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『マルチバースの缶コーヒー』

​「もしあの時、別の選択をしていたら――」 理想の世界を求めて並行世界を彷徨う男が、宇宙の果てで見つけた「本当の居場所」とは。壮大なSFの果てに、ちっぽけな日常を100%肯定する、切なくも温かいマルチバース小説です。


第5話:共犯者

 光の裂け目を抜けた先は、奇妙なほど静まり返った場所だった。

 そこは、無数のコンクリートの壁が幾何学的に入り組んだ、廃墟のような空間だった。天井はなく、見上げれば夜空の代わりに、ネオンのように明滅する無数の「世界線の断層」が、巨大な川のように流れている。
 あの不気味な観測者の足音は、ここまでは聞こえない。

「……ハァ、ハァ……っ」

 膝をつき、激しく息を乱す蓮の前に、コツリ、と硬い足音が響いた。

「驚いた。システム直属の観測者から、生きてここまで逃げ延びたバグ(人間)が、私以外にもいたなんてね」

 冷ややかな、しかしどこかハスキーで心地よい女性の声。
 蓮が顔を上げると、そこにはミリタリージャケットを羽織り、ノートPCを片手に持った一人の女性が立っていた。年齢は蓮と同じくらいだろうか。その瞳には、世界の真実を覗き見続けてきた者だけが持つ、深く冷たい諦念が宿っていた。

「あんたは……」
「水瀬(みなせ)。あんたと同じ、激しい『後悔』の引き金で世界を追い出された、ただの迷子よ」

 彼女は蓮を自身の「セーフハウス」へと案内した。そこはコンクリートの物陰に作られた、複数の世界線から盗んできた機材が並ぶ、奇妙なキャンプのような場所だった。

 水瀬は、数年前から観測者の目を盗み、この「次元の狭間」からあらゆる世界線をハッキングし続けている先達だった。同じ孤独と、同じ「脳のバグ」の痛みを共有できる唯一の存在。蓮の張り詰めていた心が、彼女の存在によって、初めてかすかに融解していくのを感じていた。

「ねえ、桐生。あんたは何を求めて世界をハッキングしてるの?」
「……俺を否定した世界を、書き換えるためだ。システムの上層に行って、すべての確率を支配すれば、もう誰も俺を傷つけられない」

 蓮の言葉に、水瀬は一瞬、悲しげな、そして酷く歪んだ笑みを浮かべた。

「そう。やっぱり、行き着く答えは同じよね」

 彼女はノートPCの画面を蓮に向けた。そこには、第4話で蓮が特定した『特異点』の、さらに奥にあるシステムの絶対中枢へと繋がるゲートの座標が表示されていた。

「これがあれば、二人でシステムの根源へ行ける。あんたの持っているデータと、私のハッキングツールを同期させれば、観測者だって恐れるに足りない」
「本当か……!」

 蓮は歓喜し、自身のスマホを彼女の端末に接続した。データが瞬時に転送されていく。ついに、世界を支配する力を手に入れられる――。

 しかし、同期率が100%に達した瞬間、蓮のスマートフォンがパチパチと不気味な赤色のモアレに覆われ、完全にロックされた。

「……っ!? 水瀬、これはどういう――」
「ごめんね、桐生」

 水瀬の声から、温かさが完全に消えていた。彼女の手には、いつの間にか小さなスタンガンが握られており、蓮の胸元に容赦なく押し当てられた。

「あ、が……っ!?」

 激しい電流と、脳のバグを直接揺さぶるような精神的衝撃が蓮を襲い、彼はその場に崩れ落ちた。体の自由が利かない。

「世界のシステムはね、一人のバグを消去するためなら、どこまでも追ってくる。だけど……『別の巨大なバグ』を生贄として差し出せば、そのデバッグ処理にリソースを取られて、しばらく追跡が止まるのよ」

 水瀬は蓮のデータを手に入れたPCを抱え、冷たい目で見下ろした。彼女の背後の空間がぐにゃりと歪み、あの赤と青のモアレを纏った「観測者」の影が、すぐそこまで迫ってきているのが見えた。

「私はもう、この終わらないチェイスに疲れたの。あんたのデータがあれば、私は今度こそ完璧に世界の中心へ行ける。あんたはここで、私の代わりに観測者に消されて」

「水瀬……あんた、最初から……」
「そうよ。言ったでしょ、私たちはただの迷子。生き残るためなら、同じ境遇の人間だって切り捨てる。あんたが東堂にやられたことと、何も変わらないわ」

 水瀬は背を向け、特異点へのゲートへと飛び込んでいく。
 残された蓮の耳に、あの鼓膜を裂く金属音が、かつてない大きさで響き渡る。

「チチチチチ……マママママ……ッ!!」

 目の前には、コンクリートの壁を容赦なく消去しながら迫り来る、観測者の圧倒的な絶望の影。
 信じた絆に再び裏切られ、身動きの取れない床の上で、蓮はただ、死のモアレに呑み込まれようとしていた。

(第6話に続く)


📖 バックナンバー

前回のストーリーはこちらからお読みいただけます。

​【第1話】確率のバグ​https://note.com/natty_llama5121/n/n4e1e144c7c74

【第2話】因果の逆転​https://note.com/natty_llama5121/n/nfa1e49142a8c


【第3話】万物の理論https://note.com/natty_llama5121/n/nc2a656910d8c

【第4話】観測者の影https://note.com/natty_llama5121/n/n1f23bf0efa0c


#創作大賞2026 #ファンタジー小説

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