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『小説家の帰還 古井由吉対談集』 : 古井由吉の難解・ AIの平易

書評:古井由吉小説家の帰還 古井由吉対談集』(講談社・講談社文芸文庫)

江藤淳吉本隆明平出隆松浦寿輝養老孟司大江健三郎という七人との対談集である。

古井由吉という作家は、常に気にかかる存在で、それなりに初版本も買い集めていた。だが同時に、なかなか読む機会のない作家でもあった。
古典作家と同じで、いま読まなければならないというような作家ではなかったから、後回しにしているうちに、積読の山に埋もれさせてしまったのだ。そして、昨年の蔵書整理の際に、すべて売り払ってしまったはずだ。

古井の著書は、初期中編集『杳子・妻隠(つまごみ)』を新潮文庫版で1981年に、随筆集『招魂としての表現』(原題『招魂のささやき』)を福武文庫で1991年に読んでいるだけである。

「杳子」は、古井の芥川賞受賞作で、言うなれば初期の代表作だ。だから、まずこの「杳子」を含む中編小説を読んだのだが、正直なところ、あまりピンと来ず、まあまあという印象だったのではなかったかと思う。
古井由吉「内向の世代」に属する作家とされたが、なるほど漠として「薄暗い」小説だという印象だけは残っている。だが、中身についてはまったく記憶していない。
正直なところ、読んだかどうかすら定かではなかったのだが、当時つけていた読書ノートを確認したのである。

だから、そのままだったら古井由吉への興味もおのずと失われていたはずなのだが、しかし本対談集の中でも触れられているとおりで、古井の作風はその後、自覚的に変わった
もう「普通の純文学作家」ではなくなり、「変な小説を書く純文学作家」に変わったのだ。

初期はまあ、当たり前に物語性のある純文学作品だったのだが、途中から、句読点の(ほとんど?)無い、蜿蜿と続く奇妙な文体を駆使したりするようになった。つまり、実験小説風な書き方になったのだ。
思えば古井由吉は、難解で知られる小説『特性のない男』の作者ロベルト・ムジールの翻訳から、文芸出版の世界に入った人なのである。

ともあれ私は、「なぜ、こんな書き方をするのか(なぜ、こんな文体を採用したのか)?」といった謎めいた部分において、古井由吉に惹かれるようになっていったようなのである。

だが、代表作を買い集めても、相変わらず読めないままだった。
だから、随筆集『招魂としての表現』を読んだのは、同書が福武文庫に入った際、これならすぐに読めそうだとは思ったからなのと、たぶん「招魂」という言葉に惹かれたからだ。
その時、すぐに連想したのは、旧称「東京招魂社」、つまり「靖国神社」である。

たぶん、当時、靖国神社の「国家護持」問題なんかがあって、靖国神社の歴史に関する本を読んだりしていたから、『招魂としての表現』というタイトルが目を惹いたのであろう。

また同時に、文章表現を、「招魂」によるものと考えようとしたのであろう古井由吉に、興味を持ったのだ。
私はこのタイトルに、語らないものに語らせるための文学、語り得ないものを語らせる文学、というようなイメージを抱いたのである。

だが同書も、結果としてはあまりピンと来なかったはずである。
たぶん、期待していたところとは、多少なりともズレていたのであろう。「期待どおりに面白かった」という印象は、残っていない。どこかですれ違ってしまったような、隔靴掻痒の感だけが残っている。一一古井由吉の話は、わかるようでわからない。そんな印象が残ったのだ。

しかし、当然のことながら、「つまらない」と「わからない」は、まったく別物である。
その区別もつかないで、自分の頭の悪さを棚に上げ、解読対象を貶す人も少なくないが、私が古井由吉に感じたのは、「つまらない」ではなく「わかりにくい」ということだったから、古井由吉に対する興味は、その後も継続することになった。

古井由吉が、奇妙な文体で小説を書くようになってからの作品を、私はまだ一作も通読していない。
けれども、何度か本を開いてはいるから、その呪文めいた文体には、興味を惹かれていた。岡本太郎ではないが、「なんだ、これは?」と、その正体が気になってしかたなかったのだ。

「文体」ということを強く意識したきっかけは、大西巨人を読み始めてからである。
大西巨人の文体とは、簡単に言えば「論理的に厳格」ということになろう。ある事実を語るのに、比喩表現などによって、気分的にわかってもらおうとか共感してもらおうなどとするのではなく、自分の考えたこと、訴えたいことを、理詰めで説明して、否応なく納得させようとする文体なのだ。
だから、一般的に言えば「面倒くさい」とか「ウザい」「くどい」ということになるのだが、そうした評価を恐れずに、自分のやり方、思考法に徹しているところが、非日本人的であり、私には痛快だったのだ。

したがって、大西巨人の文体とは、その優れて非凡な頭の中をそのまま移したようなものなのだが、古井由吉の場合は、そうではない。
同じ「個性的な文体」と言っても、古井の場合は「意図的」なものなのだ。わざわざ、普通なら「悪文」と言われるような「読みにくい文章」を書く。それも「加速的」にである。だから、その「普通でなさ」が興味深い。

「この人は何をやろうとしているのだろう?」と、そんなところに、私にとっての古井由吉の興味があった。

したがって、同じ「悪文としての名文」の書き手として、私はしばしば大西巨人古井由吉を並べるけれども、その方向性は真逆と言っても良いだろう。
またその結果として、私は大西巨人の生前刊行著書は、ほぼすべて読んでいるはずだが、それに対して古井由吉に関しては、前述のとおりで、ほとんど読めていないのだ。

本書『小説家の帰還』を読もうと思ったきっかけは、昨年(2024年)10月に本書が「講談社文芸文庫」に入ったのを見かけたからである。
『招魂としての表現』の時と同じで「これなら読みやすそうだ」と思ったのだ。

だが、知っている人は知っているとおり、講談社文芸文庫は高い。文庫本でも、下手な娯楽小説よりだいぶ高いのだから、新刊で買うのは少々躊躇われる。実際、講談社文芸文庫版の本書『小説家の帰還』は2,420円もした。
そこで例によって、「ブックオフオンライン」に、本書の親本と講談社文芸文庫の両方を登録しておいたところ、先日、親本の方が入荷したので手に入れたという次第である。

当然のことながら、親本の方には「解説」は付いていない。だが、親本=初版本の良さは、その装丁である。
古井由吉の著書の多くを、私の好きな装丁家である菊池信義が手がけていた。それもあって、古井由吉の初版本を蒐めていたという側面もあったのだ。

で、本書の装丁も、じつに瀟洒で素晴らしい。やはり、装丁が共通フォーマットの講談社文芸文庫版よりも、ずっとありがたみがあったのである。

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さて、肝心の内容だが、やっぱり、わかるようでわかりきらない、わからないようでわかるところもあると、そんな対談集だった。

ただ、ひとつ言えることは、古井由吉は、対談の相手に合わせて、語り方を変えているという点だ。
相手の問題意識や、自分の問題意識に対する相手の理解度に合わせて、自分の言葉を調節して話している。

こうしたところにも、古井由吉らしい、強い「方法意識」が出ているのではないかと感じて、とても「興味深い」と思った。
対談の中身が「面白い」というのではなく、古井由吉の「対談」というものに対するスタンスが「面白い」と思ったのだ。

誰が相手でも、いつも通りの自分として語るというのではない。かと言って、相手に媚びて合わせているというのでもない。
感じとしては、話を合わせることで、相手を試しているというようなところがあって、その微妙な「底意地の悪さ」が楽しいのである。

だから、あまり頭の良くない相手は、「乗せられる」し、賢い相手とは「探り合い、被せ合う」といった雰囲気がある。また、古井由吉よりも若い世代の対談者だと、古井に「気を遣いながら、その意を汲もうしている」という感じがする。
いずれにしろ、よくある「意気投合」的な、陳腐な対談ではないところが「面白かった」のだ。

そんなわけで、私にとっての古井由吉の魅力とは、こうした「わかりにくさ」にある
正確に言えば、前述のとおりで「わかるようでわかりきらない、わからないようでわかるところもある」といった部分にある。
つまり、簡単にわかってしまわないところに面白さがあるのだが、まさにこれが、「文学」の魅力なのではないかと、私は思うのだ。

「文学」とは、文章を通して、書き手と読み手が真剣勝負する「場」なのではないか。
そしてここが、「エンタメ」小説との決定的な違いなのだ。

「エンタメ」は、読者に対するサービスとして、わざと「負けてくれる」小説ジャンルなのだ。
知力も教養もない読者の水準に合わせて、離乳食のように噛み砕かれて提供される作品であり、それを食した読者に「偉いねー、ぜんぶ食べたねー」とあやしてくれるのが、エンタメ小説なのである。
だから「歯応えがない」。

そして、そういうものが喜ばれる昨今では、「読みやすい文章」が「うまい文章」だと誤解されがちだ。

翻訳書などのカスタマーレビューでと、ときどき「訳が悪い」などと書いている人がいる。しかし、そのうちの少ない部分は、原文を読む能力がなくて翻訳書で読んでいるはずなのに、それで平気で「訳が悪い」などと言っているのだから、その知的レベルも自ずと知れようというものだ。

ともあれ、そんな人にとっては、「読みやすい」訳文が「名訳」であって、例えば「癖のある原文の味を生かした訳文」などは、その人には単に「悪訳」だということになってしまうのであろう。
「優しい人は良い人。口うるさい人は悪意のある人」と、そういうレベルの人なのだ。

だが、だからこそ、こうした「永遠の離乳食時代」における「わかりやすい文章」には、気をつけなくてはいけない。

その端的な例が、つい先日までは、ライターによる「ライティング」的な「読みやすい」文章だったのだが、今ではその遥か上をいく、生成AIによる文章だと、そういうことになるのではないか。「難しいことまで、わかりやすく書いてくれる」と。

生成AIによる文章は、たしかに「読みやすい」。だが、あまり中身は無い。
所詮は、知識の寄せ集めによる「なめらかな合成物」にすぎない

だが、その「読みやすさ」によって、読者に「わかった」と思わせてしまうところが、大いに問題なのだ。
「読みやすい文章=分かりやすい文章、ではない」という認識が、今ほど肝心となってくる時代も、またとないのではないだろうか。

離乳食ばかり食べていると、咀嚼する力が無くなって、筋力のない、ぶよぶよした大人にしかならないはずなのだ。

AIの利用法として「壁打ち」ということが、よく言われている。
テニスなどで、壁を相手にボールを打ちつける練習法から来たもののようで、要は、相手に意見をぶつけて返してもらうというやりとりの応酬の中で、アイデアを練るといったようなやり方を、人間相手ではなくAIを相手にするのである。

で、これは人間相手であろうが、AI相手であろうが、一人で悶々と考えているよりは、はるかに効率的で発展的なアイデアが得られる、というのは間違いない。
なにしろ「相手」がいるのだから、要は「二馬力」なのだ。

ところが、AIを相手にしていると相手が機械だから、つい得られた答えが、自分のものだと勘違いしてしまいがちだ。

AIの返してくれた回答を、そのまま自分のものとして使うのは後ろめたくても、「壁打ち」をしたなら、自分が半分は参加しているという気分になるので、その結果(作品)を自分のものとして発表するのにも、さほど後ろめたさを感じずに済むからであろう。
「これは、私がAIと壁打ちした結果です」と。

しかしながら、「壁打ち」の相手としてのAIは、普通の人間とは違って、言うなれば「百人力の相手」なのである。つまり、「二馬力」ではなく「百馬力」なのだ。しかも、とても親切でヨイショがうまい
だから、そうした「親切さ」もあって、AIと「壁打ち」をやっている人は、その作品を「二馬力」によるものだと勘違いし「半分は自分の功績だ」という、ひどい勘違いしてしまう。
だが、得られた結果に対するAI利用者の功績とは、じつのところ「百一分の一」どころか「千一分の一」かも知れない。「千三つ」どころの話ではないのである。

一一と、ここまで考えることのできる人が、「AIとの壁打ち」の成果を発表している人の中に、どれだけいるだろうか、という話なのだ。

ハッキリ言って、ほとんどいないだろう。多くの人は「得られた結果」の素晴らしさに目が眩んでしまって、そこまでは考えられないのである。
だが、それこそが、その人の知力の「実力」なのだ。

AIとの「壁打ち」の弱点としては、人間の側から投げられる(あるいは返される)「指示としての問い(プロンプト)」の質によって、AIの回答の質も違ってくるという点であろう。だが、そもそもAIの能力が並外れているので、そのことに気づく人は多くはないはずだ。
なぜなら、他人の「壁打ち」を実見したり、ましてや、自分の「壁打ち」と比較してみるといった機会など、ほぼ無いからである。

だが、そのような自閉的な「壁打ち」ばかりを繰り返していたら、どうなるだろうか?

その答えは明瞭で、その人には「自力がつかない」し、「自身の力量を勘違いしてしまいがち」だということである。
特に、文章の場合は、そうなのだ。

例えば、画像生成AIなどでは、それが比較的分かりやすい。
画像の生成も、結局はAIともやりとり(壁打ち)の中で作品を仕上げていくのだが、その結果として出てくる作品は、やはり、センスのある人とそうでない人とでは、歴然たる差がある

例えば、もともとデッサン力の無い人は、AIが生成した画像にデッサン的な狂いがあっても、それに気づかない。だから、それを修正するプロンプトを打ち返すこともできない。

例えば、AIが返して寄越した人間画像の指が6本であったとしても、通常、指は5本だということを知らない人なら、それに気づくことが出来ないから、修正のしようがない。

これと同じことで、美的センスのない人は、いくらAIの助けを借りても、おのずと限界がある。
優れたAIだって、利用者がヘボで、ズレたプロンプトばかり入力してくれば、適切に応答することなど、原理的に不可能なのだ。

だから、AIの力を借りると素晴らしい「結果」が得られるとは言っても、その「素晴らしさ」とは、ひとえにAIのものであって、その利用者の力ではない

それは、本当に力のある人(利用者)の作品と比べれば一目瞭然なのだが、そもそも、その「違い」のわからない人には、その違いに気づき得ないからこそ、そこで反省されることも、洗練されることもないのである。

したがって、AIの力を安易に借りると、いつまで経っても、「幻想の自己満足」に安住して、自力がつかない、ということになるだろう。
すると、皆が同じようにAIを使いこなすようになれば、その人は、やっぱり「ヘタクソ」でしかないことが明らかになるのだ。

だから、仕事などのように、その人の「自力」が問題なのではなく、「結果」さえ良ければそれで良しというような場合は構わないのだが、日常的かつ個人的にAIに頼るのは、あまりオススメできないのだ。

そして、ここでいきなり話を戻すと一一、「文学」とは、AIとは真逆の「手強い、壁打ち相手」なのである。

そう簡単には、こちらを喜ばせるような回答は与えてくれず、「どうだ、この球が拾えるか?」「この球を打ち返せるか?」と、かなり意地悪な豪速球やくせ球を返してくる
だから、こっちはクタクタななるばかりで、簡単に「楽しかった」などということにはならない。

だが、そんな「壁打ち」を続けていく中で、いつの間にか、「文学」の返してくる「豪速球」や「くせ球」が拾えるようになり、打ち返せるようになっているのだ。
そしてそれこそが、「文学」の醍醐味なのである。一一要は、

「手加減はしなくてよ、ひろみ」

『エースをねらえ!』

というわけだ。

私の好きな大西巨人は「豪速球」タイプなのだが、古井由吉は「くせ球」タイプ。いや、古井は「くせ球」の代表作選手なのである。

だから、なかなかその返球を拾えなくても、それでもやはり「面白い」のだ。


(2025年8月14日)


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