僚から回ってきた。
連絡網の中に黒瀬の名前はなかった。

三度目は2014年、ジーリンクの広告代理事業を立ち上げた頃。
立ち上げの会議の途中で、いつかの黒瀬の「整え方があるかもしれません」という声が急に再生された。
再生されたあと、彼はその声を誰にも言わなかった。

四度目は、今夜だった。
今夜は思い出した、というよりは思い出されてしまった。


指は画面上で止まっていた。

止まっているあいだ、自分が何を考えているのかを確認しなかった。
確認すると、止めてしまうかもしれなかった。

電話をしなくてもいい。

今夜ここで時間を潰して、フロアに戻って、鞄を持って帰って、明日の朝もう一度、月次の画面を開けばいい。

期末まではまだ2ヶ月ある。
決まりかけている案件が決まればそれで済む。

決まらなければ、どうなるか。

決まらないかもしれない、ということを、彼は知っていた。

知っていたから、踊り場まで上がってきた。
知っていたから、指を止めていた。

止めている、ということ自体が押すことの予行だった。

押した。


通話のマークが画面の真ん中で大きくなった。

呼び出し音が、1回。2回。3回。

呼び出し音のあいだ、彼は、自分の息の音を聞いていた。

息はいつもより、少しだけ浅かった。
吸っても、胸の上のあたりまでしか入ってこなかった。

このまま深く吸えば、たぶん自分は切ってしまう、と彼は思った。
だから、浅いままにしておいた。

4回目で、音が変わった。

「もしもし」

低い声だった。眠そうではなかった。
むしろ、確認するような響きだった。

浅倉は名乗った。

「浅倉です」

姓だけにした。
下の名前は言わなかった。
相手の連絡先に下の名前を打たなかったのと、同じ動作だった。
17年経ってもその動作は変わっていなかった。

電話の向こうで、一呼吸あった。
それから、黒瀬は言った。

「ああ」

その「ああ」は短かった。

17年前のあの夜、廊下で「番号、もらえるか」と聞いた時、黒瀬は同じ「ああ」を返した。

あの夜の「ああ」は、最後がもう少しだけ伸びていた。
今の「ああ」は、その伸びがなかった。

驚いた声ではなかった。
むしろ、待っていたような響きだった。
それでも、何か言わなければならなかった。

「ご無沙汰しております」

口から出たのは、営業時代の自分の口癖だった。

「あの頃は、お世話になりまして。今日、急にお電話して——」

そこまで言ったとき、黒瀬は彼の言葉を軽く遮るように、聞いた。

「金の話ですか」

仕事の話ですか、ではなかった。
久しぶりに、いかがですか、でもなかった。

金の話ですか、と、黒瀬は聞いた。

浅倉は答えなかった。
答えに詰まったというよりは、答えがすでに自分の中にあったことを、彼自身が認めるまでの時間が、2秒ほどかかった。

その2秒のあいだ、踊り場の窓の向こうで、遠くのオフィスビルの灯りがひとつだけ消えた。

「会えますか」

浅倉はそれだけ絞り出した。

さっきまで口にしようとしていた言葉——ご相談したいことがありまして、お時間いただけますか——は、もう出てこなかった。

営業時代の口癖は、黒瀬の前では最後まで続かなかった。

「明日の9時。恵比寿で」

黒瀬は店の名前を言わなかった。
場所は、明日、改めて連絡が来るということだった。

「分かりました」

浅倉はそれだけ答えた。

電話はそれで切れた。
挨拶も、それでは、もありがとう、もなかった。


浅倉はしばらく、スマートフォンを耳から離さなかった。
切れたあとの静かな音だけが、踊り場に流れていた。

窓の向こうで、いま消えたばかりのオフィスの灯りの隣の灯りは、まだ点いていた。

彼はスマートフォンの画面を見た。

通話履歴に「黒瀬 携帯」の名前が、新しい行で記録されていた。

発信時刻、21時12分。
通話時間、1分20秒。

1分20秒は、彼の20年間で最も短く、最も長い電話だった。

短いのは、時間として。
長いのは、自分の中の重さとして。

スマートフォンをポケットにしまった。
しまうとき、通話履歴の行は消えなかった。

消す、という選択肢をその場では考えなかった。


非常階段のドアを開けて、フロアに戻った。
誰もいなかった。

経理部の蛍光灯はまだ点いていた。
広告事業部のフロアは、自分が出ていった時と同じで半分消えていた。

自分の席に戻った。
机の上の鞄は、出ていく前と同じ位置にあった。

PC画面の左下には、まだ月次の確報が開かれたままになっていた。

七十万円の赤い数字を、もう一度、見た。

額は変わっていなかった。
だが、彼の目に、その数字はさっきより少しだけ、小さく見えた。

額が小さくなったのではない。額の意味が少しだけ軽くなったのだ。

軽くなったのは、明日の9時、恵比寿で誰かに会うという予定が、頭の片隅にもう置かれているからだった。

置かれている予定は、まだ、何の予定なのかも決まっていなかった。

決まっていないが置かれている、というのがいちばん、彼の中で重かった。

PCをそのまま消した。
立ち上がって帰る支度を始めた。

帰る、という動作がいつもより、少しだけゆっくりだった。
ゆっくりだったことを意識しなかった。

意識しないことを自分で選んだということだけは、はっきりしていた。


▼ 最新話まで収録しています ▼

いいなと思ったら応援しよう!

真田 奈緒 よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!