一日目 眼鏡
それは、ある穏やかな昼下がりのことだった。
僕は、道端でキラッと光を放つ物体に、思わず手を伸ばした。
「メガネ?」
それは今まで見た眼鏡の中で群を抜いて妙ちきりんな形をしていた。
僕は、度を確かめるように、顔の前に眼鏡を掲げ、レンズ越しの世界をのぞいた。
「うわぁ」
瞬間、眼鏡は僕の顔に張り付いた。その衝撃に僕は尻餅をついた。
「藤井くん、大丈夫?」
前から駆け寄ってきたのは、同じクラスの白石さんだった。
「白石さん、だ、だ、大丈夫です」
僕は口ごもって答えた。
近寄って、僕の前でしゃがみ込む白石さんからは、柔軟剤のいい匂いがして、普段学校で見る制服姿とは違った、可愛らしい白いシフォンのワンピース姿が眩しかった。
「藤井くんったら、おっちょこちょいね。いったい何に躓いたの?」
「違うんだ! 眼鏡が……」
そこまで言って僕は続ける言葉を失った。眼鏡など僕の顔のどこにもなかった。
「眼鏡? 変な人ね、藤井くん」
白石さんはクスクスと笑った。彼女が笑うと花が咲いたような華やかさがある。
ぽっーとしていた僕は、その後、耳を疑うような言葉を聞いた。
『あー、ダル。こんな男と話して油売ってる暇はねぇつーのに。どうせバッタリ会うなら藤井みたいな冴えないやつじゃなくて、三上先輩とかがよかったなぁ』
「え?」
僕はひどく驚いて、白石さんを見た。
「? どうしたの」
けれど、白石さんはいつも通りの優しい眼差しで僕を見つめ返した。
疲れているのかもしれない。
その日、僕は白石さんに別れを告げるとそさくさと家路についた。
しかし、その日以来、悪夢は僕をガッチリ捉えて、離さなかった。
「隆史、早く起きなさい。遅刻するわよ」
『ほんと冴えない顔ね。朝から見たくないわ。お隣りの忍くんみたいな息子だったら、張り合いがあるのに』
「何、隆史。ボッーと私の顔を見て」
「何でもないよ、母さん」
あの変な眼鏡を手にした日から、僕の人生は変わってしまった。
どうやら人の本心が、聞こえるようになってしまったらしい。
「藤井、数学の宿題見せて」
「……あぁ」
「サンキュー、やっぱ持つべきものは賢い友達だよな」
『マジこいつ便利だわ。まぁ、友達とは一度も思ったことないけど笑』
悪夢だ。
僕は頭を抱えた。
今まで僕は、楽観的に生きてきた。
人の善意に目を向けて、表面の甘い言葉に浸って、のほほんと暮らしていた。
でも、人間の本心が聞こえるようになって、僕は絶望した。この世には碌な奴がいない。僕が愛していたのはすべて、人間の虚像に過ぎなかったわけだ。
現状に絶望し、顔を下げて歩いていた僕は、前から人が来ていたことに気が付かなかった。
ドンっとぶつかった僕は、持っていた教科書を廊下にぶちまけた。
「すみません」
少女は謝ると、スッと僕が落とした教科書を拾い、差し出した。
本当は、僕も謝るべきなのに、何も言えなかった。
すると彼女は言った。
「……酷い顔」
『……酷い顔』
「え?」
驚いて彼女を見た。
よく見ると、彼女は同じクラスの黒木さんだった。黒髪のショートカットが白い肌に濃い濃淡の影を落とす。彼女はクラスで浮いていた。僕は彼女が誰かと話している姿を一度も見たことがなかった。
「あー、ごめん」
黒木さんは、気まずそうな顔をして、僕に教科書を押し付けるとそのまま通り過ぎようとした。僕は、こんな人、二度と会えないかもしれないと思った。そして、黒木さんの手をとった。
「友達になってください」
彼女はひどく驚いた顔をした。
そして無言で俯いた。
微かに揺れる細い肩。
でも、僕にはその答えがもう分かっていた。
『フフッ、藤井って、変なやつ』
