見出し画像

ナオミ・オルダーマン 『パワー』 : 北村紗衣を想起させる、皮肉でリアルな思考実験SF

書評:ナオミ・オルダーマンパワー』(河出書房新社)

本書『パワー』は、原書が2016年に、邦訳が2018年に刊行された、イギリスの女性作家ナオミ・オルダーマンによる長編小説である。
すでに文庫版も刊行されているが、私は邦訳の初版単行本で読んだ。

その単行本の「解説」で、翻訳家でエッセイストの渡辺由香里が紹介しているように、本書の興味深いところは、執筆されたのが、ドナルド・トランプヒラリー・クリントンを破ってアメリカ大統領になった2016年、その反動もあって「#Metoo」運動が盛り上がった2017年、よりも前だということであろう。

刊行は2016年でも、書かれたのは当然それ以前。
つまり本書は、日本では「フェミニズム」ブームの渦中に翻訳された作品のひとつだったのだが、原書が書かれたのは、それ以前であり、その意味で「予言的」とも呼べるような作品だったのである。

『 この年、トランプ政権下での女性への抑圧を恐れる人たちの間で多く読まれるようになったのがマーガレット・アトウッド侍女の物語』だった。キリスト教原理主義勢力に乗っ取られて宗教国家になったアメリカで、生殖能力がある女たちが、子供を産む道具として支配階級の男たちに仕える「侍女」にされるディストピア小説だ。テレビドラマとして新たに映像化され、一九八五年刊行の古い作品にもかかわらず、米アマゾンで年間最も多く読まれたベストセラーになった。
 これまでセクハラや性暴力に耐えてきた被害者が「私もだ」と手をつないで立ち上がり、権力を持っていた加害者を追及す「#MeToo」ムーブメントが盛り上がったのも二〇一七年の特徴だ。これも、大統領選の結果に対する女たちのショックと失望、怒りと無関係ではないだろう。
 これらの現象と時を同じくして、「現代の『侍女の物語』」と呼ばれる小説が英語圏で注目されるようになった。それが、二〇一六年にイギリスの女性作家ナオミ・オルダーマンが刊行したこの作品、『パワー』だ。男女の力関係が反転し、女性が男性を力で圧倒的に支配する社会を描いたディストピア小説であり、女性作家に与えられる由緒ある「ベイリーズ賞」を二〇一七年に受賞し、ニューヨーク・タイムズ紙をはじめ多くのメディアから「二〇一七年の最優良小説一〇作」のひとつに選ばれた。また、フェミニズムについての啓蒙活動を行っている女優エマ・ワトソンが自分のフェミニストブッククラブの推薦図書に選んだこともあり、若い女性に広く読まれるようになった。』(P428)

『 本書は、オバマ前大統領が二〇一七年に読んだ「最も優れた本」リストのひとつでもある。この本を読んだだけでなく推薦本にしたところは、「さすがオバマ大統領」と思った。それは、1人の娘を持つ父親としての視点があるからだろう。
 この本は、SFであり、ディストピア小説であり、フェミニスト小説であり、そして多くの男性にとっては「ホラー小説」でもあるだろう。男性読者にとっては居心地が悪いかもしれないが、「安全に生きることが困難な性にとってのリアルな恐怖」を体験するためにも、ぜひ読んでいただきたい。』(P433)

本書は、ある意味では、とてもわかりやすい設定の作品である。
要は、男性と女性の「力関係」が逆転した「女性中心社会」を描いた作品であり、さらに正確に言えば、その「過渡期」を描いた作品だ。

しかしながら、厳密に言うならば、こうなる。
一一「女性中心社会」が「当たり前」になっている「女性中心社会の安定期」において、その時代(未来の現在)に「今の女性中心社会は、このような経緯があって成立したものなのだ」という「過去」の描かれた「歴史小説」としての、「架空歴史SF」。「架空の未来から、架空の現代を振り返った小説」なのである。

こう書いても、未読の方にはわかりにくいだろうが、要は単純に「女性が電撃能力を持つようになったために、男女の立場が逆転した世界」を書いているというだけはなく、すでに、男性中心社会の存在したことが忘れらさられている未来の女性中心社会における「男性中心社会などという荒唐無稽な社会が現実にあったようだという仮説を、小説化した歴史小説」というかたちで書かれたSF小説なのだ。一一この説明でも、まだわかりにくいだろうか?

本作は「男性中心社会の存在が忘れ去られた(未来)社会」において「現在、私たちが当たり前だと考えている(女性中心)社会が、当たり前ではなかった時代があったのかも知れない」と、そう考えられている「未来社会における歴史小説」というメタ構造のSF小説なのである。

そんなわけで本作は、男女の立場を逆転させることで、女性たちがこれまで経験してきた性差別、そして今もなお経験している性差別というものを、男性に「リアル」に感じてもらえるようにと書かれた「フェミニズム小説」なのである。

今もなお多くの男性は、「男性中心社会」が女性に強いてきた差別とその残酷さについて鈍感であり不勉強なのだが、そんな男性に対し、「男女の立場が逆転した世界」をリアルに描いて見せることで、その「痛み」を実感してもらおうと、そういう意図を持って描かれている。

だが、そういう狙いで書かれた作品であるにもかかわらず、本書のユニークな点は、作者の「公平な人間観」のゆえに、本作が「誤ったフェミニズムを批判する」内容にもなっているという点であろう。

つまり、男性中心社会が女性差別的であるというのは事実なのだが、では、この世が女性中心社会になれば、男女ともに「公平な社会」が実現されるのかと言えば、そんな甘い話ではなく、これも男女が逆転しただけの「男性差別的な社会」になるだろうという推測のもとに、本作は書かれている。

だから、今の男性中心社会における「女性差別」が批判されるのは当然だとしても、そうした「フェミニズム」運動によって、女性の権利が拡大して、女性中心社会になったならば「性差別は無くなるだろう」などという甘い想定を、作者はしていないのだ。
つまり、フェミニズムによる女性差別の縮減は、そのまま男性差別の拡大にもつながりかねないという現実を、作者はリアルに見抜いているのである。

言い換えれば、真の「(男女)平等」というものは、社会的権力を持っている方が、社会的権力を持っていない方に、その権力を委譲すれば良いというような簡単なことではなく、権力を持つ者が「権力者とは、どうあらねばならないのか」ということをしっかり認識していなければ、結局のところ「悪しき権力者を打倒した弱者」が、それになり替わって権力を手にしたところで「平等な社会」は実現せず、新たな「差別的権力者」が生まれるだけだ、ということなのである。

これは歴史的にも明らかな事実で、抑圧的な権力者を打倒して権力を握った者が、その(自らの得た)権力を守ろうとして、より抑圧的な権力者に転化していくという現実は、ロシア革命後のロシア(ソ連)や文化大革命後の中国だけではなく、フランス革命直後のフランスでも見られた、ようある現象であった。

なぜ、そんなことになるのかと言えば、それは被差別者だった者が、やっとの思いで手に入れた「権利・権力」を決して手放すまいと過剰防衛的になって、反対意見を弾圧してしまうためであろう。
「自由な社会へと移行するための、今のこの不安定な過渡期においては、一定の強権発動も必要悪だ」というような発想によって、新たな差別抑圧が正当化されてしまうのである。

そして、なぜ「過剰防衛的」になるのかと言えば、それはひとつには、酷い差別を受けてきたものであればこそ、なおさら絶対に逆戻りはしたくないという気持ちになるのは当然だし、もう一つ重要なのは、不当に虐げられてきた者は、虐げてきた者に対して、おのずと「ルサンチマン(怨みつらみ)」を持っているためだろう。
つまり、立場が逆転すれば「これであなたと私は対等です」とはならず、「これから痛い目を見るのはそっちだ」という「復讐心」が働くためである。

これは「アパルトヘイト(人種隔離)」が酷かった南アフリカなどが、その良い例で、少数の白人によって大多数の黒人が差別的に支配されていた不平等な社会を、平等な社会へと変革しようとした賢明な黒人指導者であるネルソン・マンデラが、変革後の「復讐の連鎖」を生まないために「真実和解委員会(TRC)」を設置して、過去の罪を告白すれば恩赦が与えられるという仕組みを作ることで、証言と和解を促したといった措置からも、その困難が理解できよう。
これは最近の、シリアのアサド政権転覆後における民主化でも配慮されているところのようだが、ひと筋縄ではいかない難問のようだ。

要は、立場の逆転する「革命」だけでは、報復や報復的な差別は無くならず、その後の適切な舵取りこそが重要なのだが、南アフリカやシリアなどの例がそうであるように、そこがまた、とても難しいのである。

そんなわけで、本書『パワー』で描かれるのは、本作の「額縁」にあたる部分に登場する「男流作家」であるニールが、本書『パワー』の本体に当たる「歴史小説」を書いた「遠い未来」の話ではなく、その「遠い未来」から見て「はるか過去」の「男性中心社会から女性中心社会への移行期」を描いた部分の方である。

ニールという「男流作家」が、すでに売れている「作家」のナオミに、刊行前の小説原稿を送って助言を求め、ナオミが「喜んで読ませてもらう」といったやりとりをする「書簡パート」が、分量的にはわずかだが、本作の「額縁」となっているのだ。

しかしながら、こういう面倒くさい(小説形式の)話は、さほど重要ではない。
やはり本作において重要なのは、「男性中心社会から女性中心社会への移行期を描いた歴史小説」の部分であり、本作の「本体」とも呼ぶべきその部分に描かれた、身の毛のよだつような「男性差別社会」のリアリズムなのだ。

たしかに「女性に電撃能力が備わって」という設定は、かなり漫画的であり、荒唐無稽な印象をうけることだろう。だが、そこは重要ではないのだ。
要は「女性に、男性を圧する腕力があったなら、どんな社会になっただろう?」という思考実験をするために、「腕力」のかわりに「電撃能力」に目覚めた、という仕掛けを導入しているだけなのである。

私は以前「なぜ、現在の男性中心社会は生まれたのだろうか?」と考えて、その発端の原因は「男性には腕力があったからだろう」と考え、そうした点での男性の優位性(腕力)が「社会化」され、合理化された結果として、現在の「男女二元論的な性別役割」というのが、社会的に形成されていったのではないかと論じた。
つまり、もっともらしい「男らしさ」や「女らしさ」といったものは、結局のところ「腕力の差」という、最も野蛮で「動物的」なところに由来するものなのであろうと考えたのだ。

そして、本作作者のナオミ・オルダーマンも、同じようなところに「男女差別」の淵源を見ていたということなのである。

だから、本書の読者は、男性であれ女性であれ、難しいことを考える必要はない。

つまり、男性読者は「本作で描かれているようなことを、男性は女性に対してやってきた」のだという現実を直視して反省するとともに、その反省がないまま、男女の立場が逆転すれば、自分からたちがどんな目に遭うのかを、この小説で擬似経験して欲しい、ということになる。
また、女性読者の方には自分たちが力を持った場合に、果たして、今の男性と同じような「性差別」を行わないと言えるのかと、そこを是非とも考えてみて欲しい
仮に「私はそんなことしない」と考えたとしても、他の女性たちが「そんなことをしない」と保証できるのか。

女性が本作で描かれる「パワー」つまり電撃能力を持って、男性に有無を言わせぬ「腕力」を持った場合、果たしてその腕力の行使を自制できるのか、すべての(あるいは、大半の)女性に、その自制が可能なのか、ということである。

例えば、次の描写は、旧来の「男性中心国家」と、革命的な新興国である「女性中心国家」とが、その派遣をめぐって戦争を始めたために、難民となった人々の難民キャンプを、電撃能力を駆使する不良女性たちが襲撃するシーンである。

『 かれら(※ 襲撃者である女性たち)はまず若い男を集めることから始めた。テントからテントへ移動し、引きおろしたり火をかけたりしていく。住人は逃げ出すか焼け死ぬかだ。やりかたは荒っぽく、でたらめだった。多少なりとも見場のいい若い男を探している。(※ 美男である)トゥンデを森に逃がしたのは正解だった。白い肌の縮れた髪の男が連れ去られようとするのを、妻か姉妹だろうか、いっしょにいた女が止めようとした。(※ 襲撃者の女)ふたりを相手に戦い、正確にタイミングを測った電撃をあごとこめかみに浴びせた。しかしあっさり圧倒され、とくべつ無慈悲に殺された。ひとりが髪をつかみ、もうひとりがじかに眼球に電撃を打ち込む。指を突っ込み、かきまわして、眼球を乳白色の液溜まりに変えた。(※ 喧嘩慣れしていた女性)ロクシーですら、しばらくは目をそむけずにはいられなかった。
 (※ すでに電撃能力を失っていた)ロクシーは森のなかにさらに後退(※ 退避)し、腕を交互に入れ換えて木にのぼった。ロープの輪が役に立った。三本の枝が交差している場所にたどり着くころには、(※ 襲撃者の)女たちは(※ 女には目もくれず)男のほうに目を向けていた。
 (※ 襲撃者である女たちに捕えられた)男は悲鳴をあげつづけている。女ふたりがそののどをつかみ、脊髄に電撃を送って麻痺させた。ひとりが男のうえにしゃがみ込み、ズボンを引き下げた。男は気絶してはいない。大きく見開いた目には涙が光っている。息をしようとあえいでいる。べつの男が助けようと駆け寄ってきたが、こめかみに電撃を食らっただけだった。
 うえに乗った女は男の睾丸と陰茎を手のひらにのせ、なにか言って笑った。ほかの女たちも笑った。指先でくすぐりながら、楽しんでもらいたがっているかのように、小さくあやすような声を出す。男は口がきけなかった。のどがふくらんでいる。もう気管が破裂しているのかもしれない。女は首をかしげ、悲しい顔をしてみせる。世界じゅうのあらゆる言語で言ったも同然だ。
「どうしたの、勃たないの?」男はかかとで地面を蹴って女から逃れようとしたが、それにはもう遅すぎた。
(中略)
 ロクシーは、できるものならこの事態を食い止めたかった。その力があれば、いま隠れている場所から飛びおりて片っ端から(※ 襲撃者での女たちを)殺していただろう。まずは(※ 自分が身を潜めている)木のそばのふたりだ。(※ 電撃能力があった頃なら)だれも気づかないうちに手早く片づけることができる。そこであのナイフを持った三人が攻撃してくるだろうが、左にあるオークの木二本のあいだに飛び込めば、一対一の戦いに持ち込める。そこでこっちもナイフを出す。ちょろい。しかし、いまの彼女にそんな力はない。食い止めることはできない。いくら止めたいと思っても止めることはできない。だから見る。証人になるのだ。
 男の胸に馬乗りになった女が、性器に手のひらを当てた。かすかな放電のうなりが始まる。男はまたくぐもった悲鳴をあげ、逃げようとしている。まださほど痛みはないはずだ。ロクシー自身、男にあれをやったことがある。両方の楽しみのためだ。あれをすると、ムスコが敬礼でもするように起き上がるのだ。いつもしていることのように。裏切り者のように、愚か者のように。
 女は顔に小さな笑みを浮かべ、まゆをあげた。ほらね、ちょっと励ましてやるだけでよかったでしょ、とでも言うように。睾丸を手に持ち、可愛がるかのように一度、二度と引っ張る。そこで陰嚢に強烈な電撃を加えた。あれはガラスの針を打ち込まれたように感じるだろう。内側から切り裂かれているかのように。男は絶叫し、背中をのけぞらせる。そこで女は自分のコンバットスーツのズポンの前ポタンをはずし、ムスコのうえに腰を落とした。
 女の仲間たちが笑いだした。女自身も腰を上下に動かしながら笑っている。片手を男の腹部の中心にしっかりあてがい、太腿を叩きつけて奥へ送り込むたびに電撃を加えている。仲間のひとりがスマートフォンを構えた。男にまたがっている女の写真を撮る。男は片腕で顔を覆おうとしたが、すぐに腕を引き戻された。だめだめ、ちゃんと撮っておかなくちゃ。
 仲間たちが女をけしかけている。女は自分自身に触れはじめ、さらに速く動き、腰を前後に揺らしだす。いまでは本格的に男に苦痛を与えている。(※ 電撃の)加減を考えて慎重に与えるのでなく、また面白がって最大限の苦痛を与えようとするのでもなく、ただ滅茶苦茶に。達しかけているときには簡単なのだ。ロクシーも一度か二度やって、相手をびびらせたことがある。〈グリッター〉(※ 電撃能力を高める架空の覚醒剤)をやっているといっそう悲惨だ。女は片手を男の胸に当て、前に身を乗り出すたびに男の胴全体に(※ 電撃による傷跡である)稲妻模様を走らせる。男は女の手を押しのけようとし、絶叫し、周囲の人々に助けを求めて手をのばし、くぐもった声で哀願している。なんと言っているかロクシーには理解できないが、「助けて、神さま、助けて」の響きはどんな言語でも同じだ。
 女が達すると、仲間たちがどっと沸いた。女は頭をのけぞらせ、胸を前に突き出し、男の胴体の中心に強烈な電撃を放った。女は笑顔で立ちあがり、仲間たち全員に背中を叩かれて笑い、笑い終わってもまだ笑顔のままだ。犬のように全身を震わせ、犬のようにまだ物欲しげな顔をしている。かれらは詠唱を始めた。同じ四つか五つの単語にリズムをつけてくりかえしながら、(※ 男を強姦した)女の髪をくしゃくしゃにし、互いにこぶしをぶつけあっている。白い肌の縮れ毛の男はついに動かなくなった。最後の電撃でとどめを刺されたのだ。目は見開いたまま虚空を見据えていた。大小の川の流れのような赤い傷痕が、胸全体に広がってのどもとまで這いあがっている。ペニスはしぼむまでもうしばらくかかるだろうが、ほかの部分はもう静止していた。断末魔の苦悶すらなく、痙攣すらない。血液は着々と背中や臀部やかかとに溜まっていきつつある。女は胸に手を当て、心臓を止めて男を殺したのだ。』
(P353〜356、※ は引用者補足)

以上のようなシーンは、男女の立場さえ逆転させれば、これまで小説や映画の中でいくらでも描かれてきた「ありふれたシーン」でしかないだろう。しかも、こうしたことは、現実にも行われてきたことなのだ。

だから、男性読者は、このシーンを読むことで、力の持たないが故に、凌辱され殺されてしまう女性、殺されてしまった女性の立場に身を置くべきである。
そうすれば、これが「許されないことだが、現実にあったことだ」では済まされない現実だということが実感できるはずだ。

そしてこうした意味で、本作は間違いなく、男性に反省を強いる「フェミニズム小説」なのだ。

だが、しかしながら、前述のとおりで、女性のは読者にあっては「もしも、女性が男性よりも強い立場に立ったら、こんなことをしでかさないと言えるだろうか?」と、そう反省してほしい。

たしかに、大半の女性は「私は絶対にそんなことをしない」と考えるだろうが、その反面「こんなことをする馬鹿な女も、少なからずいるだろうな」と、そう考えるのではないだろうか?

実際、中国史にその名を残す則天武后の男にも勝る残虐性はあまりにも有名だし、「血の伯爵夫人」と呼ばれたバートリ・エルジェーベトなんて人もいて、女性だって、誰も逆らえない権力を持つと、とんでもない残虐性を示す者も出てくる。また、則天武后やバートリ・エルジェーベトほどではないにしても、小・則天武后や小・バートリ・エルジェーベトなら、今の日本にも、いくらでもいるだろう。
彼女らが、則天武后やバートリ・エルジェーベトにならないのは、単にそこまでの「力」を与えられていないからかも知れないのだ。

例えば、私が現在批判している「武蔵大学の教授」で自称「フェミニスト」である北村紗衣は、ネット上に自分の陰口を書いた歴史学者の呉座勇一を「女性差別者」であると名指しして、これを告発する「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」を、千数百名もの賛同署名を集めてネットに公開し、それによって、呉座を二度の公開謝罪に追い込んだあげく、最後は呉座からその職を奪いもした。

また、呉座を擁護して北村紗衣を批判した、大学助教の山内雁琳に対しては、その言葉尻を捉えて「名誉毀損」のスラップ訴訟を起こして、200数十万円という賠償金を払わせ、同時に山内の職まで奪った。

また、この2人を、一度は「社会的に抹殺した」というキャンセルカルチャー的な「実績」を誇る北村紗衣は、Twitter(現「X」)上で自分を批判した、帰属組織が明らかな人物に対しては、北村への批判は「女性蔑視」に由来するものだと強弁して、それをその人物の「職場に知られても困らないものなのか?」と、暗に圧力をかけることで相手を黙らせる、というようなことをしていたのだ。
要は、北村紗衣は「オープンレター」と「スラップ訴訟」によって、批判者たちを「社会的に抹殺した(キャンセルした)」という実績において、職を失うわけにはいかない批判者たちを、恫喝する「力」を身につけていたのである。

一一そして、その調子で北村紗衣は、私にも「難癖」をつけてきたのだが、私の場合は、そうはいかなかった。
というのも、私はすでに退職していて隠居の身であるから、気遣うべき「帰属組織」もなければ、失うような社会的な立場もすでにない。また、裁判に対抗しての逆提訴するくらいの蓄えはあったので、その点(論争以外の点)で北村紗衣を怖れる理由など無かったのだ。

だから、北村紗衣に対し、そう断った上で、堂々と「公場対決の議論をしようではないかと」反論・批判をしたところ、北村はお得意の「社会的な恫喝」を封じられて「無力」状態になったために、自分から批判してきたくせに、いきなりダンマリの殻に引きこもってしまった。これが、私と北村紗衣の今日に至る経緯なのである。

つまり、男女平等は当然必要なことであり、女性に対しても、男性と同等の「立場」やそれに伴う「権力」は与えられるべきなのだが、しかし、男女を問わず「権力」を持たせるべきではない人物には、決して権力を与えてはならない、ということなのだ。

つまり「恐怖の女帝」や「血の侯爵夫人」と同様、その権力を濫用するような女性については、文字どおり「気狂いに刃物」なのだから、「大学教授」などの立場や権力を与えるべきではない、ということである。
権力を与えるには、それ相応の「人格」と「能力」を併せ持つ人物を選ぶ必要があるのだが、その両方を持たないのが、「武蔵大学教授・北村紗衣」なのだ。

私は、本作『パワー』の上に紹介したシーンを読んで、「これは、北村紗衣を発起人としたオープンレター組による、呉座勇一への強姦的なリンチと、似たようなところがあるな」と、そう感じた。

実際、北村紗衣に対し、やむなく公開謝罪した際の呉座は、自分の社会的立場が奪われるという恐怖のために、完全に萎縮して無力状態だったのだけれど、それを見ていたオープンレターの面々は、「ザマアミロ」という「勝者の笑み」を浮かべていたに違いないのである。

これまで不当に「権力」を奪われてきた女性が「エンパワーメント」され、相応の「力」を発揮できるようにするのは当然のことだ。
だが、その「力」を、正しく自制的に使えず、濫用してしまう者には、人並み以上の「力」は与えられるべきではないし、「権力濫用者」からは、その「権力」を奪うべきである。

人並みの力は、男女を問わず、誰にでも与えられるべきだが、それ以上の「力」は、それを正しく使える者にだけ与えないと、結局は、世のため人のためにはならず、むしろ社会な仇なすことになるからである。

本作『パワー』は、あくまでも「思考実験」的な作品だが、しかしそこで想定されている「もし女性が、男性以上の力を持ったなら、どうなるか?」という問いは、すでに一部現実化しているのであって、単なる「仮定の話」ではない
だからそうした現実を、男性は無論、女性の読者も、肝に銘じて本作を読むべきであろう。

解説者の渡辺由香里は、本作の上に引用したようなシーンについて、次のように書いている。

『 読んでいると、その残酷さに目を覆いたくなるかもしれない。男性読者は嫌悪感を抱かずにはいられないだろう。だが、これらのことは、女性に対して実際に起こってきたことであり、現在でも起こっていることなのだ。
 オルダーマンの「パワー』は、「女性が権力を得たら、もっと平和な世界になるのに」といった甘い理想論を語る小説ではない。最初の手紙にある「『男性の支配する世界』は‥‥‥きっといまの世界よりずっと穏やかで、思いやりがあって‥‥‥」というところにも、よくある(※ 女性優位社会についての夢想的な)理想論を笑い飛ばす皮肉なューモアを感じる。
 この小説は、「レイプされるのは、襲われて抵抗しない女性が悪い」とか「女性が独り歩きをしていたら、襲われても当然」、「嫌だと言いながら、本当は楽しんだのだろう」といった男性の言い分に対する、非常に直截的な返答だ。そういう男性に対して、「パワーが逆転したら、あなたはレイプされて殺されてもOKなのでしょうね?」と問い返している。
 この小説で、パワーを持って暴走し始めた女性が行う行動は、非人道的で、残虐すぎるように思える。女性読者である私にとっても読むのがしんどい部分が多いが、男女を置き換えれば、これらは男性社会が女性に対して実際に行ってきたことなのだ。まったく誇張はない。
 なぜ、男女を変えただけで、これほど残酷に感じるのだろうか? そこを読者は考えるべきなのだろう。
 男性ジャーナリストのトゥンデが男性の独り歩きで恐怖を覚えるようになる心理状態や、罪のない若い男がパワーを持った残虐な女らに玩具にされて殺される描写を読んで、現実の世界で女性が体験していることを、少しでも想像してほしい。』(P432〜433)

渡辺由香里は、ここで、

『オルダーマンの「パワー』は、「女性が権力を得たら、もっと平和な世界になるのに」といった甘い理想論を語る小説ではない。』

と正しく指摘しているにもかかわらず、その一方で、

『この小説で、パワーを持って暴走し始めた女性が行う行動は、非人道的で、残虐すぎるように思える。女性読者である私にとっても読むのがしんどい部分が多いが』

と断った後に、

『これらは男性社会が女性に対して実際に行ってきたことなのだ。まったく誇張はない。』

と、話を「男性による女性差別」の問題へとスライドさせているのだが、ここで渡辺が、本書の「女性読者」として考えなければならなかったのは、著者のオルダーマンか直視できている「現在の現実」を、渡辺自身は直視できていない、という現実であろう。

他人(男性)のアラはよく見えるが、自分(女性)のアラは見たくないから見えにくい
これはそういうことなのだが、読者としてはまず、我が事として作品に向き合えないのであれば、人にとやかく「解説」できる立場ではない、というくらいの自覚は持つべきだ。

則天武后やバートリ・エルジェーベトといった「歴史上の人物」だけではなく、北村紗衣とその周辺のような人物が「今ここ」に実在しているという現実を直視できないようでは、せっかくの本書も意味をなさない。

女性読者が「その程度」であるのなら、男性読者もその程度の読者として、本作を「他人事」のように読んだとしても、それに注文をつける資格などないのである。

力さえあれば喜んで男性を強姦するであろう女性など、男と同じくらいに実在するのだ。

一一そう考えることもまた、男女平等への一歩なのではあるまいか?

私がそう言っているだけではなく、本書著者のナオミ・オルダーマンも、そのように本作で語っているのである。

これが「人間」の現実であると。


(2025年10月11日)


 ○ ○ ○


 ○ ○ ○























































 ○ ○ ○

(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)


 ● ● ●

 ○ ○ ○

 ○ ○ ○

 ○ ○ ○

 ○ ○ ○



 ○ ○ ○