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朝井リョウ 『イン・ザ・メガチャーチ』 : 北村紗衣「推し」とは何か?

書評:朝井リョウイン・ザ・メガチャーチ』(日本経済新聞出版

非常に面白い作品だった。
今年読んだ新刊の中では、先日レビューを書いた、金原ひとみ『YABUNONAKA-ヤブノナカ-』 が抜きん出ての1番確定だと思っていたのだが、本作は、それに勝るとも劣らない社会派小説の傑作である。
実際、両者は、複数視点で日本社会の「今」を描いた作品として、とても似た感触のある、ともに畢生の力作長編なのだ。

本作『イン・ザ・メガチャーチ』は、「推し(活)」ブームの問題を批判的に扱っている点で、多くの人の興味を惹いて、よく売れているようだ。

(推薦とは、まさに「推し」の一種だが、推薦文の寄稿は「対価を取る、職業的な有料の推し」である)

しかしながら、実際の「推し」活動をしている人は、本書が気になったとしても、そのほとんどの人は、本書を読むことはないであろう。
なぜなら、そういう人は「推し」に金を注ぎ込むのが生き甲斐なのだから、わざわざ自分たちを批判しているらしい本を読んだりはしないためである。

「推し」活動とは、端的に言って「依存」(の一種)だということくらいは、この言葉を知っている人なら誰でも、何となくなら理解していると、そう言っても過言ではない。

つまり、「推し」活動をしている人の多くも、自身がその「推し」対象に依存・耽溺していることくらいは、ほとんど自覚しているのである。
一一だが、そんな自覚だけでは、「依存」は止められないのだ。

なぜ止められないのかといえば、それは、その対象に耽溺している時が、幸福だからである。

また、それほどの幸福感を与えてくれるものが他にないからこそ、その「推し」から離れることなど出来るわけもない。
わざわざ、何の喜びも彩りもない日常に、自ら帰りたいと思う者などいないからである。

依存と言えば、これまでは、違法薬物や酒タバコといった嗜好品、あるいはダイエットなどの摂食障害といったことが長らく話題の中心であったのだが、今はそうではない。

そうしたものは、人の心身を蝕み、健全な生活を危うくするものとして治療の対象となってきたのだから、言うなれば、それを断った方が当人も幸せになれるだろうと見込まれる、元来「余計なもの(邪魔もの)」だと考えられてきた。

それでは、そうしたものと「推し」活動との違いは何なのかといえば、それは、「推し」対象が、経済活動において、「商品」として自覚的に生産されている点であろう。

昔の依存対象というのは、覚醒剤のような暴力団の資金源のための非合法商品などは別にして、その多くは単に「個人的な選択として、個人が合法的に選んだもの」でしかなかったのだが、今の「推し」対象というのは、金儲けのために生産され、積極的に売りつけられている
その意味では、合法とは言え、暴力団のシノギと大差のないことをやっているとも言えるのだ。

金儲けのためになら何でも商品化しようとする資本主義経済の貪欲が行きついた、「非倫理」のひとつの頂点として、「推し」ビジネスがあると言っていい。
その「依存商品」は、「依存させるため」に、自覚的に作られ、売り出されたものだからである。

たまたま、個人が見つけた依存対象でもなければ、対象の「濫用」でもない。
依存商品として売り出されたものを、依存商品であると半ばわかっていながら、それを合法薬物と同様に正規のルートで購入して、それを正規に利用して、依存しているのである。

つまり、依存商品としての「推し」とは、商品そのものが問題なのでもなければ、その商品を買って依存してしまう依存患者自身が悪いのでもない。
実質的に「濫用」されることを見込んで、その上でそんなものを作って売っている者が悪いのだ。

だが、「合法かつ売れるものなら、何でも作る」のが、資本主義経済の本質なのだから、今のこの社会のそうした本質が変わらないかぎり、「推し」依存は無くならないし、彼(女)らが搾り取られるだけ搾り取られた挙げ句、ポイ捨てされるという現実が変わることもないだろう。

本書が「日本経済新聞出版(日経BP)」から刊行されているというのも、当然、故なきことではないのだ。

「推し」活動というのは、社会問題である以前に、すでに経済問題として注目され、一種の先端市場として経済界から注目されて、すでに片端から開拓されている世界なのである。
「あんな狂っているかのように入れ上げている人たちとは、一体どのような性格の購買層なのか」と、そうした興味を持っている経済人が、少なくない。そこに新たな「商機」を見出し得るからだ。

本書には、「推し」商品に関わる、三様の立場に立つ、3人の主人公が登場する。

久保田慶彦(47)
レコード会社勤務。とある能力を買われ、アイドルグループ運営に参画することに。

武藤澄香(19)
留学を志す大学生。内向的な気質に悩むうち、一人のアイドルに出会う。

隈川絢子(35)
契約社員。舞台俳優を熱烈に応援中だが、ある報道で状況が一変する。

(本書を帯背面の紹介文より)

久保田慶彦はレコード会社に勤める、すでに「良い音楽を売りたい」という理想を見失った、かなりくたびれた男性である。
もう「そういう時代ではなくなったのだ」という無力感にとらわれ、その現実を受け入れていた人なのだが、もともとドラマ脚本家を目指していたという経歴が買われて、オーディション番組出身の、新しいアイドルグループの売り出すためのプロジェクトチームに抜擢されることになる。

ただし、久保田の入ったプロジェクトチームとは、通常の手法でタレントを売るためのチームではなく、言うなればコアな信者的ファンを開拓して育てることに、その仕事を特化したチームであった。

「広く多くの人に知ってもらう」のではなく、狂信者のごときファンを見つけ育てるというプロジェクト。
CD1枚を買ってくれるファン100人を作るという正攻法ではなく、1人で100枚買ってくれるファンを作る。
そういうファンなら、「推し」をスターにするために、無償奉仕までしてくれる戦力ともなるからだ。

当然そんな、言うなれば裏プロジェクトチームでは、そのタレントが素晴らしい音楽性を持っているから、その点への理解を広げるためにサポートするというような正攻法ではなく、特に抜きん出たものがなくても、そこに(丸切り嘘というわけではないが)誘導のための「物語」を付与することで、その存在を唯一無二のものに「仕立て上げる」といった、いささかペテンめいたことをする。

そして、こうしたことは多分、今や多かれ少なかれ「現実においても、当たり前に行われていること」なのである。
また、だからこそ本作は「社会派小説」なのだ。

ともあれ、あえて「抜きん出たところのないメンバー」を選び、しかしその「今どきの迷える若者らしさ」を強調することで、依存体質の強い人たちの寄るべなさを狙い撃ちにする。
「私と同じだ。彼に私の夢を託そう」という気持ちにさせて、その持てるものをすべて吐き出させるというような、かなり非人道的な、「催眠コントロール」的戦術が採用されるのだ。

要は、当たり前な広く売り込むのではなく「頭の弱そうな連中(顧客)を狙い撃ちにして、そこから重点的に搾り取ろう」という戦略を採る、裏プロジェクトチームとでもいうようなものに、久保田慶彦はスカウトされ、当初はそれに違和感を感じながらも、やがてそこに「やりがい」を見出していくのである。

武藤澄香は、その久保田慶彦の実の娘だ。だが久保田夫婦の離婚によって、澄香は母の籍に入り、そちらで生活しているから、苗字が違う。
澄香は父の影響で、子供の頃から洋楽を聞いたり、外国留学に憧れたりする、周囲とはちょっと違った娘であり、父もそんな「ひと味違う、趣味の良い」娘のことを自慢にして、溺愛していた。

また、澄香自身も、自分はちょっと特別な人間なんだという自負を持ってきたのだが、大学へ入ってからは、その自負が揺らぎ始めていた。
自分とよく似た、むしろ自分以上に「意識高い系」的な友人たちに囲まれて、それまでの優越感が揺らぎ、かえってエリートであろうとすることに息苦しさを感じるようになったのだ。
自分が求めていたものとはこんな、息苦しい生き方だったのかと、そんな疑念を強く抱くようになったのである。

そして、これが自分なのだと思い込んでいた自己像とは、結局のところ父の影響に過ぎなかったのではと、そうした疑いを抱くようになっていた。

隈川絢子は、武藤澄香と同様、友人から「スミちゃん」と呼ばれる女性だが、「意識高い系」的な立場にあった武藤澄香とは真逆に、どっぷりの「推し」活にハマっている派遣社員の中年女性てあり、経済的にはギリギリの生活をしている。「推し」のために、すべてを切り詰めた、将来への展望の持てない生活を送っているのである。

つまり、本書の3視点とは、「推しを作る側」「推し現象を馬鹿にして見ていた側」「推しにどっぷりハマっている側」の三者のそれであり、それが徐々に変化していく様子が描かれている。

で、本作の特徴というのは、決して隈川絢子のような「推し」の沼にハマって身動きが取らなくなっている人を、当初の久保田慶彦や武藤澄香のように、「理解不能」だとばかりに見下すような視点から、書かれているわけではない、という点であろう。一一しかしまた、決してそれを支持しているわけでもないのだ。

作者の朝井リョウは、「推し」への耽溺、つまり「依存先」を求めてしまう、(社会心理学的な)心理は理解できるし、その気持ちに同情を寄せてはいるのだが、しかし「そのままでは、ろくな結果にはならない」と、そのように見ている。

なぜなら、結局のところ「推し」消費とは、体良く踊らされ、搾り取られている、ということだからである。
当人が「そんなことはわかっている。わかった上でやってるんだ」と抗弁したとしても、自覚は当然の前提として、そのままではいけないと、朝井リョウは考えている。問題は、自覚の有無などではなく、実際的な行動の問題だからである。

例えば、薬物依存者だって「このままでは良くない」とわかっていながら、結局は止められずに、暴力団の資金源となって「身を滅ぼす」のと、それと同じことなのだ。

そしてそうしたことは、隈川絢子とその年長の「推し」友である「いずみさん」との、次のようなやりとり、ハッキリと示されている。

「うちらの毎日ってテレビでポジティブに紹介できるようなことじゃないじゃん。むしろ気違いの修行っていうか」
(中略)
「最近、オタクは恥ずかしい生きものだっていうそもそもの前提がなかったことになってますよね。逆にオタク心理がわかっていない人が放火魔くらいに叩かれたり」
「それ」
 私の意見に、いずみさんが即同調する。
「なんだかさ、何でも良いふうに言い換えすぎてるよね。オタクキモイヤバイはダメだとしても、オタクこそ至宝なんてみたいなのは言いすぎだと思うんだよなー。中身のわからない写真大量に買い漁る集団、どう考えても褒められたもんじゃないし」(P64〜65)

こんなふうに自覚していても、「推し」活動が止められない隈川絢子の現実は、次のようなものである。

『 家賃、62,000円。水道光熱費、24,312円。食費、24,410円。日用品費、21,911円。通信費、6,400円。残り38,426円のうち、一万円は貯金用の口座へ、もう一万円は前の職場で同僚に勧められるがままに入ったiDeCoへ。残りの18,426円が、倫太郎に使えるお金だ。
 家計アプリで何度も眺めた数字たちは、読み込むまでもなく図形としてそのまま脳裏に焼き付いている。』(P71)

倫太郎というのは「推し」の名前である。

私は、ここを読んだ時、そのあまり痛ましさに、リアルな同情を禁じえなかった。

私の場合、他の多くの人と同様、「推し活なんてやってる人は、いいように踊らされている愚か者」だという理解が基本的なスタンスなのだが、彼女たちの痛ましい現実に触れれば、そんな冷たい言葉だけで語ってよい現実ではないことが痛感された。

ちなみにこれは、私がしばしば馬鹿にする「オリンピック万博に、手もなく熱狂させられる大衆」とか「にわか大谷翔平ファン」とかについても、まったく同じことだ。

たしかにそれらの「依存」対象は、それなりに魅力的な「商品」なのだけども、そんなものに惹かれる人の多くは、もともと「これといった、自分らしい大切なもの」に恵まれていなかった人たちなのでだろう。
だからこそ、大宣伝によって投げ与えられたそれらの「商品」に、手もなくそれに飛びつけるわけなのだが、それはそれだけ、彼らのそれまでの生活が空虚だったという証にしかなっていないのだ。

すべての経験が新しい、子供なら仕方ないとしても、万博が閉幕するからと言って「感動をありがとう」みたいな紋切り型の言葉を、泣きしながら語る壮年女性の姿をニュース番組で見せられ、こいつは馬鹿かと腹を立てつつも、同時に私は、その人の空虚な人生を想像して、慄然とさせられずにはいられなかったのだ。「こんな人が大勢いるのだ」と。

笠井潔のミステリ小説『バイバイ、エンジェル』の犯人は、そんな人たちのことを「豚のような大衆」と呼んだ。
つまり、与えられた餌を、ただブヒブヒ言いながら食わされ、肥太らされた挙句、食い物にされる豚なのだとして、嫌悪し憎悪していたのである。

しかしながら、彼女たちがこうなってしまったことのそもそもの原因は、まさしく今の、資本主義経済社会の原理、そのものにあるのだ。

だが、それを変えるのは、容易なことではない。
一一ならば、私たちはどうすれば良いのか?

本書に関するAmazonのカスタマーレビューを瞥見すれば、その多くが本書を「面白い」と評している。

それは確かに事実だし、カスタマーレビューに期待されるのも、そんな「買うか買わないか」を決めるための、経済合理的に実用的な情報なのだろう。

だが、本書を読んでなお「そんなことでいいと思うのか」という苛立ちや怒りを、私は禁じえない。
それもまた、経済原理に、いいように踊らされているという点では、「推し」活と、まったく同じことだからである。

本書でも描かれているとおり、昔は「推し」活を、理解不能だと馬鹿にしていた武藤澄香が、やがて「意識高い系」的な生活に息苦しさを感じて、「推し」の沼へとハマっていき、そこに救いを見出すようになるその一方、もともと「推し」の人だった隈川絢子と友人のいずみさんは、「推し」アイドルの自殺ということから曲折を経た後、陰謀論的な政治意識にとらわれるようになってしまう。

つまり、2人の「スミちゃん」は、立場が入れ替わってしまうのだが、しかし、そのどちらも、当人の自覚に反して、客観的には「救われた」ようには見えないのである。

武藤澄香の場合は、視野を広く持つことこそが、自身の無能力感を強めて苦しめられるがゆえに、あえて視野を狭めることで、ささやかながらも安心できる居場所を見つけたと、そう思った。

一方の隈川絢子の方は、「推し」活の小さな自己満足の世界から、外へと視野を広げていく中で、大切な「推し」を奪ったこの世界の「隠された構造=黒幕の存在」を知ることができたと、そう思った。

だが、そうしたこの二人の現状は、客観的に見れば「歪んだ世界像の持ち主」以外の何者でもないのである。

人はしばしば自覚的に、「幸せになるため」に、あえて視野を限定してみたり、真相を知ることで「幸せになろう」と視野を広げたりする。
しかし、それで「正しい世界像」が得られるのかと言えば、そうはいかない。

なぜならば、その動機が、いずれも「幸福の渇望という欲望」によって汚染されているからだ。

つまり、人は決して「欲望」からは自由にはなれず、したがって、すべての「世界観」というのは、多かれ少なかれ、欲望というフィルターを通した、歪んだものでしかない

そしてそれが、本書でも語られているところの「依存対象の無い人間などいない」ということなのだ。

言い換えれば、「依存対象のない人間」とは、本書で、久保田慶彦の入ったプロジェクトチームをリードする謎めいた人物、以前はゲーム制作会社に勤めていたという「国見まこと」が、まさにそれである。

彼の特徴とは、徹底的に「無個性」ということだ。
なにしろ、服装がさっぱりしていて特徴が無いというだけではなく、顔を見ても髪型を見ても、年齢や性別さえ判然としないような、不可思議な人物なのである。

もちろん、作中では「仕事に性別は関係ない」というフェミニズム的な理由から、久保田は無論、誰も国見の性別にさえ言及しようとしないのだが、この極端に謎めいたキャラクターが意味するのは、間違いなく彼が、非人間的な「無個性」を象徴する人物だということであろう。

本作では、単に隈川絢子的な「推し活オタク」だけではなく、武藤澄香的な「意識高い系」の問題もまた、その本質は、同様の「現実逃避(の欲望に促された行動)」であるという、批判的な視点で語られている
だからこそ、二人の「スミちゃん」は、入れ替わるようにして、その立場をスライドさせられるのだ。見かけは真逆でも、その本質に大差はないのである。

もちろん意識高い系の人=ウォーク(Woke)のすべてが「現実逃避としての理想主義」者でしかないとは言わないが、現実には、その9割は「現実逃避」者だと見て間違いない。

つまり、SF作家シオドア・スタージョンの至言、

SFの9割はクズである。ただし、あらゆるものの9割もクズである

ということだ。

つまり、SF小説を「SFプロトタイピング」などと言って持ち上げて見せたところで、それ自体が「現実逃避」を正当化するための資本主義経済の欺瞞のひとつでしかなく、SF小説の9割が「現実逃避」の役にしか立たない「クズ」であるように、フェミニストを自認する者の9割もまた、ろくにフェミニズムの勉強もしていなければ、自分の現実を直視することもできない、単なる「自称フェミニズム」の「クズ」に他ならない、ということなのだ。

なにしろ、Xのフォロワーが50,000人もいる、「武蔵大学の教授」で「人気フェミニスト」の北村紗衣をして、想像を絶した低レベルの人物であり、北村が若い女性に売り込んでいる「男叩き棒としてのフェミニズム」とは、所詮、経済的にも知的にも恵まれない女性のための「現実逃避の麻薬」でしかないのだ。
だからこそ、北村紗衣ファンは、フェミニズムどころか、活字の本すらまともに読まずに、「推し」である北村紗衣を、ただ、盲目的な「推しているだけ」なのである。

私は、そんな北村紗衣を、縁あってここ一年あまり批判しているのだが、本書『イン・ザ・メガチャーチ』には、次のような、なるほどということが書かれていた。

『(※ 自分たちの推しである、アイドルグループの)道哉たちのライバルグループを輩出する(※ それは、危険なオーディション)番組です。(※ だから)あの番組に関するコンテンツには何の反応も示さず、相手のインプレッション(※ 表示回数)に(※ うっかり)加担しないよう徹しましょう。もちろんネガティブな意味での言及も厳禁です。あちらの視聴者さんはこちらを下げる発言(※ 悪口)をよくしますが、それに反応してしまうと同レベルだと思われます。無視が一番です』
 古参花道(※ 道哉たちのグループのファンを指す言葉)の人たちは、定期的に、花道が反応してもいいものとそうでないものを一覧にして教えてくれる。紙、ウェブ、映像、媒体の形態を問わず、Bloomeにとってプラスの影響があると判断されたものはどんどん閲覧や再生、拡散をすべきだけれど、そうでないものに関してはノータッチを貫くことが推奨されている。反応してはいけない”媒体にどれだけ印象の悪い記事を書かれようが、それを否定する形での言及も厳禁だ。反応しないことがそのような媒体を衰退させる最も有効な手段だから。』(P317)

これなどは、思わず「なるほど、さすがだな」と感心させられ、納得させられてしまった。

例えば、私の映画レビューに難癖をつけてきた、明らかに当初の意図では匿名の捨てアカウント(フォローは「note公式」のみ、フォロワー0)だった糞リプマンという人がいて、私はこの「お話にもならない卑怯者」を無視するのではなく、徹底的に馬鹿にし返してやった。
これは、長年、ネトウヨ荒らしに対して、私がやってきたことなのだ。

ともあれそれで、先方も意地になって悪口を返してきたのだが、さすがに半年以上も、私からの「根拠を示した馬鹿呼ばわり」に晒されて、いつの間にか私に対しては沈黙してしまった(今は、実力相応に映画評だけを、たまに書いているようである)。

つまり、この「糞リプマン」氏は、私の当初の反応から、私が「普通ではない」人間だということに気づかなかった、正真正銘の馬鹿だったということなのである。

私が遠慮なく指摘したように、「糞リプマン」氏は、幼稚で独りよがりな感想文しか書けない人だった。
そのため、もともと(職場も含めて)他から評価されることもないので、その「妬み」から、私の映画レビューの中でも特に評判の良いもののコメント欄に、匿名で悪口を書いてきたのである。

(自称「プロジェクトリーダー」だった糞リプマン氏は、私に追求されると、こんな泣き言を語り出した。私は少しだけ同情した。いや、哀れを催した)

だが、そんな人だから、いくら私の悪口を書いても、いっこうに他から支持されることがない。
それで、私が北村紗衣を批判していることに目をつけて、北村紗衣ファンに媚びるかたちで私を批判すれば、自分の記事に「スキ」がたくさん付くだろうと、そう考えて色々と記事を書いてみたのだが、それでもまったく「スキ」は増えなかった。
一一なぜか?

それは無論、北村紗衣を推しているファンたちの方が、一枚上手で賢かったからだ。
普通に考えて、そのハンドルネームはもとより、内容自体が、わかりやすく「ためにする低レベルの悪口」でしかない「糞リプマン」氏の記事になど「スキ」をつけて、

それに反応してしまうと同レベルだと思われます。無視が一番です

と、そう見られていたのである。

そしてまた「糞リプマン」氏は、そのために私から「北村紗衣ファンにすら、相手にされない哀れな人」だと揶揄われることにもなったのだ。

だが、それだけではない。
1年あまりにもわたって、きつい言葉で徹底的な北村紗衣批判を展開している私に対して、論争に弱い北村紗衣が「ノーディベート」で逃げるのは当然としても、そのファンの中からすら、私を批判したり誹謗したりする跳ねっ返りが、ほとんど出てこないというのは、北村紗衣ファンというのが、まさに本書に描かれた「推し」活の古参メンバーのノリで、北村紗衣を推している人たちだというのを、示唆しているのであろう。

また、北村紗衣自身が、そもそも古参のオタクなのだ。「腐女子」出身(自称「ギーク」)で、レオナルド・ディカプリオ主演の『ロミオ+ジュリエット』から、シェイクスピアの研究家になった人なのだ。

もっとも、北村紗衣ファンというのは、必ずしもそこまで賢いわけではない。
なぜなら、Twitter(現「X」)上においては、本尊の北村紗衣に倣って、意見を異にする者を徹底的に袋叩きにするという、与那覇潤が言うところの「ファンネル・オフェンス」の役目を担っていた、という事実もあるからだ。

(北村紗衣が、須藤にわか氏と論争になった際の、須藤にわか氏のポストに寄せられた、北村紗衣ファンによる「フェンネル・ディフェンス」)

ところが私の場合は、与那覇のこうした指摘を受けて、それを北村紗衣批判の道具として逆用した。
大学教授である北村紗衣が、こんなことを「やらせて、黙認している」と、私が繰り返しやったものだから、この手が使いづらくなってきたのであろう。

まして、北村紗衣と同様、長文での論争能力など無いファンたちであれば、Twitterでやれたことも、そこ以外では出来ないためである。

しかし、今の彼らの「徹底無視」という戦略も、私には通用しない。

なぜなら、私の場合には「無視していれば、そのうち飽きて、おとなしくなる」というわけにはいかず、徹底的に粘着してみせる、およそ世間並みの外聞など気にしない、「復讐鬼」のごとき性格の持ち主だからである。
伊達や酔狂の「昭和生まれ」ではない、「根性」があるのだ。

実際、私の執拗な北村紗衣批判が、1年以上も、ずっとコンスタントに続くなどと考えた人は、ほとんどいなかったであろう。

だが、笠井潔批判としての「笠井潔葬送派」を名乗って、それを数十年続けてきた私としては、5、6年くらいなら、死なないかぎり楽しみながらやれると、そう確信して、北村紗衣への「徹底批判」を公言してもいたのである。
もはや「膾切り」ですらなく、一人「絨毯爆撃」なのだ。

(私が須藤にわか氏の記事のコメント欄に上のように書いた後、論争相手である須藤氏を監視していた北村紗衣が、いきなり下のように書き込んで、「管理者通報」したと圧をかけてきた。しかも、批評的に「切り刻む」という話を、故意に「器物損壊」予告と読み替えての「誣告」であった)

つまり、「荒らし」には普通はブロックで対応するというのが、いまや世間の常識なのに、いつもまともにやり返してきた私を、「普通の人間」だと見た「糞リプマン」氏と同様の目を、北村紗衣とそのファンは、私に見さされることになったのである。
私の(宮武外骨を踏まえた)『危険人物』という自称は、実績に裏付けられたものであって、決して過大な自己喧伝などではなかったのだ。

ところで、タイトルからもわかるとおり、本書の中には、「推し」ビジネスが、アメリカの「メガチャーチ(巨大教会)」の採用する宣伝集客(信徒集め)手法にそっくりだという議論がなされているのだが、そのメガ・チャーチの手法とは、次のようなものである。

『「メガチャーチにも色々あるんだけどさ、結局やってることは全部同じなの」
(中略)
「とにかく信者から集金すること。これ」
(中略)
「そういう意味では日本の新興宗教と変わらないよね。これを飲んだら魂が浄化されますとか言ってただの水を一万円で売るみたいなことをどこもかしこもやってるわけ。最近読んだ記事に定義が書かれててさ、"本質的には無意味、低価値、無関係なものを、団体が発信するストーリーによる権威付けと信者の視野狭窄によって価値が高いと思い込ませて、本来の価値以上の対価を支払わせる”。結局これなんだよね、全部」』(P329)

つまり、北村紗衣の場合は、商品である北村紗衣本人は無論、書肆侃侃房をはじめとした北村紗衣の著書の版元や、北村紗衣イチ推しのジュンク堂書店などが、北村紗衣という"本質的には無意味、低価値、無関係なものを、団体が発信するストーリーによる権威付けと信者の視野狭窄によって価値が高いと思い込ませて、本来の価値以上の対価を支払わせる”ということをやっているのだ。

例えば、先日私をアップした、北村紗衣の著書『女の子が死にたくなる前に見ておくべきサバイバルのためのガールズ洋画100選』(私による略称『女の子が死にたくなる洋画100選』)レビューのなかで、同書についてAmazonに投稿されたレビューをいくつか紹介したのだが、そのうちの一つ、「erikoS」氏によるレビュー「今までにない映画ガイド」は、典型的な「推し活」提灯持ちレビューであった。

『率直・フェアで、正確な背景知識に裏打ちされたさえぼう先生の映画批評のファンです。
この本で紹介されている映画に出てくる女性は、皆色々な事情を抱え、一面的ではない奥行きや豊かさのあるキャラクターばかりで、観たい映画リストが一気に更新されました(配信で観れる作品も結構多くて、それも嬉しかったです)。
アラフォーの身ですが、仕事や人間関係で疲れきったときに寄り添ってくれたり励ましてくれるような映画がこれだけあると思うと勇気づけられます。この本で紹介されなければおそらく一生観ずに終わっていただろう作品もあり(特に古いもの)、これから順に観ていくのが楽しみです。』(全文)

北村紗衣のファンとは、現実に疲れているからこそ、「女性を励ましてくれるフェミニスト」を演じている北村紗衣に依存することで、「現実逃避」による延命を果たしているのである。
北村紗衣は、彼女らにとっては、「オウム真理教の教祖・麻原彰晃」と同様の「グル(導師)」なのだ。

麻原彰晃と同じく、「フェア」どころか、嘘つきの二枚舌でしかない北村紗衣の批評文を、それでも『率直・フェアで、正確な背景知識に裏打ちされたさえぼう先生の映画批評』だなどと書けるのは、現実的な裏付けがあるというわけではなく、ただ、そういうことにしたい、そのように信じたいという「信仰的な願望」でしかない。

「推し」活が、「メガ・チャーチ」的な手法で作られるその根底には、「宗教的な依存」があるというのは、宗教批判者でもある私も指摘してきたところなのだが、信仰者というのは「イエスは死後3日目に復活して、その肉体のまま天に登った」などという与太話を、実話もして信じることすらする人たちなのだから、北村紗衣の映画評を『率直・フェアで、正確な背景知識に裏打ちされたさえぼう先生の映画批評』だなどと信じるのは、さほど難しいことではないのである。

(本書に推薦文を寄せている東京大学教授の田中東子は、北村紗衣に関わる「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」「現代フェミニズム研究会」の発起人メンバーであり、他ならぬ「推し」ビジネスの加担者であり、プチ教祖の一人と呼んでもいい人物である。詳細は下のレビューを参照)

閑話休題。
話を、ずーっと戻して、問題の人物、性別年齢すら不明の人物である「国見まこと」に戻そう。

私は、この国見について、その特徴は「無個性」だと指摘したが、この非現実的なまでに誇張された、国見の個性。
「個性がないという個性」とは、いったい何を意味するのであろうか?

一一それは、国見には「個性が無い」「好きなものも嫌いなものもない」、ただ「事実をありのままに見る、機械のような客観性だけがある」という非人間的な人間だからこそ、何ものにも捉われることなく、普通の人たちの持つ「欲望」を、「冷徹にコントロールすることができる」ということなのだ。
彼にある「欲望」とは、ただ「他人へのコントロール欲望」だけなのだ。

そして更に言い換えれば、国見のような「バケモノ」ではない、当たり前の人間である私たちは、誰しも、何ものにも依存せず、何者をも信じないで生きていくことは出来ない、ということなのである。

だから、「推し活の人々」の話だと、そう思って、本書を「面白く」読んだだけの人は、結局のところ、傲慢かつ頭の悪い「意識高い系」の一種でしかない。
本書を読んでさえ、自身の「信仰」に気付けないほど、深い盲信に囚われた人たちだということである。

だから、私自身、これまでの人生において「信用できるもの」ではなく「信用するに値するもの」とは何か、といったことを考え続けてきた。

若い頃に読んだ、笠井潔によるミステリ小説の主人公、名探偵の矢吹駆は、グスタフ・マーラー「大地の歌」の一説を口笛で吹く癖があるのだが、その一説の歌詞とは、

『生は暗く、死もまた暗い』

というものであった。

https://www.tpo.or.jp/concert/pdf/201906-kashi.pdf

私はこの意味深長な歌詞を、素直に読めば「生きていることも、死んでしまうことも、どちらも暗く見通せないもの(運命)でしかない」というようなことになるのだが、果たして「人間の生」とは、そんな暗いものなのであろうかと、そんなことを考えてきた。

そしてその結果として、私の到達したひとつの回答と選択は、

「この宇宙には元来、善も悪もない。だが、それでもそこで生きるしかないのであれば、私は私の運命の賭けを、私の美意識に賭けよう」

と、そういうことになった。

当然、私の美意識が正しいという保証など、もとよりどこにもないのだが、しかしそれでも「それは美しい行いだ」「それは醜い選択だ」と感じてしまうというのは、否定できない事実なのだから、私はその否定しがたい「事実としての、自分自身の美意識」だけは、裏切らないよう努力しようと、そう考えたのである。

ともあれ、私の「美意識」がそうであるように、すべての人は、何らかの「信仰対象」を持っており、そうした意味での「信仰」だけは、無神論者や無宗教家であっても、決して避けられはしない。

だから、私が「宗教」批判をするように、「推し」ビジネスに踊らされている人たち、あるいは、踊らせている人たちをを批判することは必要だし、ひとまずそれが「正しい」ことだとしても、しかし、そうしたものへの批判者である自分が、「信仰者としての人間」の「例外」でいられるなどという、愚かなことを考えてはならない。

「私は大丈夫」という「信仰」ほど、ありふれて愚かな信仰も、またと無いのである。

「国見まこと」のような、ほとんど完全に「無個性」で、ほとんど完璧に「何ものにも縛られない」人間など、この世には存在しないのだ。
人間とは、さほどご立派なものではないのである。


(2025年10月23日)


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(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)


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