『自由になりたい』と言った美容師の表情が忘れられない
その時、私は思わず聞き返した
美容室で担当が「早く自由を手に入れたいです」と言った時、私は思わず聞き返した。
「その自由って、具体的には何ですか?」
彼は少し困ったような顔をして、「う〜ん、時間に縛られない生活、でしょうか」と答えた。
実は彼は今まで2人で店を回していた。一緒に6年前に入った友人だ。元々はその友人が私の担当だったのだが、先月辞めて違う店に移籍したのだ。その事もあって彼は1人で店を切り盛りするようになったので、店舗から一日中出なくなったようだった。
雇われ店長として朝から晩まで店にいる彼の話している表情から、友人の移籍について色々と思いがあるのが見えた。その時の彼の表情には、焦りと失望が混ざりあった諦めのような色が浮かんでいた。彼が目指している次のステップは、本当に自由を得られるのだろうか?
その瞬間、私は気づいた。私たちが求める「自由」の正体について。
私が追いかけた10年間の自由探し
その美容師の言葉が心に刺さったのは、実は私も同じ道を歩んできたからかもしれない。
私も10年前から自由というものを追いかけてライフスタイルを組み立ててきた。その中で実際にビジネスで大きく稼ぎ、投資も含めて資産が増えて不労所得も作っていく段階までいった。完全なFIREまでは至らなかったが、その後ビジネスも投資も失敗した。
本当の自由を手に入れられないことに失望したが、振り返ると、その時も「本当の自由とはなんだろうか?」を分からずに自由を追っていたのだと思う。
自由を手に入れた時の意外な現実
仕事がなくなり誰にも縛られなくなったことがある。持っている資産の切り崩しで生活せざるを得なかったが、時間は確かに自由だった。
しかし、資産が減っていくことは恐怖感を覚えるのだ。
まず「資産が減らずに時間を自由に使える」というのが前提になる。今度資産が増えて、時間がかなり自由になった時期もあった。しかし、海外にいたこともあり、心から通じ合う人とのコミュニケーションが減り、同じ環境で話せる人が減って孤独感と「何を目指しているのか分からない」状態になった。
フリーダムとリバティー、どちらの自由なのか

美容師の彼も、私も求めていたのは何だったのだろう。
英語で言う自由にはフリーダムとリバティーがある。しかしニュアンスが違う。
フリーダム (Freedom):より個人的な制約や束縛からの解放を意味する。「~からの自由」という意味合いが強く、制限や拘束からの解放を示す。行動や選択の自由に関連することが多い。
リバティー (Liberty):より社会的・政治的な文脈で使われることが多い。権利としての自由、特に市民的自由や政治的自由を指す。法律や制度によって保障される自由の概念に近い。
彼の言っている自由とは「フリーダム」の概念に近いのだろう。仕事で時間を制約されていることで、自分で自分の時間を決められていない。6年間一緒にやってきた友人が去り、一人で店を切り盛りしなければならなくなった今、より強くその束縛を感じているのかもしれない。
見えない競争からの脱出願望
彼の言う「時間に縛られない生活」。これは単なる個人的願望ではない。戦後日本が作り上げた「サラリーマン製造システム」からの脱出願望なのではないだろうか。

朝9時から夜遅くまで、住宅ローンのために、子どもの教育費のために、「幸せな家庭」のために——
私たちは気づけば、見えない競争に参加していた。
日本社会は戦後、サラリーマンを大量に生み出す教育を続けてきた。多くの人々はこの暗黙の競争に疑問を抱くことなく参加し、引退するまで馬車馬のように働き、結婚し、住宅ローンでマイホームを購入し、子どもを持つ。これが現代の日本人のマインドセットの基盤になっているのではないだろうか。
自由の重すぎる責任
多くの人は自由が欲しいというが、本当に自由になって誰からも社会的にも束縛されることがなくなった生活を全うできる人は限られた人間だけな気がする。
自由になった瞬間、誰かに束縛されていた方が楽だったと思う人も多いのではないかと思う。
自由とは自分がすべての責任を持って人生を決めなければいけない。砂漠の真ん中に方位磁石を持たずに目的地を見つけて向かわなければいけないようなものだ。そこまでの目標や意志、胆力、賢さがないと、自由になった瞬間から恐怖が襲ってくる人が大半なのではないだろうか?
だから多くの人はサラリーマンとして束縛される生活を選ぶのだと思う。

完全な自由を手に入れた人たちの意外な選択
「FIRE」という言葉が流行った。リタイアして海外移住し、自由な毎日を送る人々の話をよく聞く。
でも、疑問に思うことがある。「完全な自由」を手に入れたはずの人たちが、なぜ再び「束縛」を求め始めるのだろうか?社会との関係性が薄れていき、再び仕事を始めるケースが聞かれるのはなぜなのだろう?
自由のパラドックス
美容師の彼が求めていたのは、もしかすると「自由」ではなく、「選択肢」だったのかもしれない。
6年間一緒にやってきた友人が去り、一人で店を支えなければならなくなった今、彼が欲しているのは「逃げ場」ではなく「選べる権利」なのではないだろうか。
自分で決められる権利。自分のペースで生きる権利。自分らしくいる権利。
真の自由とは、完全な無制約ではなく、自分で制約を選べることなのではないだろうか。
彼がカットをしながら語った「自由への憧れ」は、実は私たち現代人が抱える根深い問題の表れだった。
私たちが本当に求めているのは、逃避としての自由ではなく、自分らしく生きるための選択肢なのかもしれない。
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