【怪談ショートショート集 怪怪談談】 ♯36『変な排水口』
♯36『変な排水口』
文字数:約2,300字
ある夜、女子大生が、暮らしているアパートの洗面台で歯磨きをしていた。
鏡を見ながら白い泡を立てて歯を一本一本丁寧に磨いていく。
きっちり磨き終えると、口に溜まっていた歯磨き粉を、ぺっ、と吐き出して、コップの水でくちゅくちゅと口内をゆすぎ、それからまた、ぺっ、と吐き捨てる。鏡に顔を近づけてニッとやり、磨き残しのチェックをしたあと、最後に蛇口をひねって洗面器を洗い流し、脱衣所から廊下に出て行く。そうしてバスルームのドアを閉めたときだった。
「あゝ、うめぇ~」
たった今閉じた浴室の脱衣所内から、男の声が聞こえてきた。
びっくりした女子大生がドアノブを掴んだまま身動きを止めていると、
「うめぇ~なぁ~」
また聞こえてくる。聞き間違いなどではない。くぐもった感じに聞こえるが、ハッキリと人が喋り声だと判断がつく。中年から初老くらいの男と思われるガラガラした低い声質だ。
女子大生は消したばかりの脱衣所の照明を点け、開けたドアの隙間から内部を覗いてみたが、そこに人影はなく、擦りガラスの向こうに見える浴室にも、誰も居ない。
隣室の人の声だったのだろうか。仕事終わりで帰ってきた男の人が、ビールなどのキンキンに冷えたアルコールを一気に流し込み、思わず「うめぇ!」と大きな声で発していたのかもしれない。シチュエーション的には十分考えられる。でも、声が聞こて来た側の隣室に住んでいるのは、自分と同じ大学へ通う若い女性だったはず……。いや、両隣が女子学生だった。
「若い女の生ぬるい歯磨き粉は、うめぇ!」
脱衣所に踏み込んでいた女子大生が、小悲鳴を上げて飛び退き、壁に背中を張りつかせる。
声の出どころが判明した。洗面台の排水口だった。そこから、信じられないくらい気持ちの悪いことを言う声が、水道管を伝わってきたように、少しエコーがかった感じで飛び出してきたのだ。
まるで女子大生が近くに居ることが見えているかのように、排水口が言ってくる。
「姉ちゃん、もう一回、ぺっ、ってやってくれよ。ぺっ、て」
総毛立った女子大生は、ひどく怖がりながらも、手を伸ばし、洗面台下部の戸棚を開いた。もちろんそんな狭い空間に人が隠れているはずもなく、細い銀色の管が下から上に伸びているだけである。
「なあ姉ちゃん、頼むよぉ~」
女子大生はすぐに24時間年中無休の水道屋に電話を掛けた。
通話が開通するなり、電話口で叫ぶ。
「うちの排水口が変なんです!」
◯
「調子が悪いのはこの洗面台ですか?」
「具体的にどこが変なんでしょう?」
水道屋は半時間ほどで女子大生のアパートまで駆けつけてくれた。
顧客が若い女性ともあってか、男女二名の構成である。
水回りで発生した問題だったため、条件反射で水道屋に電話を掛けてしまったが、呼び寄せる業者を間違ったかもしれない、と思いつつ、女子大生はトラブルの内容を説明する。
「……排水口が喋るんです。男の人の声で。くっそ気持ち悪いことを」
「…………」
「…………」
水道屋の二人は、思ったことだろう。
やっぱり深夜客は面倒なヤバい奴だな、と。
顔色の変化を察した女子大生が慌てて事情を説明するが、必死になればなるほど、水道屋の顔つきが芳しくなくなっていく。
「水が流れていく音が反響して声に聞こえてしまったんですね」と、水道屋の男。
「同じような事案での出動がたま~にあるんですよ。たま~に」と、水道屋の女。
「妄想や幻聴とかじゃないんですって。信じてください!」
「そう言われましても、ねぇ」
「現に、洗面台はなんともないですし」
水道屋たちが駆けつけたときには、排水口はすっかり口を閉ざしていた(比喩)。
排水口が再び喋り出したとしても、この水道屋たちにはおそらくどうすることもできないだろう。しかしながら、このまま帰られたとあっては、自分のことを『変な女子大生』と認識されたままになってしまう。水道トラブル業界におけるトラブルメイカーとしてブラックリスト入りしてしまい、トイレが物理的に詰まったときに駆けつけてもらえなくなるかもしれない。
なんとしても排水口に喋らせなくては。
と、女子大生は不本意だったが、状況を再現することにした。
歯ブラシを手に取り、歯磨き粉を乗せ、もはや呆れ顔を浮かべている水道屋の男女の前で、自分の歯をゴシゴシ磨き始める。
十分に泡立ったところで、ぺっ、と排水口の上に落とした。
「うめぇ! ギャルの生ぬるい歯磨き粉は、やっぱり、うめぇ!」
これでどうだ、と口周りが白いままの女子大生が睨む。
水道屋の女は驚きのあまり両手で口元を覆っている。
水道屋の男は排水口に指を向けて声を荒らげた。
「なんだこれは!」
「なんだこれはってか? そうです、アタシが変な排水口です!」
◯
案の定、水道屋のふたりには喋る排水口をどうすることもできなかった。
ただ爆笑しながら帰って行った。
2000円の出張費をきっちり徴収して行った。
2000円払って笑い者にされた気分だ。
女子大生は引っ越しを決めた。
そして新居でトイレが詰まったとしても、あそこの業者だけは意地でも呼ぶまいと胸に誓ったのだった。
(了)
