<中編小説>『死ねと言いながら、同じ寝台で眠る』第二王子×第一王子BL小説
<中編小説>『死ねと言いながら、湯気の向こうへ』第二王子×第一王子BL小説|なつめの続きです。
湯殿を出たあとも、喧嘩は途切れなかった。
むしろ、湯気の向こうでいったん曖昧になった輪郭が、今度は別の形で濃くなって戻ってきたせいで、余計に始末が悪かった。
エドガーの私室にはすでに夜が落ちていた。窓の外では、遅くなってようやく弱まった雨が、まだ王城の屋根や石像の肩を静かに濡らしている。室内では暖炉の火が赤く揺れ、乾いた木の香りと、湯上がりの熱を孕んだ湿った空気が、重なるように満ちていた。
リュシアンは肩へゆるく掛けた寝衣の襟を指先で整えながら、いかにも当然の顔で部屋の中央を横切った。
湯を使ったばかりの肌にはまだじんわりと熱が残っている。首筋には水滴がひとつふたつ拭いきれずに残り、黒髪も完全には乾いていない。濡れた髪は普段より少しだけ重たく見えて、そのぶん灰紫の目の鋭さが際立っていた。湯気に晒されたせいで頬の色もわずかに差している。それが、ただでさえ人の神経を逆撫でする整った顔を、いっそう危うく見せていた。
そして、そのまま何のためらいもなく、エドガーの寝台の縁に腰を下ろす。
大きな天蓋付きの寝台は、王太子にふさわしく無駄なく上質だった。深い青の掛布、白い肌触りの良さそうなシーツ、枕元へ落ちる薄布の帳。火の色を受けた布地はところどころ赤みを帯び、夜のなかでひどくやわらかく見える。
そこへ、湯上がりの第二王子が当然のように座っている。
最悪だった。
「何してる」
エドガーが言った。
彼もまた、普段の完璧な正装から解かれて、薄い寝衣を纏っただけの姿だった。濡れた金髪は半ば乾きかけで、やわらかく額へ落ちている。白い喉、鎖骨の薄い影、着崩す気などないくせに、湯上がりのせいでわずかに開いた襟元。整いすぎた顔立ちから王子としての硬質さが少しだけ剥がれ、代わりにどうしようもなく生身の温度が覗いている。
それが癪に障るほど綺麗で、リュシアンはわざと目を細めた。
「見れば分かるだろ」
「分からん」
「寝る」
「俺の寝台で?」
「そうだよ」
「死ね」
「くたばれ」
エドガーは眉間を寄せた。
「自分の部屋へ帰れ」
「嫌だね」
「何でだ」
「お前のせいで濡れた」
「お前が勝手に雨の中で突っ立ってたんだろうが」
「そのあとお前の湯で温まった」
「だから?」
「だからこのままここで寝る」
「理屈が破綻してる」
「お前にだけは言われたくない」
「今すぐ叩き出してやってもいいんだぞ」
「やってみろよ。どうせできない。死ね」
その一言が、あまりにも当然の響きだった。
エドガーは一瞬だけ黙る。
そしてその沈黙で、できないのだと答えてしまう。
リュシアンはそれを見て、喉の奥で笑った。
「ほらな」
「調子に乗るな」
「お前が甘い」
「甘くない」
「じゃあ今すぐ引きずり出せ」
「……」
「できないだろ」
「死ね」
「お前が先にくたばれ」
言い合いながら、リュシアンはさらに寝台の中央へ寄った。シーツがわずかに沈む。乾いた布が寝衣越しに擦れる音が、やけに小さく耳についた。
エドガーはその動きを見て、露骨に顔をしかめる。
「やめろ」
「何を」
「そこでくつろぐな」
「もうくつろいでる」
「気持ち悪い」
「お前の顔ほどじゃない」
「本当に腹が立つな」
「光栄だよ」
暖炉がぱち、と音を立てる。
その明かりのなかで、二人の影が寝台の帳へぼんやり映っていた。ひどく近い。まだ部屋の端には十分距離があるのに、空気だけが妙に近い。湯上がりのせいだ。雨のあとだからだ。暖炉が近すぎるからだ。そうやって誤魔化せるものなら、いくらでも誤魔化したかった。
だが誤魔化しきれないのは、互いの視線だった。
リュシアンは寝台へ片手をついたまま、エドガーを見上げる。
「お前も寝ろよ」
「嫌だ」
「何で」
「お前がいる」
「それの何が問題だ」
「全部だ」
「今さらだな」
「今さらだ」
「昨日も今日も散々触っておいて?」
「お前もだろうが」
「だから?」
「……死ね」
「くたばれ」
その返しが少しだけ遅れたのを、リュシアンは見逃さなかった。
面白くなって、さらに意地悪く笑う。
「そんなに一緒の寝台が嫌か」
「嫌だ」
「へえ」
「お前は寝相が悪い」
「悪くねえよ」
「寝てる間に腕を寄越す」
「知らねえな」
「俺は知ってる」
「……」
「この前も勝手に足を絡めてきただろ」
「覚えてる時点でお前も気にしてるじゃねえか」
「死ね」
「お前が先に」
エドガーはそのまま寝台へ近づいてきた。
すぐ目の前で立ち止まる。湯上がりの熱を帯びた体温が、何も触れていないのに分かる距離だった。近い。近すぎる。見上げれば、薄い蒼の瞳がまっすぐこちらを射抜いてくる。怒っているのか、呆れているのか、それとも別の何かなのか、ぎりぎり判別がつかない顔だ。
「退け」
低い声が落ちる。
「嫌だね」
「リュシアン」
「何だよ」
「本当に退け」
「じゃあお前が別のところで寝ろ」
「ここは俺の寝台だ」
「知るか」
「知れ」
「死ね」
「くたばれ」
そのまま睨み合う。
暖炉の火が、二人の間だけ妙に赤い。寝台の端へ置かれた燭台の明かりが、エドガーの喉元や鎖骨の影を浅く照らしている。襟の合わせから覗く肌が白くて、腹立たしいほど滑らかそうで、そんなことを考えた自分にリュシアンは内心で舌打ちした。
湯上がりはよくない。
理性の輪郭が少しだけ溶ける。
「おい」
エドガーが言った。
「何だ、その目」
「別に」
「別にじゃない」
「お前のその顔がむかつくなと思って」
「そういう時の顔じゃない」
「じゃあどんな時の顔だよ」
「……知らん」
「知らねえなら死ね」
「お前がくたばれ」
言い終わる前に、エドガーの手が伸びた。
肩を掴まれ、そのまま寝台へ押し倒されるほどではない、ぎりぎりの強さで沈められる。シーツが鳴る。白い布の上へ黒髪が散る。リュシアンは一瞬だけ息を止め、それでも口だけは止めなかった。
「何だよ、乱暴だな」
「お前が言うな」
「力で黙らせる気か」
「黙るならそれでもいい」
「無理だね」
「知ってる」
「死ね」
「くたばれ」
エドガーはその姿勢のまま、ふいに指先でリュシアンの喉元へ触れた。
寝衣の襟が少し乱れていた。そこから覗く肌は、湯気と暖炉の熱をまだ覚えていて、指が触れるとわずかに熱い。喉仏の下、鎖骨へ落ちるくぼみ、その少し上。何気ないふうを装ったくせに、触れ方だけが妙にゆっくりだ。
リュシアンの呼吸が、ほんの少し乱れた。
「……何してる」
「別に」
「別にで済ませるなよ」
「お前がはだけてる」
「お前のせいだろ」
「直してやってる」
「嘘つけ」
「死ね」
「お前が先に」
そのやり取りのまま、指先が襟元を整えるふりをして肌をかすめる。ほんのわずか。だがそのわずかが一番まずい。露骨じゃない。なのに、露骨なものよりよほど息が詰まる。
リュシアンは咄嗟にエドガーの手首を掴んだ。
「やめろ」
「嫌なら離せ」
「お前が触るな」
「お前がそんな顔するな」
「どんな顔だよ」
「……腹の立つ顔だ」
低く吐き捨てるその声が、自分でも嫌になるくらい甘く濁っていた。
リュシアンは一瞬だけ目を細める。
それから、わざとゆっくり言った。
「じゃあ見るな」
「無理だ」
「へえ」
「お前が悪い」
「は、責任転嫁」
「黙れ」
「死ね」
「くたばれ」
次の瞬間には、もうキスしていた。
深くはない。噛みつくみたいでもない。ただ、喧嘩の続きを唇で封じるような、短くて熱い口づけだった。けれど一度触れてしまうと、それだけで終わらない。離れ際にまた触れる。浅く、薄く、今度は少し長く。そうやって何度か繰り返すうちに、ただの悪態の延長だったはずのものが、ゆっくりと別の熱へ変わっていく。
シーツが擦れる。
暖炉の音が遠くなる。
唇が触れるたび、湯上がりの熱がまた息を吹き返す。
「……最悪」
リュシアンが掠れた声で言う。
「知ってる」
エドガーが返す。
「お前の寝台なのに」
「そうだな」
「なのに俺がいる」
「いるな」
「死ね」
「お前が先にくたばれ」
そう言いながら、エドガーは離れようとしなかった。
むしろ片手でリュシアンの肩口を押さえたまま、もう片方の手を枕の脇へ滑らせる。逃がさないための形ではない。ただ、自分もここへ沈み込むための姿勢だった。
リュシアンはそれを見て、喉の奥で笑った。
「結局お前もここで寝るじゃねえか」
「黙れ」
「嫌だね」
「うるさい」
「死ね」
「くたばれ」
それでも、とうとうエドガーは寝台へ上がった。
大きな寝台が二人分の重みでゆっくり沈む。片側へ寄っても充分な広さがあるはずなのに、なぜか距離は広がらない。互いに向き合えば、膝が当たる。腕が触れる。息がかかる。わざと離れようとしない限り、触れないほうが難しいくらいの近さだ。
エドガーは掛布を引き上げながら、不機嫌そうに言った。
「これ以上寄るな」
「お前こそ」
「足を出すな」
「先に出してるのはお前だろ」
「お前が勝手に絡んでくる」
「濡れ衣だ。死ね」
「くたばれ」
掛布の下で、案の定、脚がぶつかった。
避けることはできた。
だがどちらも避けなかった。
ふくらはぎ同士がかすかに触れる。それだけなのに、妙に熱い。湯上がりの肌は布一枚隔てただけで体温を拾いすぎる。肩も近い。寝返りひとつで抱き寄せる形になってしまいそうな距離で、二人とも天井の帳を睨んでいる。
「……寝られるか、こんな状態で」
エドガーが言った。
「自業自得だろ」
「誰のせいだ」
「半分はお前」
「残り半分は」
「俺」
「本当に最悪だな」
「知ってる」
しばらく、沈黙が落ちた。
ただし静かではない沈黙だった。互いの呼吸が聞こえる。布の擦れる音がする。外の雨が遠く鳴る。暖炉の火が小さくはぜる。そしてその全部の奥で、目を閉じても消えない気配がすぐ隣にある。
リュシアンは寝台の端へ向かって体を少し逸らした。
すると背中のほうから、低い声がした。
「どこ行く」
「寝返りだ」
「端へ寄るな」
「何で」
「落ちる」
「子供かよ」
「お前はそういうところで落ちる」
「馬鹿にしてんのか」
「してる」
「死ね」
「くたばれ」
その直後、掛布の下で手首を掴まれた。
強くはない。けれどはっきり逃がさない程度には強い。
リュシアンは目を開けずに、口元だけで笑う。
「何だよ」
「別に」
「別にで済ませるな」
「お前が邪魔だ」
「へえ」
「視界にないと余計に気に障る」
「素直じゃねえな」
「お前にだけは言われたくない」
「死ね」
「お前が先に」
そのまま、結局リュシアンは背を向けるのをやめた。
向き直れば、すぐ近くにエドガーがいる。薄い蒼の目はもう半ば閉じているのに、まだ完全には気を抜いていない顔だ。金の髪が枕へ散っている。さっきまで喧嘩して、押し倒して、押し返して、死ねだのくたばれだの言い合っていたくせに、こうして黙って横たわっていると、息をするだけで胸が面倒な形に騒ぐ。
リュシアンは小さく舌打ちした。
「顔がむかつく」
「知ってる」
「綺麗すぎて腹立つ」
「それは褒めてるのか」
「違う。死ね」
「くたばれ」
エドガーは少しだけ目を開けて、リュシアンの額にかかる黒髪を指で払った。
「お前も大概だ」
「何が」
「その顔だ」
「は?」
「湯上がりで黙ってると余計に性格の悪さが分かりにくい」
「褒めてねえだろ、それ」
「褒めてない」
「死ね」
「お前が先に」
それから今度は、額へ軽く口づけられた。
唇ではなく、額。
そこがいちばんずるかった。
リュシアンは一瞬だけ息を止める。
あまりにもあっさりしていて、だからこそ逃げ場がない。唇や首筋よりよほど露骨じゃないのに、そのぶんだけ心臓の奥へ直接落ちてくる。
「……何だよ、それ」
「うるさい」
「気持ち悪い」
「死ね」
「くたばれ」
だが声に、さっきまでの鋭さはなかった。
エドガーも、それを分かっている顔で目を閉じる。
「寝るぞ」
「命令か」
「終わりの合図だ」
「偉そう」
「偉いからな」
「むかつく」
「知ってる」
それでも掛布の下では、まだ手首を掴まれたままだった。
やがてその手が、ゆっくり指先へ変わる。絡めるわけでもない。ぎりぎり触れているだけの、曖昧な近さ。眠るには邪魔なはずなのに、離れるほうが落ち着かない。
リュシアンは薄く笑って、目を閉じた。
「なあ」
「何だ」
「明日、侍従に見つかったら」
「見つからない」
「見つかったら」
「……お前が死ね」
「は。お前が先にくたばれ」
その返事のあと、二人とももう喋らなかった。
暖炉の火が少しずつ低くなる。
雨音も遠のく。
寝台のなかだけが、まだ小さな熱を抱えたまま夜の底へ沈んでいく。
どちらが先に眠ったのかは分からない。
ただ、朝になったとき。
薄い金の光が帳の隙間から差し込むなかで、エドガーは自分の胸元へ寄る黒髪を見つけ、リュシアンは自分の腰へ回された腕の重さで目を覚ますことになる。
そして目が合った瞬間、たぶん最初の言葉はこれだ。
「……死ね」
「お前が先にくたばれ」
それでも、離れるのはたぶん、その少しあとだ。
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