<中編小説>『負けませんわ』第二王子×第一王子BL小説
<中編小説>『踊らないという答え』第二王子×第一王子BL小説|なつめの続き。
夜会の終わりは、始まりよりずっと残酷だ。
開宴の頃にはあれほど眩しかった大広間の灯りも、時が進めば進むほど、人の疲れと欲と諦めを柔らかく照らし出すようになる。天井から吊られたシャンデリアは相変わらず星を逆さにしたみたいに輝いているのに、その下を行き交う人々の顔には、もう最初の緊張も高揚も残っていない。酒が少し入り、会話はやや緩み、笑い声には倦怠が混じる。ドレスの裾は何度も床を滑ったせいで僅かに重く見え、男たちの襟元にも一晩の長さが薄く滲んでいた。
楽団は今、夜の最後から二番目の曲を奏でている。
甘すぎず、華やかすぎず、けれど完全に終わりを告げるにはまだ早い、そんな曲だった。踊る者の数ももう減っている。中央の床へ出る組は、始まりの頃より少なく、残るのは最初から最後まで社交を戦場として歩ける者たちばかりだ。
リュシアンは大広間の柱列の影へ半ば身を預けるように立って、その様子を眺めていた。
夜会の終盤に差しかかっても、彼の機嫌は良くならない。
少しも。
ほんの少しも。
黒の礼装は相変わらず完璧に似合っていた。夜気の色をそのまま切り取ったみたいな深い黒に、控えめな銀が細く走る。長身の輪郭は灯りの下でより鋭く見え、灰紫の瞳だけが、疲れた広間の空気の中でも妙に冴えていた。笑えば人を酔わせるくせに、その笑みの中身は相変わらず刃物だ。今夜は特にそうだった。
エドガーは広間の反対側にいた。
群青の礼装は最後まで誰のものにもならなかった一曲目の余韻を引きずったまま、今なお人目を引いている。誰とも踊らないまま、しかし誰よりも目立つ位置に立つその姿は、ひどく王族らしくて、ひどく残酷で、そして腹立たしいほど綺麗だった。淡い金の髪は灯りにやわらかく光り、薄い蒼の瞳は疲労を見せない。夜会という舞台そのものが、彼を中心に形を変えているようだった。
何人もの貴婦人が声をかける。
老貴族が談笑を求める。
若い騎士たちが礼を取りに来る。
エドガーは最低限だけ応じる。
それ以上でも、それ以下でもない。
その淡白さが、逆に周囲の期待を煽ることを、彼はたぶん分かっている。
分かっていて、あの顔をしている。
死ね、とリュシアンは心の中で思う。
そのくせ目は逸らせない。
見ていたくないのに、見てしまう。
その矛盾が、夜の終わりに近づくほどじわじわと効いてきて、腹の底を鈍く焼いた。
「ひどい顔ですわね」
声は、すぐ斜め後ろから落ちた。
振り向かなくても分かる。
この場で、そんな言い方を選ぶ女は一人しかいない。
「お前に言われたくねえな」
リュシアンが返す。
ゆっくり振り向く。
ベルティーナ・ラウフェル公女は、夜会の終盤においても少しも崩れていなかった。銀白のドレスはまだ月光のような冷たさを失わず、肩へ落ちる髪も、耳元の真珠も、完璧なままだ。ただし、開宴の頃の“社交のための微笑み”とは違う顔をしている。口元は笑っているのに、瞳の奥だけが妙に澄んでいた。
それは敗者の顔ではなかった。
勝者の顔でもない。
もっと静かで、もっと執念深い何かの顔だ。
「何だよ」
リュシアンが言う。
「今さら慰めにでも来たか」
「まさか」
ベルティーナは柔らかく笑う。
「殿下を慰めるほど、わたくしはお優しくございませんもの」
「へえ」
「ええ」
「じゃあ嫌味か」
「少しだけ」
「性格悪いな」
「殿下ほどではございません」
その返し方が、今夜の彼女らしかった。
引いているようで、少しも引いていない。
笑っているようで、ひとつも緩んでいない。
リュシアンは鼻で笑う。
「一曲目、残念だったな」
「ええ」
「案外あっさり認めるんだな」
「認めない理由がございませんもの」
「そうかよ」
「そうですわ」
ベルティーナはそこで、ちらりとエドガーのほうを見た。
広間の中央近く。
群青の背中。
誰の手も取らず、誰の隣にも立たず、それでいて誰よりも見られている男。
彼女はその姿を見て、ほんの少しだけ目を細めた。
懐かしむようでも、惜しむようでもない。
ただ、ちゃんと見届ける者の目だった。
「本当に、踊られませんでしたわね」
ベルティーナが言う。
「だろうな」
リュシアンが返す。
「お前が嫌われてるからじゃねえの」
「半分は違いますわ」
「半分は認めるのか」
「今宵のわたくしが、ほんの少し押しすぎましたことは」
「へえ」
「ですが」
そこで彼女は視線を戻す。
「もう半分は、殿下ご自身の答えでしょう」
リュシアンは口の端を歪めた。
「随分きれいに言うな」
「そうでもございません」
「負け惜しみだろ」
「ええ」
「認めるのか」
「認めますわ」
そこまであっさり言われると、逆に毒気を抜かれる。
だが同時に、余計に嫌な予感がする。
この女は、簡単に折れない。
折れない女が、折れたふりだけを覚えた時ほど面倒なものはない。
リュシアンはそれを知っている。
彼自身がそういう人間だからだ。
「で?」
リュシアンが言う。
「最後に何だよ」
「最後、ですか」
「そうだろ。わざわざこのタイミングで来るくらいだ」
「ええ」
ベルティーナは小さく頷いた。
「最後に、一つだけ」
その声音が少しだけ変わる。
柔らかさはそのままだ。
だが、社交の響きが消える。
代わりに、よく研がれた刃みたいな静けさが宿る。
リュシアンは目を細めた。
「何だ」
「殿下」
「……」
「今夜のこと」
「何だよ」
「わたくし、忘れませんわ」
「脅しか?」
「いいえ」
「なら何だ」
「宣言です」
その言葉と同時に、ベルティーナは一歩だけ近づいた。
近すぎない。
誰かに見られても“会話の距離”だと言い張れる範囲。
だが、逃げるには少しだけ近い。
「あなたが、わたくしの手を退けたことも」
彼女は静かに言う。
「殿下が、誰とも踊らなかったことも」
「……」
「ぜんぶ、覚えております」
「好きにしろよ」
「ええ。そういたしますわ」
その返しが、あまりにも迷いなくて、リュシアンは喉の奥で笑った。
「で?」
「はい?」
「覚えて、どうすんだよ」
「どうもしません」
「嘘つけ」
「嘘ではございません」
「じゃあ何だ」
「ただ」
ベルティーナは、少しだけ顎を上げる。
「これで終わりだと思われるのは、心外ですの」
来る、とリュシアンは思った。
何か、来る。
そしてその予感は、外れなかった。
ベルティーナは、笑った。
開宴の時みたいな完璧な笑みではない。
もっと静かで、もっと個人的な笑みだ。
誰に見せるためでもなく、ただ目の前の一人へだけ向ける笑み。
それから彼女は、ひどく穏やかな声で言った。
「負けませんわ」
その一言だけだった。
長い説明もない。
恨み言もない。
取り繕うような飾りもない。
ただ、その五文字だけ。
けれど、それは今夜交わされたどの台詞よりも、まっすぐだった。
リュシアンは一瞬だけ何も言えなかった。
負けませんわ。
誰に対して。
何に対して。
立場か。
感情か。
時間か。
自分か。
それとも、エドガーの隣に立つ資格そのものか。
全部だろう、と直感で分かった。
この女はもう、ただの婚約者候補ではない。
少なくとも、本人の中では。
彼女は彼女なりに賭けていて、そのうえでなお、今夜の敗北を敗北のまま終わらせる気がない。
面倒くさい。
死ぬほど面倒くさい。
だからこそ、リュシアンは笑った。
今度は、はっきりと。
「は」
喉の奥で鳴らす。
「面白えこと言うな」
「そうでしょうか」
「負けません、ね」
「ええ」
「じゃあ勝つつもりか」
「そのつもりですわ」
「へえ」
リュシアンは顔を傾ける。
灰紫の瞳が、薄く愉快そうに光る。
「言っとくけど」
彼が言う。
「俺、手加減しねえぞ」
「知っております」
「お前みたいな綺麗な顔した女、俺は一番容赦しない」
「光栄ですわ」
「死ね」
「それはお断りいたします」
「くたばれ」
「それも、できれば遠慮したいですわ」
それでもベルティーナは笑っている。
静かに。
けれど、少しも引かずに。
リュシアンはその顔を見て、心底面倒だと思った。
そして同時に、少しだけ認めてしまう。
この女は本当に強い。
ただ守られるだけの立場へ収まるつもりがない程度には。
「なあ」
リュシアンが言う。
「何でしょう」
「お前、ほんと嫌い」
「存じております」
「今までで一番嫌いだ」
「それは、少し嬉しいですわ」
「気持ち悪いな」
「お互いさまでしょう?」
その返しに、リュシアンは思わず笑った。
笑ってしまったことが癪で、すぐに顔をしかめる。
「……死ね」
「負けませんわ」
ベルティーナは同じ言葉を、今度は少しだけ柔らかく繰り返した。
それが余計に腹立たしい。
彼女はそこで、一礼した。
完璧な、公女としての礼。
けれど、その礼の奥には今までより少しだけ個人的な感情が見えた。悔しさか、意地か、それとも別の執着か。何にせよ、綺麗なだけではない何かだった。
「では」
ベルティーナが言う。
「今宵はこれにて失礼いたします」
「逃げるのか」
「引くのです」
「似たようなもんだろ」
「全然違いますわ」
「へえ」
「ええ。引いた者のほうが、次は進みやすいこともございますもの」
その一言もまた、きれいに刺さる。
リュシアンは舌打ちしたくなったが、ぐっと堪えた。
ここでそれをしたら、完全に向こうの思う壺だ。
ベルティーナはもう一度だけ笑い、それから身を翻した。
銀白の裾が灯りを拾い、床を滑る。
その後ろ姿は、開宴の頃と変わらず美しい。けれど今は、完璧な婚約者候補の背中というより、戦線から一度だけ距離を取る者の背中に見えた。
人混みへ戻る途中、彼女は誰かに声をかけられた。
すぐにいつもの顔へ戻る。
優雅で、やわらかく、上品な公女の顔。
だがその奥にさっきの一言がまだ残っていることを、リュシアンは知っていた。
負けませんわ。
本当に面倒だ。
「随分、長くお話しされていましたね」
低い声が横から落ちる。
振り向くと、エドガーがいた。
いつの間に近づいたのか、群青の礼装の肩がもう手を伸ばせば届く距離にある。薄い蒼の瞳はいつも通り冷たく見えるのに、そこに混ざる色が少しだけ不機嫌だった。
リュシアンは鼻で笑う。
「聞いてたのか」
「途中から」
「盗み聞き好きだな」
「お前が人目のあるところで喋る」
「お前も大概だろ」
「死ね」
「お前が先にくたばれ」
それでも、さっきまでベルティーナに向けていた種類の棘とは違う。
この男相手の悪態は、呼吸みたいに自然だ。
「何言われた」
エドガーが聞く。
「別に」
「嘘つけ」
「お前こそ」
「リュシアン」
「うるさい」
「言え」
「……」
少しだけ間を置いてから、リュシアンは口の端を上げた。
「“負けませんわ”だと」
「……」
「面白い女だろ」
「面白くはない」
「そうか?」
「お前が妙に楽しそうなのが気に食わない」
「楽しそうに見える?」
「見える」
「は、腹立つな」
「死ね」
「くたばれ」
エドガーはそこで、ほんの少しだけ視線を細めた。
「で」
彼が言う。
「お前は何て返した」
「手加減しねえぞ、って」
「最悪だな」
「知ってる」
「本当に、お前は」
「何だよ」
「余計な火種ばかり増やす」
「お前のせいでもある」
「知らん」
「死ね」
「お前が先に」
けれど、エドガーの指先は礼装の裾の陰で、ほんの一瞬だけリュシアンの手の甲へ触れた。
短い。
だが、さっきベルティーナが残した言葉の余韻を塗りつぶすには十分な触れ方だった。
リュシアンは目を細める。
「何だよ」
「別に」
「別にで済ませるな」
「お前がやけに面倒そうな顔をしてる」
「面倒なんだよ」
「知ってる」
「死ね」
「くたばれ」
大広間では最後の曲の準備が始まっていた。
人々のざわめきが少しだけ落ち着き、夜会はゆっくり終わりの形を取り始めている。
けれど、終わった感じは少しもしなかった。
ベルティーナはまだ諦めていない。
彼女の「負けませんわ」は、たぶん今夜の終幕ではなく、次の火種だ。
王城の中で、それはとても厄介な宣言だった。
リュシアンは、その面倒さにうんざりしながらも、どこかで少し笑っていた。
こんなふうに誰かが本気で前に出てくること自体、ひどく久しぶりだったのかもしれない。
だから嫌いで、腹が立って、気に食わないのに、少しだけ燃える。
「なあ、エドガー」
「何だ」
「お前、ちゃんと断れよ」
「命令するな」
「お願いでもない」
「知ってる」
「死ね」
「お前が先にくたばれ」
そう言い合いながら、二人はまた、誰にも見えない程度にだけ近づいた。
夜会は終わる。
灯りは落ちる。
人々は帰る。
けれど、あの一言だけはまだ終わらない。
負けませんわ。
その言葉が、夜の最後に残った小さな火みたいに、静かに燃えていた。
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援お願いいたします。
頂いたチップは大切にクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!!
また応援よろしくお願いします!