『荷風を盗んだ男』の波紋。瞼の父をたずねて、は、いないけれども。【吾輩ハ 伊庭心猿 ノ 孫猿 デアル】②
【本記事は創作大賞2026オールカテゴリ部門応募作、全5作品の2作目です】
もうすぐ父の祥月命日de R
と言っても、お墓参りに行った記憶は、あるにはあるが3歳ごろまでの記憶。
その後生母が再婚して継父の手前だか何だか、父の縁者とは付き合いを断ったらしい。
当時3、4歳の私は、お墓の場所を記憶できるほどの天才児ではございませんでした。
そういう理由で、物心ついてからは一度も墓参していないのです。
こういうことは、生母が気を利かせて教えてくれてもいいようなもンですが、結婚するときに墓参りに行くと言った私に、場所を教えないような人なので、散々迷って空振りで帰ってきたという、世知辛い思い出がありますよ。
さらに、ある日突然、生母は亡き父の御位牌を、私に押し付けてきたのでございます。
結婚する時に渡されるのだったら、まだ理解できるが、嫁いで何十年もたって渡されても、祀る場所もないから困る━
と訴えましたが、生母は言い出したら聞かない暴君なので、すごすごと引き下がったのでありました、トホホ。
かくして、今は無事、私の部屋の床の間に、鎮座ましましたるわが父の位牌。
瞼の父と書いたものの、私が生後6か月ほどでこの世からアデューした人なので、瞼を閉じても暗いだけ、と言うのがホントのところ。
命日と本名(本名?)しか知らない父のことを、知りたいと思い始めたのはほんの数年前のことでして。
私自身、父の亡くなったときの年齢の倍近く生きようかという、つまり、還暦迫る頃になってからのこと。
急にこんなことが、ナゼキニなる?
だがしかし、キニなるものはキニなるので、そうだインターネットがあーるじゃないか、とばかりに検索をかけてみることにしたのです。
これは、私がインターネットを通じて己のルーツをたどる、ドキュメンタリー=笑撃の実話de R
第1回はこちら👉吾輩 ハ 伊庭心猿 ノ 孫猿 デアル①
目から鼻へ抜ける人
亡き父は朝日新聞の記者だったという。
東京外語大の出身で、「目から鼻へ抜ける人」と呼ばれていたそうである。
なんだろう、その鼻から飲んだ牛乳を目から出す、みたいなものは、と思われるかもしれないが、賢いことを意味し、特に理解が早くて抜け目がないことだそうですよ。
抜けたり抜けなかったりどっちなんだい。
とにかく、その優秀さをかわれて、伊庭心猿の養嗣子となったらしい、というのは私の推測ではあるが、ほぼ間違いないであろうと思う。
でもって、ヒントはその朝日新聞だ。
私がこの世にご生誕したみぎりに(日本語崩壊)その朝日新聞の、同僚だか後輩にあたる方が、お祝いだかあいさつだか(だかだか、ツーバスかい)来ていただいたそうだが、これが後のこの国の首相となる、かの細川護熙氏であったという。
この話が与太話でないのであれば、私は細川元総理に、亡き父の話を聞きに行きたい、という野望が芽生えた。
新聞記者の父を追え
新聞記者であったのならば、父の書いた記事がみつかるかもしれない—
そう私にたきつけたのはAI Gemini(ジェミニ)である。
なんかかんかと方法を伝授してくれたが、誤ってその時のチャットのアーカイヴを消してしまった。
もう何をどうやってたどり着いたのか思い出せない。
だがしかし、私はみつけたのだ、とーちゃんの名を!
そう、私が見つけたのは父が書いた記事ではなく、記事になった父の名前であった、プ。
いや、笑い事ではない。
生母から、父は成田闘争でけがを負ったと聞かされていた、まさにその記事に当たったのである。
私が聞いていたのは、その時のけががもとでリハビリだか温泉だか、とにかく治療に通っていたということだったが、見つけた記事には機動隊員から暴行を受けたとあるから、色白インテリゲンちゃんの父はたまったもんではなかったであろう。
とにかくこれで、父が朝日新聞の記者だったことは明らかになった。
できることなら、父の書いた記事を読んでみたい、という思いはあるが、そこまで辿ることができるかどうか。
細川護熙氏が、朝日新聞の記者であられたことも周知の事実である。
父がけがを負った、1968年には朝日新聞を退社とあるが、私の顔を拝みに来た(違)という話も与太話ではないことが判明、や、判明はまだちょっと早いか。
細川護熙氏が、わが亡き父と接点があったであろうことは、これで明らかになった。
もりひろちゃんにおてまみ、書いちゃお♪(バカが過ぎる)
ハイニッカを探せ
2025年12月から「マッサン」が再放送されている。
「マッサン」はニッカウヰスキーの創業者竹鶴政孝とその妻リタをモデルに描かれたフィクションで、ウイスキー作りにかけた情熱と夫婦愛の物語である。
本放送は2014年で、当時も視聴していたが、英語の勉強目的で2026年1月から観始めた。
「マッサン」を観ているとウイスキーが飲みたくなるが、亡き父がニッカ(ウヰスキー)が好きだったと、それも赤、と言った生母の話を覚えているが、ニッカに「赤」はない。
ブラックニッカがあるから、ジョニ黒ジョニ赤のような通称だったのか、または、ブラックニッカと区別するために赤と呼んでいたのか?
ラベルに赤い色が使われていたから、そう呼んだのか?
はたまた「ニッカ」が記憶違いで、実はサントリーレッドだったか、と考えたが、生母がその話をしたときに、手にしていたウイスキーの瓶の形をはっきり覚えている。
それは、やたらでかい酒瓶であった。
おそらくまだ1970年代だったと思うが、当時はペットボトルなどというものはなく、ガラスの瓶に、2リットルほどのウイスキーが入っていたのである。
たとえが悪い上に、実際にはそのころ目にしたこともなかったけれど、尿瓶のような「持ち手」のついた瓶だった。
その特徴的な瓶の記憶をもとに、父の好きだったというウイスキーを、インターネットで探してみると、ハイニッカが相当するようだ。
今年の祥月命日用に、私はインターネットショッピングで、ハイニッカを購入した。
そしていよいよ、役場へ出向き、不思議なことにきづいてしまうのde R
③【役場で3,750円、そして30】へ続きます。
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