「飾りじゃないのよ、aとtheは」(「翻訳道中記」より)
theの理解についての最大のポイントは、
名詞にtheがつくのではなく、theに名詞がつく
ということである。
theが持っている基本的な意味は
「皆さんがすでに知っている、あの例のことについて、これから述べることにする」
というものである。
だから、もしtheを直訳するとすれば
「あの例の」
という日本語が一番ふさわしい。(実際には「直訳」などあり得ないが)
aもtheも、翻訳において誤訳や訳し抜けが最も多い要素のひとつである。
そのため、私のクラスの訳文の解説では、毎回のようにaとtheについて指摘することになる。
実例をとりあげてみよう。ひとつめは、IMFの"The April 2009 World Economic Outlook"からの例である。
The World Economic Outlook (WEO) projections assume that financial market stabilization will take longer than previously envisaged, even with strong efforts by policymakers.
IMFが出している参考仮訳では、このセンテンスは次のように訳されている。
『世界経済見通し(WEO)』の予測は、たとえ政策立案当局が尽力しても、金融市場の安定化にはこれまでの想定よりはるかに長い時間がかかるとの前提に立っている。
The World Economic Outlook (WEO) projections
の部分を
『世界経済見通し(WEO)』の予測
と訳しているのだが、これは、theの訳し抜けである。
これでは、まるですべての"World Economic Outlook projections"が、以下に述べられる前提に立っているかのようにみえてしまう。
ようするに、
"World Economic Outlook"
と
"the World Economic Outlook"
の区別がついていないのである。
正しくは、たとえばだが、次のようにしなければならない。「今回の」がミソである。
今回のWEO予測では、たとえ政策立案当局が尽力しても、金融市場の安定化にはこれまでの想定よりはるかに長い時間がかかるとの前提に立っている。
次の例は、"Business Analysis and Valuation IFRS edition" (Krishina G. Palepu et.al, Thomson Publishing)からのセンテンスである。
We know from the discussion in Chapter 7 that accounting methods per se should have no influence on firm value (except as those choices influence the analyst’s view of future real performance). Yet the abnormal returns and earnings valuation approaches used here are based on numbers—earnings and book value—that vary with accounting method choices. How, then, can the valuation approach deliver correct estimates?
これを、ある受講生は次のように訳してきた。
「7章で学んだように、会計手法そのものは企業価値になんら影響を及ぼさない。ただし会計手法の選択がアナリストの将来の業績予測に影響を与える場合は例外だ。しかしここで用いられる超過リターン・超過利益モデルによるバリュエーションアプローチは、収益や簿価といった会計数値をもとにしており、その数値はどの会計手法を選択するかで変わってくる。ではどうしたらバリュエーションアプローチから正確な予測値を導きだせるだろうか。」
よい訳だと思う。ただ、残念ながら、最後の
How, then, can the valuation approach deliver correct estimates?
において、theの訳が抜け落ちてしまった。
そのために、本来ならば
「ここで用いられる超過リターン・超過利益モデルによるバリュエーションアプローチ」
ではなく、
「一般的なバリュエーションアプローチ」から、
正確な予測値を導きだせるかどうかという文脈になってしまった。
正しくは、たとえばだが、次のようにすればよい。
「ではどうしたらバリュエーションアプローチから正確な予測値を導きだせるだろうか。」
↓
「ではどうしたらこのアプローチから正確な予測値を導きだせるだろうか。」
これだけで誤訳ではなくなるのだから、翻訳者にとって、theはやはり、飾りじゃないのよ、である。
