マーガレット・アトウッド 『侍女の物語』 : 社会派フェミニズムSFの問題作
書評:マーガレット・アトウッド『侍女の物語』(ハヤカワepi文庫)
本書については、1990年に新潮社から刊行された単行本をその数年後に古本で買い、結局その版では読めず、2001年刊行された現在の「ハヤカワepi文庫」版も、しばらくしてから古本で買いながら、やはり読めなかった。
つまり、今回が三度目の正直で、やっと読むことができたという次第である。

最初に単行本版を古本で購入したのは、たぶん1990年代後半ではないかと思う。というのも、私がジョージ・オーウェルの『1984年』を読んで、どハマリしたのが1995年だからだ。
つまりそれまでは「ディストピア小説」というものには興味がなかったというか、そもそもそんな言葉もよく知らなかったはずなのだが、たぶん「SF小説の古典」という意味合いで、『1984年』を読んだのだと思う。
で、これが、とにかく面白かった。『1984年』の何がそこまで面白かったのかというと、いま思えば、同作が「情報操作による洗脳」と「自己洗脳」というものを扱っていたからだろう。
いとうせいこうの『解体屋外伝』にハマったのも、同じ文脈においてだ。
私は昔から、「宗教」に代表されるような社会心理学的な現象、つまり「人が、あり得ないことを信じるようになるのは、どのような心理機制によるものなのか?」ということに、(中禅寺秋彦ではないが)強い興味を持っていた。
だから、「洗脳」ということにも興味があったし、『1984年』の場合は、国家規模の「政治的洗脳」というものを描いていたから、これにもろにハマってしまって、初版本コレクターであった私は、文庫で読んだ後、古本屋めぐりの中で、『1984年』の初訳(初刷)単行本を探したほどだったのである。
そんなわけで、同じ「ディストピアSF」として『侍女の物語』にも興味を持ったのであろうし、ならば同書を入手したのは『1984年』を読んだ1995年以降、ということになるはずなのだ。

だが、本書『侍女の物語』は、けっこう分厚く、現在の「ハヤカワepi文庫」版でも、物語本文だけで550ページほどもある。平均的な長編小説の倍以上なのだ。
だから、当時勤め人で、分厚い単行本を通勤時に読むというわけにもいかなかった私は、すでに翻訳刊行から5年以上経ており、「今すぐ読みたい話題の書」でもなくなっていた本書を後回しにして、その時々読みたい本を優先したため、結局は本書を、積読の山に埋もれさせてしまったのである。
だから、2001年に「ハヤカワepi文庫」版が刊行された際も、新刊で買ったわけではなく「古本に落ちてから買おう」とそう思って買ったはずだ。だが、それでも読めなかった。
やはり、この分厚い小説を「ディストピアSF」だという理由だけで読むには、「ディストピアSF」というものにすら、『1984年』を読んだ当時ほどのナイーブな期待を持てなくなっていたからであろう。「いちおう、読んでおかないとな」くらいの感じだったのではないかと思う。
ちなみに本作は、翻訳単行本の刊行された1990年にアメリカで映画化がなされているから、翻訳もそれと連動したものだったのかもしれない。当時のアメリカでは、フェミニズムが盛り上がっていたのであろう。
一方、日本ではそこまでではなかったのではないかと感じられるのだが、当時の私にフェミニズムへの興味がなかっただけなのかもしれない。

ともあれ、今回、「ハヤカワepi文庫」版を再び古本で購入し、やっと読むことができたのは、「武蔵大学教授」で自称・フェミニストである北村紗衣との昨年の出合いをきっかけとした、「フェミニズム」への興味からであった。
つまり、「ディストピアSF」ということではすでに興味を失っていたのだが、フェミニストたちがしばしば本書を「フェミニズム小説の代表作」のひとつとして挙げるので、そっちでの基礎教養的として、読んでおこうと考えたのだ。
で、どうであったかと言えば一一、なかなか「退屈な小説」であった。その理由は、
(1)女性が「産む機械」とされた世界(ディストピア)という設定が、今となっては、何の意外性(新しさ)も無いものだった。
(2)その意味で、SF小説としては、テーマとしてのフェミニズムの「歴史的な価値」を評価できなければ、いま読んで「面白い」というほどの作品とは思えなかった。
(3)語り手の「侍女」である女性の一人称で、徐々に明かされていく世界設定は、いま読むと予想の範囲を一歩も出ることがなく、いささか退屈。
また、同女の内面性の独白的な語り自体が、私の「趣味」ではなかった。つまり、描写がいかにも「主観的」であり、そこには、私の好みである「思弁性や論理性」が希薄だった。言い換えれば、『1984年』的に直接的な「世界についての批評性」を欠いていたのである。
無論これは、『1984年』の主人公が「男性的」で、本作『侍女の物語』の主人公が「女性的」だということであり、そのために「世界」の描き方が違うだけで、どっちが小説として上だかという話ではない。
だが、そもそも女性作家の多くがあまり好みに合わない私には、「女性的」な視点に立って描かれた本作『侍女の物語』は、いささか面倒くさく感じられたのである。
ちなみに、私が一般に、女性作家よりも男性作家を好むというのは、例えば、ミステリファンであった当時、私は、仁木悦子や小池真理子や宮部みゆきといった人気女性作家の代表作もいくらかは読んでみたが、それでも作家自身には興味が惹かれなかったその一方、当初、その作風から「男性」と間違えられた高村薫については、最初からどハマりした、といったことに、私の趣味がよく表れているのではないかと思う。
つまり私は、「女性作家」だからと「読まず嫌い」だったのではなく、読んでも評判ほど面白いとは感じなかった、ということなのである。性別で差別したわけではなく、その感性の多くが、合わなかったということだ。
もちろん、読んだ男性作家の大半だって、ほとんどはそこまで好きにはならなかったわけだが、結果として残った「私の好きな作家」は、そのすべてが「男性的な思弁性や論理性」の強い作家だったのである。
そしてその代表が、私が「心の師」とまで仰いだ、大西巨人だったのだ。
そんなわけで、本作『侍女の物語』は、私としては、かなり面倒くさくて退屈な作品であった。
どんな世界が描かれているのかは、読まずにいた長年の間に耳に入っていた情報もあってか、簡単に予想ができることばかりで、それ以上のものは何もなかった。最後に「ひと捻り」あるかなと期待もしたが、それもなかったのである。
無論、これは「フェミニズム小説」だから、女性が読めば、他人事ではない「リアリティ」が感じられたのかもしれない。
だがそれとて、女性全員というわけではなく、「女性に対する社会的抑圧」を強く感じている、意識の高い(特にアメリカ人)女性か、極端に虐げられている女性に限られるだろう。
女性であれば、誰が読んでも「必ず面白いはず」だとは、作者だって思ってはいないはずだ。
それに本書は、ごく最近の2025年6月に「NHK Eテレ「100分de名著」」でも取り上げられ、同番組を元にしたテキスト(講師・鴻巣友季子)も刊行されているから、本作を「フェミニズム」の文脈で論じることは、さして難しいことではない。
だが、一一それ以外のところで評価するのは、意外に難しい作品になっている。

本書は、「フェミニズムSF」であることが売りであり、その意味では一種の「アイデアSF」だとも言えるから、その「アイデア」の部分が周知のものになってしまうと(メイントリックが周知のものになったミステリ小説みたいなもので)、「小説」としては楽しみにくいものとなってしまい、あくまでも、その「テーマ」の「今日的な社会的意義」によってでしか評価のできない作品になってしまっている、のではないかということだ。
だが、本書の「フェミニズム」という側面に光を当てて評価するというは、「それしかないのか」と言いたくなるほどの、定番的に型通りのものでしかなく、もはや陳腐凡庸ですらあると言えよう。
そんなのは、思想としての「フェミニズム」の言葉を、そのままルーチン的に、本作に当てはめて語ればいいだけ。
例えば、プロレタリア文学の代表作とされる、小林多喜二の『蟹工船』を「共産主義イデオロギー」において高く評価するのと、さしたる逕庭のない月並みなのである。
つまり、フェミニズムも共産主義(社会主義)も、共に重要な思想ではあるけれども、それをそのまま体現している小説だから、「文学」としての価値も高いとは、私は思わない、ということだ。
そして忌憚なく言えば、本作『侍女の物語』の評価の高さも、多分に党派イデオロギー的な宣伝によるところが大きいのではないかと感じられる。
要は、文学オンチでも(理屈で)絶賛できる作品であるがゆえの、過大評価が疑われるのだ。
もちろん、それなりの水準の作品であり、それなりに面白い小説だとしても、ここまで高く評価されるほどの作品なのかと言えば、それはいささか疑わしい。
事実、マーガレット・アトウッドの他の小説が、本作『侍女の物語』ほど、評価されているか、読まれているのか、というようなことなのだ。
本作が小説として無条件に面白ければ、他の作品だって、それ相応に読まれているはず。
たとえば、『侍女の物語』を絶賛しているフェミニストたちに「では、アトウッドの他の作品は、何を読んでいます?」と尋ねて、どんな返事が返ってくるだろうか、ということなのである。

また、これも例えて言えば、中国(中華人民共和国)の建国の父であり、カリスマ的な指導者であった毛沢東の書いた『語録』が、とてつもなく読まれ、高く評価されていたこととも、似たようなことなのではないか。
その思想が流行している時には、それは過剰なまでに高く評価されるという事実である。
もちろん、『毛沢東語録』だって、決して読まずに馬鹿にできるような本ではないのだが、今では誰も読まないのだ。
そんなわけで、私は本書が、イデオロギー的に「過大評価」されている面があるのではないかと疑っている。
フェミニストによって「フェミニズム小説」として、過大評価されているのではないか?
それは、創価学会員が池田大作の『人間革命』をむやみに高く評価するように、あるいは、幸福の科学の会員が、大川隆法の『太陽の法』を、むやみに高く評価するのと「似たようなこと」であり、要は「党派的な色眼鏡」を通した、自覚のない「過大評価」ではないのかと、そう感じられるのだ。
もちろん、小説というのは、多かれ少なかれ、著者の思想を語る(盛る)ものではあるけれども、「偉大な思想」を小説化していれば、それが「偉大な小説」になるのかと言えば、そうはいかない、というのが私の基本的な文学観なのだ。
だから、そうした見方からすれば、アトウッドの本作『侍女の物語』は、語られている「思想の重要性」は認めるとしても、「偉大な文学」とまでは呼べない、「風刺小説」だと感じられるのである。
志賀直哉が「左翼文学」を「主人持ちの文学」だとして批判したのは有名な話だが、そうした「左翼文学」に比べれば、本作のような「フェミニズム文学」は、女性作者の実感に寄り添った作品であり、その意味では、比較的「イデオロギー性」は低いのかもしれない。
しかし、そうした作品に対する「評価」の方は、十分に「イデオロギー」的なものであり、さらに言えば「党派イデオロギー」的なものであるというのは、否定できないのではないか。
本作の「あらすじ」は、次のとおりである。
『ギレアデ共和国の侍女オブフレッド。彼女の役目はただひとつ、配属先の邸宅の主である司令官の子を産むことだ。しかし彼女は夫と幼い娘と暮らしていた時代、仕事や財産を持っていた昔を忘れることができない。監視と処刑の恐怖に怯えながら逃亡の道を探る彼女の生活に、ある日希望の光がさしこむが‥‥‥。自由を奪われた近未来社会でもがく人々を描く、カナダ総文学賞、アーサー・C・クラーク賞受賞作。』
(本書カバー背面の紹介文)
詳しい「あらすじ」は「Wikipedia」の方にあるから気になる人は、そちらをご確認いただきたい。
しかし、本作の「評価のされ方」というのは、この「Wikipedia」での紹介のされ方にも、よく表れている。
一一というのも、本書の「Wikipedia」の内容は、定型の簡単な紹介に続けて、「概要」「社会的影響」「あらすじ」「登場人物」「関連作品」となっていることからもわかるとおりで、本書は、「物語(の内容)」そのものよりも、その「社会的影響」が注目される種類の作品だということである。
「物語」そのものが面白いのではなく、その「社会批評性」によって、本作は注目を集めたのである。
『1985年に刊行された本書は、今世紀に入ってから女性の権利擁護を主張する文脈でさかんに参照されるようになった。とくに2016年にアメリカで第一次トランプ政権が誕生し、これと前後してアメリカ各州で人工中絶の違法化などがすすめられるようになると、女性の「リプロダクティブ・ヘルス/ライツ」への抑圧だとして本書に登場する「侍女」たちの衣装を身にまとった抗議活動が各地で行われた。
この動きはアメリカ以外でもヨーロッパやイスラエル、南米などでも一般化した。後述のとおり本書は何度か映像化されているが、これらの抗議活動では、一般には2017年のHULUドラマ版の衣装が参照されていることが多い。
また保守化を強めるアメリカ各州では本書を危険視する意見が強まり、2025年4月の時点で、全米32州の約5000校で閲覧禁止処分を受けていると報じられている。』
(Wikipedia「侍女の物語」)

例えば、認知症問題が注目され始めた頃の有吉佐和子の小説『恍惚の人』や、小説ではないが、環境破壊問題が注目されるきっかけとなったレイチェル・カーソンの『沈黙の春』といった本の、注目度や評価の高さと似たようなことなのではないか、ということである。
今のトレンドは「フェミニズム」であり、その思想の娯楽小説化に先鞭をつけた作品として、その「歴史的な意義」から、本書は高く評価されているのではないだろうか。
本作が、私にとって「退屈」だった理由については、作中で「語り手」自身が、次のように語っているとおりである。
『 この物語がもっと違った物語であればいいのに。もっと洗練された物語だといいのに。たとえ幸福ではなくても、せめてわたしの良い面をもっと強調してくれる物語ならいいのに。そしてもっと逡巡の少ない、あまりささいなことで脱線したりしない、もっと活動的な物事ならいいのに。もっときちんとした形式を持った物語ならいいのに。愛についての物語、あるいは人が人生にとって重要な悟りを得る物語ならいいのに。せめて夕焼け、鳥、風、雪についての物語ならいいのに。
ある意味では、これもまたそういった物語なのかもしれない。でも、ここには同時に実に多くの他の夾雑物が含まれている。膨大な量のささやき、膨大な量の他人についての憶測、膨大な量の信憑性のないゴシップ、膨大な量の口にされていない言葉、膨大な量の人目を忍んでの行動と秘密。それに、ここには嫌になるほど多くの耐えねばならない時間がある。油っこい料理のように胃にもたれる、あるいは濃霧のようにうっとうしい時間がある。それに、普段は落ち着いていて上品で夢のようにのどかな町の通りに、突然、過澈な事件が爆発のように起こることもある。
わたしとしては、この物語が苦痛に満ちていることを申し訳なく思う。この物語が、十字砲火を受けた体のような、あるいは力ずくで引き裂かれた体のような、バラバラの断片になっていることを残念に思う。でも、わたしとしては変えようがないのだ。
わたしはこの物語に良いものもいくらかは入れようと心掛けてきた。たとえば、花だ。せめて花ぐらいなければ、人はとても耐えられないだろうから。
それにもかかわらず、この物語を何度も語り直すのは辛い。一度だけで充分だった。あのとき一度話すだけで充分ではなかっただろうか?でも、わたしは悲しく、ひもじく、惨めなこの物語を、逸話が多く遅々として進まないこの物語を語りつづける。結局のところ、わたしはこの物語をあなたに聞いてもらいたいから。わたしは同様に、チャンスさえあれば一一わたしたちが会えるか、あなたが逃亡するかすれば一一あなたの物語も聞いてみたい。未来か、天国か、牢獄か、地下か、どこか他の場所で。とにかく、それはここでないことだけは確かだ。何であれあなたに語りかければ、わたしは少なくともあなたを信じることになる。あなたがそこにいることを言じることになる。あなたを存在させることになる。我話す、ゆえに汝在り。
だから、話しつつけよう。だから、わたしは話しつづけたい。これから、わたしはあなたかまったく好きになれそうもない部分を話そうとしている。というのも、そこでわたしは行儀良く振る舞わなかったからだ。でも、何も省略しないようにしたい。何と言っても、あなたはここまで付き合ってくれたのであり、どんなものであれ、物語の残りを聞く権利があるからだ。残りはそう多くはないけれど、そこには真実が含まれている。』(P485〜487)
もちろん、これは「作中人物の言葉」であって、著者の自作評価そのものではない。
しかしながら、私が本作を楽しめなかった主たる理由は、この語り手の女性がみずから認めるとおりに、決して「明晰ではない」視点人物だったからである。
私の好きな小説とは、「明晰ではない人物が、ろくでもない世界で苦しめられる物語」ではなく、「明晰な人物が、その明晰性において、ろくでもない世界に対抗する物語」なのだ。例えば、私が、私の「聖典」の一つとしている、大西巨人の代表作『神聖喜劇』のような作品のことだ。
無論、「当たり前の人間が、当たり前に苦しむような作品」が、文学として下らないと言っているのではない。
そうした「敗者の文学」や「弱者の文学」というものも、当然「あり」であり、その中で、作品としての優劣があるだけである。
ただ、私としては、ハッキリとした「抵抗の文学」、ハッキリとした「闘いの文学」が、好みなのだ。
私は否定しようもなく「マッチョ」なタイプであり、その立場からの「フェミニスト」なのである。
だから、こんな小説を産まなければならなかった現実世界に対しては、闘いを挑まなければならないと考えている。
故に、単に小説を読んで、型通りの「フェミニズム」を語っていればそれで事足りるとは、とうてい思わないのだ。

(2025年7月3日)
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