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<中編小説>『やさしい顔のぶんだけ、死ね』第二王子×第一王子BL小説

<中編小説>『やさしい顔で隣に立つな、死ね』第二王子×第一王子BL小説|なつめの続きです。

王城へ戻る頃には、午後の光が少しだけ鈍っていた。

 南区の救護院を出たときにはまだ白かった空も、城の塔が見えてくる頃には西の端から薄く金を帯びはじめていて、窓の外の石壁や中庭の噴水に、静かな夕方の色が落ちている。馬車の車輪が城門をくぐり、いつもの乾いた石の匂いと、磨かれた床と蝋の匂いが戻ってくる。

 それだけで、ようやく息ができるはずだった。

 なのに、リュシアンの胸の中の獣は、馬車を降りても少しも静まらなかった。

 むしろ、王城へ戻ったことで余計に荒れていた。

 慈善の場だったから我慢した。
 子どもたちの前だったから歯を食いしばった。
 ベルティーナがあれだけ完璧に“やさしい顔”でエドガーの隣へ立っていても、暴れなかった。

 その我慢が、今さら全部遅れて喉元へせり上がってきている。

「殿下、本日の記録を先に」
 侍従がエドガーへ声をかける。
「あとでいい」
 エドガーが答える。
「ですが」
「あとでと言った」

 その短いやり取りの間に、リュシアンはもうエドガーの腕を掴んでいた。

「おい」
 エドガーが低く言う。
「何だよ」
「離せ」
「嫌だね」
「どこ行く」
「知るか」
「知れ、死ね」
「お前が先にくたばれ」

 そのまま、ほとんど引きずるみたいに歩く。

 北棟の主廊下はまだ人が多い。だからそこは避ける。古い書庫の横を抜けて、今は使われていない応接室の並ぶ東側の細い回廊へ入る。窓は高く、光は届きにくく、足音だけがやけに響く場所だ。侍従たちも滅多に寄らない。夕刻前のこの時間なら、なおさら。

 突き当たりから二つ目の扉を乱暴に開ける。

 古い客間だった。

 白い布をかけられた調度が二つ三つ、壁際に寄せられている。長椅子、丸卓、埃を避けるための薄布。窓には半分だけカーテンが引かれ、夕方の光が細く斜めに差し込んでいた。使われていない部屋特有の、少し冷えた空気と、長く閉めていた木の匂いがある。

 扉を閉める。
 静寂が落ちる。

「……何のつもりだ」

 エドガーの声は低かった。
 怒っている。
 だが、完全に押し返すつもりの怒りではない。
 そこがまた、腹立たしい。

「知らねえよ」
 リュシアンが返す。
「知らんで引っ張るな」
「うるさい」
「お前、本当に」
「死ね」
「くたばれ」

 言い終わる前に、リュシアンはエドガーを壁際まで押しやった。

 長椅子へ押し倒すほどではない。まずは壁だ。古い白壁へ片手をつかせるみたいにして、逃げ場をなくす。近い。息がかかる。視察から戻ったばかりの、外の空気と紙の匂いが、まだ服に残っている。

 エドガーが目を細める。
「何がそんなに気に食わない」
「分かってるくせに」
「言え」
「慈善の顔」
「……」
「子どもの前で、あんな完璧な顔して、お前の隣に立ってるの」
「……」
「死ぬほど気に食わなかった」
「知ってる」
「知ってるなら何とかしろよ」
「してた」
「どこがだ」
「お前を見てた」
「それで?」
「足りなかったか」
「足りるわけねえだろ、死ね」

 声が少しだけ揺れた。

 怒鳴りたいのに、怒鳴りきれない。
 喉の奥が熱くて、ひりひりして、ちゃんと刃にならない。

 エドガーはその揺れを見逃さない。

「お前」
 低く言う。
「さっきから、ずっと限界だったな」
「うるさい」
「認めろ」
「嫌だ」
「図星だろ」
「死ね」
「お前が先にくたばれ」

 その返しに重ねるように、リュシアンはエドガーの襟元を掴んだ。

 今日の視察用の上衣は、夜会の礼装ほど豪奢ではない。だが、だからこそ余計にこの男の体の線を隠しきれない。喉元の白さ、真っ直ぐな肩、布越しにも分かる熱。そこへ指を食い込ませるだけで、頭がおかしくなりそうだった。

「お前」
 リュシアンが言う。
「何だ」
「子どもの前で、あいつの隣に立つなよ」
「無茶を言うな」
「知るか」
「立場がある」
「だから何だ」
「お前、本当に」
「俺の前でだけそういう顔しろ」
「……」
「やさしい顔も」
「……」
「静かな顔も」
「……」
「分かったように頷く顔も、全部」
「……」
「俺にだけ寄越せよ」

 最後の一言は、ほとんど噛みつくみたいに出た。

 命令したい。
 独り占めしたい。
 でもその言葉が醜いことも分かっている。
 分かっていてなお吐き出すしかないくらい、今日はずっと我慢しすぎた。

 エドガーは壁へ背を預けたまま、しばらく何も言わなかった。

 夕方の光が、二人の輪郭だけを斜めに切っている。
 部屋は静かだ。
 王城のどこかで鐘が鳴った気がするが、もう遠い。

「……言い終わりか」
 エドガーがやがて言う。
「何だよ、その言い方」
「まだあるなら言え」
「あるよ」
「言え」
「お前、あの女のほう見るな」
「無茶だな」
「知るか」
「視察だぞ」
「だから?」
「話もする」
「死ね」
「くたばれ」

 その応酬の直後、エドガーがリュシアンの手首を掴んだ。

 強い。
 けれど、振りほどくためではない。

 ぐいと引かれる。
 体勢が崩れる。
 次の瞬間には、さっきまで壁へ追い詰めていたはずのエドガーが、逆にリュシアンを長椅子の端へ押しつけていた。

「……っ」
「うるさいのはお前だ」
 エドガーが言う。
「我慢したから何だ」
「何だよ」
「だから全部許されると思うな」
「許されるなんて言ってねえ」
「なら少し黙れ」
「嫌だね」
「死ね」
「お前が先にくたばれ」

 目の前に、薄い蒼の瞳がある。
 怒っている。
 呆れている。
 そして、ちゃんと熱を持っている。

 その熱が、自分に向いていると分かるだけで、さっきまで暴れていた獣が別の形に変わる。

 くそったれ。
 だから嫌なんだ。

「慈善の顔、だと」
 エドガーが低く言う。
「ああ」
「なら、お前は何だ」
「は?」
「獣みたいな顔で、庭の端で全部壊しそうになって」
「……」
「今はこうして人を引っ張り込んで」
「……」
「それで、俺には“隣に立つな”か」
「そうだよ」
「図々しい」
「知るか」
「死ね」
「くたばれ」

 そのまま、エドガーの指がリュシアンの顎を掴んだ。

 乱暴だ。
 でも痛くはない。
 ただ、逃がさないだけの力。

「だったら」
 エドガーが言う。
「お前もちゃんと俺の隣にいろ」
「……」
「勝手に壁際で獣みたいな顔してるな」
「……」
「嫌なら、近くに来い」
「……それ、」
「何だ」
「ずるい」
「知るか」
「死ね」
「お前が先に」

 その返しと同時に、リュシアンはエドガーの肩を掴み返して引き寄せた。

 もう、言葉だけでは無理だった。

 唇が触れる。
 短くではなく、深くでもなく、ただ我慢の続きを終わらせるためみたいなキスだった。慈善の顔、やさしい顔、完璧な公女、子どもの前の王子、そういう正しいもの全部の裏で、ずっと噛み殺していた感情がそのまま触れ方に滲む。

 エドガーの喉が小さく鳴る。
 リュシアンはその音を聞いて、余計に離せなくなる。

 くそったれ。
 こういうところだけ、本当に弱い。

 唇が離れても、額が触れそうな距離のままだ。

「……今の何だよ」
 エドガーが言う。
「お前がうるさいから」
「嘘つけ」
「死ね」
「くたばれ」

 だが声の温度は、さっきまでと違った。

 少しだけ低く、少しだけ柔らかい。
 それが余計に腹立たしい。

「なあ」
 リュシアンが言う。
「何だ」
「今日のあれ、ほんとに嫌だった」
「知ってる」
「お前の横で慈善の顔してるの」
「知ってる」
「子どもに“お兄さまとお姉さま?”って言われてたのも無理だった」
「……」
「俺、あの時ほんとに何か壊すかと思った」
「だから壊すな」
「お前がどうにかしろよ」
「してる」
「どこが」
「今こうしてる」
「……」

 その返しに、リュシアンは一瞬だけ黙る。

 卑怯だ。
 ほんとうに卑怯だ。
 あれだけ獣みたいに苛立っていたのに、“今こうしてる”の一言で全部少しだけ置き場を失う。

「お前」
 リュシアンが低く言う。
「何だ」
「俺を甘やかしすぎだろ」
「知らん」
「死ね」
「お前が先にくたばれ」

 言い合いながら、もう一度近づく。

 今度は長くはない。
 触れて、離れて、また近くて、でも結局すぐには何も言えなくなる程度には熱い。

 夕方の部屋は静かだ。
 古い長椅子の布が少しだけ擦れる音。
 窓の外で風が木を鳴らす音。
 その中で、二人の呼吸だけが少し荒い。

「視察」
 リュシアンが言う。
「何だ」
「次もあいつ来るんだろ」
「たぶんな」
「死ね」
「くたばれ」
「お前、俺の前でだけ困れよ」
「無茶を言うな」
「知るか」
「お前は本当に」
「何だ」
「面倒だな」
「知ってる」

 その返事のあと、エドガーはようやく少しだけ口元を緩めた。

 笑った、というほどでもない。
 でも確かに、さっきまでより近い顔だった。

「じゃあ、次は最初から近くにいろ」
 エドガーが言う。
「……」
「勝手に離れて勝手に獣になるな」
「命令か」
「苦情だ」
「偉そうだな」
「偉いからな」
「死ね」
「お前が先に」

 そう言いながらも、リュシアンは少しだけ笑った。

 腹の底の獣はまだ眠らない。
 けれど今は、檻の中でようやく伏せた。
 その檻の鍵を握っているのが目の前の男だと思うと、やっぱり腹立たしい。

「戻るぞ」
 エドガーが言う。
「執務が残ってる」
「嫌だ」
「何で」
「今戻ったら、また慈善の顔思い出す」
「子供か」
「うるさい」
「死ね」
「くたばれ」

 それでも、結局二人はこの部屋を出る。

 王城の回廊へ。
 またそれぞれの顔へ戻るために。

 けれど、その前に。
 扉へ向かう直前で、リュシアンはエドガーの襟元を乱暴に整えた。
「何だよ」
「視察の続き」
「意味分からん」
「お前の乱れは俺が直す」
「気持ち悪い」
「お前にだけは言われたくない」
「死ね」
「お前が先にくたばれ」

 そう言って扉を開ける。

 外にはもう、王城のいつもの空気が待っていた。

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