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[家系図づくり談] 詳細?編その2 -「社会の暗部-家系図づくりから見えた闇」

◯序文

前回では家系図づくりの面倒さに関して述べてきた。
今回はその予告通り、家系図づくりを通じて得られた情報-とくに歴史の闇の部分などに関して述べていく。ただ、闇といえど現在それが形を変えて存在していることもあるため、ところどころ意図的に踏み込みすぎないような記述にした部分もある。その点ご了承いただきたい。

もし前回の記事をお読みでない方がいらっしゃればそちらを先に読んでいただけると幸いである。


◯家系図づくりでみた諸所の闇

私の先祖はかつて確かに存在し、生きていた。当たり前だが、彼らは彼らの時代のうねりに巻き込まれながら生きてきたのだ。その彼らに関わる地域資料などをみると、そこにはその時代の社会問題や闇が垣間みえた。
ここでは、一般的な懐古主義による古き良き過去ののみを懐かしむだけでない、先祖たちの生きた時代の、確かに存在した現実の闇にきちんと向き合っていきたいと思う。

<遊郭(身売り)のこと>

遊郭はどの街にもあったものではない。いわゆる遊郭というと、多くの人が思い浮かべるのは吉原遊郭であろう。漫画「JIN」でも吉原は登場するし、最近では「鬼滅の刃」や「薬屋のひとりごと」のようなヒット作にも遊郭は登場している。
江戸っ子の話などを聞くと、遊郭云々の話は当然のように聞かれる話であり、江戸庶民の中ではあるのが当たり前の存在であった。

遊郭も、一見華やかな世界にみえ、表面的なことをみるだけではそれほどの闇を感じることはない。しかし、遊郭にいる遊女をみていくと、決して明るい華やかな世界でないことは明らかである。その点は上記アニメの「JIN」や「薬屋のひとりごと」でも描かれている。特に最下級の遊女-夜鷹や梅毒に感染した遊女は悲惨である。
そもそも遊郭のシステム自体、単なる性産業というわけではなく、日本における一種の奴隷制だったといってよい。明治時代になってその奴隷的扱いはそれなりに改善はしたが、それも外国との関係を意識したことをきっかけに改善がなされたわけなので、自発的・内発的に日本での人権意識が高まったわけではないことには注意が必要である。

遊郭の他の性産業の場としては、飯盛旅籠などもあった。ここではご飯を提供する女性がおり、その女性たちは飯盛女と呼ばれた。彼女たちも実質的には春を売ることを強制された人たちであり、ある意味遊郭にいる遊女よりも苛烈な扱いをされたと言えるだろう。

ここまでの内容は、自分とは縁遠いことのように思う方もいらしたのではないか。しかし、遊郭や飯盛旅籠にいた女性たちのルーツを考えるとそうもいっていられない。
明治期などにおいては、貧農や没落士族の子供は遊郭などに売られることがままあったのである。その時代の遊女の名簿などをみるとそのことがよくわかる。
明治期の開発が進んだ東京の街をみて、一部の富裕層が和と洋が入り混じった世界で悠々と過ごしているのをみて、明治時代に幻想を抱く人もいるだろうが、現実はそう単純ではない。闇を見ずしてその時代に対して幻想を抱くことの愚かしさを、当時の自分の先祖の姿からも読み取ってほしいところである。
家族のために売られて行った女性のおかげで、今の自分まで家が続いてきた家も少なからずあるということは忘れてはならないだろう。

遊郭や飯盛旅籠などについて興味を持った方がいれば、そういった資料は数多く残されているのでそうした文献を辿るのがよろしいかと思う。ただ、私としては、かつて遊女だった方のお話や遊郭に通っていた人々の話など、当事者たちの話が載っているものを進めたい。遊郭や遊女のポストカードを集めた写真集のようなものもあるが、華やかな遊郭の表面的な部分しかそこには映っていないので注意してほしい。
その他、暗い部分とは異なる、遊郭の担った文化的側面や仇討ちの話など、興味深いトピックも数多くあるので、そうした面まで含めて遊郭に関して知ってほしいところではあるので、その点も気をつけていただければと思う。

<特殊部落等のこと>

明治期になり、四民平等が叫ばれる中で、特殊部落民に対し、解放令が発令された。ここで「解放された」、とされる人々は一般には、「穢多」「非人」と呼ばれる者たちであった。

①基礎的事項-穢多・非人のおこりなどについて

彼らの起源は単純でなく、「ズバリこれが彼らのルーツだ」、と簡単には言えない。
そういった部落の起こりとしては、まず東北地方にいたエミシを捕え、それを各地に分散させた(この人々を俘囚という)際に作られたもの(俘囚の集落を別所という)がある。このエミシの人々は、産鉄の技術を持っていたと考えられており、中央からこの人々を監視する人が送られたという話もある。この監視をした人々も後々被差別階級になっていったと言われている。

その他、古墳等古代遺跡の管理を行っていた人々が特殊部落民になったという話もあった。

あとは一般的にイメージされやすい屠殺業を行い、皮革産業に従事した人々も、ケガレを持つと考えられて差別の対象とされた。平安時代の貴族が人の死を穢れとして嫌ったことなどはよく知られており、源氏物語などを読んでもそのことはよくわかる。
戦国の世になると、武具の材料として皮革産業の需要が高まって、その加工を行う人々に対して大名が保護を行いつつ、皮革産業以外での就業を強め、安定的な皮革の供給を行えるようにしたという。このことが結果的に、被差別階級の人々の固定化につながってはいったが、一方で彼ら以外の庶民が皮革産業に従事するのは禁止され、皮革業は彼らの専売特許となった。江戸時代、彼らに対して、その他年貢の免除等の優遇策も取られたが、そうしたことも重なってか、庶民が彼らをより差別的な目でみるようになった側面も否めない。

特殊部落民の方から言い出したことであるため、どこまでが真実かはわからないが、頼朝の時代に、上記のような屠殺業・皮革産業に従事する人々を統制するために派遣された人々がいた。この人々も後々差別の対象とはなったが、彼らはいわゆる穢多という名を嫌い、長吏という名を名乗ることが多かったという。特に東日本系では、長吏と名乗る人が多かったようだ。江戸時代、関東圏と一部東北と駿府までを含めた領域では、その長吏のなかの最上位の存在として、浅草弾左衛門という者がおり、差別の対象となりながらもある種の特権階級として存在していた。
彼らは皮革産業等の取り仕切りを行った他、帯刀を許され、処刑場でいわゆる首切り役人の任も担った。ただし、彼らが幕府直属の統制下に置かれたのと異なり、有名な首切りである山田浅右衛門は一応は浪人の立場にあったという点には注意したい。


ここまでは穢多系の起源的なことを述べてきた。よって以下では非人系の起源を話していくが、上記の内容までも含め、正確性に欠けた部分もおそらくあるはずなので、その点お詫びしておく。

まずは非人系の起源と言って良いのか、一応河原者と呼ばれた人々もいたと考えられる。旅芸人などの芸人がいわゆる河原者の代表例としてよく言われる。ただ、江戸時代になるとそうした芸人も被差別階級の人間による統制を離れ、元禄文化の担い手になっていった。

その他、一般庶民でも罪を犯すと非人とされることがあったそうである。ただ、この場合は数年非人として暮らせばその後庶民階級に戻れたため、非人は固定化された身分ではないことがわかる。

非人に関しては、江戸時代でも東西での扱いが違い、江戸では穢多の統制下に置かれたが、関西ではあくまで穢多からは独立した存在として存在していた。
一応、非人側にもその頭がおり、車善七というものがいた。彼は吉原のそばに居を構え、彼の統制の元、吉原の警備や江戸町内の雑務などを担っていた。

つまりは江戸近辺では、穢多頭:弾左衛門、非人頭:車善七による統制がなされていたのである。江戸近辺では、穢多が非人の上位の身分として非人の統制も兼ねていたが、それ以外の地域ではそうではなかったというのは要注意であろう。
とはいえ、全国的にみても穢多と非人の間での小競り合いは多く、仲は悪かったらしい。また、穢多・非人の仕事内容にしても、地域差があって、ここでAという作業は非人の仕事だが、あちらでAは穢多の仕事のようなことも多かったそうだ。

穢多・非人とは異なるが、最後に乞胸と呼ばれる人だけ紹介してみることにする。そのほかサンカと呼ばれる人々東京もいたが、ここでは割愛させていただく。興味がある方は個別で調べてほしい。
乞胸とは、江戸期に大名の改易などにより職を失い江戸に集まった元武士たちで、大道芸などで生計を立てた人々のことである。彼らはある種の芸人という意味で、前述の弾左衛門・車善七らの支配下に置かれた。彼らがらみのトラブルは多く、さまざま述べるべきところはあるが、詳しくは他書を参照されたい。

②明治期からその後の穢多・非人
先に示した通り、解放令で彼らは平民階級になった。一応四民平等といえど、実質的には平民階級という言い方は生き残っていたためこの言い方をさせてもらった。
このことに納得いかなかった元からの平民階級であった人々は、一部の地域で元穢多・非人の人々を殺害したり、平民でなく“新平民”と表記したりして、根強い差別意識を持ち続けていた。

これらの事柄もあり、“新平民”と呼ばれた彼らの詳しい経緯が書かれた壬申戸籍は封印されることとなった。

またその後になり、社会主義に影響を受けた元穢多・非人の人々により全国水平者が設立された。この後、彼らによる差別解消運動が進んでいったが、社会主義と結びついたことで、本来の歴史に対して捻じ曲がった言説も飛び交うようになった。最近では社会主義的歴史観を廃した特殊部落の歴史の本も登場してきてはいるが、それ以前の本で社会主義を廃した学術研究・図書となるとかなり古いものとなる。柳瀬勁介、喜田貞吉、柳田國男といった人々の研究が、社会主義的歴史観が入る以前の、正当な部落史研究の走りと言えるだろうか。その後に出てきた菊池山哉という人物による研究が、特殊部落研究の金字塔であるとは個人的には思うが、ここは個々の見解次第だろう。山哉の研究自体、現代においては特にタブーとされそうな書かれ方がされているが、純粋な研究としての価値が高いのには違いない。

さまざま述べてきたが、部落史に関してさらに詳しく知りたい方がいれば、上記で述べた人物らの研究を読んでみるのも良いだろう。ただし、少し古い論が多いため、客観的に正しく部落史を捉えたいなら、一冊目として塩見鮮一郎氏の「部落史入門」などを読むのを勧めたい。冷静かつ客観的に、特殊部落について分析していく作法を身につけられる。
特殊部落と特定の宗教の関係、俘囚に関する事柄に関してならば、別の著者の本があるが、ここはもう個別で調べていただければと思う。申し訳ないが、この手の研究はかなりセンシティブな面をもつため、私からの具体的な紹介はこの程度で抑えさせてほしい。部落関連でも人に勧めやすいものをあえて挙げておくなら、郷土誌面-◯◯町誌や□□風土記のようなものであろうか。その地域の光の部分にしか触れていない郷土誌もあるが、きちんと社会の闇に触れている郷土誌もあるので根気強く読むと良いだろう。


最後に、数年前に、被差別部落の一覧マップを公開した者が現れ、大きな問題となったことを述べておく。現在において、過去の被差別部落に関する事柄はアンタッチャブルなタブーとして扱われることが多く、そのような中でのマップ公開は大きな話題となった。
人の好奇心は良い方向にも悪い方向にも向くため、その公開はやはり好ましいものではない。ただでさえ、23区内カーストのような住んでいる地域からその人のことを見下すような心が貧しい人間が増えている時代なので、こうした差別の根拠を与えるような機会を与えること自体がよろしくないのである。

ここではそのような社会の中にあって、なるべく冷静に部落史のようなものを述べてきたつもりである。
かつての差別に対する解消・解決を図るのは当然重要なことであるが、前回の記事でも少し述べたように、その解消策によって現在不利益を被られる人が生じてきているのが現代の問題と言えるだろう。ここで述べたような差別意識が生んだ問題が現代まで尾を引いて、現代人の我々にも大きく影響していることを忘れてはならない。

<乳児の死亡率の低さのこと>

闇と言って良いのか、ただ科学技術の問題なのか、なんともいえない議題だが、述べていくことにする。

今回の戸籍の取り寄せに際しては、少なくとも口減しで殺されてしまった乳児は確認できなかった。しかし、昔は乳児に限らず、それなりに大きくなった子供も口減しで殺害した例は確かにあった。ちなみに座敷童はその口減しで殺された子供の幽霊だろうと言われている。

それはさておいて、科学技術の問題や収入面の格差問題、不十分な医療保険制度などが最大の問題であったといえよう。
具体的な数字は出さないので、詳しいところは個々で調べていただきたいが、取り寄せた戸籍のなかで1歳を迎えずに亡くなった人数をカウントしてみると10人弱であった。
そもそも子供が現代と比べれば多い時代ではあるが、明治19年式の戸籍から辿れる、生まれた子供の全数に対して、乳児のうちに亡くなった人数を調べてみると現代の水準と比べればそれなりに高いと言えるだろう。

私の場合、戸籍を調べてみると貧富の差が、乳児の生存率に大きな影響を与えていることも如実に読み取れた。

ある家では、そもそもの子供の数がそこまで多いわけではなく、さらに乳児で亡くなった子供はいなかった。
またある家では、子供は大勢生まれてはいるが、その半数以上がなくなっている場合もあった。

この場合、前者の家はそれなりの資産家であることがわかっている家で、後者はおそらく小作の家系あったと推定される家であった。
そのほか田舎の自作農でかつ本家の家系については、子供の数は多いが、乳児が亡くなった記録はなかった。

戸籍の情報だけで、これほどわかりやすく貧富の差を感じることができるのだから戸籍調査はやはりバカにできないのである。

<家庭の問題-私生児や再婚-のこと>

これらに関しては、今でも根強い問題がある。
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①再婚
再婚の場合、継父や継母と子供(どちらかの連れ子)との間でのトラブルというのは往々にしてみられる問題である。

ただ、先に注意しておきたいのは、全ての家庭で再婚家庭がうまくいかないわけではないということである。私の知り合いの方も、子供時代に父を亡くしたが、その後母の再婚でできた新しい父と良好な関係を築いていたし、そのほかでも再婚で幸せになった子供の事例は何件もみてきた。
私もそれは承知の上でこの問題に関して述べていくので、それを念頭に置いて読んでいただきたい。

これも以前の記事で書いたが、一昔前の場合には再婚するにも色々と条件のようなものがあった。当時の社会通念というか一般常識というか、そういうものがそもそも現在とは違うので一概に批判できるかと言われると難しいが、おおよそ再婚のケースやそれが認められなかったケースを見ていくと以下のような例がある。
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[再婚が認められたケース]
・家長の男性の妻が亡くなったあとの再婚
→一般には前妻の死後一年以内にすることが多い

・協議離婚後の再婚
→男女ともに問題なく再婚可能。ただし女性は一定の期間を空けてでの再婚である必要があった(前夫との子を妊娠していないことを保証する期間が必要)。

・戦争により夫を亡くした場合
→問題なく可能。しかし、戦死した夫の家族に対して国から払われる、遺族保証金のようなものは再婚すると支払われなくなる。

[再婚が認められなかった・もしくはあえてしなかったケース]
・亡くなった夫が本家の当主だった場合
→仮にこれが認められるとすれば、子供はその家に全員置き去りにして、未亡人のみが家を出て再婚するケース。しかし子がのちの当主になるため、家を出る女性はそれほど多くない。

・亡くなった妻が本家の人間で、夫側が入婿だった場合
→入婿はその家の人間ではないため。仮に認められるとすればその夫の隠居後。

・戦争で夫を亡くした場合
→遺族家族に対して支払われるお金はそれなりの額のため、再婚相手が現金収入をきちんと得られる人間でなければ再婚のメリットはあまりないといえる。
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上記が再婚にまつわる様々なケースである。このパターン以外でも再婚が推奨される/難しい状況は考えられるだろう。あくまで一例程度に考えてもらえれば良い。

さて、追加の説明が必要なものとして、まず、
「妻の死から一年以内に再婚するケースが多い」
を説明する。
これは特に子供がいるケースほど多い。意外に思われた方もいるだろうが、子供がいるから再婚するのである。それというのは、子供の世話をするのは女性が主体であったからである。農家の場合は特に、男女ともに働きはするが、農業をがっつり行う男性と、それを支えつつ、子供の世話を含めた家事を行っていたのが女性であった。よって、人を雇う余裕のない農家は妻や母といった女手がなければ家が回らなかったのである。
ある程度の資産がある家庭の場合は少々場合が異なり、再婚しない場合もある。なぜなら人を雇って子を育てることが可能だからである。さらに、資産家の場合には妾のような女性を抱えている場合もあったため、わざわざ新しく妻を迎える必要がないこともあった。


これもまた前回の記事にも書いたが、私の身内に限れば、再婚でできた継母・継父との関係がうまくいった子の例はほとんど見られなかった。

一例だけ、子が育ち、ある程度独り立ちしたタイミングで隠居-家督を譲ったのちに再婚した人はいたが、これは継母による影響を子がほとんど受けなかったため、不幸はほとんど起きなかった。

それ以外の、子が幼い頃に父が再婚して継母との関係がうまくいったケースというのは見受けられなかった。詳しい話などは前回の記事に書いた物語風のノンフィクション話を参照していただければ幸いである。

あとは、第二次大戦の南方戦線で夫を失った女性が再婚したケースもあった。この場合、再婚によって、遺族年金のような手当がもらえなくなっていた。また、亡夫との間の子がいても、再婚により前夫の実家との縁も薄くなり、そこからいただいていた支援金も絶たれ、その後のその家の資産配分も一切されなくなった。浅慮によって再婚したことでこの家は一気に貧しくなってしまい、子もその煽りを受けることとなったのである。さらに、子と継父の関係もあまり良くなく、亡夫との間に生まれた長男は苗字を変えることなく過ごしたという。
このケースは金銭面においても、家族関係という面においても失敗であったと言わざるを得ない。継父の男に関しては、人柄は悪くはなかったが、毎日酒を飲むような人間で、それほどの稼ぎもなかった人間であったらしい。彼にとっても、初婚でないしかも2人の子を抱える女性との再婚というのは不本意だったかもしれない。
ここまで、浅慮だの、不本意だのと宣ってきたわけだが、実際この再婚は当人同士でなく、家同士での付き合い、家からの圧力が強かったと考えられる。今では家からの圧力による結婚自体が否定されやすい世の中になったためうっかり忘れやすいが、結婚は家と家を繋ぐ手段でもあったのである。

再婚に関してさまざま述べてきたが、再婚自体を否定する意図で私がこれを書いたわけでないことを改めてここに明記しておく。
最後に、これも前回の記事で述べたが、再婚で一番蔑ろにされ、不幸になるのは一番弱い立場の子供である。一人の人間として幸せになろうとするのは当然であるし、それは構わないが、子がいるなら、いち大人・親として子供のことをきちんと考えた上で、再婚がただの自己満足のためになってはいないかをきちんと検討しなければならないだろう。

②私生児
私生児に関してのトピックは本当に闇深いものがある。

きちんと父親が認知している場合の私生児はまだマシで、そうでない場合は母親が一人で抱え込むことになる。

マシなケースでは、他家に養子に出されるということがある。父親の親戚なり、その他の伝手を辿ってその家に養子に出されるのである。この父親が権力者であるなどすると、戸籍簿には実父の情報が記載されないなどの措置が取られることも多かった。
わかりやすい例だと、妾が多く、結婚式の祝儀で使うには憚れれるでお馴染みの現10000円札(2026年現在)の男などの場合もそういうことをしていたと考えられる。彼は近代日本経済発展の基盤を築いた偉大な男ではあるが、お札というよく目にするものに堂々と掲載されているのをみるとむずむずしてしまうのは私だけだろうか。彼が表の世界で堂々と登場させてもさわりない存在となるにはもう少し時間が必要な気がする。裏の顔も含め、彼のような人物の正当な評価をするにももう少し時間がかかりそうなのは間違い無いだろう。

母親が一人で抱え込むケースに関しては悲惨さが凄まじい。実家がよほどの資産家であればよいのかもしれないが、私生児という公的な子として認められない存在を家族として認めてくれるかどうか、一昔前では厳しいのではないか。また、そもそも資産家の子であれば、男性が私生児を作ることはあれど、女性の場合はあまりない。駆け落ちはありうるだろうが、それの間に生まれた子は私生児ではない。
頼れる人も碌にないと身を持ち崩してしまう女性も多い。そうなると結果として、その子も早くして亡くなることもままあっただろう。

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本節の総括として
今も昔も男女の問題というのは絶えない。私生児という言葉は現在死後に近いが、婚姻関係にない男女の子や再婚の問題など、いまだに起こりうる問題である。またこれからも起こりうる問題であろう。
そうした将来を考えるに、これまでの先人たちの事例に目を向け、ほてった頭を一度覚ました上で性愛と向き合っていく必要の重要性を改めて考えさせられたトピックであった。

<戦争のこと>

一般に今、日本人が関わった戦争というと第二次世界大戦におけるアジア圏での戦い、いわゆる太平洋戦争(大東亜戦争)を思い浮かべる方が多いのでは無いか。日露戦争(1914)や日中戦争(1937)もあるが、亡くなった一般庶民から招集された兵の死者数はやはり太平洋戦争が群を抜いている。

私の親戚でも太平洋戦争に際し、近しいなかでは4人徴兵された人がおり、2人は生きて帰ったが、残る2人は戦地で亡くなり、遺骨すら返ってきていない。

戦争というのは歴史の闇であり、光でもあるのは否定しないが、戦時下における国内の物理的・精神的荒廃が後世に残した影響は相当大きかったのではないだろうか。
それというのは国そのものという大きいスケールだけでなく、各家庭というスケールにおいてでも、である。

夫を失い、食い扶持がなく、米兵を相手に身売りするものも出たし、再婚で不幸になった人もいた。
そのほか生きて帰った兵士であっても、戦地でのトラウマに囚われたままの者もいた。これは祖母の知り合いの話だが、その方は中国戦線で戦っていた方だという。祖母によると、その方は毎日、戦地で自分が殺害した親子が毎日夢に出てきたそうである。現代の価値観で善悪を述べることはしないが、人を殺して帰ってきた復員者もいたのである。
あとはシベリア抑留のように他国から奴隷のような待遇を受けた方がいたり、満州引き上げの際にロシア人からの性的暴行を受けた婦女がいたり、とさまざまなことがあった。
逆に、先に述べたように、日本軍が犯した戦争犯罪もあったわけだが、戦勝国に対して戦争犯罪で裁かれた人はいなかった。その点、牢などに入ることなく、罪を償った意識が少ない戦勝国側にもトラウマに囚われた人はいただろう。

第一次大戦の頃くらいから戦争によるトラウマというものの存在はわかってきていたが、本格的にそのことの研究などがきちんとされるようになったのはもっと時代が下ってからのことであった。具体的にいつからそのような心理学的研究が行われたか、それは個別で調べていただければと思うが、精神分析で有名なフロイト以後が本格的な研究が盛んになった時期であろうかと思う。私はフロイディアンでは無いが、フロイトの理論-エディプスコンプレックスの話等などは興味深く読んだので、もしそうしたことに興味がおありの方がいれば、これを機に戦争における兵士の心理状態だけでなく、一般の心理学も含め学んでみてはいかがだろうか。

結局、戦争はゲームなどで美化されるようなものではなく、命の取り合いでなのである。
兵士の家族、兵士自身、そして国にも少なからずダメージが与えられるのが戦争である。
自分や自分の周りの人の命を守るために、自国の戦争のみならず、他国の戦争の動向などにもきちんと目を向け、考えていきたいところである。

<闇?-没落貴族や逃亡してきた武士のこと>

これに関しては闇と言っていいか怪しい部分はある。中央の権力闘争に敗北し流されてきた貴族なり武士なり、こういう事例は多い。そのほか、江戸時代に入って改易された大名家の家臣だった人々なども没落武士の類に入るだろうか。
闇というよりはロマンを感じるエピソードも多いわけだが、敗者の歴史として、歴史の裏面的な話であることは誤りではないだろう。

流刑地などの場合は、中央の貴族などが流され、京の先進的で洗練された文化や作法が持ち込まれることもあったし、山深い地などでは逃亡してきた武士の末裔たちが山を切り開き、開発して斜面に平地を作り出し、暮らしを作っていったこともあった。

今となっては真偽が明らかでなくとも、没落貴族や武士の末裔である人はかなりの数いるだろう。安土桃山時代の頃、およそ450年ほど前というと、世代的には何世代前になるか。江戸末期(160年ほど前)生まれのご先祖でおよそ5-6代前であり、それ以前は平均寿命が明治期以降よりは短かったことも考慮すると、15-20代前くらいと言ってよいだろうか。
こうなると、今の「私」からみて、その時代に生きた直系のご先祖だけで膨大な数となる。20代も前に生きていた人であれば、延べ100万人を超える。
昭和期までは親戚間での結婚もよくあったため、実際、今の「私」を起点に考えたらその延べ人数よりは少ない数字となるには違いないが、20代前に生きていた直系の御先祖の数は数千はいたのではないか。当時の日本の総人口に対する武士の割合などから考えると、先祖数千人のうち数人は武士がいてもおかしな話ではない。ただ、あくまで統計的な話に過ぎず、実際はサンプルの分布には偏りがあるため、その点はご理解いただきたい。
一応例えばの話をするが、特定の島や伊豆などのような地は流刑地としてよく知られている。このような地や山深い山中にある集落などは没落した武士や流されてきた貴族の子孫の血が流れている可能性が高い。

最後の注意事項として、仮にそのような先祖がいたとしても、それは何人といる先祖の中の一部にすぎず、そのような血が流れているということに優越感を覚えることが危険となりうることは明記しておきたい。
ここまで読んでこられた方は、特殊部落のことを知った上で今この文章を読まれているであろう。特殊部落の人々は固定化された身分の中で、屠殺などの職にしかつくことができず、その結果彼らの家業への蔑みやケガレへの嫌悪が、彼ら自身の血統への蔑みへと変わっていったのである。彼らはそうした事情から、親戚同士での血が濃くなりやすい傾向になり、それもまた蔑みへと繋がっていった経緯もある。しかし血が近いという意味では、ハプスブルク朝の方も同じであっただろう。

結局、何を言いたかったかというと、誰の血を引いているかで優越感をもち、その血統のみを自身のアイデンティティの核にしてはならない、ということである。わかりやすい例は、ハリーポッターのルシウスマルフォイなどだろうか。
人間の生育にはその人物が育った環境が大きく作用するといわれてはいるし、血統とはいわないものの、育った家の家庭環境次第でその人物のその後には大きな差が生じるのは事実である。それは単に偏差値の高い大学の学生と高卒の社会人とで比較などしてもわかることであるし、発達心理学や教育学、脳科学、精神医学からも確かめられている。
しかし、その人自身の価値は真に血統のみで決まるわけではないのは明らかである。血筋などは関係なく本人の性格や能力が重要なのは当然であろう。家のつながりやコネというのも当然ありはするが、本人の資質次第で得られる人脈でも大きく変わる。公立でもある程度偏差値の高い伝統校に行けば学用品等含めた学費は抑えられ、さらに大学も給付型の奨学金がもらえるよう努めつつ、アルバイトなどとサークル活動をしていけばそれなりの人脈を築けるのである。
とはいえ上記の論理もある種、強者の論理であるから、生まれを言い訳にするな、とは必ずしもいえないのが難しいところではある。

最後と言っておきながら付け加えるが、この逆も然り、自分の生まれが悪かったから、自分は周りから変にみられているのだ、などと思うのも良い姿勢とはいえない。生まれを理由に色眼鏡で他者を見る人間もいるが、そればかりではない。もし、周りの人間のほとんどからの自分に対する評価が低いと感じたなら、それは自分の責任である可能性が高い。生まれという過去を変えることはできないのだから,今自分の何が悪かったか、何をどうしていけば良いか、それを考える必要がある。過去に起因する現在の卑屈さは、その人の過去を知る人にとっては同情の余地を与える材料とはなるが、そうでない人にはその人の今の卑屈さだけしか目に入らない。自分に克つことは難しいが、今と未来を少しでも幸せに過ごしていくには、自分に克つことが最も近道なのではないか。

◯家系図づくり系統の記事の締めとして

ここまで何回か、家系図関係に関する記事を書いてきた。その中で、作業をしていくときにはわたしの中で言語化してこなかったことを、改めて言語化してみることができ、それなりに楽しかった。

本記事でもさまざま述べてきたが、自身の先祖を知ることは悪いことではないが、自身のアイデンティティの核にそうした要素を据えるのはやめた方が良い、というのが私の考えである。
先祖を知り、自身のルーツを知った上で、自分自身と向き合う時間をとることこそが最も重要なのではないだろうか。どこかゆったりできる場所で、時間をたっぷりとって、紅茶やコーヒーを啜りながら、お菓子を食べながら、気取らずまったりと自分自身と向き合うのを勧めたい。

ここまで記事を読んでくださった方がいらっしゃれば感謝申し上げる。
また最後に、今回に関してはセンシティブな内容も扱ったため、もし誤っている内容があれば、それがどこなのか、その根拠となる文献は何か、も併せて、コメントでご指摘いただければありがたい。

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