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<中編小説>『笑ってるだけだと思うなよ、死ね』第二王子×第一王子BL小説

<中編小説>『笑ってるくせに、逃がさない顔』第二王子×第一王子BL小説|なつめの続き

その日の昼餐会は、最初から空気が悪かった。

 正確には、王城の人間たちは誰ひとりとして「空気が悪い」とは口にしない。しないが、磨き抜かれた銀器の光り方から、侍従の足音の慎重さから、給仕の視線の置き方から、すべてがほんの少しずつ“構えている”時のそれだった。

 南棟の小広間は、正式な晩餐会に比べればこぢんまりしている。だが王族と有力貴族が席を囲むには十分すぎる広さがあり、天井は高く、壁には薄青の織物が掛けられ、昼の光が大きな窓から白く差し込んでいた。中庭の噴水が遠くに見える。外は晴れているのに、室内にはどこか嵐の前みたいな静けさがあった。

 長い卓の上には、淡い色の花が等間隔に活けられ、薄切りの仔牛肉、香草を散らした白身魚、焼きたてのパン、果実酒、温かなスープが、ひとつひとつ完璧な位置に整えられている。香りはやさしい。見た目も美しい。なのに、場に漂うものだけが美しくない。

 原因はすぐに分かる。

 ベルティーナ・ラウフェル公女が、今日、正式な席順で第一王子エドガーの斜め向かいではなく、すぐ隣へ座っていたからだ。

 それだけで充分だった。

 リュシアンは席についた瞬間、喉の奥でひどく小さく舌打ちした。

 正面から見れば、彼は今日もいつも通りだ。黒髪は整えられ、灰紫の瞳は気だるそうで、口元には薄い笑いすら浮かべている。王城の人間なら誰もが知っている、第二王子らしい不遜な顔だ。何を考えているのか分からない。機嫌がいいのか悪いのか判断がつかない。人を小馬鹿にしているようでいて、その実どこまで本気か読み切れない。

 だが内側では、臓腑のあたりがゆっくり焼けていた。

 最悪だ。

 しかも、あまりにも堂々とした“正式さ”が最悪だった。

 席次というものは、それだけで意味を持つ。誰が誰の隣に置かれるのか。誰が誰に話しかけやすい位置にいるのか。誰と誰が同じ皿を目にし、同じ角度から窓の光を受けるのか。王城で育った人間は、それを空気のように読む。読むからこそ、今日のこの並びが「偶然」ではないと、一目で分かる。

 エドガーは、何も言わなかった。

 淡い金の髪を整然と撫でつけ、薄い蒼の瞳にいつもの冷えた光を宿したまま、ただ席につく。そういう男だ。どれだけ気に入らなくても、その場で顔へ出すほど浅くはない。整いすぎた鼻梁、薄い唇、まばたきの角度まで無駄なく美しいその横顔は、今日も変わらず完成されていた。

 ただ、リュシアンは知っている。

 気に入らない時、この男はほんの僅かに、右の眉だけが先に動く。

 今もそうだった。

 本当に、腹立たしいくらい分かりやすい。

「本日はお招きいただき、光栄ですわ」

 ベルティーナは微笑んだ。

 柔らかい声音だった。上品で、穏やかで、誰の耳にも心地良い高さ。公女として、婚約者候補として、これ以上なく正しい声だ。淡い真珠色のドレスは昼の光を受けて静かに艶めき、髪はゆるやかにまとめられている。睫毛の影まで整っていて、指先の置き方ひとつにも迷いがない。

 完璧だ、とリュシアンは思う。

 そして完璧だからこそ、気に食わない。

「光栄というほどの席でもない」
 エドガーが言う。
「昼の食事だ」
「それでもですわ。殿下と同じ卓を囲めるのですもの」
「大袈裟だな」
「大袈裟ではございません」

 その会話を聞きながら、リュシアンは笑った。

 笑っているだけだった。
 口元だけで。
 外から見れば、退屈なやり取りを面白半分で聞いているだけの顔だ。

 実際には、笑っていなければ皿でも割りそうだった。

「どうかなさいまして?」
 ベルティーナが、今度はリュシアンへ視線を向ける。

 それがまた腹立たしい。
 余裕のある女の視線だ。相手が不機嫌だと知っていて、それでも崩れない者の目だ。

「別に」
 リュシアンが答える。
「公女の完璧なご機嫌取りが、どこまで続くのかと思ってただけだ」
「まあ」
 ベルティーナは少しも傷ついた顔をしない。
「殿下は本当にお言葉が率直ですのね」
「美徳だろ」
「場合によりますわ」
「お前に場合を決められる筋合いはない」
「もちろん。決めるのはあちらですもの」

 やわらかく、そう言って、ベルティーナはエドガーへ目を向けた。

 ああ、と思う。

 この女、本気で詰めに来ている。

 ただ隣へ座っただけではない。
 ただ笑いかけているだけでもない。
 今日ここで、周囲の目に見える形で一段踏み込む気だ。

 その“正式さ”が、死ぬほど気に障る。

「殿下」
 ベルティーナが言う。
「先日の西方の報告書、拝見いたしましたわ」
「……お前が?」
 エドガーが少しだけ視線を上げる。
「興味があるのか」
「ええ。特に税制の見直しについて」
「珍しいな」
「女だからといって、数字に弱いと思われるのは不本意ですもの」

 その返しは上手かった。

 場にいる老貴族が二、三人、感心したように目を細めるのが見えた。実際、賢いのだろう。飾りとしての婚約者候補ではないと、分かってもらう言葉選びがうまい。可憐さを損なわず、だが中身のある女だと印象づける。その匙加減が絶妙だ。

 リュシアンはパンをちぎる手に、ほんの少しだけ力を込めた。

「興味があるなら、見解くらいはあるんだろうな」
 エドガーが言う。
「もちろんですわ」
「言ってみろ」
「はい」

 ベルティーナが答える。
 その横顔を見ながら、リュシアンは内心で冷たく笑った。

 へえ。
 そこまで合わせにいくのか。

 知識があることを見せる。
 第一王子の関心の方向へ、自分を自然に重ねる。
 しかも周囲の貴族たちの前で、それを“婚約者候補にふさわしい聡明さ”として見せる。

 よく出来ている。
 本当に、よく出来すぎている。

「……というわけで、地方貴族側の反発を抑えるには、先に名目を変えるべきかと」
 ベルティーナが言い終える。

 卓の向こうで、宰相補佐がわずかに目を見開いた。
 老貴族の一人が顎に手をやる。
 エドガーも、ほんの一瞬だけ沈黙した。

 その沈黙が、やけに長く感じられた。

「悪くない」
 やがてエドガーが言う。
「浅くもないな」
「光栄ですわ」
「褒めてるわけじゃない」
「存じております」

 そこで、ベルティーナは笑う。

 その笑い方がまた、絶妙に腹立たしかった。
 理解のある女の笑いだ。皮肉も冷たさも受け流して、“あなたのそういうところも知っています”と言いたげな顔だ。

 リュシアンの口元はまだ笑っていた。

 その笑みのまま、内側だけがずるずると煮えていく。

 褒めてるわけじゃない。
 存じております。

 それは、エドガーの口癖に慣れている者の返しだ。
 踏み込みすぎない距離で、それでもちゃんと懐へ入りに来る返しだ。

 腹が立つ。

 ひどく、腹が立つ。

「リュシアン殿下は、いかが思われます?」
 ベルティーナがこちらへ向いた。

 笑顔のまま。
 逃げ道を残した顔のまま。

 だがその実、これはただの会話ではない。
 “あなたはどうしますか”と問われている。

 王の話か。
 公女の見解か。
 それとも、この場での自分の立ち位置か。

 全部だろう。

 リュシアンはワイングラスの足に指を添えたまま、ゆっくり笑った。
「そうだな」
「ええ」
「よく勉強してる」
「ありがとうございます」
「気に食わないくらいに」
「まあ」

 周囲に小さな笑いが起きる。
 第二王子らしい、棘のある褒め方。場を乱さず、それでも毒を混ぜる。誰もが聞き慣れているやり方だ。

 けれどエドガーだけは、ちらりとこちらを見た。

 分かっている目だった。
 お前、機嫌が悪いな、と言いたげな目だ。

 うるさい、とリュシアンは内心で思う。
 お前のせいだろうが。

「殿下にそうおっしゃっていただけるなんて、光栄ですわ」
 ベルティーナが返す。

 その返しもまた、ぬるりと美しい。

 くそったれ。

 この女、本当に全部受け流す気だ。

 毒を吐けば、笑って受ける。
 冷たく返せば、理解を示す。
 踏み込めば、同じ歩幅で踏み込んでくる。

 面倒くさい。
 そして何より、エドガーの隣に座る資格を、場の空気ごと正当化しに来ているのが最悪だった。

 昼餐が進むにつれ、その“正式な距離の詰め方”は露骨になっていった。

 料理が変わるたび、ベルティーナはエドガーへ自然に話題を向ける。王都の祭事。辺境の収穫。書庫に納められた新しい史書。学者たちの最近の論争。どれも彼が無視しにくく、かつ答えれば周囲にも“会話が成立している”と見える話ばかりだ。

 選び方が巧みすぎる。

 しかも、彼女は決して長く話さない。語りすぎない。主張しすぎない。余白を残し、エドガーの返答を引き出す。引き出したうえで、決してしゃしゃり出ず、一歩引いて笑う。

 王妃候補として理想的だ、と誰が見ても思うだろう。

 だからこそ、リュシアンは笑いながら、心の中で何度も死ねと言っていた。

 死ね。
 くたばれ。
 消えろ。
 その完璧な笑い方ごと、どこか遠くへ失せろ。

 もちろん、顔には出さない。

 出すわけがない。

 出したら終わる。
 終わらせたくない。
 だから笑う。

 笑ったまま、グラスを持ち上げ、時々皮肉を挟み、時々退屈そうに天井でも眺めるふりをする。そうしているうちに、余計に自分の腹の底の熱が分かるのだから救いがない。

「第二王子殿下は、本日とても静かですのね」
 ベルティーナが言った。

 その一言が、細い針みたいに刺さる。

 リュシアンはゆっくり視線を上げた。
「そうか?」
「ええ。いつもなら、もう少し噛みついていらっしゃるかと」
「噛みついてほしいのか?」
「まさか」
 ベルティーナは笑う。
「ただ、少し意外で」
「へえ」

 この女、分かってやっている。

 分かって、自分を会話へ引きずり込んでいる。
 黙っていれば静かですねと笑い、何か言えばやはり噛みつくのですねと笑うつもりだ。

 どっちへ転んでも、自分の余裕を崩さない気だ。

 やっぱり、最悪だ。

「噛みついてほしいなら、代わりに噛んでやってもいいぞ」
 リュシアンが言う。

 場が一瞬だけひやりとする。

 だがベルティーナは、睫毛一つ揺らさずに笑った。
「お断りいたしますわ」
「だろうな」
「ですが」
 彼女はそこで、ほんの少しだけ声を柔らかくする。
「噛みつくほど近づかなければよろしいのではなくて?」

 その言い方。

 ああ、とリュシアンは思う。
 こいつ、やっぱり本気で分かっている。

 しかも今のは、明らかに自分に向けて言った。
 この場で。
 誰にも意味が一つに定まらないようにしながら。

 エドガーの指先が、ナイフの柄に触れた。
 ほんの一瞬。
 だがリュシアンはそれを見逃さない。

 怒っている。

 この男も、ちゃんと怒っている。

 なのにそれが少し嬉しい自分が、本当にどうしようもなかった。

「それは名案だな」
 リュシアンは笑ったまま返す。
「じゃあ公女も、これ以上近づかなければいい」
「まあ」
「誰も困らないだろ」
「困る方がいらっしゃるかもしれませんわ」
「へえ。誰が?」
「さあ」

 その“さあ”は、ベルティーナらしくなかった。
 少しだけ、熱があった。

 きれいに笑っているのに、笑っていない目。

 その瞬間、リュシアンははっきり理解した。

 この女、エドガーを手に入れるつもりだ。
 義務としてだけではない。
 体裁だけでもない。
 もっと別の執着が、確かに混ざっている。

 だから引かない。
 だから見ている。
 だから今日、こうして正式な卓で距離を詰めにきた。

 ひどく気に食わない。

 吐き気がするほど気に食わない。

 それでも、顔は笑っていた。

「変な女だな」
 リュシアンが言う。
「よく言われますの」
「自覚あるなら失せろ」
「殿下も、ずいぶん率直でいらっしゃる」
「今さらだろ」
「ええ。ですから、わたくしも率直に申し上げますわ」
「……」

 ベルティーナは、静かにナイフとフォークを置いた。

 細い金属音が、白い卓布の上でひどく澄んで聞こえた。
 その澄み方が、妙に不穏だった。

「第一王子殿下」
 彼女が言う。
「来月の月見の夜会ですが」
「それがどうした」
「もしよろしければ、一曲目をいただけませんか」

 周囲の空気が、目に見えないかたちでぴんと張る。

 そこにいた貴族たちは皆、聞いている。
 聞こえないふりなど誰一人していない。

 正式な場で、婚約者候補が、第一王子へ。
 一曲目を。
 それはつまり、公の場で最初の“並び”を欲しいという意味だ。

 王城ではそれだけで充分な合図になる。

 エドガーは一瞬黙った。

 その沈黙が長い。
 長すぎる。

 リュシアンは笑っていた。
 笑ったまま、胸の中だけで何かがぼきぼき折れていくのを聞いていた。

 断れ。
 断れよ。
 断れ、死ね。
 断らなかったら、ほんとにぶっ壊すぞ、くたばれ。

 そんなものは、もちろん顔に出さない。

 出せるわけがない。

 第二王子は、あくまで第二王子だ。
 ここで牙を剥けば、何を守ろうとしているのか自分から暴くようなものだ。
 だから笑う。
 笑って、グラスの縁へ指をかける。
 その指先だけが、少し白くなる。

「……考えておく」
 エドガーが言った。

 満点ではない。
 即答の了承でもない。
 だが断りでもない。

 その曖昧さが、今日この場ではむしろ最悪だった。

 ベルティーナは微笑む。
「ありがとうございます。そうお答えいただけるだけで十分ですわ」

 十分なわけがあるか、とリュシアンは思う。
 だがその“十分”が、周囲には好印象として響いているのがさらに腹立たしい。

 賢い。
 押しつけがましくない。
 引き際が美しい。

 誰が見ても、理想的な公女だ。

 リュシアンはとうとう、喉の奥で笑った。
 乾いた、ひどく軽い笑いだった。

「楽しみだな」
 自分でも驚くほど穏やかな声が出る。
「公女の一曲目、ぜひ見たい」
 ベルティーナがこちらを見る。
「まあ、殿下がそうおっしゃるなんて」
「お前に似合いそうだ。完璧な笑顔で、完璧な一歩目を踏むんだろ」
「ええ。努力いたしますわ」
「だろうな」
「殿下は、ご覧になってくださる?」
「もちろん」

 もちろん、だ。

 笑いながらそう言う自分の声が、ひどく遠く聞こえた。

 内臓の奥で、ゆっくり怒りが煮詰まっている。
 なのに表面だけは妙に静かで、自分でも笑えるほどだった。

 エドガーが、ちらりとこちらを見る。

 その視線だけで分かった。
 お前、機嫌が終わってるな、と言いたい顔だ。

 うるさい。
 お前のせいだろうが。

 昼餐はその後も続いたが、リュシアンには何を食べたかほとんど分からなかった。

 ベルティーナは相変わらず上手く笑い、上手く引き、上手く踏み込んだ。
 エドガーは冷たく返しながらも、場を崩さない程度には応じた。
 周囲は満足そうだった。
 誰もが「よい形」だと思うだろう。

 全部、気に食わない。

 昼餐が終わり、人が散り始める。

 老貴族たちが立ち上がり、侍従たちが椅子を引き、窓の向こうの光が少し傾く。ベルティーナは最後まで美しく一礼し、エドガーへ向けて静かに微笑んだ。

「ご機嫌よう、殿下」
「ああ」
「お返事、楽しみにしておりますわ」
「……そうか」
「ええ」

 それだけ言って、彼女は去る。

 去り際、一瞬だけリュシアンへ目を向けた。
 笑っていた。
 だがあの目は、もう完全に牽制のそれだった。

 分かっている。
 見ている。
 だから、こちらも引かない。

 そういう目だった。

 扉が閉まる。

 人の気配が薄れる。

 卓の上には食後の果物の香りだけがまだ残っていた。

「……で」
 エドガーが言う。
「何だ、その顔」
「どの顔だよ」
「さっきからずっと気色の悪い笑い方してる」
「お前のせいだ」
「またそれか」
「今回は事実だろ」
「知らん」
「知らんじゃねえよ。何だよ、“考えておく”って」
「公の場だ」
「だから?」
「即答で断れば角が立つ」
「立てばいいだろ」
「お前は本当に」
「何だ」
「面倒だな」
「知ってる。死ね」
「くたばれ」

 言い合いながら、二人は小広間の端へ寄る。

 まだ完全に無人ではない。遠くで侍従が片付けている。扉の外にも気配がある。そんな場所で、ほんの少し柱の影へ入るみたいに立つ。

 それだけで、距離が近くなる。

「一曲目、だと」
 リュシアンが笑う。
「へえ。よかったな」
「その言い方やめろ」
「何で?」
「腹が立つ」
「俺のほうが立ってる」
「だからって」
「だからって何だよ」
「そういう顔で笑うな」

 その声が少し低い。

 リュシアンはそこでようやく、笑みを少しだけ深くした。
「そんなに嫌か」
「嫌だ」
「なら断れよ」
「公の場では無理だ」
「じゃあ受けるのか」
「誰がそう言った」
「言ってねえな」
「なら黙れ」
「嫌だね」

 そしてそのあと、リュシアンは少しだけ顔を寄せて、囁くみたいに言った。

「見せつけられた気分だった」
「……」
「正式に、って顔で」
「……」
「お前の隣が空いてるみたいに扱いやがって」
「リュシアン」
「気に食わねえ」
「知ってる」
「死ね」
「お前が先にくたばれ」

 その返しのあと、エドガーの手が伸びた。

 人目のある場所だ。
 だから露骨には触れない。

 ただ、卓の陰になる位置で、ほんの一瞬だけ、リュシアンの手首を掴む。

 強い。
 けれど痛くはない。
 黙れ、とも、大丈夫だ、ともつかない力だった。

 リュシアンの呼吸が少しだけ止まる。

「離せ」
 言葉ではそう言う。
「嫌だ」
 エドガーが返す。
「は?」
「今は離さない」
「……お前」
「うるさい」
「公女には考えておくって言ったくせに」
「公女にはな」
「俺には?」
「お前には今こうしてる」
「意味分かんねえよ」
「分かれ。死ね」
「くたばれ」

 その一瞬だけで、少し救われてしまう自分が本当に嫌だった。

 簡単すぎる。
 あまりにも簡単に、この男の指先ひとつで機嫌が持ち直しかける。
 そんな自分に腹が立つ。

 だからリュシアンは、救われた顔なんか絶対にしない。

 代わりに、ひどく意地の悪い顔で笑った。

「じゃあ夜会の日」
「何だ」
「お前があの女と踊るなら」
「……」
「俺はそれ見ながら笑ってやるよ」
「笑うな」
「無理だね」
「やめろ」
「嫌だ」
「死ね」
「お前が先に」

 その言葉に重ねるみたいに、エドガーの指に力がこもる。

 柱の影。
 昼の終わり。
 誰にも聞こえない程度の声。

「踊らせる気か?」
 エドガーが低く言う。
「知るか」
「知ってるだろ」
「知らねえよ。公女と一曲目でも二曲目でも百曲でも踊ればいい」
「百曲もあるか」
「うるさい」
「嫉妬してるな」
「は?」

 そこでようやく、リュシアンは本気で目を細めた。
「死ね」
「くたばれ」
「今それ言う?」
「図星か」
「お前な」
「何だ」
「今ここで蹴り飛ばしてもいいんだぞ」
「やってみろ」
「やるぞ」
「どうせできない」
「……」

 沈黙。

 それから、エドガーがほんの少しだけ口元を緩める。
 笑ったわけではない。
 だが明らかに、さっきよりやわらかい。

「本当に、分かりやすいな」
「死ね」
「褒めてる」
「褒めてねえだろ」
「半分はな」
「くたばれ」

 そのまま、二人はようやく手を離した。

 離した、が。
 すぐまた隣に並ぶ。

 どうしようもなく、それが自然だからだ。

 小広間を出る直前、リュシアンは一度だけ振り返った。
 ベルティーナはもういない。
 けれど、あの女の笑みだけがまだ空気に残っている気がした。

 正式に距離を詰める女。
 正面からは奪わず、整った手順で包囲してくる女。
 王城全体を味方につけるような、美しい笑い方をする女。

 最悪だ。

 そして、たぶんこれで終わらない。

 リュシアンは低く呟く。
「次は俺も容赦しねえ」
「何か言ったか」
 エドガーが横で言う。
「別に」
「嘘つけ」
「お前こそ」
「死ね」
「お前が先にくたばれ」

 言い合いながら、二人は廊下へ出た。

 今度は誰にも見せない形で、もっとちゃんと腹を立てるために。

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