<中編小説>『最悪の朝に、死ね』第二王子×第一王子BL小説
<中編小説>『死ねと言いながら、同じ寝台で眠る』第二王子×第一王子BL小説1|なつめの続きです。
朝は、まず音で来た。
やわらかく、だが確実に人を現実へ引き戻す音だった。厚い天蓋の布の向こう、まだ薄暗い廊下のどこかで、磨き抜かれた銀盆がかすかに鳴る。遠慮がちな足音が絨毯を踏み、扉の前で一度止まる。控えめなノックが、まだ夜の名残を抱えた部屋の空気を震わせた。
その瞬間、寝台の中で先に目を開けたのはエドガーだった。
薄い蒼の瞳が、まだ眠気の膜を一枚かぶったまま、静かに見開かれる。次いで、ほんの一拍遅れて状況を理解した顔になる。
最悪だ。
顔には出さないが、全身がそう言っていた。
暖炉の火は昨夜のうちに落ちきって、部屋にはもう赤い明かりはない。代わりに、重いカーテンの隙間から朝の白い光が細く差し込み、寝台の端と、乱れた掛布の皺だけを淡く照らしている。夜の熱はまだわずかに残っているくせに、朝の空気は妙に薄情で、全部を見える形へ戻そうとしてくる。
そしてその見えてしまうものの最たるものが、今まさにエドガーの腕の中にいた。
リュシアンは、ひどく無防備な格好で眠っていた。
黒髪は枕にもシーツにも散って、墨を流したみたいに濃い。閉じた瞼の下に落ちる睫毛の影は思いのほか長く、普段あれほど喧嘩腰で、口を開けば人を苛立たせることしかしない男が、眠っているときだけはどうしてこうも静かに見えるのかと腹が立つ。灰紫の目は今は閉ざされ、口元もいつもの皮肉げな笑みを消して、ただ呼吸のたびにわずかに動くだけだ。
その額が、エドガーの胸元へ押しつけられている。
片腕はしっかりとエドガーの腰へ回り、しかも脚まで半分絡めていた。まるで絶対に逃がす気がないみたいに。昨夜、掛布の下で「寝相が悪い」「お前が寄ってくる」だの散々言い合ったくせに、結局こうなるのだから救いがない。
ノックが、もう一度。
「殿下」
扉の向こうから、侍従の抑えた声がする。
「お目覚めのお時間でございます」
エドガーは即座に、心の底から嫌そうな顔をした。
「……死ね」
掠れた小さな声だった。
その悪態が耳に届いたのか、胸元でリュシアンの眉がぴくりと動く。次いで、寝起き特有の鈍い声が低く漏れた。
「……うるさい……誰が死ぬって?」
「お前だ。くたばれ」
「朝から感じ悪いな……」
まだ目も開けないまま言うあたり、本当に腹が立つ。
エドガーはすぐさまリュシアンの肩を押した。
「起きろ」
「嫌だね」
「起きろと言ってる」
「お前が寝台を貸した」
「貸してない」
「じゃあ勝手に使った」
「それを貸したとは言わん」
「どっちでもいい。眠い。死ね」
言いながら、リュシアンはさらに擦り寄るみたいに顔を寄せた。
最悪だ。
柔らかい黒髪が寝衣越しに肌をくすぐる。昨夜の湯の名残みたいな匂いがまだかすかに残っていて、それがどうしようもなく近い。眠っていると体温が上がるのか、抱き込んでくる腕も、夜より少し熱い。
エドガーは顔をしかめる。
「離れろ」
「嫌だ」
「侍従が来てる」
「追い返せ」
「できるか」
「できるだろ、お前なら」
「今それをやったら余計怪しまれる」
「へえ、気にしてんだ」
「当たり前だろうが」
「意外と常識あるな。死ね」
「お前が先にくたばれ」
扉の向こうで、また控えめな声がした。
「殿下、失礼いたします。お加減でも」
「入るな!」
エドガーが即座に言う。
声が思ったより大きく出た。廊下の向こうで侍従が明らかに息を呑む気配がする。
その反応を感じ取った瞬間、今度はエドガー自身がさらに嫌そうな顔になった。
「……最悪だ」
「自分で大声出しといて?」
「うるさい」
「今のは怪しいぞ」
「誰のせいだ」
「半分はお前」
「残り半分は」
「俺」
「本当に死ね」
リュシアンはそこでようやく目を開けた。
寝起きのせいで焦点の合うまで一瞬だけ時間がかかる。灰紫の瞳がぼんやりと揺れ、それからすぐ目の前にあるエドガーの顔を見つけて、ゆっくり口元を上げた。
その笑い方が、朝からひどく腹立たしい。
「何だよ」
エドガーが低く言う。
「別に」
「別にじゃない」
「朝からそんな顔すんなよ」
「どんな顔だ」
「バレたら終わるみたいな顔」
「死ね」
「くたばれ」
リュシアンは半身を少し起こした。
掛布が肩からずれて、寝衣の襟元が少しゆるむ。昨夜の名残で首筋に薄く残った赤みが、朝の白い光に晒される。目に入った瞬間、エドガーはあからさまに眉を寄せた。
リュシアンはそれを見逃さない。
「何見てる」
「お前のせいで面倒なものが増えた」
「俺のせい?」
「その首」
「お前がつけたんだろ」
「声を落とせ!」
「はは。必死だな」
「笑うな、死ね」
「お前が先に」
外ではまだ侍従が完全には離れていない気配がした。主の部屋の前で、指示を待つようにじっとしている。王太子付きの侍従というのは厄介だ。気配を消すのがうまいくせに、必要なときだけ絶妙な距離で存在感を出してくる。
その上、今の寝台の状態はとてもではないが人に見せられない。
掛布は半分床へ落ち、枕は一つが寝台の端へ追いやられ、シーツは中央から大きく乱れている。どう見ても一人で整然と眠った跡ではない。しかもエドガーの寝衣の襟元にも、ほんのわずかだが皺が深く残っている。気づく奴が見れば気づく。
エドガーは頭痛を堪えるみたいに目を閉じた。
「……リュシアン」
「何だ」
「本気で起きろ」
「嫌だ」
「今は意地を張るな」
「意地じゃない」
「なら何だ」
「お前の困った顔見てたい」
「死ね」
「くたばれ」
そう言いながらも、リュシアンはまだ完全には離れない。
むしろ寝起きの鈍い体温を引きずったまま、じっとエドガーの顔を見ていた。朝の光の中で見る第一王子は、夜とは違う。火の色が消えたぶん、輪郭の整い方が余計に露わだ。淡い金の髪は枕に広がって少し乱れていて、薄い蒼の瞳には寝起きの湿り気が残っている。いつも完璧な男の、いちばん無防備で、いちばん外へ出したくない顔だ。
それを自分だけが見ている。
その事実が、どうしようもなく甘い。
「なあ」
リュシアンが言う。
「何だ」
「お前、寝起きだと本当に綺麗で腹立つな」
「朝から頭でも打ったか」
「褒めてない」
「なら死ね」
「お前が先にくたばれ」
その返しのあと、エドガーは突然リュシアンの口を塞いだ。
手ではなく、唇で。
短い。だが静かに黙らせるには十分すぎるほど近い口づけだった。寝起きのせいで互いに呼吸がまだ少し重くて、だからこそ触れた瞬間の熱が妙に生々しい。
リュシアンは一瞬だけ目を見開き、それからすぐ喉の奥で笑った。
「……朝からそれかよ」
「うるさい」
「焦ってるくせに」
「黙れ」
「死ね」
「くたばれ」
唇が離れたあとも距離は近いままだった。
エドガーは低く言う。
「今から俺が侍従を追い返す」
「へえ」
「お前はその間、寝台を整えろ」
「嫌だね」
「何でだ」
「お前の寝台だろ」
「今使ってるのはお前だ」
「半分はお前も使ってた」
「死ね」
「お前が先に」
もめる。朝からもめる。しかも最悪なことに、こうして悪態を吐き合っている時間すら、どこか楽しい自分たちがいるのがもっと最悪だった。
扉の向こうから、三度目の控えめな呼びかけが届く。
「殿下……?」
「少し待て」
エドガーが言う。
「着替え中だ」
完全な嘘ではない。だがその言葉に対して、リュシアンがすぐ隣で肩を震わせて笑ったのが問題だった。
エドガーは即座にその太腿を蹴る。
「笑うな」
「っ、痛えな!」
「お前のせいで声が揺れただろうが」
「自業自得だ。死ね」
「くたばれ」
それでも、さすがにこのままでは埒が明かない。
エドガーは寝台から体を起こした。掛布が肩から滑り落ち、白い寝衣の胸元が朝の光へ晒される。寝起きで少し乱れたその姿が、腹立たしいくらい目に毒だった。リュシアンはつい目で追ってしまい、すぐにそれを悟られてしまう。
「何見てる」
「別に」
「嘘つけ」
「お前こそ人の首見てただろ」
「見てない」
「見てた」
「死ね」
「お前が先にくたばれ」
エドガーはそのまま床へ降りると、振り返りざまにリュシアンへ枕を投げつけた。
「整えろ」
「命令するな」
「黙ってやれ」
「やらねえ」
「じゃあ一生そこに埋まってろ」
「それも悪くないな」
「気持ち悪いこと言うな!」
声が少し上ずる。
その反応があまりにも面白くて、リュシアンは枕を抱えたまま笑った。
「お前、ほんと朝弱いな」
「弱くない」
「弱いだろ。余裕がない」
「お前がいるからだ」
「俺のせい?」
「そうだよ」
「じゃあ仕方ねえな」
「何がだ」
「もう少し困ってろ」
「死ね!」
扉の向こうで、侍従が本気で不審に思い始めた気配がした。
さすがにまずいと判断したのか、エドガーは一気に寝台へ戻る。リュシアンの肩を掴み、そのまま低く睨みつけた。
「聞け」
「何だ」
「お前が今すぐ静かにしないなら」
「なら?」
「今日は一日、俺が直々にお前を見張る」
「脅しになってると思ってるのか」
「……」
「むしろ褒美だろ、それ」
「本当に最悪だな、お前」
「知ってる」
数秒、睨み合う。
朝の光は冷たい。けれど寝台の中だけはまだ夜の熱を捨てきれていない。互いの髪は乱れ、寝衣は皺だらけで、呼吸だけが近い。外から見れば、とてもではないがまともな王子の朝ではない。
だが当人たちは、その最悪さのなかでしか呼吸できないみたいな顔をしていた。
エドガーが先に視線を逸らす。
「……整えろ」
「一緒にやるなら」
「何で俺まで」
「二人で荒らした」
「お前の比率が多い」
「細かいな」
「死ね」
「くたばれ」
結局、二人で寝台を整える羽目になった。
これがまた最悪だった。枕を戻そうとすれば手がぶつかる。掛布を引けば同じ方向へ力がかかる。無駄に大きな寝台だからこそ、一緒に整えると妙に距離が近い。しかもさっきまでそこに互いの体温が残っていたせいで、指先が触れるたび昨夜の続きみたいな気配がよみがえる。
「雑だな」
エドガーが言う。
「お前が細かすぎるんだよ」
「皺が残ってる」
「誰が見るんだよ」
「見る奴は見る」
「お前の侍従、怖いな」
「お前が警戒心なさすぎるだけだ」
「死ね」
「くたばれ」
ようやく形を整え終える頃には、二人とも完全に目が覚めていた。というより、覚めざるを得なかった。
エドガーは深く息をつくと、扉へ向かって言った。
「入れ」
「失礼いたします」
扉が静かに開く。
侍従は視線をきっちり落としたまま室内へ入ってきた。だがその目がどこまで見ているのか分からないところが、熟練の侍従というものの怖さだった。銀盆を運びながら、彼は何でもない声で言う。
「おはようございます、殿下。昨夜はお休みになられましたか」
「見れば分かるだろ」
エドガーが冷たく言う。
「起きている」
「左様でございます」
「何だ、その顔は」
「いえ、何も」
そのやり取りの横で、リュシアンは平然と窓辺へ寄って立っていた。まるでたまたま今ここへ来ただけです、みたいな顔をしているのが本当に腹立たしい。寝起きで少し乱れた黒髪すら、なぜか妙に様になっているのもまた腹が立つ。
侍従の視線が、ごく一瞬だけ二人のあいだを往復した。
エドガーのこめかみがぴくりと動く。
「何か言いたいことがあるなら言え」
「滅相もございません」
「なら見るな」
「かしこまりました」
リュシアンはそこで、わざとらしく咳払いした。
「侍従殿」
「はい、第二王子殿下」
「朝からこの男、機嫌悪すぎるだろ」
「お前のせいだ」
「俺のせいか?」
「九割そうだ」
「残り一割は」
「死ね」
「くたばれ」
侍従の沈黙が、見事なまでに完璧だった。
何も聞いていません。何も見ていません。ですが全部分かっています。そういう種類の沈黙だ。エドガーは本気で頭が痛くなった顔をする。
「茶を置いたら失せろ」
「かしこまりました」
「あと」
「はい」
「今朝のことは」
「何も存じ上げません」
「そうか」
「ただ」
「何だ」
「お二人とも、寝癖が少々」
その一言だけを残して、侍従は完璧な礼とともに去っていった。
扉が閉まる。
室内に数秒の静寂。
それから先に吹き出したのはリュシアンだった。
「は、見られてんじゃねえか」
「笑うな」
「いや無理だろ、今のは」
「全部お前のせいだ」
「またそれかよ」
「事実だ」
「死ね」
「くたばれ」
エドガーは苛立ったまま自分の髪へ手を入れる。だがその仕草に、まだ寝起きの乱れが少し残っているのがどうしようもなく可笑しくて、リュシアンは肩を震わせた。
「こっち来い」
エドガーが言う。
「何だ」
「寝癖」
「は?」
「ついてる」
「お前もだろ」
「だから直す」
「何でそんな当然みたいに」
「黙れ」
言いながら、エドガーは本当にリュシアンの髪へ手を伸ばした。
指先で黒髪の跳ねた部分を押さえ、流れを整える。寝起きで少し不機嫌なままの顔なのに、そういう時だけ手つきが無駄に丁寧なのがひどい。リュシアンはじっとされるがままになり、それがまた何とも言えずくすぐったかった。
「……お前」
「何だ」
「朝からそういうことすんな」
「どういうことだ」
「分かってんだろ。死ね」
「お前が先にくたばれ」
しかし、言葉のわりに誰も離れなかった。
窓の外では雨が上がっていた。濡れた庭が朝日に光り、城の石壁へ白い反射が返ってくる。完璧な朝だ。王国にとっては。王太子の部屋においては、まるで完璧ではない。
最悪な寝起き。
最悪な侍従の気配。
最悪な隠し方。
最悪な口の悪さ。
それでも、その最悪の朝の真ん中に、ちゃんと隣にいる。
エドガーが低く言う。
「今日一日、お前は俺の視界から消えるな」
「脅しか?」
「命令だ」
「素直じゃねえな」
「うるさい」
「でも従ってやってもいい」
「頼んでない」
「そういうとこだぞ」
「死ね」
「くたばれ」
リュシアンは笑って、最後にエドガーの顎へ指先で軽く触れた。
「なあ」
「何だ」
「次からは、もう少し静かに起きろよ」
「お前が寝相を直せ」
「無理だね」
「知ってる」
「死ね」
「お前が先に」
そう言い合いながら、結局その朝も、二人は互いの姿を目で追ってしまうのだった。
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