【意識決定 サンクコスト】 全員が『おかしい』と思っていても、誰も止められない——27回の延期が教える、組織の普遍的な罠
日本の政策には、「間違いと分かっていても修正できない」案件が繰り返し登場する。インフラ、社会保障、地方財政——一度走り出した制度が、非効率であっても延命され続ける。
その構造を最も鮮明に可視化した事例が、青森県六ヶ所村の再処理工場だ。これは原子力施設の話であると同時に、「やめた方がよいのに、やめられないプロジェクト」がどう生まれるかという話でもある。組織でも、政策でも、個人の選択でも、似た構造は繰り返し現れる。
再処理とは、原発で使い終わった燃料から再利用可能な物質を取り出す工程のことだ。ただしこの工程を経ても、最終的に処分すべき核廃棄物は残る。
30年近く前に着工されたこの施設は、完成予定を繰り返し先送りされてきた。延期はいまや27回、総事業費は22兆円を超えた(日本原燃発表、2024年8月)。
政府自身の試算(2012年、原子力委員会)でも、再処理は直接処分より高コストとされていた。それでも路線は変わらず、30年・22兆円を費やした末に、ようやく竣工が視野に入ったのが現在地である。
普通の事業なら、どこかで止まる。止められないなら、少なくとも経営問題として扱われるはずだ。だがこの案件は違う。「やめた方が合理的でも、やめられない仕組み」がどう成立するかを、これほど鮮明に示した事例はそうない。
表面的には、遅延は技術的問題に見える。再処理施設は極めて複雑であり、福島事故後の規制対応も重い。しかしそれだけでは説明がつかない。何十年も完成せず、それでも中止されないという状態が続くとき、問題は技術より制度にある。
問いはここから始まる——なぜ、止められなかったのか。
やめられない四つの理由
一つ目は、サンクコストの引力だ。すでに投じた費用は取り戻せない。それでも人は、損失を確定させることへの抵抗から「継続」を選びやすい。撤退より延命が合理的に見えてしまう。
二つ目は、地元との関係である。六ヶ所村は再処理を前提に使用済み燃料を受け入れてきた経緯がある。方針転換は単なる政策変更では済まず、全国の原発運用とも連動する。
三つ目は、行政の責任構造だ。延期は曖昧に処理できるが、中止は誰かの責任になる。「未決のまま維持する」方が、個々の関係者にとっては合理的な選択になる。
四つ目は、制度の積み上がりである。再処理を前提に法制度や事業計画が組まれている以上、そこを崩すには広範な再設計が必要になる。一点を変えれば連鎖する。
誰も非合理な行動をしているわけではない。それぞれが合理的に動いた結果、全体として非合理な状態が固定される。これが問題の本質だ。
海外との比較で見えること
視点を海外に移すと、この構造がより鮮明になる。
ドイツは再処理工場計画を途中で放棄した(ヴァッカースドルフ計画)。英国は再処理事業を終了し(THORP閉鎖)、貯蔵・処分へ軸足を移した。フィンランドは再処理に依存せず、地層処分を着実に前進させている(オンカロ処分場)。再処理に固執しないという選択は、すでに現実の政策として存在している。
一方、フランスは再処理を維持している。だが重要なのは、フランスがMOX燃料の利用、原発の設計、国家主導の産業体制、最終処分まで含めて一体のシステムとして構築してきた点だ。再処理は単独で成立する技術ではなく、前後の制度と利用体制が揃って初めて機能する。
その視点で見ると、六ヶ所再処理工場は、技術的な遅れというより、全体設計の不整合を抱えたまま個別施設だけが前に出た状態に見える。
「やめる」が封じられる構造
日本だけが特殊なのか。そうではない。特殊なのは、「やめる」という選択肢を制度として持てない構造の方だ。
再処理をやめる議論が出ると、別の問題が連鎖的に噴き出す。青森はどうするのか。使用済み燃料はどこに置くのか。原発は運転できるのか。これらは本来切り分けて議論できる問題だが、現実には結びついている。その絡み合いが、「やめる」という選択肢そのものを封じる。
政府自身もすでに複線で動いている。再処理工場の完成を掲げ続ける一方で、最終処分地の選定は北海道・寿都町や神恵内村などで並行して進む。公式の説明は「再処理後の廃棄物を処分するため」だが、再処理が想定通りに進まない場合の出口を同時に確保しておくという意味合いも持つ。「再処理が完成すれば解決する」という構造ではなく、複数の重い課題を同時に抱えた二重構造になっている。これは、再処理路線の不確実性を政府自身が認識していることの表れでもある。
なぜ争点になりにくいのか
六ヶ所再処理工場の問題は、まったく報じられていないわけではない。延期の発表、知事の発言、事業費の増加といった節目では、全国紙や地元メディアが繰り返し取り上げてきた。
それでも大きな争点として共有されにくいのは、報道が断片化されやすいからだ。延期は一つのニュースとして処理され、費用増は別のニュースとして扱われる。それらが一つの構造問題として統合されることは少ない。「なぜこのプロジェクトはここまでかかったのか」という本質的な問いは、断片の背後に隠れたままになる。
最も無難な選択が繰り返された
それでも長年、政策転換は行われなかった。「今やめるコスト」が極めて高かったからだ。投資の損失が確定する。地元との関係が崩れる。使用済み燃料の問題が一気に表面化する。政策失敗を認める必要が出てくる。
一方、「延期する」コストは分散される。責任も曖昧になる。野党はもとより、与党内からも異論は出た。しかし構造は変わらなかった。
権力をもつ政治家は決断できず、合理的な判断を求める野党は政権をとれていない(かといって、政権をとったときに、貧乏くじを引く決断ができるのかは定かではないが…。)。
「やめる」決断の便益は社会全体に広く薄く広がる一方、コストは決断した個人に集中する。貧乏くじは、引いた瞬間に本人だけが損をする設計になっている。だから誰も手を挙げない。こうして意思決定はいつも同じ着地点に向かった——最適ではないが、最も無難な選択が繰り返された。
そしていま、竣工が視野に入った。しかし問いは終わらない。政府は2030年度までに12基でプルサーマル発電を実施する計画を掲げるが、現時点で稼働しているのは4基にとどまる。取り出したプルトニウムの消費が追いつかなければ、すでに約47トンに達する保有量はさらに積み上がる。施設が完成することと、制度が機能することは、別の話である。
この構造は、六ヶ所に固有のものではない。インフラ、社会保障、地方財政。組織のプロジェクト、個人の選択。「続けることの痛みが見えにくく、やめることの痛みだけが鮮明に見える」状況は、あちこちにある。
問題は、間違った政策が存在することではない。
問題は、間違いを修正できない仕組みが存在することだ。
だからこそ問いたい。あなたの周りに、「止めた方がいいと分かっているのに、止められていないもの」はないか。そしてもし止めるべきなら、貧乏くじを引く覚悟を持てる人間が、どこかに一人必要だ。長期の目線で見て止めるべきものを止められる組織と、できない組織の差は、時間が経つほど大きく開いていく。
30年・22兆円という数字は、その仕組みの重さを示している。
(本記事は、日本原燃公表資料、原子力委員会資料、各国政府・規制当局資料等のエビデンスに基づいて執筆されている。)
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