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銀行の営業職でメンタル病んだ話─適応障害・社交不安障害はここから始まった

思い出すだけでも辛くなる、過去。
──けど、ここを避けては今を語れない。

結婚後、ワンオペ育児とフルタイムの仕事に追われて適応障害を発症したと思っていた。

キャパオーバーだったのは事実。

でもそれ以前に、産後の職場選びに失敗していたと思う。


長くなりますが、今のメンタル不調のきっかけとなった過去の出来事について書いてみました。

社交不安障害と向き合う今の私はこちら☟


新卒で銀行に就職。人見知りを変えたくて、営業職に

──時は、新卒時代。

大学を卒業し、大手の都市銀行に就職した。
正社員、総合職という申し分ない就職先だった。

英語や国際関係を学んできた私は、大学のゼミでODAやら経済協力やらを学ぶうち、金融のシステムそのものに魅力を感じた。

そして、政府系金融機関出身の教授の影響もあり、金融機関を目指すようになる。

社会貢献的な仕事がしたいと思っていた。

無理して大学まで行かせてくれた両親にも恩返しがしたかった。

事務ではなく営業を選んだのは、
人見知りで内気な性格を、営業職なら変えられるんじゃないか。
自分を変えたい!もっと人に関わりたい!
と思ったからだ。

今思えば、本当に営業という仕事を舐め腐った、馬鹿で安直な発想だ。

心からそう思う。

学生から社会人、田舎から東京へ
──カルチャーショックの連続に涙

「全国転勤あり」の営業職を選んだのは、
あわよくば地元の県か近隣の県に配属されることを期待したから。配属希望も出した。

しかしながら、社会はそんな甘ったれた人間の希望などいちいち聞いてくれる場ではない。

行ったこともない関東圏の支店に配属され、修学旅行でしかいったことのない大都会、東京の寮に住むことになった。

初めての標準語、初めての山手線、初めての電車通勤。建物は高く、常に騒音。空は狭く四角い、誰一人知らない人、どこを見ても知らない場所、人混み、人、人、人、物、物、物──

あぁ、私、一人ぼっちだ……

人や物、情報が多過ぎて、自分がちっぽけな存在に思えた。(事実そうなのだが)

無性に悲しくなって、寮の部屋に着いた瞬間、ボロボロ涙が出た。

新人研修。古い体制の文化に圧倒される

それから1ヶ月間は、泊まり込みで研修があった。

学生時代までは、「個性を大事に」「結果より過程が大切」「失敗しても大丈夫」なんて言われて育った。

研修では、「個性よりも組織が大事」「結果が全て」「絶対にミスをしてはいけない」と180度違う価値観を叩き込まれる。

厳しいルール遵守、時間管理、自己管理の徹底

──この研修中に、何百人かいた同期のうち数人が辞めていった。

そんな中、貴重品を何度か研修室に置き忘れて取りに帰ると叱られたり、シンプルなシルバーのネックレスを外せと注意されたり、テストで高得点を取れなく、同期や先輩と比較されたりと、徐々に徐々に自信を失っていく。

半年間の研修期間を終え、ついに営業として外回りへ──喜ぶ同期と不安な自分

同じ支店には、同期が私含め7人いた。
うち同じ部署の同期は1人、しっかりした男の子だった。

まずは半年間、窓口や事務の課に配属され、業務を学ぶ研修期間があった。

コツコツと業務を覚えている傍ら、同じ部署の同期は、正式に営業課に配属される前から営業課の先輩や上司の外回りについて行っていたようだ。

ようだ、というのは、あまりその同期とは仲が良くなかった。
一方的にライバル視され、考え方も違っていた。

だけど、そんな同期を見て、営業課の人たちは、
「こんなに積極的に仕事を覚えようとして可愛いやつだ」
「ねむたいさんは事務の仕事ばっかりしてるね」

と、評価していた。

支店の営業課は、慶応大や早稲田大出身の先輩、上司など、超高学歴な人たちが多かった。

それだけでも圧倒されてしまいそうだが、
そんな自立心も高く賢い人たちと比較される毎日だった。

「どうしてそんな簡単なことが出来ないの?」
「この先輩はいつもテスト100点だったよ」
「あの先輩は1年目で1,000万の契約取ったよ」
「やる気ないの?」

出身が田舎であることを馬鹿にされたりもした。

常にストレスに晒されている業界なので、上の者が下の者を怒鳴りつけるパワハラ的な文化が横行していたが、女性には冷酷に静かに人を見下げる人が多かった。

子ども時代にも仲間外れにされたことがあったが、まさにそんな感じだ。

私だけ、仲間に入れてもらえない。

もちろん優しい人もたくさんいたし、こんな事にめげない!頑張るぞ!という気持ちもあった。

それも長くは続かず、
元々人見知りで内気な性格、この雰囲気に上手く馴染めず、仕事も楽しめなくなっていた。

唯一の救いは、同期(同じ部署の同期除く)が仲が良いことだった。

よく飲みに行ったり、みんなでディズニーランドやプール、旅行にも行ったし、誕生日もお祝いしあった。

研修を終えた9月、「やっと外回りができる!」と喜ぶ同期。

恐怖と不安でいっぱいの私。

その頃にはもう、人が怖くなり始めていた。

「人が怖い」社交不安障害と診断される。ミスが増え、会社に行くのも怖い

営業として外回りが始まると、
人見知りを克服どころか、
人に対する恐怖心や不安は増すばかりだった。

良い関係を築く、というのが苦手なんだと思う。たとえ人見知りで内気でも、気に入ってもらえていれば、あんなことは言われない。

お客さんにある時、「あんた大人しいね。前任の○○さんはもっと元気で明るくてよかったのに」と、言われた。

支店長と一緒に訪れた時も、「この子、商売っけがなくていけないやね」と言われ、支店長も否定したり庇ってくれることはなかった。

人見知りで人前で緊張してしまうことをコンプレックスに感じていた私は、東京に出てから、元気で明るい人になろうと頑張ってきたが、プツンと糸が切れる音がした。

本質を突かれて、この時、深く傷ついてしまった。

それから、営業が本格的に怖くなってしまった。

眠れない、朝起きれない、遅刻、ミスを繰り返す、取れない緊張感、憂鬱感、飲み過ぎる、ご飯を食べられない、仕事に行くのが怖い、といった日々が続いた。

助けを求めて心療内科へ。

「社交不安障害」の診断だった。

心の病気は「甘え」誰にもいえなかった──体の病気を理由に退職

事務職の同期が心の病で入社2ヶ月目からずっと休職していた。

その子はとってもいい子だったし、しっかりしていて、優しくて、大好きな同期だった。

私は元気で明るいを振る舞っていたし、甘ったれなくせにプライドは高かったし、仕事ができないのも自分の能力が低いせいで、私なんかが病気のせいにするのは甘えだと思っていた。

だから、社交不安障害と診断されたことは会社の誰にも言わなかったし、未だに親にも話していない。

資格や商品の勉強をしたり、どうしたら契約が取れるか戦略を立てたりして、自分なりに努力した結果、最後は目標の100%を達成できたりした。

それなりにやりがいも感じつつあったけど、次の期には目標がリセットされることを思うと、頭の中が真っ黒になるような不安と恐怖に包まれた。

入社から2年。
3年目に入った頃、婦人科系の病気が見つかった。

それを理由に退職を願い出た。

会社を辞めたのは「逃げ」──劣等感とコンプレックス、トラウマは未だに消えない

書いていて、自分でもなんて仕事をナメていて甘ったれなポンコツ野郎だと呆れてしまう。

だけど当時の自分は精一杯努力していた。

そう、認めてあげたい。

当時の症状を振り返ると、福祉関係で働く夫は、完全に適応障害の症状だと言う。

当時は今よりももっともっと対人不安が強く、
お医者さんにさえ心の内を明かせなかったため、症状を上手く伝えられなかった。

「甘え」って、言われるんじゃないかって、怖かった。

それくらい、人を信じられなくなっていた。

仮に適応障害だと診断されても、会社には言わなかったと思う。

きっと誰も信じてくれない。
鼻で笑うだけだ。

私が弱いせいだ。私の甘えだ。
そう思っていた。

私の中での退職理由は、こうだ。

「自分が仕事ができないだけ、社会人としてもポンコツなのに、心の弱さに甘えて、乗り越えられず、結局、病気のせいにして嘘をついて目の前の壁から逃げた、ダメな人間だから」

この時味わった劣等感とコンプレックスは、トラウマとなり、今後の人生を左右することになる。


ここまで、長文を読んでくださりありがとうございます。

思い出しながら書くのはなかなか辛いですね。

次回は、退職後トラウマとコンプレックスから抜け出せずもがき、間違った選択を繰り返し自滅していく様を綴ります。

続きはこちら☟

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