<中編小説>『月の下で、死ね』第二王子×第一王子BL小説
<中編小説>『その手を取るな、死ね』第二王子×第一王子BL小説|なつめの続き。
大広間の熱気は、扉を二枚隔てただけで嘘みたいに薄れた。
夜会の音楽はまだ遠くで鳴っている。弦の震えも、笑い声も、グラスが触れ合う澄んだ音も、ここまで来るともう水の底で聞くみたいに鈍かった。長い回廊を抜け、重たい窓を押し開けた先にあるバルコニーは、夜の空気にすっかり支配されている。石の手すりは月光を受けて白く冷え、庭園の噴水ははるか下で銀の糸みたいに光っていた。
風が吹く。
夜会の熱に火照った肌へ、その冷たさが容赦なく刺さった。
けれど、冷えていくのは肌だけだった。
エドガーが先に出る。
群青の礼装の裾が夜の風に揺れ、銀糸が月の光を拾って冷たく瞬いた。その背中は相変わらず真っ直ぐで、王城のど真ん中でついさっきあれだけ空気を凍らせた男とは思えないほど整っている。肩の線も、喉元の白さも、振り向く前の沈黙の置き方すら腹が立つほど美しい。
その後ろから、リュシアンもバルコニーへ出た。
扉が閉まる。
楽の音がまた一段遠のく。
ここにはもう二人しかいない。
それなのに、しばらく誰も喋らなかった。
エドガーは石の手すりへ片手を置いたまま、庭園を見下ろしている。リュシアンは数歩離れた場所で立ち止まり、その横顔を睨んでいた。月は高い。夜の青は深い。どちらも綺麗すぎて、今はただ気に障るだけだ。
「……何だよ」
先に口を開いたのは、リュシアンだった。
吐き捨てるような声だった。
怒鳴るほど大きくはない。だが抑えているぶんだけ、余計に荒れている。
エドガーは振り返らない。
「何が」
「何がじゃねえよ」
「言いたいことがあるなら言え」
「あるに決まってんだろ」
「なら言え」
「死ね」
「くたばれ」
その応酬だけは、やけに自然だった。
ついさっき大広間でブチ切れて、あれほど見苦しい真似をして、なのに二人きりになった途端、最初の言葉が死ねとくたばれなのが本当に救いようがない。
エドガーはそこでようやく振り返った。
月光の下の顔は、ひどく冷たく見えた。淡い金の髪は灯りのない場所だと少しだけ色を沈め、薄い蒼の瞳だけが白く冴えている。大広間ではあれほど人の目に晒されていたのに、こうして人気のない場所へ立つと、彼は一気に“誰にも見せない顔”になる。
その顔が、リュシアンは昔から嫌いで、好きだった。
「さっき」
エドガーが言う。
「何を言うつもりだった」
「……」
「“立場が欲しいなら”の続きだ」
「知るか」
「知らんわけないだろ」
「知らねえよ。頭に来てた」
「頭に来てる時ほど余計なことを言うな」
「余計じゃねえよ」
「余計だ」
「お前にとってはそうなんだろうな」
「リュシアン」
「うるさい、死ね」
風が強くなる。
群青の裾と黒の裾が、夜の中で別々に揺れる。
ほんの数歩しか離れていないのに、その数歩が妙に遠い。
リュシアンは笑った。
笑っていたが、目は全然笑っていなかった。
「どの立場で、だと」
低く言う。
「聞くか、普通」
「聞かせたくないなら、お前が飛び出すな」
「飛び出させたのはお前らだろ」
「俺ら?」
「そうだよ。お前と、あの女」
「公女に八つ当たりするな」
「八つ当たりじゃねえ」
「なら何だ」
「気に食わねえんだよ」
その一言だけ、綺麗に隠せなかった。
喉の奥に刺さったままのものが、そのまま出たみたいな声だった。
リュシアンは自分でもそれが分かって、余計に顔をしかめる。
「……あいつが」
「……」
「お前の隣に当然みたいに立ってる顔が、死ぬほど気に食わねえ」
「……」
「お前の喉元見て、群青が似合うだの言って、手まで出して」
「だからお前は人前でキレたのか」
「キレたよ。悪いか」
「悪い」
「知るか」
「知れ」
「死ね」
「お前が先にくたばれ」
そこでエドガーが、静かに手すりから手を離した。
一歩、こちらへ来る。
月光がその横顔を削る。
近づいてくるだけで、腹の底に残っていた怒りが別の熱へ変わりかけるのが最悪だった。
「お前」
エドガーが低く言う。
「俺が公女の手を取るのを、本気で見たくなかったんだな」
「……」
「聞いてる」
「見たかったわけあるかよ」
「そうだろうな」
「何で平然としてんだ」
「平然としてない」
「してた」
「してない」
「してた。死ね」
「くたばれ」
その返しのあと、エドガーはさらに一歩近づいた。
もう、すぐ目の前だ。
月明かりの薄い光の中で、群青の刺繍がほんの少しだけ銀に光っている。さっきリュシアンがわざと乱した喉元の留め具は、まだ少しだけ斜めのままだった。
直していない。
その事実だけで、胸のどこかが痛いくらい甘くなる。
くそったれ。
「何だよ」
リュシアンが言う。
「その顔」
「お前の顔のほうがひどい」
「どんな」
「今にも何か壊しそうだ」
「壊したいよ」
「何を」
「全部」
「馬鹿か」
「知ってる」
「死ね」
「お前が先に」
エドガーの目が少しだけ細くなる。
それは怒った時の目でもあるし、何かを堪える時の目でもある。
「お前は本当に」
彼が言う。
「俺が誰かの手を取るだけで、そこまで駄目になるのか」
「……」
「図星か」
「死ね」
「くたばれ」
リュシアンは、そのままエドガーの胸元を掴んだ。
群青の布が手の中で皺になる。
上質な生地だ。指に引っかかる感触が腹立たしいほど整っている。整っているくせに、掴んだ瞬間だけ急に“人間の服”になるのが、どうしようもなく嫌だった。
「駄目になるよ」
リュシアンが言った。
「悪いか」
「……」
「見たくねえもん見せられて、平気でいられるほどできた人間じゃねえんだよ、俺は」
「知ってる」
「お前の隣に、ああいう顔して立つのが俺以外なの、無理」
「……」
「無理だって言ってんだろ」
「……」
そのまま、エドガーはしばらく何も言わなかった。
風だけが吹く。
庭の木々が遠くで揺れる。
大広間の音楽が、まるで別の国の話みたいにかすかに流れてくる。
「じゃあ」
やがてエドガーが言った。
「お前は、どうしたい」
「は?」
「その顔で壊れるだの無理だの言うなら、どうしたいか言え」
「言っていいのか」
「知らん」
「何だそれ」
「お前に都合のいい答えをやるつもりはない」
「死ね」
「くたばれ」
だが、その瞳は逸らない。
まっすぐだった。
こういう時だけひどく真っ直ぐで、逃げ場をなくしてくる。
リュシアンは息を吐いた。
喉の奥が焼ける。
「……取るなよ」
低く言う。
「誰の手も」
「……」
「一曲目だろうが十曲目だろうが、誰とも」
「……」
「お前が誰かと踊ってんの、見たくねえ」
「……」
「お前の手は」
そこで少しだけ声が乱れた。
「俺にしか、寄越すなよ」
言い切った瞬間、胸の奥がぐちゃぐちゃになった。
最悪だ。
ひどく最悪だ。
こんなことを言わせるな。
こんなふうに欲しがらせるな。
どの立場で、なんて聞かれたあとに、こんな馬鹿みたいな言葉を吐かせるな。
だから最後は、いつもの悪態で誤魔化すしかない。
「……気持ち悪いな」
リュシアンが笑う。
「ほんと死ね」
「お前が先にくたばれ」
エドガーはその返事のあと、ひどく静かな顔でリュシアンを見た。
怒っていない。
馬鹿にもしていない。
その代わり、妙に呼吸が浅い。
そして次の瞬間、胸元を掴んでいたリュシアンの手を、自分の手で包んだ。
手袋越しじゃない。
素手だ。
月に冷えた指なのに、内側だけ熱を持っている。
「何だよ」
リュシアンが言う。
「答えだ」
「は?」
「さっきの」
「意味分かんねえ」
「分かれ」
「死ね」
「くたばれ」
そう言って、エドガーは自分から少しだけ距離を詰めた。
鼻先が触れそうな近さ。
群青と黒が夜の中で混ざる。
月の白さが、二人の輪郭だけを妙にくっきり浮かび上がらせていた。
「一曲目は踊らない」
エドガーが低く言う。
「誰とも」
「……」
「お前があれだけ暴れたあとで、今さら誰かの手を取れると思うか」
「知らねえよ」
「俺は思わない」
「……」
「だから取らない」
「……本当に?」
「嘘なら死ね」
「それ、俺の台詞だろ」
「うるさい」
「くたばれ」
その返事と同時に、リュシアンはエドガーの肩を抱き寄せた。
乱暴だった。
けれど、押し倒すようなものではない。ただ、もうこの距離で立っているのが無理だった。群青の肩へ額を押しつける。喉元の辺りへ呼吸が落ちる。さっきまでベルティーナが見ていた場所へ、今度は自分の息がかかる。
それだけで、ひどく満たされてしまうのが悔しい。
「……重い」
エドガーが言う。
「我慢しろ」
「命令するな」
「嫌だね」
「死ね」
「お前が先に」
言い合いながら、エドガーも結局、リュシアンの背へ手を回した。
ほんの少しだけ。
抱き返すと呼ぶには足りないくらいの、けれど確実に逃がさない力で。
夜気は冷たい。
なのに、その触れた場所だけが妙に熱い。
「なあ」
リュシアンが肩口へ顔を埋めたまま言う。
「何だ」
「あの女、本当に嫌い」
「知ってる」
「今までで一番嫌い」
「だろうな」
「でも」
「何だ」
「お前が取らないなら、ちょっとだけ許す」
「偉そうだな」
「偉いからな」
「お前が?」
「そうだよ」
「死ね」
「くたばれ」
そこでエドガーは、ほんの少しだけ笑った。
声を立てるわけでもなく、唇の端がかすかにやわらぐだけの笑い。
その顔を近くで見てしまって、リュシアンは目を細める。
「何笑ってんだよ」
「お前があまりにも馬鹿だからだ」
「死ね」
「お前が先に」
「俺、ほんとに大広間で全部ぶちまけるかと思った」
「やめろ」
「分かってる」
「分かってない」
「分かってるって」
「嘘つけ」
「死ね」
「くたばれ」
それから、しばらく二人とも喋らなかった。
大広間の音楽は続いている。
誰かが踊り始めたのか、遠くで拍子が変わる。
けれどこのバルコニーだけは、まるで世界の外みたいに静かだった。
エドガーがやがて、肩越しに低く言う。
「戻るぞ」
「嫌だ」
「何で」
「今戻ったら、あいついるだろ」
「いるな」
「顔見たくねえ」
「子供か」
「うるさい」
「死ね」
「お前が先にくたばれ」
それでも、リュシアンは少しだけ顔を上げた。
月明かりの下、エドガーの喉元が近い。
留め具はまだ少し斜めのままだ。
自分が乱したまま。
自分のせいで、完璧な礼装の形がほんの少しだけ崩れている。
それが妙に嬉しくて、妙に腹立たしい。
リュシアンは指先で、その斜めの留め具へ触れた。
「直せよ」
「お前がやった」
「知るか」
「知れ」
「死ね」
「くたばれ」
そう言ってから、リュシアンはその留め具を直す代わりに、さらに少しだけ乱した。
エドガーの眉が寄る。
「おい」
「目印」
「何の」
「俺の」
「気持ち悪い」
「お前にだけは言われたくない」
「死ね」
「お前が先に」
そのまま、二人の額が触れそうな近さで止まる。
キスするには近い。
しないには、近すぎる。
夜の風が通る。
群青と黒の間をすり抜けていく。
庭の噴水が銀に光る。
「エドガー」
「何だ」
「一曲目、誰にもやるなよ」
「分かった」
「二曲目も」
「図々しいな」
「三曲目も」
「死ね」
「くたばれ」
けれど、その返事のあと。
エドガーは短く、確かめるみたいにリュシアンの唇へ触れた。
浅い。
ほんの一瞬。
でも、夜会の喧騒の外で交わすには充分すぎるくらい熱かった。
離れたあと、リュシアンは笑った。
「今の、俺しか見てねえよな」
「当たり前だ」
「ならいい」
「本当に面倒だな、お前」
「知ってる」
「死ね」
「お前が先にくたばれ」
そう言い合いながら、結局二人はしばらくその場を動かなかった。
大広間では音楽が鳴っている。
ベルティーナはたぶん、完璧な顔で誰かと会話している。
王城の夜会は何事もなかったみたいに続いていく。
けれど、人気のないバルコニーの月の下だけは、さっきの不機嫌の続きがまだ終わっていなかった。
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