成瀬由紀雄の「とわずがたり」:「主観的な客観性」(共同主観=バーチャル客観)について
(↑のつづき)
中高のときに英語の勉強がとても苦手だったのは、英語の説明に「腑に落ちない」ことがあまりにも多かったことが、ひとつの原因だった。
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たとえば学校英文法に「物質名詞」という項目がある。
参考書には、次のような説明が載っていた。
物質名詞とは、一定の形や区切りがなく分割しても同じ性質を持つ物質を表す名詞のこと。
水(water)、空気(air)、鉄(iron)、砂糖(sugar)、肉(meat)、パン(bread)、バター(butter)、紙(paper)、木(wood)などがこれに当たり、数えられない名詞(不可算名詞)として扱われる。
これが「腑に落ち」なかった。
説明では「物質名詞」とは
「一定の形や区切りがなく分割しても同じ性質を持つ」
ものであり、ゆえに
「数えられない名詞(不可算名詞)として扱われる」
となっている。
だが同じ性質を持とうと持つまいと
1つを2つに分けられるのだから「数えられる」のではないか。
それに、辞書をみると、
不可算名詞とされているこれらの語のほとんどが
可算名詞としても使える、とされていた。
なんだ、可算でもいいんだ。
そもそも「数えられる」とか「数えられない」とかに
なぜそこまでこだわるのかが分からない。
そんなことは、どうでもいいのではないのか。

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「物質名詞」にかぎらず、英語の世界には
こうした「腑に落ちない」ことがあまりにもたくさん目についた。
それで、英語の勉強がいやになった。
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英語学習における「腑に落ちない」ことの多くが解消されたのは、
40年以上にわたって研究を続けてきた「心と言葉のグローバル英語文法」がほぼ完成に近づいたときである。
解消の鍵となったのは、言語運用における「主観」の支配を最終的に認めることができたことだ。
近代英語文法は、近代西欧学問のベースである科学至上主義、客観性至上主義のもとに生み出されたものである。
そのため近代英文法は、言語における認識・思考・表現は「主観的」におこなわれているという事実を認めようとしない。
そして、あるモトゴトが数えられるか数えられないかを説明するときにも、その説明は客観的なものでなければならない、とする。
しかし、そうではない。

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英語人たちは、科学的・客観的な立場から、あるモノゴトについて数えられるか数えられないかを認識し表現しているわけではない。
英語人たちは、あるモノゴトが数えられるか数えられないかを、つねに「主観的」に判断し、それを表現している。
そして、英語社会のなかの誰が考えてみてもそのことに間違いはないと「主観的に」判断したとき、それを「客観的」と呼ぶわけである。
これを英語社会における「共同主観」あるいは「バーチャル客観」と呼ぶことにしよう。
そしてすべての言語運用は、この「主観的な客観性」(共同主観=バーチャル客観)に支えられているのである。
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私たちのような英語ノンネイティブもまた、英語社会におけるこの「主観的な客観性」(共同主観=バーチャル客観)をもとにして英語の運用をおこなえばよい。
具体的には、ある語(たとえば、water, air, iron, sugar, meat, bread, butter, paper, woodなど)が数えられるか数えられないかについては、つねに「共同主観的」に判断して、それを表現すればよいのだ。
そして
その場合の主役は、あくまでも自分の「主観」である。他者的な「客観」ではない。
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