二十八日目 海
漣が聞こえる。
朱色の空が、遠くから宵に包まれていく気配に、私は居ても立っても居られなくなって、書きかけの課題を置いて、薄着で家を飛び出した。
「フミちゃんじゃないか、走ってどこへ行くんだい」
通り過ぎる商店街から、降ってくる声。
私は「散歩です」と、大きな声で返して、足を止める事なくその場を後にした。
港町に暮らす私たちは、ひどく狭い世界で生きている。
歩けば皆顔見知り、学校は小中高が一つずつ。たまに見かける知らない顔は、物好きの観光客。
それが私を取り巻く世界。
そして、大学進学を機に街を出ていく人が多いこの場所は、どんどん高齢化が進んでいる。
来年に大学受験を控えた私は、まだ自分がどうなりたいかも分からずに、ただ勉強をする日々。
「帝さん!」
私は浜辺で、海に飲み込まれる夕焼けを静かに見つめる背中に声をかけた。
すると、男はやおら振り返った。
「やぁ、フミさん。奇遇、ですね?」
帝さんはきっと、私が彼に会うために走ってきたことを知ってて、こういう言い方をする。
その証拠に、息絶え絶えの私を、余裕のある笑みで見つめた。
私は彼のその顔にめっぽう弱い。
「っ、今日も研究ですか?」
私が聞くと帝さんはいつものように答えた。
「えぇ。この街はとてもいい。私が探し求めていたデータが得られましたよ」
「そうですか。よかったですね」
帝さんは、東京から研究できている学者さんらしい。観光学を専攻していて、私の街に来たようだった。
私が彼と出会ったのは、一ヶ月前のちょうど今と同じ海の前。
私はそのとき、外からの刺激を求めていた。
そのために、帝さんから話を聞いているに過ぎなかった。
ただそれだけだったのに。
「フミさん聞いていますか?」
「はい? あー、えっと、すみません」
私が謝ると、帝さんは困ったように微笑んで言った。
「私は明日ここを発つことになりました」
「! そんな、まだ先って……」
「思いのほか早くサンプルが収集できまして」
「そう、なんですね」
本当は分かっていた。
別れの時が近づいているのは。
帝さんは、たまに来る観光客と同じで、最後にはここを去る人。
残されるのはいつも私一人なんだ。
沈んだ気持ちを温めるかのように、ふわっと何かに包まれ、私は下げていた顔をあげた。
「それ、よかったら羽織ってください。夜の海は冷えますから」
そう言って自身が纏っていた上着を私にくれた帝さんは、上着を脱ぐとワイシャツ一枚で、細身なだけに私よりも寒そうに見えた。
「……ありがとうございます」
「見送りましょう」
波の音がする。
海岸を後にする私たちを追い立てるように響くそれは、もしかしたら私の心に波打つ、私にしか聞こえない音なのかもしれなかった。
