#65 止まらなかった濁流 :手応えの無い加害者達
インフラに携わるものとして、八潮で起きたあの陥没事故は時代のターニングポイントになったと感じている。不幸な事故を契機として、老朽化するインフラへの市民の関心は確実に高まった。
しかし、事故現場のニュース映像を見たときから、胸の奥に澱のように溜まって離れない違和感がある。それは、老朽化への憤りでも、救助対応や復旧作業の遅れへの違和感でもない。私が戦慄したのは、陥没が始まり、地中がむき出しになったあの穴の中に、なおも滔々と流れ込み続けていた下水そのものだ。
水インフラ業界に身を置く者として、私はあの濁流の正体を知っている。それは、現場から数キロ、数十キロ離れた場所で、何も知らずに、あるいは「流さないで!」という広報を耳にしながらも、いつも通りにトイレのレバーを引き、風呂の栓を抜いた「私たち」の生活の残骸だ。
埼玉県が公開した中間取りまとめ資料の4.2.2項を見てほしい。そこには事故前後の処理場に流入する下水の流量データが冷徹に記録されている。陥没直後、下水管の閉塞によって処理場への流入は一時ゼロになった。しかし、まだ消防が懸命に救助を試みていた事故2日後には、流量はほぼ元の水準に戻ってしまっている。事故が報道され、現場の惨状が周知された後もなお、流れ込む下水の量は変わっていなかったのだ。医療機関などの当然止められない下水もある、しかし、このデータはグロテスクだ。
究極の部分最適が招く悲劇
下水道というシステムは、ユーザーから見れば、現代文明が生んだ「忘却の装置」だ。蛇口から出た水は、使った瞬間に私たちの視界から消え、責任の範囲外へと放り出される。
一人ひとりのユーザーが行っているのは、自分の家を清潔に保つという、極めてまっとうな部分最適な行動だ。しかし、不運にも今回事故が起きたのは、複数の市町村にまたがる流域下水道の最も太い根本の管だった。普段は毎分300トンもの流量がある、流域に住むほぼ全てのユーザーの排水が合流する大「静」脈である。
流域下水道に接続する120万人が、これくらいは許されるだろうと、例えばトイレの水を1回流す。その一つひとつの行動に大きな悪意はない。しかし、それらが合流した濁水が巨大なエネルギーとなって崩落現場の土砂を削り、被害者の救助を阻んだ、その可能性は否定できない。個人の「悪意のない小さな行動」の集積が、システム全体として最悪の結果を招いた。これほど残酷な構造が他にあるだろうか。
120万分の1の責任と無力感
法的に見れば、これは単なる不幸な事故として処理される構造なのだろう。120万人の誰一人として、殺意を持って水を流した者はいない。だが、あの日、埼玉県からの広報は確かに流れていた。「下水の使用を控えてほしい」と。ただし、目的は流下阻害による溢水を懸念するものではあったが。
その情報を知りながら、「自分一人くらいなら」と水を流した瞬間、私たちは図らずもこの悲劇の共犯者になった。一人ひとりの影響はあまりに小さく、自分の行動が現場にどう届くのかも見えない。だからこそ、止めることができなかった。それは責められるべきことというより、インフラシステムそのものが抱える構造的な問題によるものだ。
想像力が届かない管の行き先
私たちが直接的な受益者となる水道と比べて、下水道はあまりにユーザーから離れすぎている。自分の流した水が、どこを通り、誰の足元を削っているのか。その物理的なつながりが、複数の市町村にまたがる流域下水道という巨大な階層構造の中では不可視だ。
「清潔で快適な暮らし」の裏側では、巨大なシステムが粛々と役目を果たしていること。私たちは生活空間と地下の暗黒を結ぶ巨大な穴が開くまで意識しなかった。これは、システムが大きくなりすぎて、私たちの想像力が追いつかなくなっているという問題だ。
私は120万人の誰かの罪を糾弾したいわけではない。だから、あの事故に限った話はここまでにしたい。この先は技術者の顔に戻り、日々の暮らしと下水道の断絶をどう埋めるべきかを考えたい。
見えないつながりの可視化
私はこの不可視性を埋める仕組みが必要だと考える。例えば、スマートフォンのアプリで、自分の住んでいる地域の下水道の状態をリアルタイムで確認できるようにする。雨の影響で想定外の水が流れ込み、流量が処理場の限界に近づいていれば、通知が届く。自分が流した水が、どの経路を流れているのか、簡単な図で示す。
大げさに聞こえるかもしれないが、電力の「見える化」が節電意識を高めたように、下水にも同じアプローチが有効なはずだ。見えないものには責任を感じにくい。ならば、見えるようにすればいい。
また、緊急時の広報も、もっと直感的で強制力のある方法を検討すべきだと思う。個人の判断に委ねるだけでなく、システム側からも穏やかに介入する余地を残しておく。水道のスマートメーター等と連動させることは技術的には可能だろう。
そして何より、教育だ。インフラは「あって当たり前」ではなく、「誰かが守っているから成り立っている」ものだと知ってもらう。
最後に
蛇口をひねり、使った水を流す。その一瞬に、管の先にいる誰かの顔を想像する。希釈された責任はゼロではない。技術がどれほど進化しても、最後にこの脆いシステムを支えるのは、私たち一人ひとりの小さな想像力なのだ。あの日止まらなかった濁流は、私たちにそう教えている。
