【怪談ショートショート集 怪怪談談】 ♯11『取れないよぉ』
♯11『取れないよぉ』
文字数:約2,500字
ある海水浴場が海開きの日を迎えていた。
水着姿の人々でビーチは大いに賑わっている。寄せては返す波にキャッキャとはしゃぐ幼児。彼女が乗ったバナナボートを引っ張っている彼氏。浮き輪で波乗りをする小学生たち。砂浜でバーベキューをしている大学生グループ。海の家で牡蠣氷を食べている老夫婦。
夏の開幕をそれぞれが思い思いの楽しみ方で謳歌していた。
そんな中……
「ギャアアアアアアアアッ!!」
愉快げな悲鳴とは明らかに異なる本格的な悲鳴が上がる。
叫んだのは海の中で泳いでいた二十歳前後の女性である。
赤いビキニ姿の彼女は、海面から顔を出している状態でバシャバシャ溺れるように藻掻いていた。
声が上がった直後には、彼女の近くを泳いでいた人たちが、顔色を変えて岸に戻り始めた。帰岸の波はすぐに周囲に波及していく。最初は水遊びに夢中になっていて叫び声に気づいていなかった他の海水浴客たちも、逃げるように泳ぐ人たちを目にし、その後方で溺れるように藻掻く女性を目撃すると、急いで岸を目指していく。
逃げる人ばかりで助けに行く人が現れないのは、悲鳴を上げた女性が、水中に向かって「やめて、あっちいって、来ないで!」と金切り声で口走っていたからである。人々の目にはそれが水中に潜む何かに襲われているように映っていた。海岸で人を襲うモノとして想起されるのは、サメである。だから、みんな怖がって水の中から我先に出ようとしているのだ。
子供の名前を呼ぶ母親、「上がれ上がれ!」と叫ぶ男性、海に放置された無数の浮き輪、岸に辿り着いて泣きながら倒れ込む少女。その異様な事態に監視員の男性が気づいたときには、ビーチの一画は既にパニック映画さながらの混乱ぶりを呈していた。
救命用の浮き輪を抱えた監視員が砂浜を駆け出した頃には、海中に残っている者は、赤いビキニの女性だけになっていた。サメが出たと耳にしていたが、どうやら彼女は命には別状がないようで、岸に向かってゆっくりゆっくり海中を歩いて来ている。上半身が右側に大きく傾き、ビーチに向かって左腕を差し伸ばしている体勢だ。右腕が海中に潜りっぱなしのため、襲われてケガをした場所を押さえているのかもしれない。
「大丈夫ですか!?」
人垣を掻き分けて波打ち際まで到達した監視員に、
「取れないよぉ……取れないよぉ……」
と、彼女が泣きながら訴えてくる。
監視員が目を凝らすと、水面下に黒い影が見えた。サイズはかなり大きい。その影が、右側に傾いている彼女の体の直下で、彼女にぴったりと寄り添うようにしているのである。右腕が海中に入れられているのは、サメがまだ腕に噛みつきっぱなしになっているからなのかもしれない。それを引きずるようにしていたから不自然に傾いている体勢なのだ。
「かみつかれているんですか!?」
「取れないよぉ……取れないよぉ……」
彼女はずっと「取れない」という言葉を繰り返し続けているが、大きく二度頷いて見せてきた。
次の瞬間には、監視員は海の中へ入っていた。彼女に噛みついているサメが自分に標的を変える危険性があったが、早く助けなければという気持ちに突き動かされていた。それに彼女は岸の目と鼻の先まで来ている。もう泳いで向かうまでもない距離なのだ。
監視員が海水を掻き分けるようにして早々と女性のもとへ辿り着く。すぐに彼女の左腕を自身の首の裏に回して横から体を支えると、彼女が、唇を震わせたくしゃくしゃの顔でこちらを仰ぎ見てくる。
「……ずっとからみつかれているの」
「とにかく岸に上がります。もっと浅瀬になれば離れて行くかもしれません」
憔悴している彼女を抱えながら岸に近づいていく。
水位が下がるにつれて監視員の顔は険しくなった。
やけに重いのだ。
人が乗ったタイヤでも引っ張っているようだ。
監視員がそう思っていると、ビーチで心配そうに見守っていた人たちから悲鳴が次々と上がった。顔を覆っている人、抱き合うようにしている人、子供の顔を覆い隠すようにする親……。一旦は落ち着いていたビーチがふたたび騒乱に陥っている。
「どうして取れないの!!」
耳元で張り上げられた声に、監視員が隣に抱きかかえている女性に視線を戻す。
……道理で重かったわけだ。
海面からすっかり出ている彼女の右手。そのほとんどの面積を包み込むように、黒いものがからみついていた。海藻ではない。指という指にびっしり巻き付いている無数の黒い糸は、長い長い髪の毛の束だった。すぐに人毛と判断できたのは、彼女の手から伸びた黒い束の終着地が、波打ち際でうつ伏せになって腐乱しかかっている女水死体の頭部だったからである。
直視できないような光景に、監視員も動揺してしまい、救助した女性のもとから離れて後退ってしまう。
「待って、行かないで!」
女性が追いかけて来ようとするが、パンパンに膨れ上がった水死体が重りとなり、そして、その頭部から伸びた黒い髪の毛で鎖のように繋がれているため、追いかけられず、その場で転んでしまう。まるで水死体が、行かないで、と彼女を引き止めているかのようだ……。
「もう嫌、お願いだから離して! 誰か助けて!」
女性は自由になっている左手で砂地にしがみつくようにし、髪の毛がからみついている右手をおもいっきり引っ張る。
ブチブチブチブチッ……
と、切れたのは髪の毛ではなかった。
水死体の首だ。
首が切れても尚、髪の毛は執拗にからみついている。
気が動転して絶叫する女性は、
「取って! 誰か取ってよぉ!」
死んだ魚のように濁った目玉をかっぴらいている女水死体の生首を、右手からだらんとぶら下げたまま、海水浴客たちが集まっている方へ駆け出す。
その瞬間から海水浴場が急転直下のとんでもない鬼ごっこ会場と化したのだった。
(了)
