見出し画像

「存在の耐えられない軽さ」(「翻訳道中記」より)

私には姉が二人いる。
→ I have two sisters.

からもわかるように、
日本語の「~ある、~いる」には、英語で完全に対応する言語表現がない。

日本語の「~ある、~いる」には、英語ではThere is構文とか"exist"があるじゃないか、と考えるひとがいるかもしれないが、それは違う。

英語のThere is構文は、新情報の存在を示すための表現である。existは、存在そのものを強く意識する表現である。

どちらも「~ある、~いる」の一部はカバーできても、その全体をカバーすることはできない。

そのため、「私には姉がいる」を英語で表そうとするには、 I have two sisters.のように、主体としての「私」が客体としての「姉」を「持つ」という二項対立の言語表現をとらざるを得ない。

実際には、姉は勝手に「いる」のであって、なにも「私」が「持っている」わけではないのだが。

「いいアイデアがある」「その絵は居間に飾ってある」「それについてはずっと考えている」などの「ある、いる」についても同じことがいえる。

いずれも英語にしようとすると、X have Y のかたちに置き換えて表現するのが普通である。

歴史的にみると、西欧諸言語が存在を存在として直接的に表現できなくなったのは、それほど古い話ではない。

たとえば、ラテン語では、英語のbe動詞にあたるesseで、存在そのものを表現していた。

英語の”I have money.”というような所有構文は、ヨーロッパの中心部の言語で起こった比較的新しい発達にほかならない。以下の文献を、みてもらいたい。

☆☆☆

現在のロマンス諸語は、すべてhaveに当たる所有動詞を持っているが、もとのラテン語では、所有を表す構文は、存在動詞のesseを使う方が普通の表現だった。例えば、

est mihi pecunia. / mihi est pecunia.
「私ニ(mihi)金ガ(pecunia)アル(est)」

である。

この構文が

pecuniam habeo. / habeo pecuniam.
「(私ハ)金ヲ(pecuniam)持ツ(habeo)」

のような構文に変わったのは、比較的後代になってからである。
(『世界言語のなかの日本語』p.61 松本克己 三省堂)

☆☆☆

同書のなかで、松本はさらに次のように述べている。

☆☆☆

所有を表す構文で「ある」のような存在動詞を使うのは世界の圧倒的多数の言語に共通する現象であり、それに対して、haveのような所有動詞を使うのは、世界のごく一部の言語に限られる。
(同pp.60-1)。

☆☆☆

身近なところでいえば、中国語でも「有朋自遠方来」(朋あり、遠方より来る)である。

どうやら、英語を含む近代西欧諸言語は、世界認識モデルとしての主体・客体モデルにあまりに偏重したために、存在そのもの、つまり「おのずからそこにあるもの」を表現する基本的な形式を失ってしまったようである。

そのため、存在そのものを表現するには、もともとは所有表現であるhaveなどをその代用品として利用せざるを得なくなった。どうにも不自然なことである。

こうした「存在の耐えられない軽さ」は、英語を含む近代西欧言語の宿命であるから、それはそれで仕方がない。

しかし松本のいうように、それは「世界のごく一部の言語に限られる」宿命であるのだから、日本語がその不自然さをわざわざ真似る必要など、なにもない。

日本語は日本語らしくあればよい。それだけのことである。


いいなと思ったら応援しよう!