花菖蒲 後編
水路側から元の道へと戻る。振り返ってみても、足跡など残されていない。目を凝らしてみても、透明な足跡すら想像できない。これまで歩いてきた証を見失いながら、それでもまだ、歩いている。さながら、自分たちで道を作っていくよう、だ。それだけで、過去を残している。未来に進んでいる。今を生きていられる。そう、それだけで、いい。何も考える必要もない。簡単な、ことだ。それだけで、いいんだ。……あいつは、どう、なのだろう。ふいに、先ほどまで読んでいた大江健三郎の小説が思い起こされる。……そんなはずはないんだ。あいつは別に、過去を残してはいけないなんて思っていない。未来を作らないわけでもない。今を連続する集合体のように、不干渉なわけでもない。ただ、囚われている――
私はいまだにあいつの背を追いながら、何かを求めるように天を仰いだ。雲の途切れ目は絵画のような質感があり、複雑すぎてとても言葉には表しきれない。そこからうっすらと見える青は私の望んでいるようなものではなく、どことなく藍の色彩を醸し出していて、そこには ぼぅっとはじけながら真砂みたいな きらきら としたかけらが落ちていくような、浮遊する半透明の存在を内包していなかった。それは、空のほとんどが厚い雲に覆われているせいなのだろうか。わからない。天を仰ぎ、空を眺めている。そうして、まばたきをしたさなか、瞬間的に消えた景色から即座に頭の中に描かれた、空の高みを埋め尽くすほどの象牙色の輝きを見つめた。目の前に現れた空には、幾億もの半透明な浮遊する何かや、生き生きとした輝きともまた違うコバルトブルーが広がっていた。気がつけば、いつの間にかに空に投げ飛ばされた私自身が高々と浮遊しながら、その高みにまで届くそびえたった塔の中に、誰かがいるのを、見た。唐突に沸き上がったイメージがしんにこぼれていく感覚を ゆっくり 咀嚼するように 実感していく。そうして、土の上を踏みしめる足の裏の感触を覚えた瞬間、頭上高く広がっているものは雲の覆われた暗い青だった。そこには、何も存在などしていない。空を浮遊しているわけでもない。視線をおろせば、私はいまだにあいつの背を追って、歩いている。……そんなはずはないんだ。振りほどく。振りほどいて、一歩強める。また、一歩。そうしてあいつに追いついた。
隣を一緒に歩いていても、本質的に何かが変わるわけでもない。それでも、見えるものは少し、違う。それだけでも、気持ちの切り替えにはよかった。風はこちら側に向かってきて、軽い香りが過ぎていく。ここの香りはまだ、嫌いではなかった。
ちょうど ぐるり を半周、距離的には一番端まで来た。道路までの距離も近くなり、車の通るたびに響くエンジンと水をかきむしる音が、静寂の際立つ空気を壊しては、さらに静けさを深めていく。それは、私たちがいることも、同じかもしれない。
ちょうど折り返しの曲道で、あいつは坂を下りた。そのまま、並んでついていく。下の道は水の量が違うのか、より不安定な感触を覚えた。そのすぐ隣はもう湖で、正直端のほうに行きたくなかった。グラウンドのサッカーゴールは上部を少し残して沈んでいる。あいつは立ち止った。湖でも見ているのか、と思い顔を向けると、そうではなかった。わざわざ下の道から、先ほどまで歩いていた上段の木――白木蓮を眺めていた。
「こうまで咲いていると、季節がわからなくなるね」
白木蓮の咲いている季節を正確に知らない私は、うなずくことができなかった。それに、咲いてはいるものの、あらかた緑の葉の衣をまとってもいれば、花も ぱらぱら と残っているだけだった。ここから見える範囲でも地面に花びらが落ちている。無残に横たわる、白。いくつかは茶色く変色もしていた。
「咲いている間はなかなか美しいんだが、こうまで世に執着していると、ね。知っているかい? 木蓮の花の落ちる瞬間を。それこそ事切れたように、ぽとりと落ちるんだ」
知っているも何も、一緒に見たことがあった。白木蓮、という名もそのときに教えてもらった。それがいつかは覚えていないけれど、たしかにそれは、事切れる、とはこういうことを言うのだろう、と感じるようなものだった。それこそ首が落ちる瞬間を思わせて、初めて見たときは気持ち悪くなった記憶がある。そうしてものすごい音とともに ばらばら に砕けてしまう。花びら一枚一枚に分解されて、その後はこのありさまだ。無残にも、横たわっている。あいつの言葉を借りるなら、こうまで執着しているわりにはあっけないくらいの。散る瞬間、というのは――桜だけじゃないんだ。あらゆる花は無常を内包している。いや、花だけではない、あらゆるもの、なのだろうか。私も、あいつも。……あぁ、まだ残っている。
私は白木蓮より、あいつの姿が気になって、見つめていた。慈しむようなまなざしで白木蓮を眺めている。あいつからしたら世に執着する花を、眺めている。そこから、少したりとも、動こうとしない。これは、きっと、長くなりそうだ。こういうときあいつは、どんな時間で、いるのだろう。刹那にすぎて、いるのだろうか。永遠にそこに、いるのだろうか。私は――あいつの姿を見つめながらも、ときおり白木蓮やその奥の空に目を向けながら不規則に鳴り響く車やその他の音色を聞いていた。まるで調和の取れていない光景に、私は無理に、自分をそこにはめようとはしなかった。ただ、流れに身を任せていた。それが仮に不協和音だとしても、私には、そうしかできなかった。
無理に自分を強調してもはじき出されるだけ。そんなことを考えながらも、変わらず私はただ、あいつのそばでじっとしているだけ。あいつと同じように、いや、私と同じとは限らないだろう。
「ああやって花が葉にこっそり隠れていると、何かやましいことがあるみたいだね。それとも、あの葉が服みたいのもなのかな」
反応の遅れた私はあいつが指さした方向をとっさに見ても、何も言えずに黙っていた。あいつの腕が落ちる。私はもう、白木蓮を見ていなかった。見えて、いなかった、のかもしれない。
「なら、ぼくたちと同じだね。すべてを赤裸々にさらけ出すなんてこと、できないからね」
あいつの言葉に、反応がどうしても遅れる。そう言いながらも、あいつは変わらず、慈しむようなまなざしで白木蓮を見つめている。緑色の葉衣に隠されている白い花。まるで心のようだね。私は、肯定も否定もしなかった。
歩き出す。土と水の感触。靴の裏からでも感じる、たしかな感覚。素足で歩くとどうなるんだろうね。いつかあいつが言っていた覚えがある。そのとき私はなんて返しただろう、少なくとも今の私はそんな気になれない。隣を歩く、奥の白木蓮を見つめているあいつは、どうなんだろう。同じ白木蓮、違う白木蓮。今でも同じことを考えているだろうか。私は頭を振った後、両の頬を ぺしぺし 叩いた。ため息はつけずに、視線を落とす。水を踏み潰す音。車のそれとはまた違う音。それともアスファルトだろうか? 重ならない足音。それらを見ながら歩いていた。
「こうして一歩進めるたびに、いったいどれほどの生きものが死んでいるのだろうか」
ふいに耳にした言葉は上から降りかかってくるようにも思えた。顔を上げた私はあいつの横顔を見て、何ら変化のないその表情に さっと 目をそらした。あいつはもう、白木蓮を見ていなかった。私も――視線を落としても、音はもう見えなかった。代わりに見えるのは、こうして一歩、踏み出す足と、草の上に残っているであろう透明な足跡だった。かすかに、いや、くっきりと刻まれた、私たちのこれまでの道のり。そう、私たちの。
「ぼくたちが無意識に生きものを踏みつぶしても、きっと何にも気づかない。靴を履いていれば何の感触もないだろうし、こうした草の上だとなおさら。それでもぼくたちは歩き続ける。理不尽だね。彼らからすれば、突然天が命を摘みにくるようなものだからね」
あぁ、そうか。と、天空に口を少し開けて、見上げる。
「ぼくたちも、同じなのだろう。巨大な何かがぼくたちを踏みつぶす、それが、死。そこには いし も 意識 もない。ぼくたちが虫を踏みつぶすように、ね。それは不条理か、それとも違うのか。戦争の、いしとは無関係な死。道理とは何だろうか、そもそもそんなもの、本来ぼくたちにあるのだろうか。いや、それとも……」
すぐに、話しをさえぎるべきだっただろうか。どこかで、口を挟めば、よかっただろうか。けれど、もう、遅い。いつまでも終わらない自問自答。永遠なる思考の拷問。このままでは、だめだ。いつまでも、きっと、あいつはぶつくさとつぶやき続けるだろう。どこかで、止めないと。まだ、そう、まだ、遅くは、ない。すきまに、何でもいい、差しこまないと。
「戦争はでも、違うんじゃない? だって、人が起こしているものだよ?」
ぴたり 電池の切れた人形のように つぶやくことをやめて私を見たあいつの表情はひどく落ちていて、それはいっそうの深みを持った 笑み だった。
「そう、だね。ゆえに、法律や道理という考えも人の作ったもの。それが正しいというならば、この世で一番正しいのは人ということになる。はたして、そうなんだろうか」
だめだ やっぱり 引き戻せては、いない。そこから何も返せなかった。そんなことお構いなしに、あいつは言葉が漏れ続けている。きっと、頭の中で何かいろんなものがあふれている。思考が めぐり めぐり そのうちに焼き切れてしまうに、違いない。私は何とか止めたいと思い、じっと押し黙って考えていたが、何が思い浮かぶわけでもなかった。ずっと、ずっと、そうなんだ。これまでも……いや、これからも、きっと。私も――
そう、私も、そうだった。だいぶ、落ちついてきたとはいえ、同じような気質だったし、今でもまだ、残っても、いる。程度の差こそあれ、完全に消え去りは、しないのだろう。それは一種の諦念でもあった。それでも、みじめだとは思わない。簡単に、割り切れはしない。それでも――
坂を上って上段に戻り、進路へと向くと、目の前に太陽が沈んでいる。秒間隔でまず足がすくみ、左足で踏ん張り、脳のどこかで感嘆符が飛び出した。ミスリルの空に沈んでいく鮮やかな夕日は、大きく、その形がわからないほどに溶け出して、もう元の自分の姿を思い出せないに違いない。そうしてさらに低い空には反射の錯覚のせいなのか、白にも蛍にもオレンジにも見える雲が、小さく細かく漂い、まるで様々な命が輝く川を思わせる。どれが本物の色なのかもわからない、どれも本物の色なのかもしれない。視界の端にとらえた大きな雲が気になって右を向くと、そこには天馬がいた。その天馬を思わせる黒っぽい大きな雲は、脈動する命の川に背を向けて、悠々と佇んでいた。
あたりはどこも、影のない、光のない、おかしな明るさだった。
「ほら、見て。あそこに天馬がいるよ」
あいつはどこを見ているのだろう
「あぁ、本当だ。雨上がりの夕暮れは、やはり美しいね」
まだ、少し。私は空から湖のほうへと視線を向ける。歩幅を少し、落とす。鏡のような湖面は水たまりみたいには反射せず、風景を何も映していなかった。ゼリー状の液体は、触れると ねばねば べとつくに違いない。きっと、手についたら思わず何かになびるだろう。あいつではなく、他の、何かに……。ただ、そんなべとつきだけではなく、なめらかさも感じるのはなぜだろう。あの波紋の広がるさまが、何とも言えずにいいものだから、だろうか。それは今、風の道を示していた。私たちの進行方向とほぼ同じ向きに走る風は、まるで魚が突き進んでいるようにも感じられた。無数の魚が同じ場所へと目指していく。見ているうちに、それが本当に魚のようにも思える……いや、あれは、風だ。風が通り過ぎているだけだ。それとも、実は魚がいるのだろうか。水底は見えない。触れようとしても、恐ろしくて指先すら入れられない神秘的な水。そこには、何がいても不思議ではない――私は、音の出ないようにため息をついて、首を左右に振る。水面は端から端へ、常にゆれている。ときおり真ん中からいきなり走ることもあれば、凪いでいるところだってあった。坂や木が関係しているのだろうか。視界の端にはあいつも見える。それが何だか、奇妙なほど合わさっていた。
ちょうど一周すると、私たちはベンチに座った。屋根のある、テーブルもある、休憩所。雨はもう降りそうにはない、気配をまるで感じなかった。
ぼぅ と 眺める 夕暮れの湖 鏡の湖面 伝わる風の道
隣り合って座っているあいつと、私は同じものを見ているのだろうか。こんなに近くにいても、確信は持てない。こんなに近くにいたって、本当に同じものを見ている保証はないんだ。それは見え方ともまた違う。私の感覚で見ていない以上、同じようにとらえているとは限らないから。ただ、そもそも、見ているものそのものが、別物なのだとして……あいつは今、何を、見ているのだろう。
「知っているかい? 菖蒲、と書いて、あやめ、とも読むけれど、花においてのあやめは、たしか、文に目、と書いたと思う。菖蒲自体、菖蒲湯で使われるものと混同されないように、菖蒲と花菖蒲でわかれたりもしている。どれも、まったく別の種類のようだからね。それでも、あやめ祭りのあやめは花菖蒲のことをさすらしい。なんてあいまいで、ややこしいものなのだろうね」
そうなんだ、なんて、あいまいな相槌。そんなこと、求めていないだろう。私は、黙っていた。あいまい、さ。ぽつり 思わず 歌うように、口ずさむ。あいつは見向きもしない。何を、見ているのだろう。私は少し前に見たあやめを思い浮かべた。そんなにいくつもの種類があるようには思えない、あいまいな花。私たちに名前があるように、同じ花でも個体の名前が違う、私にはそんなふうにしか思えない……あいまいな、もの。そんな些細な毒があいつを苦しめている。わからない、あいまいさ。花の持つ、甘美な死へといざなう、毒。けれど、あいつを苦しめているものは、そんな美しいものではない。直接的な死にさえつながらない。そう、直接的、には。
「ねぇ、あんたは……どうするの?」
オブラートにすら包んでいない あいまいな 言葉
「そうだね。どうしようか」
ようやくまともに返ってきた言葉はでも、ひどい哀愁を漂わせながら答えには少しも結びついてはいない。うわの空の言葉、あいまいな表情。悩んでいるようにも、悩んでいないようにも思える。私には、どちらかの判別はつかなかった。
私は三月でこの地を離れる。別の土地に住むことになる。あいつは、どうするんだろう。いや、それはわかっていた。あいつはきっと、ここを離れることはしない。ただ、私が離れていく。それだけだ。そうして、その後の私たちがどうなるか、考えたことがないわけではなかった。それでも、私の決断は変わらない。受験を終えて、そのまま――そのとき、あいつは? あいつは、どうなるのだろうか。
あいつは空を見上げながら(正確に言えば真正面を向いている)、何を見ているのだろう、か。何を、考えているのだろうか。空、未来、死、あやめ、およそ関係のないもの。気にする必要のないもの。それらを思い浮かべながら――いや、あいつの目にはおそらく、現実として、目の前の世界に実際に見えているに違いない。あいつは、世間的にはどうでもいい、とされていることを、どうでもいいと断絶することができない。むしろ、そういうものにこそ惹かれ、より 見ようとしてしまう。
その分、なのか わからない けれど、
生きる上では必要だと思うこと、むしろ、そういうことをどうでもいいように扱っている。ぞんざいに、扱っているように、感じてしまう。生きる、ということに、向いているとは思えない。けれど、なんでだろう。あいつからこうまで生を感じるのは。その、矛盾。生きる、ことにおける何かが、根本的に違うからだろうか。
どうするの? と聞かれたことに対してあまりにも興味なさそうに答えるあいつは、今もきっと、そんなこと考えていない。そんな問いかけなんて、心に、どころか、耳にも残っていないかもしれない。それがはたして、社会的に、この世界を生きていくために必要なものだろうと、響いては、いない。あいつのあの笑顔を見ながら……そう、だ。それでも――一度だって、あいつの口から「死にたい」なんて言葉を聞いたことがないのも、知っていた。むしろ、生きることを楽しんでいる、楽しんでいるように思う。その矛盾が、私にはよくわからない。社会で生きていくこと 生きること それは、切り離していいものなのだろうか。もしかしたら、別物なのかもしれない。質の違うものなのかもしれない。それこそ、あの、あやめのように。それでも、そこに矛盾が生まれてしまったら、どうなのだろう。現実に、今、ここに、生きて、いる、生きて、いく、なら。あの塔の中では、だめだ。
ただ、考えているうちに、それが正しいことなのかも、だんだんとわからなくなってきた。社会で生きていくこと 生きること それが違うものだとして、それはどちらが「本当」なのだろう。生、として。どちらが。それでも、誰もがそんなふうには生きられないこともわかっている。それでは、社会が、生きていけないことも、わかっている。わかっている、けれど、どうしても拭い去れない。
……あぁ、でも。そうだ。
生きることにおいて、そんなことを考える必要もない。私も、もう、そんなことをいまさら考えようとは思わない。けれど、いまだに、あいつと一緒にいるたびに、自然と考えてしまう。気がつけば、こぼれてしまう。まるで暗涙のようだ。あいつの横顔を見ながら――見えない雫はお互いの頬を伝っているだろうか。そのきせきを残してくれているだろうか。今なら、あいつは、なんて言うだろう。何を、おもうだろう。
「行こうか」
もう、どのくらい経っただろう。もう、どれほどこの道を歩いただろう。 ぐるぐる ぐるぐる 回っている めぐっている いつまでも、抜け出せない。
立ち上がると、ふいの湖がよく見えた。鏡のような湖面。底の見えない湖。あれは、濁りなのだろうか、それとも。それは、まるで、私たちの未来を映しているみたいだった。
「じゃあ、また明日」
そう言って、私たちは別れた。立ち止まる私、先に進むあいつ。それが暗示しているものは私たちの未来か、それとも生か。あいつの背中を見送りながら、私はどうしても、その考えからだけは抜け出せそうになかった。
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