エッセイでも、コラムでもない
文章を書いていて、ずっと違和感があった。
私が書いているものは、エッセイでもないし、コラムでもない気がする。
エッセイは、個人の視点から世界を語る。書き手の感情や経験が前景に出て、世界はその背景として存在する。
コラムは、出来事を整理して説明する。客観的な事実をもとに、書き手の見解を挟む。起きたことを分かりやすく届けることが目的で、書き手自身はなるべく後ろに引く。
私が書いているものは、どちらの要素もあるけど、少し違う。感情や経験を起点にすることもあるし、出来事を説明することもある。でも、そこで止まらない。「なぜそうなっているのか」——その問いに引きずられて、構造の方へ向かってしまう。
ニュースを見たり、日常で引っかかることがあると、まず考えるのは「なぜそうなっているのか」だ。その裏にある前提や、力の働き方、つまり「しくみ」を見ようとする。どういう条件が揃って、どういう因果がつながって、この結果になっているのか。それを一つずつ分解していく。
最初は曖昧だったものが、少しずつ形を持ちはじめる。「なるほど、こういう構造か」と腑に落ちる瞬間がある。自分が書いているのは、たぶんこのプロセスそのものだ。世界をそのまま語るのではなく、一度ばらして、組み直す。
コラムニストも「なぜ」を書くことがある。でも、コラムニストが届けるのは「自分の見方」だ。独自の視点、切り口、個性——それが読まれる理由になる。
私がやっていることは少し違う。視点より先に、構造の理解だ。「こう見える」ではなく、「なぜこうなっているか」。意見を言う前に、現象の因果をまず見る。このアプローチの方が意見の妥当性も高い。
だから最近は、自分のことをこう呼んでみてもいい気がしている。
シクミニスト。
現象の裏にあるしくみを分解して、見える形にする人。
世の中には、正しそうな説明が多い。でも、その中には前提が抜けていたり、因果が飛んでいたりするものも少なくない。そういうものを、一度分解する。「分かったつもり」から、少しだけ前に進む。それができれば十分だと思っている。
エッセイでも、コラムでもない。しくみを分解する文章。しばらくは、このやり方で書いていく。
ちなみに妻には、こう言われている。
「お前の分析はわかった、実践はどこに行った?」
実践のしくみは、まだわかっていない。
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