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​#38 公民連携のボトルネックを突破する:技能の継承から「技術ガバナンス」の構築へ

対象: 官民連携事業に関わる人
概要: 今の性能発注は色々と歪んでる
    公民ともに視座を上げるべきという話


1.真の性能発注が定着しない理由

公民連携(PPP/PFI)を支える三つの柱、長期契約、包括契約、性能発注。このうち、前二者はすでに実務として定着したと言ってよいだろう。一方で、性能発注だけが、いまだ本来の機能を十分に発揮できていない。これは多くの現場が共有する実感ではないか。

この停滞を「発注者側の能力不足」と片付けるのは簡単です。しかし、問題はそこまで単純ではない。では、その歪みは、実務の現場でどのような形で現れるのだろうか。

2.仕様発注という名の共犯関係

性能発注の歪みは、理念の否定としてではなく、むしろ理念が現場でどう運用されるかという形で現れる。性能発注の基本思想は明快だ。成果を定義し、その達成方法(プロセス)は問わない。

しかし現実には、性能発注を掲げながら、契約書の中身は仕様発注に限りなく近いものが散見される。その根本には、官民双方の合理的な行動が作り出す、構造的な共犯関係がある。

公共側には、実績ある手順で方法を縛ることで、不適合事象の発生確率を下げ、万一問題が生じた際の説明責任を回避したいという力学が働く。

一方、民間側には、公共の指示通りに動くことで結果責任を限定し、問題発生時のリスクを公共側に委ねると同時に、創意工夫に伴う不確実性を避けたいという合理性がある。

この両者が「責任を限定する」という選択を重ねた結果、官民はナッシュ均衡に陥る。名目は性能発注でありながら、実態は仕様の押し付け合い。ここに、本来相容れないはずの二つの思想が、奇妙に同居する状況が生まれる。

これは誰かの悪意ではない。制度の思想と、現場の現実が噛み合っていないことが、人をそう振る舞わせている。

3.凍結した時間の解放

それでもなお、私たちは性能発注を手放すことができない。理由は一つ。仕様は、時間を凍結させてしまうからだ。

仕様発注では、契約時点の正解が固定される。それは多くの場合、過去の技術によるものだ。契約期間中に、より効率的で高度な手法が見つかっても、仕様という鎖がそれを現場に持ち込むことを阻む。

性能発注は、プロセスの自由を認めることで、民間に「より安く、より良く」という強烈なインセンティブを与える。DXやロボット、AIといった新技術は、旧来の手順の中には収まらない。成果さえ担保できれば、手段は常に更新され続ける。この柔軟性こそが、インフラの持続可能性を支える原動力となる。

もっとも、ここで描いた性能発注は、あくまで理念としての姿だ。現実の契約では、その内実が必ずしもこの思想を体現していないケースも少なくない。

以下では、その代表的な例を取り上げよう。

4.書き切れなかった結果の性能発注

ズレた性能発注の典型例が、本来は仕様発注として整理したかったにもかかわらず、末節まで詰め切れなかったために、性能発注という形式を選んでいるケースだ。

要求水準は頭の中にある。過去の事例もある。しかし、それらを矛盾なく文章に落とし込み、想定外を潰し切るだけの時間や体制がない。その結果、「ここから先は性能で」という一文が置かれる。

性能発注は、創意工夫を引き出す思想ではなく、未完成な仕様書を覆い隠すための布として使われてしまうのだ。このとき民間に与えられる自由は、本来の設計がされたものではなくなる。

それは単なる空白であり、その不確実性はすべて民間のリスクとして転嫁されてしまう。民間が保守的な判断に回帰し、再び仕様的な行動を取るのは、極めて合理的な帰結だ。

こうして性能発注は、「自由を与える仕組み」ではなく、「責任の所在を曖昧にする仕組み」へと変質していく。

5.測れないものの統治

この変質は、誰かの怠慢というよりも、性能発注が本質的に内包している設計上の難しさが、実務の制約の中で露わになった結果と見るべきだろう。

物理的に簡単に測定できる量を性能とする場合の設計は比較的容易だが、性能発注の難しい所は、そもそも直接測ることのできない資産価値等を、どのような指標に定量的に翻訳し、統治の対象とするかということを含む、定量化設計そのものにある。

例えば、「今、流量が出ているか」は容易に測れる。しかし、「将来の修繕コストを最小化できているか」や「設備の健全性は維持されているか」といった価値は、単一の物理指標と直接結びつかない。経時的な変化や判断の質も含めて評価する必要があり、その定量化は容易ではない。

指標が曖昧なまま性能発注に委ねれば、評価もまた曖昧になる。だからこそ、性能発注を機能させるためには、PI(パフォーマンス指標)そのものの周到な設計が避けて通れない。

ここで民間に求められるのは、仕様書が出されるのを待つように、公共から正解が示されるのを待つ姿勢ではあない。現場の知見とデータを武器に、「どの指標、判断式で評価されることが、社会と資産にとって最適か」を自ら設計し、提案することだ。

性能発注が十分にメリットを発揮できない原因をここまで深堀って来たが、実は技術的な難しさの背後に、さらに、もう一段深い問題が潜んでいると睨んでいる。

6.技能の喪失という恐怖

 公共が性能発注を正しく採用しきれない原因の深層には、現場感覚を失うことへの根源的な恐怖があるのではないか。「自分たちが手を動かせなくなれば、民間に丸め込まれるのではないか」。 これは感情論ではない。長年現場を支えてきた人ほど抱きやすい、極めて人間的で、かつ合理的な不安だろう。

しかし、これから公共に求められるのは、従来の意味での「現場技能」を保持し続けることではない。必要なのは、市民へのサービスが将来にわたって維持されるかを、技術的に判断し続ける能力だ。本稿では、これを技術ガバナンスと呼ぶことにする。

ここで言う技術ガバナンスは、しばしば「モニタリング」と混同されるが、その役割は明確に異なる。モニタリングが、契約で定めたPIを満たしているかという契約準拠性の確認にとどまるのに対し、技術ガバナンスは、そのPI設計や運用の結果として、公共サービスが本当に持続可能な状態に保たれているかを問うものだ。

例えるなら、仕訳や税務申告が適切に行われているかを確認する税理士と、会計監査を通じて企業活動全体が健全に統治されているかを評価する会計士の違いに近い。前者が「ルールを守っているか」を見るのに対し、後者は「そのルールが組織を健全に保っているか」を問う。個々の数値が正しいかどうかではなく、その数値体系が、組織の将来にとって妥当なガバナンスを構成しているかを判断する役割だ。

細かな手順や達成状況を追う監督員でいることが、真の技術承継なのではない。市民サービスを支えるシステム全体を俯瞰し、評価軸そのものを設計し直し続けるアーキテクトであること。それこそが、これからの公共に求められる、本質的な技術力ではないか。

7.自律なき自由はない

性能発注は、単なる契約テクニックではない。ここまで述べたように、官民の役割分担を根本から書き換える技術思想の転換だ。

公共は、「現場技能を失う恐怖」を克服し、一段高い視座へ立ち、技術ガバナンスを司る。民間は、プロフェッショナルとして自律的なガバナンスを構築し、その成果を数値でクリアに証明する。

指示を待つ下請けの立場に留まる限り、真の自由は得られない。公共と共に、持続可能なインフラのアーキテクチャを描く真のパートナーへと進化する。その覚悟を伴う自律の先にこそ、私たちが求める自由な民間領域が広がっているはずだ。

だから私は、性能発注を「制度論」として論じるだけで終わらせるつもりはない。現場で生じている違和感や、PIの設計がどこで歪み、どこで統治を失っているのかを、具体の技術と言葉で掘り下げていきたい。

公共に対しては、「できる・できない」の議論ではなく、どの価値を、どの時間軸で、どの指標に翻訳すべきかという評価設計の議論を提示する。

民間に対しては、「要求を待つ側」ではなく、サービスの持続性を自ら定義し、説明責任を果たす側に立つ覚悟を問い続ける。

技術とは、本来、誰かを出し抜くための道具ではなく、社会が長く機能し続けるための判断の質を高めるためにある。その判断軸を、もう一段深いところから整え直す。私は、そのための言語化と構造化を、これからも続けるだろう。


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