<中編小説>『善意の形をした罠』第二王子×第一王子BL小説
<中編小説>『やさしい顔のぶんだけ、死ね』第二王子×第一王子BL小説|なつめの続き。
それが届けられたのは、視察の翌日の午後だった。
王城の北棟は、昼下がりになると妙に静かになる。午前中の評議会や報告がひととおり終わり、貴族たちがそれぞれの執務や私室へ散っていく時間帯だ。高い窓から差し込む光は白さを失って少しだけ金を含み、長い回廊の床に細く伸びている。侍従たちの足音は控えめで、紙の擦れる音や、遠くで鳴る鐘の残響ばかりがよく通った。
エドガーの私室兼執務室も、その静けさの中にあった。
窓は半ば開けられ、初夏の風が薄い帳を揺らしている。机の上には今日も整然と書類が並び、インク壺も封蝋も、物差しひとつまで真っ直ぐに置かれていた。その端正さが、部屋の主そのものみたいで腹立たしい。
そして、その腹立たしい部屋に、今日もリュシアンはいた。
長椅子へ片足を投げ出し、肘掛けへ頭を預けるみたいな、いかにもやる気のない姿勢で。
だが本当にやる気がないわけではない。
ただエドガーの部屋にいるときだけ、そういう顔をしているだけだ。
「そこ、邪魔だ」
エドガーが机の向こうから言う。
「死ね」
リュシアンが返す。
「くたばれ」
エドガーが言う。
「言ってること鏡かよ」
「お前が先に言った」
「細けえな」
「黙れ」
「嫌だね」
いつもの調子だった。
そのいつもの空気を破ったのは、扉を叩く控えめな音だ。
「殿下」
侍従の声がする。
「ラウフェル公爵令嬢がお見えです」
その一言で、部屋の温度が少しだけ変わった。
リュシアンは長椅子の肘掛けへ預けていた頭を起こす。
灰紫の瞳が細くなる。
エドガーは一瞬だけ手を止めたが、すぐにいつもの顔へ戻った。
「何の用だ」
低く問う。
「救護院より預かった品をお届けに、と」
侍従が答える。
その答えが、またひどく綺麗だった。
救護院より。
預かった品。
お届けに。
断りづらい言葉を、ベルティーナは本当に選ぶのが上手い。
リュシアンは鼻で笑った。
「相変わらずだな」
「黙れ」
「死ね」
「くたばれ」
エドガーは短く息をつき、
「通せ」
と言った。
扉が開く。
ベルティーナは今日も、何もかもが“ちょうどよかった”。
昨日の視察の余韻を引きずりすぎず、しかし王城の私室へ足を運ぶには軽くなりすぎない装い。柔らかな薄鼠色のドレスは目立ちすぎず、胸元も袖口も控えめだ。髪はきっちり結い上げず、やわらかくまとめられている。手元には小さな籠がひとつ。布の上に何かが大事そうに載せられていた。
「お忙しいところ失礼いたしますわ」
ベルティーナが一礼する。
「救護院の子どもたちが、どうしてもお礼を申し上げたいと」
「……礼?」
エドガーが言う。
「ええ。昨日、殿下方がお見えになったことがとても嬉しかったようで」
「そうか」
「ですので、せめてこれをと」
そう言って、ベルティーナは籠を卓の上へ置いた。
布がめくられる。
中には、不格好な刺繍の入った小さな袋が二つと、木を削って作ったのだろう星形の飾りが一つ、それから色紙で折られた花が数輪入っていた。稚拙だ。形もいびつで、色合わせだってばらばらだ。けれど、それが子どもたちの手から来たのだと思うと、それ以上の価値を持つ形だった。
エドガーはそれを見て、ほんのわずかに目を細める。
「……これを?」
「ええ」
ベルティーナがやさしく言う。
「殿下へ。昨日、絵を見せていた子が、自分で選んだ糸で縫ったそうです」
差し出されたのは、薄青い糸で不器用な王冠のようなものが刺繍された小袋だった。
エドガーは一瞬ためらってから、それを受け取る。
その受け取り方がまた、妙に丁寧で腹立たしい。
こんな時だけ本当に真っ直ぐだ。
だから余計に腹立たしい。
「……ありがたい」
エドガーが言う。
「伝えておけ」
「もちろんですわ」
そこまでは、まだよかった。
問題は、その次だった。
「それから」
ベルティーナが、もう一つの小袋へ手を伸ばす。
「こちらは、第二王子殿下へ」
部屋が静かになる。
リュシアンは長椅子に座ったまま、ほんの一瞬だけ反応を忘れた。
「……は?」
素でそう言った。
ベルティーナは、本当に“わざとではない顔”をしていた。
きょとんとしたわけでも、得意げでも、挑発的でもない。
ただ当然のように、自然なやさしい顔で。
「昨日、帳簿をご覧くださっていた時に、棚を下げる話をしてくださったでしょう?」
彼女が言う。
「そのあと、あの年長の男の子たちがとても喜んでいましたの」
「……」
「だから、これは第二王子殿下にと」
差し出された小袋には、黒に近い濃い紺の糸で、ひどく歪な狼みたいなものが縫われていた。狼、なのか犬なのか、よく分からない。ただ牙のようなものが一本だけ飛び出していて、妙に不格好で、妙にそれらしい。
リュシアンはそれを見て、何とも言えない顔をした。
気に食わない。
気に食わないのに、受け取らないわけにはいかない。
子どもからの礼だ。
慈善の場の延長だ。
ここで突っぱねれば、ただ最低になる。
その“逃げ道のなさ”まで含めて、ベルティーナは分かっている。
だからこそこの渡し方なのだ。
王子二人へ、子どもたちからの礼。
その形にしてしまえば、もう誰も文句をつけられない。
最悪だ。
「……いらねえ」
リュシアンが一応言う。
「そうおっしゃると思いましたわ」
ベルティーナは笑う。
「ですので、“受け取らなければ子どもたちが泣きます”と申し上げる準備もしております」
「は」
リュシアンは喉の奥で笑った。
「やっぱり性格悪いな、お前」
「殿下ほどではございません」
「死ね」
「それは困りますわ」
結局、リュシアンは立ち上がった。
長椅子から腰を上げ、ベルティーナの手からその小袋を奪うみたいに取る。
取り方は雑だ。
けれど、雑にしかできなかった。
「……伝えとけ」
ぶっきらぼうに言う。
「受け取った、って」
「ええ。必ず」
ベルティーナが答える。
そのやり取りを、エドガーは机の向こうから見ていた。
薄い蒼の瞳が、二人のあいだを静かに往復する。
それがまた、部屋の空気をややこしくする。
ベルティーナはエドガーへ向き直った。
「殿下、お二人へ揃えて渡せてよかったですわ」
その一言が、妙に綺麗に刺さる。
揃えて。
二人へ。
よかった。
まるで親切みたいな顔をして。
まるで、王子二人と子どもたちのあいだをつなぐやさしい公女みたいな声で。
気に食わない。
死ぬほど気に食わない。
「そうか」
エドガーが短く返す。
「ええ」
ベルティーナは笑う。
「第一王子殿下だけではなく、第二王子殿下もお心を砕いてくださったと知れば、あの子たちもどれほど喜ぶか」
そこが上手い。
エドガーだけを立てれば、リュシアンは外へ弾かれる。
リュシアンだけへ渡せば、露骨になる。
だから“二人とも”へ、子どもたちの好意という形で橋をかける。
それでいて、その橋を渡してくるのが自分だということも、ちゃんと残す。
美しい。
上品。
やさしい。
そして、腹立たしいほど賢い。
「公女」
エドガーが言う。
「何でしょう」
「礼は、こちらから院へまとめて返す」
「承知しておりますわ」
「……」
「ですが、これは“お礼に対するお礼”ではございませんの」
ベルティーナは少しだけ目をやわらげる。
「ただ、届いたものを届けに来ただけですわ」
届いたものを。
届けに。
その言い方。
余計な意味などありません、と言いながら、余計な意味を全部残していく顔だ。
リュシアンは小袋を握る手に力を込めた。
布の中に入っている綿が少しだけ潰れる。
潰したいのはこんなものじゃないくせに、手の中で潰せるのがそれくらいしかないのがなおさら腹立たしい。
「……ありがた迷惑だな」
リュシアンが言う。
「そうかもしれませんわ」
「否定しねえのか」
「殿下がそうお感じになったのなら」
「むかつく」
「存じております」
ベルティーナはそこで、一瞬だけ視線を落とした。
落とした先は、リュシアンの手。
その中にある、不格好な狼の刺繍袋。
そして、ほんの少しだけ笑う。
「よくお似合いですわ」
静かにそう言った。
その一言で、リュシアンのこめかみがぴくりと動いた。
「は?」
「黒っぽい糸を選んだそうですの」
ベルティーナはやわらかく続ける。
「きっと、殿下を思い浮かべながら」
「……」
「狼、と言っておりましたわ」
「……犬にしか見えねえ」
「そこも可愛らしいではありませんか」
「可愛いって言うな」
「では、勇ましい?」
「死ね」
「それはお断りいたします」
エドガーがそのやり取りを聞いて、ふっと小さく息を吐いた。
笑ったわけではない。
だが明らかに、その吐息にはおかしさが混ざっていた。
リュシアンが即座に振り向く。
「何笑ってんだよ」
「笑ってない」
「今笑っただろ」
「気のせいだ」
「死ね」
「お前が先にくたばれ」
その応酬の中に、ベルティーナがいる。
それがさらにややこしい。
ベルティーナは二人を見比べ、何も言わない。
言わないのに、全部見ている顔をしている。
それが本当に、厄介だった。
「では、わたくしはこれで」
ベルティーナが一礼する。
「院長には、必ずお伝えいたします」
「頼む」
エドガーが答える。
「よろしくお願いいたしますわ」
リュシアンは何も言わなかった。
言えばまた死ねだのくたばれだのになる。
それを今ここで公女の前へぶつけるのは、なんとなく負けた気がして、嫌だった。
ベルティーナはその沈黙も気にしない。
気にしない顔をしながら、扉の前で一度だけ振り返った。
「第二王子殿下」
「何だ」
「それ、どうか捨てないでくださいまし」
小袋を見ている。
狼だか犬だか分からない、あの刺繍袋を。
「……」
「子どもたちが、あまりにも一生懸命でしたので」
やさしい声音だ。
だがやさしいからこそ、逃げられない。
「分かったよ」
リュシアンが吐き捨てるように言う。
「捨てねえ」
「ありがとうございます」
ベルティーナは笑う。
「本当に、お優しいのですね」
「死ね」
「それは困りますわ」
そのやり取りを最後に、彼女は去った。
扉が閉まる。
沈黙が落ちる。
部屋には、エドガーとリュシアン、それから机の上の王冠の刺繍袋と、手の中の狼の刺繍袋だけが残った。
数秒。
誰も何も言わない。
そして、先に口を開いたのはエドガーだった。
「犬か」
「狼だろ」
「どう見ても犬だ」
「死ね」
「お前が先にくたばれ」
その一言で、部屋の空気が少しだけ緩む。
リュシアンはむっとした顔のまま、小袋を持ち上げた。
不格好だ。
いびつだ。
まるで自分に似合わない。
なのに、捨てる気にはなれない。
それがベルティーナの狙いの一部かもしれないと思うと、なおさら腹が立つ。
「……あいつ、やっぱり最悪だな」
リュシアンが言う。
「知ってる」
エドガーが返す。
「わざとじゃない顔しやがって」
「わざとだろうな」
「だろうな」
「死ね」
「お前が先に」
その返事のあと、エドガーは机の上の王冠の袋を指先で持ち上げた。
薄青い糸で歪んだ王冠。
いかにも子どもの手だ。
それを見つめる目が、ほんの少しだけやわらかい。
リュシアンはその顔を見て、また腹が立つ。
「何だよ」
「別に」
「やさしい顔すんな」
「してない」
「してる」
「死ね」
「くたばれ」
けれど、そのやり取りの下で、何かが少し変わっていた。
ベルティーナは今、二人のあいだへ新しい形のものを置いていったのだ。
嫉妬でも、礼状でも、慈善の顔でもない。
子どもたちからの感謝。
それを橋にして、二人へ同時に手を伸ばした。
王子二人へ、揃いの礼。
第一王子へ王冠。
第二王子へ狼。
不格好で、やさしくて、だから捨てにくい。
面倒くさい。
恐ろしく面倒くさい。
そして、だからこそ空気がさらにややこしくなる。
「なあ」
リュシアンが言う。
「何だ」
「俺これ、どこ置けばいい」
「知らん」
「捨てるなって言われた」
「なら持ってろ」
「お前こそ」
「机に置く」
「……へえ」
「何だ」
「いや」
リュシアンは少しだけ笑う。
「お前、それ結構気に入ってんだな」
「気に入ってない」
「嘘つけ」
「死ね」
「お前が先にくたばれ」
エドガーは眉を寄せたが、否定しきれない顔だった。
その顔が妙に気に障って、妙に可笑しい。
リュシアンは手の中の狼袋を見下ろす。
不格好だ。
腹立たしいほど不格好だ。
そして、たぶん子どもたちは本当に一生懸命縫ったのだろう。
くそったれ。
こんなの、捨てられるわけがない。
「……あいつ、分かってやってんな」
リュシアンが低く言う。
「知ってる」
「俺が捨てられないことも」
「だろうな」
「むかつく」
「知るか」
「死ね」
「お前が先に」
それでも、少しだけ笑ってしまう。
ベルティーナが置いていったのは、火種でありながら、同時に逃げ道でもあるようなものだった。
子どもたちの好意を媒介にされたら、簡単には蹴れない。
蹴れないまま手元に残る。
残れば残るほど、彼女の存在も思い出される。
面倒だ。
嫌になるほど。
けれど今は、エドガーも同じように王冠の袋を見ている。
それだけで、少しだけ気が済む。
「おい」
エドガーが言う。
「何だ」
「その顔、少し気持ち悪い」
「お前のせいだろ」
「何でだ」
「お前も同じの持ってるから」
「意味が分からん」
「分かれよ、死ね」
「くたばれ」
その応酬のあと、リュシアンは狼袋を懐へ突っ込んだ。
「持って帰るのか」
エドガーが言う。
「捨てるなって言われた」
「律儀だな」
「うるさい」
「死ね」
「お前が先にくたばれ」
けれど、その声は少しだけやわらかかった。
ベルティーナは、また一つ綺麗な形で三人のあいだをややこしくしていった。
その事実が腹立たしくて仕方ないのに、手の中に残った不格好な狼の感触だけは、どうしても嫌いになれない。
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