見出し画像

翻訳論からみる谷崎純一郎・三島由紀夫・中村真一郎の『文章読本』(6)翻訳漢語の功罪(4)

(↑のつづき)

話を戻しましょう。

中村が「文章読本」のなかで示したことは、明治の学者たちは西欧の概念を取り入れる際に、文化の継承を計るために漢語による「翻訳」を用いたということでした。

そしてこれに対して中村は肯定的な態度をとりました。

いっぽう、わたしは、そこに大きな功績は認めるにしても、同時に生じた「副作用」もまた大きいとして、全面的に肯定はできないという態度をとりたいと思います

☆☆☆

西欧語と日本語では、世界の捉え方自体が違います。

しかし、中国語の世界の捉え方もまた日本語とは本質的に違うのです。

そして、

漢字という中国の世界観を反映した文字を使って、西欧の概念を完全に日本語に移せると考えること自体、そもそも無理なのではないでしょうか。

いくら千数百年のあいだ慣れ親しんできたとはいえ、漢字はしょせん中国人のものであって、日本人のものではないのですから。

谷崎のいうように、そこには「決して超えることのできない壁があるのだから、そのことをつねにしっかりと認識しなければならない」のであって、

ヨソさまの知恵を、別のヨソさまの文字を借りて写しとって、自分のものにしようというのは、どうみてもあつかましすぎるように思えてなりません。

中村に代表される英語→漢語の翻訳に対する楽観的な態度には、この視点が欠けているように思われます。

☆☆☆

いま、多くの言語専門家が昨今のカタカナ語の氾濫には批判的です。

最近の例では、国語審議会がカタカナ語の濫用を戒めるコメントを発表し、また国立国語研究所では主要なカタカナ語の漢字への言い換え例を提示しています。

これにあわせるように、翻訳者の多くもまた、訳文にはなるべくカタカナ語ではなく漢字を使おうと努力しているようです。

これはいっけん翻訳に対する真摯な態度のようにみえますが、しかし

カタカナ語のかわりに漢字を使うということにも、じつは深刻な「副作用」があることを忘れるべきではない

と、わたしは考えます。

☆☆☆



いいなと思ったら応援しよう!