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noteが書けない1週間で気づいた、不完全さの価値

1週間、何も書けなかった

1週間noteを更新していなかった。

その前は1ヶ月ほどで25本の記事を投稿していた。マガジン「Re:design my life」は私の実体験を小説風に書いた記事集で、「構造の窓」は世の中の出来事や人生、生きる意味などを構造的に分析し、自分の経験や考えを綴ったマガジンだ。

前者のマガジンを書こうと思ったことがnoteを始めるきっかけだった。様々な感情をジャーナリングしていると、自分の人生を振り返って小説風に表現したいという気持ちが生まれた。

ただ今は長文が書けない状態だ。書こうと試みても、自分の文章に納得できない。実体験に基づいているため空想の話ではなく、ゼロから考える必要がないはずなのに、うまく言葉にできないのだ。

また精神的に壊れているのだろうか?

この不安は以前にも感じたことがある。あの時も、完璧な文章を書こうとして、結局何も書けなくなった。YouTubeをやっていた時も同じ様な感覚になる事があった。

noteを書かなければいけないという状態を自分で作ってしまっている。この「しなければならない」という感覚が、創造性を殺していることに気づいた。

これまで仕事も遊びも「しなければならない」と捉えていた時は、良いアウトプットを生み出せなかった。「したい」という気持ちがあるからこそ、自然とイマジネーションが湧き、その時間が本当に有意義なものになる。

でも今回は、この書けない状態から一つの発見があった。

完璧を求めすぎると、何も生まれない

創作とは、混沌の中から 美しさを見つけ出す作業なのかもしれない。

振り返ってみると、私は無意識に「完璧な記事」を書こうとしていた。

論理的で、感動的で、誰からも批判されない、隙のない文章を。

でも、そんなものを書こうとすればするほど、手が止まる。完璧を目指した瞬間、創造は死ぬのだ。

そして、皮肉なことに気づいた。これまで周りから評価されたり、興味を持ってもらえたりした私の作品は、実は「惰性でこなした」ものや「少し不完全だった」もののほうが多いのだ。

なぜだろうか?

人は「不完全さ」に惹かれる

亀裂は欠陥ではなく、 新たな美しさの始まりなのかもしれない。

人はもしかすると、少し不完全なものの方にアンテナが反応しやすいのかもしれない。

何かが完璧すぎると指摘する余地がなく、「なるほど」で終わってしまうため、議論や対話が生まれない。でも不完全なものには、人が入り込める「隙間」がある。

この仮説を裏付ける現象が、最近の社会にはたくさんある。

ブレイキングダウンが愛される理由

ブレイキングダウンという人気コンテンツがなぜ多くの人の興味を引くのか考えていた。

RIZINやK-1といった、より洗練されたプロの格闘家が集まるコンテンツがあるにもかかわらず、大衆はブレイキングダウンに惹きつけられる。

プロ同士の試合は技術が洗練されているため、綺麗な試合になるか、あるいは守備が上手すぎて分かりにくくなる。さらに、彼らは社会的な模範となる振る舞いも求められている。

それはそれで素晴らしいものだが、議論の余地がほとんどない。感情移入がしづらく、純粋な格闘技愛好家にしか響かないのだろう。

一方、ブレイキングダウンには「荒削りさ」がある。技術的な未熟さも、選手たちの人間的な弱さも、すべてが露呈している。だからこそ、視聴者は「ああでもない、こうでもない」と議論し、感情移入し、現象として大きく広がっていく。

政治の世界も同じ構造

選挙も同様の現象を示している。目前に迫った参議院選では、諸派と呼ばれる政党が大躍進している。

これは政治の世界の不完全さが生み出す余白があるからこそ、人々が意見を表明する隙間が生まれるのだ。そして、その隙間に切り込んでくる諸派や野党自身にも不完全さがあり、それが現在の政治現象を引き起こしている。

完璧で洗練された政治家より、どこか人間的な弱さや矛盾を抱えた人物の方が、人々の心を動かすことがある。

「現象」に惹かれる人間心理

複雑な現象の背後にある 構造を見つけ出すとき、 新たな理解が生まれる。

人間は自分が不完全な存在だと本能的に理解している。

そして、他者や他団体の不完全さを見つけ、そこに自分の正義や正論を主張することで、一つの社会現象が大きく広がっていく。

つまり、「人は作品そのものよりも現象に惹きつけられる」のではないだろうか?

完璧なコンテンツは静かに賞賛される。 不完全なコンテンツは 議論となり、現象となる。

完璧な作品は賞賛で終わるが、不完全な作品は議論を生み、コミュニティを作り、時に社会を動かす。

創作における不完全さの価値

この気づきは、私の創作に対する考え方を変えた。

完璧な記事を書こうとして手が止まるくらいなら、70点の記事を書いて世に出した方がいい。その30点分の「隙間」に、読者が入り込んでくれるかもしれない。

読者との対話が生まれ、新たな視点が加わり、結果的により豊かなコンテンツになる可能性がある。

創作とは、自分一人で完結するものではなく、読者との共創なのかもしれない。

書けない時間が教えてくれたこと

この1週間の「書けない時間」は、実は必要な時間だった。

完璧主義の罠から抜け出し、不完全さの価値に気づくために。

人は理不尽さと不完全さに対して自分の正義や正論を表明したくなる。だからこそ、創作者は敢えて「隙間」を残すべきなのかもしれない。

完璧を目指すのではなく、対話を生む「余白」を意識的に作る。それが現代のコンテンツ制作における、一つの重要な視点なのではないだろうか。

今日はこの仮説を胸に、マガジン「Re:design my life」の続きを書こうと思う。

きっと、完璧ではない文章になるだろう。でもそれでいい。

不完全だからこそ、誰かと対話できるのだから。

もしこの視点が、あなたの中で何かを感じさせたなら。 もし一緒にこの問いを考え続けてみたいと思われたなら。
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