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広告は、ありません|1章 未達の人間

未達の人間


2018年2月

月次の確報がPC画面の左下に届いた。
浅倉亮介は数字を見る前に、画面を一度消した。
そういう癖だ。

数字を見る前に、息を整える。
落ちている可能性を、自分の中で先に少しだけ落としておく。

そうすれば、本当の数字が来たとき頭の中の数字との差分だけを見ればいい。
差分が小さければ安心できる。
大きくても覚悟ができている。

20年以上、彼はそうやって月次を開けてきた。
そして20年以上、画面の左下に未達の赤い数字を見たことは一度もなかった。

画面を、もう一度つけた。

広告代理事業部の月次。
売上、粗利、外注費、人件費、内部振替。
下のほうに、粗利の予算差分が出る欄がある。


七十万円


未達。


額として、七十万円は大きくない。
広告代理事業部の月次粗利の中では目立たない大きさで、来月の決裁ひとつでひっくり返る範囲だった。
期末まで、まだ2ヶ月ある。

それでも、浅倉の頭の中で七十万円はじわじわと膨らんだ。

額が膨らんだのではない。

額に紐づけられた言葉が膨らんだのだ。

未達

その言葉が画面に表示されているわけではなかった。
差分は赤い数字で、ただ静かに置かれているだけだった。

だが浅倉は、その赤い数字の上に別の言葉を読んだ。


未達の人間



浅倉は椅子の背に体を預け、目を閉じた。

20年前の景色が、ずっとそこに置かれていたかのように、こちらへ動いてきた。


あの頃、街には同じロゴの看板が増えていた。
駅を出るたびに、新しい携帯電話ショップができていた。
1年で店舗数が倍になるのが普通だった。

新規契約は年率二桁で伸び続け、テレビでは毎週、新しい料金プランの広告が流れた。
地下鉄の中刷りもほとんどがその業界だった。

浅倉の配属は、ショップではなく法人事業部だった。
企業に回線契約と端末をまとめて売る。
一社の契約で、何百回線分の数字が月に乗る。
当たれば大きい。当たらない月は何もない。

本社のホワイトボードには、法人事業部の日次の契約数が書き出されていた。朝礼では一人ずつ前日の数字を読み上げさせられた。

読み上げる順番は、達成順。
達成した者から先に読まれ、未達の者は最後まで読まれない。

自分の名前が最後まで残っているということは、フロア全員がその朝、自分の数字を待っているということだった。

朝礼は毎朝7時半。
その10分前には全員が立っていなければならない。

立っていない者は月末、別の朝礼で名前を呼ばれた。
それは別の儀式だった。

浅倉はその朝、25歳。
新卒3年目に入ったばかりだった。

7時30分

営業全員がホワイトボードの前に立っていた。
営業課長の梶谷正夫は、痩せていて声が低く笑わない男だった。
朝礼の前に必ずトイレに行き、戻るとき袖口を片方だけ直す癖があった。
直すのは、いつも左。

その朝、梶谷の袖口は、両方とも直されていた。
両方を直したのはその日が初めてだった。

浅倉はそれを、並んだ位置から見ていた。
見たということを確認したのは、20年経った今だった。

梶谷は名簿を開き、いつも通り前日の数字を読み上げた。

「山田、達成」
「鈴木、達成」
「佐々木、達成」
「浅倉——」

梶谷の口が、短く止まった。


「未達」


自分の名前のところで、一拍、息が止まった。

三十万円の未達

月次売上の中ではほとんど誤差に近い額だった。
だが、ホワイトボードの前で読み上げられた瞬間、その三十万は別の重さになった。

梶谷はホワイトボードに向き直り、それから浅倉のほうを見た。視線は浅倉だけに当たっていなかった。当たっていないように見えて、当たっていることが浅倉には分かった。


「浅倉。お前の三十万は、誰が埋めるんだ」


浅倉は答えなかった。

「できない理由はいらない」

梶谷は続けた。

「未達の人間に意見はない」

並んでいる十数人の誰も動かなかった。

誰も浅倉を見なかった。

耳の奥が熱くなった。

恥ずかしさとは違う種類の熱さだった。
皮膚の表面が急に薄くなり、シャツの内側で肩甲骨のあいだを汗が一筋、流れた。

梶谷は次の名前を読み始めた。

「橘——」

朝礼は続いた。

続いているということは、彼の三十万円がもう過ぎたものとして扱われているということだった。

だが、誰も忘れていなかった。


並んだ十数人の中で、ひとりだけ視線を別の方向に向けた男がいた。
入社して半年ほどの後輩、黒瀬誠。

三つ下の22歳。
定時制高校を出て、何度か職を変えてここに来たと聞いていた。
痩せていて、声が低く人当たりはいいが、誰とも深く話さない男だった。

黒瀬は浅倉のほうではなく、ホワイトボードの右下の隅を見ていた。
右下の隅には、何も書かれていなかった。

何も書かれていない場所を、黒瀬は見ていた。
怒っているのでも、軽蔑しているのでもない。

ただ、自分が後で困らない程度に視線を別の場所に置いていた。

浅倉はその目の動かし方を覚えた。
覚えた、というより、焼きついた。


朝礼のあと、浅倉はトイレの個室に入った。
個室は三つあり、真ん中を選んだ。
両側に誰か入ってきても、壁が二枚ある方がいくらか安心だった。

入ってから、何のために来たのかしばらく分からなかった。
便座のフタの上に座り両手で顔を覆った。
手のひらは冷たく、顔は熱かった。

何分そうしていたかは分からない。
3分か、5分か、もっと短かったかもしれない。

立ち上がって、フタを上げた。
便器に向かって、口を開けた。
何も出なかった。

3回、口を開けて、3回、何も出なかった。
胃の上のあたりが押し戻されようとするだけで、出るものがなかった。

4回目でようやく、水のようなものが上がってきた。
胃液というより、朝に飲んだコーヒーの残りだった。

吐いた、というほどの量ではなかった。
便器に顔を下げたまま、彼はホワイトボードの前の声をもう一度頭の中で再生した。


未達の人間に意見はない。


何度再生しても、その言葉は同じ重さで、同じ場所に置かれた。
水を流し、洗面台で口を漱いだ。

鏡の中の顔は、いつもの顔だった。
いつもの顔ではない、ということを自分だけが知っていた。
口を漱ぎながら、ひとつだけ決めた。

達成しよう。

何をしても、達成しよう。

それは決意というより、決意のかたちをした生存反応に近かった。
決めた瞬間、肩甲骨のあいだの汗がようやく止まった。


月末まで、あと6日。
数字は埋まらなかった。

手元の案件はすべて、来月の数字にしか反映されない。
今月の数字を作るには、来月以降のために動いていた何かを、無理やり今月に引き寄せるしかない。
制度上できないことではないが、後で説明を求められる種類の処理だった。

2日目の夜、彼は過去3年分の取引先リストを開いた。
連絡が途絶えて長い相手。
最後の取引が小さかった相手。
別の担当に引き継いだ相手。

名前を並べ替えながら、それぞれに何の理由で電話するか頭の中で組み立てた。

3日目の夜、5件電話した。
3件は丁寧に断られ、2件は留守だった。

4日目の夜、別の業種の取引先に問い合わせの体で電話した。
途中で、自分の声がいつもより少し高くなっているのに気づいた。
気づいたあとも、高さは戻らなかった。

5日目の夜、誰もいないフロアでもう一度リストを開いた。

3件電話した。
3件とも丁寧に断られた。

22時を過ぎた。
画面の左下には、まだ三十万円の赤字があった。
朝礼で名前を読まれた時から、一円も減っていなかった。

そのとき、内線が鳴った。


社内番号だった。
誰も残っているはずのない時間。

受話器を取った。
黒瀬の声だった。

「浅倉さん」

低い声だった。
眠そうではなく、確認するような響きがあった。

「今月の話、ちょっと、整え方があるかもしれません」

浅倉は答えなかった。
整え方、という言葉が、耳の中で一度、音だけで残った。
意味は遅れて、ついてきた。
その意味をその場では追わなかった。

「明日の昼までに、ご連絡します」

黒瀬は続けた。

「相談する必要は、ないかもしれません」

電話は3分も持たなかった。
説明はなかった。
黒瀬は何をするとも、誰に連絡するとも言わなかった。

最後の一言
——相談する必要は、ないかもしれません——
は、たぶん聞き返さなくていい、という意味だった。

受話器を置いたあと、しばらく動かなかった。
聞き返すべきだったかもしれないと思った。

だが、聞き返さない、という選択を自分はもうしていた。
机の上の湯飲みの朝に淹れて冷たくなったお茶を、一口だけ飲んだ。

冷たかった。


翌日の午前中、見込み案件が一件入った。

浅倉が掴んだ案件ではなかった。
先方から急に連絡が来たという体だった。

担当は別の同僚の名前になっていたが、その同僚は浅倉に何も聞かず書類だけを無言で机に置いた。
置いて戻る途中、一度だけ振り返って何か言いそうにした。
結局、言わなかった。

金額は、ちょうど三十万円を埋める額だった。
浅倉は書類を開かなかった。

開かなくても、必要な数字が揃っていることは分かった。

開かないまま、決裁トレイの一番上に置いた。
置く手は、震えなかった。


月末、ホワイトボードの前で梶谷が名簿を読み上げた。

「浅倉、達成」

並んでいる全員が、一拍、空気を吐いた。
安堵というより、儀式の続きのような吐息だった。
誰も浅倉を見なかった。
誰もおめでとうとは言わなかった。

朝礼のあと、浅倉は黒瀬の席を見た。
黒瀬はいなかった。
外回りに出ていると誰かが言った。

その日、浅倉は黒瀬に礼を言わなかった。
黒瀬も何も説明しなかった。
二人はそのまま2週間、口をきかなかった。

それでも、フロアですれ違うとき目が合うことはあった。
目が合うと、黒瀬はいつもより、ほんの少しだけ早く視線を外した。

外す速度は、決まっていた。
何度か練習した、動作の速度だった。


その月の終わりの金曜の夜、梶谷が浅倉を呼んだ。
恵比寿のラウンジだった。

新しい店が次々できていた頃の恵比寿の裏通りの、看板の小さなビルの3階。
エレベーターの中で、梶谷は何も話さなかった。
3階に着くと、フロア全体がもう彼らのために空けられていた。

数字を達成した人間が、月末にここへ連れてこられる。
先月もそうだった。
その前の月も。
グラスの段数はいつも同じで、満たされる名前だけが月ごとに少しずつ入れ替わった。

その名前の中に浅倉がいた。

中に入ると、シャンパンタワーが組まれていた。
7段のグラスタワー。
光が上から、グラスの斜面を伝って下のグラスに落ちていた。

「やるじゃねえか、浅倉」

梶谷は手のひらを浅倉の背中に置いた。
手のひらは厚く温度が高かった。
3年間、同じ会社にいて、課長の手のひらに触れたのは初めてだった。

部屋には同僚が数人いた。
達成回数の多い順に上から三人と、別の部署の課長が一人。
皆、ネクタイを緩めていた。
一人だけ、緩めていない男がいた。

黒瀬だった。

少し離れた席に座っていた。
ネクタイは朝と同じ角度で結ばれ、ジャケットは椅子の背にもかけず肩にきちんと乗ったままだった。
グラスを持っていたが、口をつけていなかった。
手のひらは、最初から最後まで乾いていた。

誰かが合図を出して、タワーの上から液体が落ちた。

いちばん上のグラスが満たされ、次に二段目の四つが、上から流れてくる液体でゆっくり満たされた。
三段目、四段目、五段目。

液体はグラスからグラスへ、順番に降りていった。

下のグラスが満たされる頃には、上のグラスは、最初に満たされた量より少しだけ減っていた。

液体は、上から下へ一方向にしか流れなかった。

戻すことはできなかった。

キャストの拍手があった。

同僚の何人かが浅倉を見ていた。
あの場所に行きたいと全員が思っていた。
シャンパンタワーの前に立たされる場所のことだった。

黒瀬は浅倉を見なかった。浅倉も黒瀬を見なかった。
二人とも、見ないことを選んだ。
それを、誰も注意しなかった。

梶谷は浅倉の背中を、もう一度叩いた。

「来月もな」

来月も達成しろ、ということだった。
来月もまた、誰かが見えないところで整え方を見つけてくるということでもあった。


帰りのタクシーの後部座席で、浅倉は窓の外を見ていた。

深夜のコンビニ、深夜営業の居酒屋、消費者金融の看板。
灯りが窓の外を順番に流れていった。

頭の中で、ホワイトボードの前の自分がもう一度立った。

三十万円、未達
その三十万は、誰が埋めるんだ

答えは、出ていた。

今夜、彼は知った。
誰が埋めたかではなく、どう埋めたかを誰も問わなかった。
問わないことが、達成した人間への最大の祝福だった。
彼はそれを初めて、はっきりした言葉として自分の中に置いた。

数字を作れば、人間扱いされる。
過程は、誰も問わない。

置いた瞬間、目から涙が出た。
嬉しさではなかった。

恐怖でもなかった。
何か別の感情だった。

それが何かは、その夜の彼にはまだ言葉にできなかった。

「お客さん、どちらまで」
「中野まで」
「了解しました」

会話はそれで終わった。
運転手はそれ以上、話しかけなかった。

話しかけられないことが、深夜のタクシーの中でいちばんありがたかった。
話しかけてこない人間をありがたいと思ったのは、それが初めてだった。


目を開けた。

画面の左下には、まだ七十万円の赤字があった。
額は変わっていなかった。

だが、額の意味は目を閉じる前と少しだけ変わっていた。

来月、新しい案件で取り戻す。

事業部長として、当然そう考える。
だが、その案件はまだ手元にない。

決まりかけている話はあるが、決まっていない。
決まらなければ、来月もまた同じ画面を開く。

そのとき左下の数字は、七十万円のままではないかもしれない。

20年間、彼の月次に未達の赤字が出たことは一度もなかった。

その「一度も」が、今月終わる。

浅倉はひとつだけ、息を吐いた。
25歳の冬の、トイレの個室で吐けなかった息と、たぶん同じ種類の息だった。

オフィスはほとんど明かりが落ちていた。
経理部の蛍光灯だけが、まだ全部ついていた。
誰かの残業ではなく、消し忘れだろうと思った。
時計は9時を過ぎていた。

帰り支度をしなかった。
鞄に手も伸ばさなかった。

代わりに、机の上のスマートフォンを取って、連絡先一覧を開いた。


連絡先は、長年触っていなかった。
古い登録名が並んでいる。

前職の同僚、転職した上司、すでに亡くなった先輩。

梶谷正夫の名前も、まだ消していなかった。
梶谷は2010年に亡くなった。

亡くなったあと、番号を消そうとして消さなかった。

消さない、ということが自分の中で何かを保っていた。
何を保っていたのかは、2018年2月の今夜、初めて分かる気がした。

画面を下にスクロールした。
指は、いつもより少しゆっくりだった。

「あ」の行を抜ける。
「か」の行を抜ける。

「く」の行で、指が止まった。

黒瀬 携帯

下の名前は、入っていない。

登録したのは、黒瀬が辞めた2001年の年末の廊下でだった。
細部はもう薄れていた。

だが、下の名前を打たなかったことだけは、はっきり覚えていた。

あれから17年が経っていた。
浅倉は名前を見たまま、しばらく動かなかった。

電話する、と決めたわけではなかった。
電話しない、と決めたわけでもなかった。

ただ、指がその名前のところで、止まっていた。

止まったまま、彼は20年前の、あの月末の22時過ぎの内線を思い出した。
整え方があるかもしれません、と短く言った声。

3分で終わった電話。
翌日、置かれていた書類。
あの夜、自分は、聞き返さないという選択をした。

その選択を、20年経って、いまもう一度しようとしている。

夜の経理部の蛍光灯が、廊下の向こうでまだ静かについていた。


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