<中編小説>『踊らないという答え』第二王子×第一王子BL小説
<中編小説>『月の下で、死ね』第二王子×第一王子BL小説|な|なつめ
大広間へ戻ったとき、音楽はすでに始まっていた。
弦が柔らかく震え、管の低い音が床の下から滲んでくるみたいに空間を満たしている。磨き抜かれた石床には無数の灯りが溶け、踊るために開けられた中央の円は、まるで最初から誰かを待っていたみたいに白く輝いていた。天井のシャンデリアは星を逆さに吊るしたようで、その光の粒が貴婦人たちの肩や宝石、男たちの正装の金糸へ細かく散っている。
華やかだ。
華やかすぎて、少し吐き気がする。
バルコニーの冷たい空気を肺へ入れたあとでは、広間の甘い熱気は余計に濃かった。酒と花と香の匂い。笑い声。絹の擦れる音。楽団の奏でる一曲目の旋律。そのすべてが美しく整っていて、だからこそ、ほんの少しでも齟齬があれば誰の目にも分かってしまう。
エドガーは、その中心へ戻っていった。
群青の礼装は夜の光の中でますます深い色に沈み、銀糸の刺繍だけが冷たく浮いて見える。喉元の留め具は、さっきリュシアンがまた少しだけ乱したせいで、完璧からほんのわずかに外れていた。誰も気づかない程度の乱れ。けれど、知っている者が見れば分かる。そこに触れた指先があったことを。正されたはずの形へ、もう一度わざと歪みが入れられたことを。
そしてエドガーは、その歪みを直さなかった。
リュシアンは数歩遅れて広間へ戻り、その背を見た。
戻る前に肩口を掴み、喉元に触れ、死ねだのくたばれだの吐きながら、それでも結局、ちゃんと戻ってきた。逃げない。それがエドガーだ。王子として立つべき場所からは、絶対に逃げない。
だから腹が立つし、だから好きで、だから今も、どうしようもなく気に食わない。
「おかえりなさいませ、第二王子殿下」
横から、まるで何事もなかったみたいな声がした。
ベルティーナだった。
彼女は広間の中央から半歩引いた位置に立っていた。銀白のドレスは相変わらず月光をまとったみたいに静かに光り、胸元の真珠も、肩へ流れる髪も、少しも乱れていない。ついさっき大広間の真ん中で公衆の面前に断られた女の顔ではなかった。
いや、違う。
乱れていないのではない。
乱れたものを、見せないのだ。
その強さが、リュシアンは前から嫌いだった。
今夜、さらに嫌いになった。
「何だよ」
リュシアンが言う。
「随分落ち着いてるな」
「そう見えます?」
「見える」
「それは良かったですわ」
「よくねえよ」
「まあ」
ベルティーナはくすりと笑う。
「厳しいのですね」
その笑い方が癪に障る。
静かで、整っていて、負けた顔をしない女の笑い方だ。
リュシアンは鼻で笑った。
「さっき、あれだけ見せ場作っといて?」
「見せ場、ですか」
「違うなら何だ」
「確認、かしら」
「何の」
「殿下のお気持ちの」
その言い方に、リュシアンの目が細くなる。
「へえ」
「ええ」
「で?」
「分かりましたもの」
ベルティーナが言った。
「何がだ」
「わたくしには、一曲目は来ないのだと」
楽団はまだ最初の旋律を奏でている。
本来なら、もうとっくに最初の一組が中央へ出ている頃だ。なのに、誰も踏み出さない。皆が待っている。第一王子が、誰の手を取るのか。婚約者候補の公女と並ぶのか。それとも別の誰かか。それとも。
だがエドガーは、中央へ出ない。
広間の主たる位置に立ちながら、誰の手も取らない。
ただ薄い蒼の目で音楽の円を見つめ、その周囲に寄ってくる貴族たちへ最低限の返答だけを返している。微笑みもない。誘いを促す気配もない。群青の礼装を着て、今夜のもっとも目立つ男でいながら、最初の一歩だけは、頑として踏み出さない。
その姿は異様ですらあった。
そして、その異様さの意味を、ベルティーナは理解している顔をしていた。
リュシアンは喉の奥でひどく小さく笑う。
「諦めたのか」
「いいえ」
ベルティーナは即答した。
「諦めてはおりませんわ」
「じゃあ何だよ」
「ただ」
彼女はゆっくり扇を閉じる。
「今夜の一曲目は、わたくしに与えられないものだと理解しただけです」
その声音は穏やかだった。
穏やかなのに、少しも折れていない。
気に食わない。
断られたくせに。
広間の真ん中で手を取られなかったくせに。
あんな静かな顔で立っていられるのが、本当に気に食わない。
「笑ってるな」
リュシアンが言う。
「ええ」
「何が可笑しい」
「可笑しいわけではございません」
「じゃあ何だ」
「綺麗だと思ったのです」
ベルティーナは、視線だけをエドガーへ向けた。
「あの方は、本当に残酷なほど綺麗ですわ」
その言葉に、リュシアンは一瞬だけ黙った。
分かるからだ。
死ぬほど分かるから、余計に腹が立つ。
ベルティーナは続ける。
「お断りになるなら、もっと容易い方法はいくらでもあったはずですの」
「……」
「わたくしだけを退けることもできた。曖昧に笑って、そのまま音楽に乗ることだっておできになった」
「だろうな」
「けれど、なさらなかった」
「……」
「誰とも踊らないことで、お答えになった」
彼女は静かに笑う。
「ひどくお優しいのに、ひどく残酷ですわ」
風もない広間で、どこかがひやりと冷える。
ベルティーナは本当に、分かっている。
表面だけではない。
王子としての動きも、あの曖昧さの奥にあるものも、ちゃんと読んでいる。
そのうえで、自分へ向けられた断りを、断りとして受け取っている。
賢い。
賢すぎる。
だからこそ厄介だ。
「……それで笑えるのか、お前」
リュシアンが言う。
「ええ」
「気味悪いな」
「光栄です」
「死ね」
「それは少し困りますわ」
そう返しながら、ベルティーナは本当に少しだけ笑った。
大きくではない。
誰にも見咎められない程度に、ただ唇の端がやわらぐだけの笑み。
その笑みは勝ち誇ってはいない。
敗北に酔ってもいない。
もっと静かで、もっと冷静なものだった。
「今夜」
ベルティーナが言う。
「わたくしは、欲しかったものを手に入れてはおりません」
「だろうな」
「ですが」
彼女はエドガーを見る。
「見たかったものは見られましたわ」
リュシアンの眉が寄る。
「何だよ、それ」
「お分かりになりません?」
「分かりたくもねえ」
「まあ」
ベルティーナはそこでようやく、リュシアンの目をまっすぐ見た。
逃がさない目だった。
けれど、前みたいに刺々しくはない。
何かを確信した者の、妙に静かな目だ。
「あなたがどれほど苛立とうと」
彼女が言う。
「どれほどみっともなく手を伸ばそうと」
「喧嘩売ってる?」
「いいえ」
「じゃあ何だ」
「確認です」
「またそれか」
「ええ。最後の確認ですわ」
最後。
その言葉が妙に重い。
「第一王子殿下は」
ベルティーナが言った。
「あなたを見ていらっしゃる時だけ、誰にも似ていないお顔をなさいますのね」
「……」
「それが見られたので、十分ですわ」
リュシアンはそこで、心臓を一度だけ乱暴に殴られたみたいな気がした。
そんなことを。
そんなところを。
見ていたのか、この女は。
気に食わない。
腹立たしい。
そのくせ、少しだけ怖い。
ベルティーナは視線を逸らさず続ける。
「ですから、笑えますの」
「何で」
「わたくしが奪えないものなら」
彼女の声はどこまでも静かだった。
「無理に奪う価値はないと分かりましたから」
その言い方に、リュシアンは目を細める。
「へえ」
「ええ」
「潔いな」
「そんなに綺麗なものではございません」
「じゃあ何だ」
「見切りをつけるのが早いだけですわ」
そしてそのまま、ベルティーナはもう一度エドガーを見る。
大広間の中央で、群青の礼装を着た第一王子は、いまだ誰の手も取らない。楽団は一曲目を流し終えようとしているのに、彼は微動だにしない。ただその場に立ち、王子として誰より美しく、けれど一歩も踏み出さずにいる。
その姿が、あまりにも綺麗で、あまりにも冷たくて、そしてあまりにも明確な答えに見えた。
ベルティーナは本当に静かに笑った。
悔しさも、屈辱も、確かにあるはずなのに、それを人に見せる気はない笑い方だった。
「残酷な方」
彼女が、誰にともなく呟く。
「一曲も踊らないだなんて」
その言葉のあと、リュシアンはようやく小さく息を吐いた。
胸の奥にあったどろどろしたものが、全部消えたわけじゃない。
ベルティーナが嫌いなことも変わらない。
あの完璧な笑顔も、賢さも、静かな強さも、やっぱり気に食わない。
けれど、今夜の一曲目が誰にも渡らなかったことだけは、動かしようがない事実だった。
「……お前」
リュシアンが言う。
「何でしょう」
「今の、負け惜しみにしか聞こえねえな」
「そうでしょうね」
「否定しないのか」
「いたしません」
「気味悪い」
「存じております」
ベルティーナは扇を閉じたまま、ふっと視線を落とした。
「ですが、安心はいたしませんわ」
「は?」
「今夜の一曲目がなかったからといって、すべてが終わるわけではございませんもの」
「……」
「わたくしは、まだ諦めておりません」
「さっきと矛盾してんだろ」
「いいえ」
彼女はまた微笑む。
「一曲目を失っただけですわ。王城の夜は、まだ長いでしょう?」
その一言で、また腹の底がざらりと荒れる。
ああ、やっぱり最悪だ。
この女、本当にしぶとい。
静かに笑って、綺麗に一歩退いたように見せて、その実、まだ盤面からは降りていない。
リュシアンは喉の奥で笑う。
「どこまで面倒なんだよ」
「殿下ほどではございません」
「死ね」
「それはお断りいたしますわ」
その返しの直後、広間の中央で楽団が一曲目を終えた。
だが誰も踊らなかった。
完璧に磨かれた石床の中央は、最初から最後まで空いたままだった。誰の靴音も刻まれず、誰のドレスの裾も翻らず、ただ燭台の光だけが、そこへ静かに落ちている。
その空白の意味を、今この広間にいる者たちは皆、それぞれの解釈で受け取るだろう。
王太子の気まぐれ。
婚約者候補への慎重な返答。
あるいはもっと別の何か。
ベルティーナはその空白を見つめたあと、もう一度だけ笑った。
本当に、静かな笑いだった。
「では」
彼女が言う。
「二曲目からは、皆さまにお譲りいたしますわ」
「お譲り?」
リュシアンが眉を寄せる。
「何を」
「今宵の期待と視線を、です」
「は、気取ってんな」
「そうかもしれません」
そして彼女は一礼し、くるりと身を翻した。
銀白の裾が灯りをさらって揺れる。
その背中は少しも崩れず、少しも急がず、ただ静かに人混みの中へ消えていく。誰かが声をかけ、彼女はもういつもの完璧な公女の顔でそれに応じている。
見事だった。
悔しいが、本当に見事だ。
リュシアンはその背を見送り、ひどく小さく舌打ちした。
「ほんと、面倒くせえ女」
「否定はいたしません」
すぐ横から声がして、振り向く。
エドガーがいた。
いつの間に近づいたのか、群青の礼装の肩がすぐそばにある。薄い蒼の瞳は大広間の光を受けてもなお冷えていて、けれどさっきまでより少しだけ、肩の力が抜けていた。
「聞いてたのか」
リュシアンが言う。
「途中からな」
「盗み聞きかよ」
「お前が場所を考えず喋る」
「死ね」
「お前が先にくたばれ」
そう言いながらも、二人は広間の端へ並ぶ。
一曲目を終えた楽団は、次の曲へ向けてゆっくり音を整え始めている。ざわめきも少しずつ戻り、貴族たちは今さら息をつくみたいに動き出していた。だが、広間の空気のどこかにはまだ、誰も踊らなかった最初の曲の余韻が残っている。
「踊らなかったな」
リュシアンが言う。
「言っただろ」
「本当にやるとは思わなかった」
「失礼だな」
「お前だぞ」
「死ね」
「くたばれ」
その返しのあと、エドガーはほんの少しだけ視線を落とした。
喉元の留め具は、まだずれている。
それを見つけたリュシアンが、口元を歪める。
「まだ直してねえのか」
「うるさい」
「人に見られるぞ」
「もう散々見られた」
「は」
「お前のせいでな」
「知るか」
「知れ」
「死ね」
「お前が先に」
言い合いながら、ほんの一瞬だけ、エドガーの指先が礼装の裾の陰でリュシアンの手の甲に触れた。
触れただけだ。
掴みもしない。
けれど、ちゃんと分かる触れ方だった。
誰にも見えないところで。
一曲目を誰にもやらなかった、その答えの続きみたいに。
リュシアンは目を細める。
「何だよ」
「別に」
「別にで済ませるな」
「お前がうるさいから黙らせようとした」
「それで黙ると思うか?」
「思わん」
「死ね」
「くたばれ」
それでも、二人とも少しだけ笑っていた。
広間では二曲目の旋律が始まる。
今度は別の若い貴族たちが中央へ出ていく。ドレスの裾が開き、靴音が床を滑る。夜会は何事もなかったみたいに続いていく。ベルティーナももう別の貴婦人たちに囲まれて、完璧な横顔で微笑んでいた。
けれど一曲目だけは、もう戻らない。
誰にも与えられず、誰にも奪われず、空いたまま終わった最初の曲。
その空白は、たぶん今夜いちばん雄弁だった。
ベルティーナがそれを見て静かに笑った意味を、リュシアンはまだ全部は分からなかった。
悔しさも、納得も、諦めきれなさも、あの女の中では綺麗に並んでいたのだろう。
だからこそ厄介で、だからこそ少しだけ怖い。
リュシアンは視線だけで彼女の背を追いながら、低く言った。
「……まだ終わってねえ顔してたな」
「そうだろうな」
エドガーが答える。
「お前もだ」
「は?」
「終わってない顔をしてる」
「死ね」
「くたばれ」
その返しのあと、二人はまた、誰にも見えない程度にだけ近づいた。
今度は一曲目を巡って壊れそうになることもなく。
けれど、その空白をちゃんと共有するみたいに。
夜会はまだ長い。
ベルティーナはまだ諦めていない。
王城の視線も、静かな笑みも、面倒な障害も、たぶんこれからもっと増える。
それでも今夜の最初の曲だけは、誰のものにもならなかった。
それが、リュシアンには妙に甘くて、妙に痛かった。
「なあ」
リュシアンが言う。
「何だ」
「二曲目も踊るなよ」
「図々しいな」
「死ね」
「お前が先にくたばれ」
エドガーは呆れた顔をした。
けれど、否定はしなかった。
それだけで十分だった。
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