広告は、ありません|序章 まだ誰も知らない
広告、ありません
2800億すべて嘘。嘘を必要とした人たち。
あらすじ
国内有数の通信グループの傘下に、7年で売上2,800億円まで急成長した事業があった。
グループで最も輝かしい成功事業。
ある月曜の朝、誰もが成功と信じた事業が、たった一言で消えた。
「広告は、ありません」
特別調査委員会は売上のほぼ全額が、実体のない架空取引だったと結論づけた。
始まりは、わずか70万円の未達
20年で一度も数字を落としたことのなかった男が、たった一度の穴埋めに手を伸ばす。だがその小さな細工は、架空の取引と資金の循環へと姿を変え、親会社の信用と資金を巻き込みながら、膨らんでいく。
数字を作ったのは、二人だった。
だが、その数字を欲しがったのは彼らだけではなかった。
序章|まだ誰も知らない
それは、この朝から数週間後にある経済紙に載る記事の冒頭である。
ある月曜日の朝、ある通信グループ系孫会社の社長室で、一人の事業部長が、社長に向かって、短い言葉を口にした。
「広告は、ありません」
同社の広告代理事業は、その朝までの7年間、グループ内で最も急成長している事業として知られていた。7年間に同事業が計上した売上は、累計で約2,800億円。後の特別調査委員会は、そのほぼ全額が実体のない架空取引であったと結論づけている。
記事は、そこから始まる。
そこにたどり着くまでの7年間に誰が何を作り、誰がそれを必要とし、何人の手が知らないまま動いていたのか。
記事には、書かれていない。
神谷徹は早朝に出社した。
時計は7時を少し過ぎたところだった。
2025年12月の朝の冷気は、東京の街路樹の枝先からまだ抜けきっていなかった。一階のロビーは受付の蛍光灯だけが点いて奥のソファエリアはまだ暗かった。
月曜の朝の警備員は、週末シフト明けの男だった。
神谷はその顔を10年以上覚えていた。
だが名前は出てこなかった。
それを申し訳なく思って、いつもより少しだけ長く頭を下げた。
「おはようございます」
「おはようございます。今朝、お早いですね」
「ええ、まあ」
神谷はそれだけ言って、エレベーターホールに進んだ。
エレベーターを6階で止めた。
6階で降り階段で7階まで上がる。
もう5年以上、この乗り方をしていた。
運動のためでもあり、頭を切り替えるためでもあった。
階段では、靴音をなるべく立てなかった。
靴音は迷惑だと、電機メーカーにいた頃の上司に教わった。
教わったことは、教わった人がいなくなってからも、体に残っていた。
7階の踊り場で、彼は息を整えた。
息がいつもより、少しだけ浅かった。
いつも社長室に向かう前に経理部のフロアに立ち寄る。
月曜の朝7時の経理部は無人で、蛍光灯は半分だけ自動で点いていた。
残りの半分は、8時に最初の社員が点ける。
神谷は半分だけ明るいフロアを横切った。
経理部長の席の上には、資料が整えて積まれていた。
一番上のクリアファイルに「グループ入金予定 週次確認用」と黒のマジックで書かれていた。神谷はそのファイルを取らず、隣の経理部長補佐の席に座った。
補佐のノートパソコンは置きっぱなしだった。
月初の月次集計を回しているから、週末も電源を切らない。
神谷はログイン画面の前で、自身の社員番号とパスワードを打った。
役員IDには、全社の経理画面の照会権限があった。
経理画面が開いた。
週末の入金確認画面をもう一度開いた。
先週末、入るはずだった入金が入っていなかった。
先週の金曜日にも、同じ画面を開いた。
同じ場所が、同じ色で赤く点滅していた。
土日のあいだにその赤が消えていることを、彼はわずかに期待していた。
赤は、消えていなかった。
頭の中で、額がゆっくりと膨らんだ。
1日目より2日目の方が、数字は大きく見えた。
3日目の今朝は、もう、見ることが怖くなりかけていた。
具体的な数字は、まだ誰も口に出していなかった。
出さなくても、分かっているということだった。
経理画面を閉じた。
画面の右下の時刻は、7時12分を指していた。
経理部のフロアを出て、廊下のいちばん奥の社長室へ足を向けた。
ジーリンク本社の7階は、社長室と役員室と会議室が並ぶ階だった。
廊下を一度、右に折れる。
月曜の朝は清掃の水拭きがまだ終わっていない時間で、床はいつもより少し暗かった。
角を曲がろうとして、神谷は立ち止まった。
社長室のドアの前に男が立っていた。
背中で、誰か分かった。
神谷は息を止めた。
止めたことに、すぐには気づかなかった。
気づいてから、もう一度、ゆっくり息を吸い直した。
浅倉亮介だ。
スーツの肩線がいつもと同じ角度で消えていた。
20年以上、変えていない肩の落とし方だった。
資料を読み上げる肩。
四半期報告で立ち上がる肩。
神谷の質問に答えるとき、わずかに前のめりになる肩。
その角度を神谷は7年以上、月例の経営会議のたびに見てきた。
その同じ肩が、いま社長室のドアの前で止まっていた。
止まっている肩は神谷の知っている肩より、少しだけ降りていた。
浅倉は神谷に気づかなかった。
社長室の前のスペースは薄暗く、経理部の灯りが廊下の手前まで届いているだけだった。
その薄暗さの中で、浅倉はベルトの位置を片手で直した。
右手の親指をバックルの裏側に入れ、ほんの少し左にずらし、もう一度右に戻して止めた。
ベルトを直す動作を神谷は見たことがなかった。
浅倉の癖なら、いくつか知っていた。
資料をめくる前に、人差し指を紙の端で一度止める癖。
質問に答える前に、わずかに首を傾ける癖。
会議室を出るとき、椅子を必ず机の下まで戻す癖。
それらは神谷の中で、浅倉という男を構成する小さな部品だった。
ベルトを直す動作はその中になかった。
新しい部品が今朝、追加された。
追加されたのはたぶん、今朝が初めてではない。
今朝初めて、神谷の目に入っただけだった。
直してから浅倉は一度、深く息を吸った。
息は深かった。
だが、その息は胸の上のほうで止まって腹までは降りていないように見えた。
ここで神谷は、自分の足が止まったままになっていることに気づいた。
止まっていたのは、二、三十秒だった。
長い気がしたが、時計を見るほどではなかった。
あの背中を見ながら、神谷は自分が技術者だった頃のある朝を思い出した。
1997年の春だった。
神谷は電機メーカーの技術部門の課長だった。
新製品の量産直前の工程確認会議がある日の朝、若手の技術者が神谷の席の前をいつもより少しだけゆっくり通り過ぎた。
挨拶はあった。
そのあと何か言いたそうにして結局何も言わずに、自分の席に戻った。
神谷は声をかけなかった。
かけられたはずだった。
あと二歩、手を伸ばせば届く距離だった。
だがその朝の神谷は別の資料を見ていて、手を伸ばさなかった。
あとで、と彼は思った。
その「あとで」は、来なかった。
若手が言いそびれたのは、ある回路の試験データのひとつの数字の異常だった。
彼は前日の夜にそれを確認していた。
だが自分の解釈に自信が持てなかった。
先輩は帰宅していた。
神谷は別の資料を見ていた。
彼はメモを自分の机の引き出しにしまった。
製品は量産に入った。
半年後、その回路の異常が市場で発火を起こした。
リコールは200万台を超えた。
会社は記者会見を開いた。
その後の社内の調査会議で、引き出しのメモが見つかった。
書いた若手はすでに別の部署に異動していた。
神谷は彼に謝らなかった。
謝ったらそれは責めることに近かった。
代わりにひとつだけ自分に約束した。
部下が言いそびれない空気を作ること。
それを経営者としての最大の課題にしてきた
——つもりだった。
つもりだった。
28年が経った。
神谷はいま、あの朝とまったく同じ場所にいる、と思った。
あの背中は、あの朝の若手の背中と同じ角度で降りていた。
あの男は、もうすぐ何かを言う。
何を言うかは分からなかった。
ただ、聞いたあとでもう前に戻れない種類の何かだ、ということだけは分かった。
その「何か」を、彼はここ数ヶ月、薄く感じてきた。
最初は、月次の経理データのわずかな違和感だった。広告代理事業の入金タイミングが、他の事業と比べて不自然に揃いすぎていた。
揃いすぎる数字には、いつも人の手が入っている。技術者だった頃の感覚がそう言っていた。
次に、先月。
経営企画が執務室のドアの内側から短く告げた、あの事業の取引に調整を入れるという一件。
神谷はその場では通常の指示として受けた。
だがその夜、ベッドの中でもう一度再生した。「調整」が何を絞るためのものだったか、確認しなかった。確認しないことを選んだ。
それから、先週金曜日の入金画面の赤。
それから、今朝の7時12分の経理画面。
言葉には、していなかった。
形にしたくない、と思ってきたのは自分のほうだったかもしれない。
聞かなければ、まだ世界はこのままでいられる。
聞けば、世界はもう戻らない。
それでも、彼は自分の足を社長室の方向に動かした。
足は、動いた。
動いたことに、彼はわずかに驚いた。
「広告は、ありません」
だが今は、まだ誰も、その言葉を知らない。
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