シモーヌ・ド・ボーヴォワール 『第二の性』 : 北村紗衣の愚かさは、男によって作られた。
書評:シモーヌ・ド・ボーヴォワール『決定版 第二の性』(『第二の性』を原文で読み直す会 訳・河出文庫 全3巻)
「フェミニズム」の勉強を始めたからには、当然読んでおかねばならない古典が、本書『第二の性』である。
だが、キリスト教徒の「聖書」と同様、本書を通読しているフェミニストは、意外に少ないのではないかと、そう感じられもした。
著者のシモーヌ・ド・ボーヴォワールは、かのジャン=ポール・サルトルのパートナーであり、『第二の性』を書いた女性だ、ということくらいは、読書家ならば、フェミニズムに興味がなくても、常識として知っていることだろう。

当然、サルトルと言えば、小説家であり「実存哲学」を提唱した哲学者だという程度のことは、その中身を知らなくても、常識として知っている話なのだ。一一少なくとも、かつては、そうであった。
今でこそ、小説家と哲学者は別のものだと考える人も多いが、それは「哲学する人=哲学者」と「哲学を専門に研究する人=哲学研究者」を混同しているためであろう。
というのも、かつての「文学者」は、単なる「娯楽小説作家」だったわけではなく、文芸を通して、この世界のあり方を考え語った人たちであり、その意味において「哲学者」でもあったからだ。
つまり、「文学者」は「哲学していた」のであって、「哲学を研究していた」わけではない。
ではなぜ、哲学者と文学者は別物だという誤解や、哲学者とは哲学研究者だというような混同が生じたのであろうか?
それは、
(1)「哲学する」だけなら猿(並みの人間)でもできるから、その人なりに「哲学してる」つもりなら、すべての人が「哲学者」だということになって、「哲学者」という言葉の意味が無くなるからである。これがひとつ。
(2)もうひとつは、「大学で哲学を(職業的に)研究をしている人=(職業)哲学研究者」というのは、「哲学の専門職であり、当然それなりに哲学史や哲学者の思想などに詳しい(なにしろ時間をかけている)」から、「哲学」については、素人を感心させるくらいの「哲学についての話」なら出来るからだ。
つまり、「大学で哲学の研究をしている学者=哲学研究者」は「最低限、学問的な哲学については語れる人」だから、まあ「哲学者」と呼んでも、大筋で間違いではないだろうと、そういう意味での「(職業)哲学者」なのである。
しかし、本来であれば、「哲学者」というのは、「哲学する人」のことなのだから、(1)の方だと考えても良さそうなのだが、しかしわざわざ「哲学」と呼ぶからには、ただ考えてさえいれば良いというものではなく、やはり「並外れて深く考えている」人でないと「哲学者」と呼ぶには値しない。
そのため、(1)の定義では、「哲学者」と呼ぶには値しない人まで、「哲学者」と「自称」させかねないことになって、それは適切なことだとは言いかねる。
だがまた実際のところ、そんな人をよく見かけもするはずだ。「哲学をやってます」などと、臆面もなく自己紹介できる、軽薄な手合いである。
そのため、わざわざ「哲学者」と肩書きするからには、「哲学している」だけではなく、やはり「並外れたレベルで、哲学している」という条件は、おのずと必要になるのだ。
では、(2)の「哲学研究者」が、「哲学者」と呼ぶに値するレベルなのかと言えば、無論、いちがいにそんなことは言えない。「研究する」だけなら誰でもできるのだから、「哲学研究者」にもピンからキリまでいるのだから、「哲学研究者=哲学者」では、あり得ない。つまり、「哲学研究者の中にも、まれに哲学者と呼ぶに値する人がいる」というだけの話である。
したがって、「哲学研究者=哲学者」ではない。こちらも、「研究者止まりではないレベルの思考を実践できている人」を「哲学研究者の中の哲学者」だと考えるべきであろう。
で、何故こんなまわりくどくも「わかりきった話」をしているのかというと、今どきは(1)にしろ(2)にしろ、「一定レベルな達していない者」が、臆面もなく「哲学者」を名乗っている場合が現にあるからで、特に問題がなのが(2)の「哲学研究者」である。
ここに分類される人の中には、その能力の如何を問わず、「大学で哲学の研究をしているからには、自分は哲学者」だと、平気でそんな顔をしている者が少なくないからである。
しかし、哲学者というのは「大学において生産される職業」などではない。
そうではなく、大学に所属するか否かに関わりなく生まれた「哲学者」が、その「優れた哲学」において、大学に招かれ、大学の教授になったから、大学に所属する「哲学者」が多くなったということであって、その逆ではないのだ。
また、大学に所属するようになった「哲学者」に弟子入りして、大学で哲学を学んだからといって、その学生がすべて「哲学者」と呼ぶに値するものになれるわけでは、当然ない。
ましてや、「哲学者」になれなかった「哲学研究者」に大学で学んだって、その人にもともとの素養がなければ、「哲学者」になどなれるわけがない。
「哲学」は、「家元制度」的なものでも、「免状(免許)」制度でもないのである。
ではまた、何故こんなことをくどくどと書いているかと言えば、それは、「サルトルって、哲学者ですよね。小説も書いてたみたいだけど」とか言うような人や、「サルトルなんて、所詮は小説家であって、哲学者ではないでしょう。彼の哲学なるものは、哲学ではなく、思想にすぎない」とかいった、「わかったようなこと」を言う人も、稀にいるからだ。
つまり、私が言いたいのは、「小説家であることの哲学者であることは両立可能であり、矛盾しない。それは、表現形式の問題でしかなく、哲学であるか否かの問題ではない」ということであり、「哲学と思想とは、はっきりとした線引きなど出来るようなものではない」ということである。
したがって、サルトルは「小説家であり哲学者である」ということで良い。
いうまでもなく「哲学者のすべてが、小説を書くわけではないし、書けるわけでもないし、小説が書けなければならないということでもない。小説を書く哲学者もいて、小説を書いたからといって、哲学者ではないということにもならない」と、そんな当たり前のことを確認しているだけなのだ。
では何故、こんな当たり前のことを確認したのかというと、人によっては「ボーヴォワールは、哲学者ではなく、作家であり思想家だ」と、そう考えるような人もいるからである。
だが、これは上のサルトルについての議論からもわかるように、無意味な、いや「悪意ある」、恣意的分類でしかない。
「作家」と「思想家」と「哲学者」は、一人の中に併立し得るものであって、排除し合う属性ではない。
だから、ボーヴォワールは「作家であり思想家であり哲学者」であると考えても、なんら間違いではない。事実、そのように考える人も少なくない。
なのにどうしても、「ボーヴォワールは、哲学者ではない」などと言いたがるような人が、現に存在するのだろうか?
それがまさに本書『第二の性』のテーマである、「女性」なればこそ、ということなのである。

「女性には、哲学ができない」と、そう考えたがる「性差別」意識があるからこそ、「サルトルは哲学者だが、ボーヴォワールは哲学者ではない」と考えたり、その「差別」を正当化するために「ボーヴォワールは、サルトルのパートナーだったから、サルトルの権威と威光によって過大評価されているだけ」だなどという、ためにする見方も出てくるし、中には「ボーヴォワールは、哲学についての専門教育を受けていない、所詮は哲学の素人だ。才女のアマチュア哲学にすぎない」と、そんなことを考える者もいるのである。
たしかに、ボーヴォワールは、女性であるが故に、当時のフランスにおける、哲学の専門高等教育を受けられなかったようだ。
その意味では、今の日本の「大学の哲学研究者」にも劣る「学歴」しか持たない「在野の(アマチュア)哲学者」だったとも言えよう。
ボーヴォワールが「プロ」だったのは、「作家=著述家」としてであり、その内容が「哲学的エッセイ」だったわけなのだが、それは「所詮は、作家でも書ける哲学的エッセイだ」という理屈で、その表現形式において、差別されてしまうこともあった。
「哲学には、哲学の作法というものがあるのだよ」と、今なら公然とは語りにくいようなことを語る権威主義者が、かつては大勢いたし、今だって「私はプロで、所詮あなたは在野(アマチュア)だ」と言いたげな人(プロ)も少なくないのだから、ましてや、ボーヴォワールの時代なら、そうした傾向は、もっと強かったはずだ。
なにしろ、学問の権威を「脱構築」した「ポストモダン思想」以前の時代なのだから。
○ ○ ○
そんなわけで、ボーヴォワールの『第二の性』は、実際に読んでみればわかるとおりで、決して「難しい言葉」で書かれているわけではない。
今となっては、すっかり馴染みのなくなった「実存哲学」の用語がいくつか使われており、それが少し難しいくらいで、あとは「普通の言葉」で書かれていると言っても、決して過言ではないだろう。
だから、本書『第二の性』は、いわゆる「哲学書」と言うよりは、形式としては「哲学的エッセイ」の本ではあるのだが、「哲学エッセイの本」は「哲学書」の一種なのである。
では、専門的な「哲学書」と「哲学エッセイ」とは、何が違うのかといえば、「哲学書」とは、その多くが「理論書」であるのに対し、「哲学エッセイ」は「哲学の実践」である、といった違いである。
つまり、「哲学書」の多くは、著者が確立した「哲学」を理論的に語る(紹介する)ことを目的としたものでなのだが、「哲学エッセイ」とは、確立されたものや、実践的検討の結果として得られたものを語るものではなく、「書く」という「今ここの実践」において「哲学している(する)」ものなのである。
したがって、一般に「哲学書」というのは「理論的」であり「体系的」であり、その意味で「学問」的なのだが、そうした「(暫定的な)結論」の提示を目的とはしていない「哲学的エッセイ」は、当然のことながら「理論的」でもなければ「体系的」でもないし、その意味で「学問」的でもない。
そうではなく、現に「今ここで哲学している」のであり、その意味で「未完成」であり、そのために「学問」ではないと、考えられてしまうのだが、そういう意味でなら、それはあながち間違いではないだろう。なぜなら、「哲学=学問」などではないからである。
だがまた、ここが勘違いされてしまう。
「学問」の形式を採らないものは「哲学ではない」とされてしまいがちなのだ。
それは、「哲学もどき」であり「アマチュア哲学」であり「二流の哲学」だと、誤って見られてしまう。
「哲学」が「大学」に囲い込まれて、その「制度的な権威」による保証を受けるようになると、在野の「哲学」は、偽物扱いにされるようになる。
だから、ボーヴォワールの「哲学」も、「哲学ではなく、哲学的エッセイだ」などといった難癖をつけられ、「格下」扱いの「差別」待遇を受けることにもなるのだ。
だが、ここにこそ、「性差別」と「学歴(階級)差別」の二つが、絡み合って存在しているという事実を、見落としてはならない。
今の「フェミニズム」用語で言うところの「交差性(インターセクショナリティ)」の問題が、ここにも明白に存在しているのだ。
だが、そうであるにもかかわらず、本書の翻訳者や解説者たちは、本書において「(女)性差別」については語っても、「学歴(階級)差別」の方については、ほとんど言及してはいない。
それは何故なのかと言えば、一一彼女たち自身が「学歴エリート」だからである。
結局は、他人の「差別意識」は見えやすくても、自分たちの「差別意識」は見えにくい、ということなのだ。
たしかに、ボーヴォワールによる『第二の性』のテーマは「性差別」である。
だから、それについて語っておけば、いちおう「義理は果たしており、決して間違いではない」のだが、しかし、本書を語る学者やフェミニストたちは、ボーヴォワールと同時代の学者でもフェミニストでもないのだから、当然の前提として「交差性」の問題を踏まえていなければならない。
なのに何故、それをしないのか、出来ないのかと言えば、それは「自分にもある差別意識」のことは、気づきにくいし、気づいても触れたくないという「人情」が働いているからである。
「私は誰よりもボーヴォワールを正しく理解している」という意識が「だから、私には差別意識など無い」という無意識に、どこかで直結しているのだ。
だが、こうした「抜きがたい差別意識」の「現実」を、これでもかというかたちで論じたのが、他でもない、本書『第二の性』なのだ。
本書は、単に「男性は女性を差別している」とかいったことだけを、「理論的に」述べたような著作ではない。
読んでいない人にはわからないことだが、本書は、実に膨大な資料を渉猟し、そこから「女性差別」に関連する広範な「実例」を次々と紹介するかたちで、「女性差別」というものが、具体的にどういうものなのかを浮き彫りにした書物なのだ。決して、抽象的な議論に終始する「理論書」などではないのである。
ボーヴォワールが本書でやっているのは、「女性差別の存在の実証」であって、その「理論化」でもなければ、ましてやお手軽な「処方箋の提示」などでもない。
『第二の性』というと、
『人は女に生まれるのではない、女になるのだ。』
という言葉が、あまりにも有名だ。
これは、初訳全5巻版の第1巻冒頭に登場する、いかにもキャッチーな言葉なのだが、私が読んだ「決定版」全3巻の河出文庫版では、原書の構成に忠実に、上の言葉を冒頭に置く「体験」篇は、第2巻となっている。

つまり、ボーヴォワールが原書の冒頭で語ったのは「事実と神話」篇であり、その後に「体験」篇が、倍の量で続くという体裁となっている。
そして、冒頭の「事実と神話」篇で語られているのは、男がいかにして「女」を作ったかという、まさに「事実と神話」の検討なのだ。
ところが、フェミニズムの本を読むと、翻訳旧版で与えられた絶大なインパクトのせいなのか、いまだに『人は女に生まれるのではない、女になるのだ。』という言葉ばかりが、繰り返し引用される。
また、この言葉さえ引用していれば、まるでその引用者が、『第二の性』を通読したような印象を読者に与えるのだが、しかし、この部分を引用しているからと言って、その引用者自身が、『第二の性』を通読したという保証など、どこにもない。
単なる「知ったかぶり」の「孫引き」でしかない可能性も、十二分にあるのだ。
なにしろ「今どきの日本のフェミニスト」といったら、本を読まない。
だから、『第二の性』のような浩瀚な「古典」を本当に読んでいるかどうかは、かなり疑わしいとも言える。
例えばそれは、「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい」というイエス・キリストの言葉を「引用」する人が、必ずしも「聖書」を通読しているわけではない、というのと同じようなことなのだ。
したがって、フェミニストを名乗る人が、ボーヴォワールを引用したからといって、この部分だけしか引用しないような者は、かなり疑わしいと言えよう。
それと似たような事例としては、「シェイクスピアの研究者」を自称する「武蔵大学の教授」でフェミニストの北村紗衣は、その著書『批評の教室』で、シェイクスピアに関わる志賀直哉の小説「クローディアスの日記」の「おかしな点」を、シェイクスピア研究者として指摘しているのだが、これについては、比較文学者の小谷野敦が、北村紗衣の同書についての「Amazonカスタマーレビュー」で、
『 日本の作品が少なすぎる。シェイクスピアと英文学少し、あとは最近の映画ズラーって(※ 内容な)のは若い読者には(※ ウケが)いいのかしれんが(※ いかにも食い足りない)。なお「クローディアスの日記」におけるおかしな点は、榊敦子が論文に書いていたので先行研究をあげておくべきだったろう。』
と指摘していた。
これは何を意味しているのかといえば、まず間違いなく北村紗衣は、志賀直哉に代表される「日本文学」、小谷野敦が言うところの『日本の作品』をほとんど読んでいない、ということである。 だからこそ、『批評の教室』と銘打っていながら、「日本の文学」作品の名がほとんど挙がっておらず、それは北村紗衣の他の著作でも同じなのだ。
つまり、北村紗衣は、「シェイクスピアの研究者」ではあっても、「日本文学」を読んでいないものだから、自分の著書の読者もきっと「志賀直哉までは読んでいないだろう」と高をくくって、榊敦子の研究成果を、しらっと横領しようとした、ということなのである。
事ほど左様に、「私、シェイクスピアの研究者だし」とか「私、フェミニズムの専門家だし」とか「私、哲学の研究者だし」といったような顔をして、もっともらしくボーヴォワールを引用していても、本当に読んでいるとは限らないのである。
と言うか、疑わしい人物が少なくないのだ。
なにしろ、日本人のシェイクスピア専門家が、シェイクスピアを下敷きにした志賀直哉の短編小説に言及しながら、その短編ひとつを読んでいないのではという疑いを指摘されるくらいなのだから、ましてや、平均500ページの分厚い文庫本で3冊、初訳版なら全5巻だった『第二の性』を、読んだふりで済ませる専門家やフェミニストがいても、なんら不思議ではない。
ただでさえ、大して本を読まず、一般教養に乏しい今どきの大学教員ならば(きっと、趣味の本や映画や観劇やゲームなどなどの方に忙しいのだろうから)、専門外の本(教養書)を読まないのは「当たり前」として、自身の専門ジャンルの本でさえ、効率的に「いま引用してカッコいい、最先端の外国の学者の本」は無理して読んでも、いまさら「古典」であるボーヴォワールを読もうなどとは、思わなくて当然だ。
知ってて当然であるが故に、いまさら引用しても、誰も感心してくれないボーヴォワールを読むくらいなら、ボーヴォワールについては、
『人は女に生まれるのではない、女になるのだ。』
という有名の言葉だけを「孫引き」「ひ孫引き」しておけば、いちおうのアリバイ作りにはなるからである。
では何故「今どきの日本のフェミニスト」は、『第二の性』を読んでいないんじゃないかと疑うのかというと、じつは『第二の性』には、
「いかに、今の女はダメか」
ということが、これでもかというくらいに、各種の事例・実例を挙げて書かれているからである。
言うなれば、「女性フェミニスト」の弱点までもが、呵責なく暴かれているのだ。
したがって、『第二の性』を読んでいれば、そのあたりからの引用まではないとしても、ボーヴォワールがそうしたことをあえて書いた問題意識について言及するのは、当然のことなのだ。
ところが、現実にはそれがぜんぜん出来ていないというのは、そもそも『第二の性』を通読していないからだと、そのように疑い得るのである。
実際、本書の翻訳者であるフェミニストたちは、その部分にも言及している。そこを無視して、本書の紹介は不可能だからだ。
では何故、ボーヴォワールは「女性のダメさ」を、これでもかと紹介したのだろうか?
簡単なことである。
ボーヴォワールが描き出した「女性の現実」とは、男性によって、差別的に「女性」にされてしまった「女性の現実」だからだ。
本来、「女性」とは「そんなもの」ではないのに、男たちによって「女性とは、こういうものである」と規定され、それを社会的に強いられることによって、女性自身も、自分を「そんな女性」であると思い込まされてしまった。
そのため、そうならざるを得なかったし、そうならなければ生きてはいけない「男性中心社会=家父長制社会」の中で、ほとんど避け得ず、男の考える「女性」という鋳型に嵌められていたのである。
つまり、ボーヴォワールは本書『第二の性』で、
「これまでの女性は、このようにして男によって作られた女性でしかなかった。本来の、人間性とその可能性を奪われ、矮小化されてしまった、惨めな存在でしかなかった。だからこそ、女性はそうした男性による鋳型を脱して、本来の人間らしさとその可能性を回復しなければならない」
と、そう訴えているのである。
また、だからこそ「今の女性の在り方」は、徹底的に批判されなければならない。
「今の女性は素晴らしい」などと言っていては、女性自身には自覚しにくい「男性による、女性の鋳型」を脱することができない。
だから「今の女は、ぜんぶダメだ」と言うに等しい、呵責のない批判を、あえて「今の(ありのままの)女性」に対して、差し向けているのである。
したがって、「男性による女性差別」を脱することを目的とする「フェミニズム」というのは、元来「今の女性=現状の女性」に対して厳しいものでなければならない。
「貴女は、そのままでいいんですよ」などと、耳ざわりの良いことを言っていては、社会の根本的な変革などできるわけがないのだ。
ところが、今どきのフェミニズムの現実はどうか?
「男が悪い」「女はもっと権利を主張すべきである」と言っているだけで、「今の女性の何が、ダメなのか(問題なのか)」については、まったく指摘しようとはしない。
一一これは、何故なのだろうか?
それは、「フェミニスト」である女性自身が、「男性的な価値観」に毒されたまま、だからである。
だからこそ、「自分以外の女」を、うまく煽てて踊らそうとするだけなのだ。
まるで「女を煽てて、意のままに操ろうとする男」のように。
「男性的な価値観に毒されたままのフェミニスト」とは、当然「自己矛盾の産物」でしかない。
だが、それが意識化されないのは、結局のところ、その女性フェミニストが「男性的な価値観」を内面化して、その価値観を生きている「男性化フェミニスト」に他ならないからである。
さすがに、ボーヴォワールが「変わらなければならない」と批判したものとしての「男に作られた女性(そのもの)」ではなくなったものの、「他人を自己都合で作り替えようとする、男性的な権力性を内面化して、男性化した女性」が、今どきの女性フェミニストなのだ。
だから彼女たちは、女性同士での、批判的な議論ができないし、しない。
ただ、対立した女性に対しては、「キャンセル」でその発言権を奪おうなどと(昔の男みたいなことを)するだけなのだ。
それが「男性的な階級社会」を内面化して、その中で勝ち抜き、成り上がる(男性的に、社会の中で成功する)ことを目指すようになった、「今どきの日本のフェミニスト」なのだ。
これをフェミニズムの言葉で言えば、「リーン・イン・フェミニズム」であり、今の日本のフェミニズムの言葉で言えば「第四波フェミニズム」、あるいは「セレブリティ・フェミニズム」ということになる。
だから、『第二の性』における、ボーヴォワールの言葉は、しばしば「今どきのフェミニスト」を、批判する言葉にもなっている。
しかしながら、本書からそうした「女性の耳に痛い」部分が引用されることなど金輪際なく、馬鹿の一つ覚えのように『人は女に生まれるのではない、女になるのだ。』という言葉だけが、繰り返し「孫引き」「ひ孫引き」されるばかり。
これが「今の日本のフェミニズム」の実情なのだ。
○ ○ ○

以降は、私が読んだ河出文庫版三巻本の第3巻から、主に「女性が抱える問題」を指摘した部分をいくつか引用して、これに「解説」を加えるかたちで書いていこう。
これを読めば、ボーヴォワールが、やむを得ず批判した「男によって歪められたものとしての女性性」というものが、今の女性の中にも、そして当然のことながら「女性フェミニスト」の中にも、少なからず生きているという現実が、ハッキリと理解できるはずはずだ。
(1)『 戦時中、高級娼婦ほど強烈な愛国心をひけらかす者はない。高貴な感情を装って公爵夫人並みになろうと思うのだ。常識、紋切り型、偏見、型にはまった感情が公の交際の基本で、たいていは誠実さを心底まですっかり失ってしまっている。嘘と誇張のあいだで言葉は自滅する。高級娼婦の生涯は客寄せ芝居だ。その言葉、身振りは考えを表現するためのものではなく、効果を生むためのものなのだ。庇護者に愛の芝居を打つ。そして時には自分自身に。世論に慎ましさと威信の芝居を打つ。そして最後には自分を徳の鑑、聖なる偶像と思うのだ。頑固な欺瞞が高級娼婦の内面生活を支配し、その欺瞞のせいで、取りつくろった嘘が真実のように自然らしく見える。』(第3巻・P183〜184)
例えば、多くの若い女性が、ロールモデルとしての「セレブリティ・フェミニスト」を求めているのではないかと書いた北村紗衣は、その後、自身が望んだとおりに、「セレブリティ・フェミニスト」になりおおせた。
また、そうでありながら、そんな北村紗衣のことを「インフルエンサー」だと呼んだ、須藤にわか氏に対し、北村紗衣は「私はインフルエンサーではなく、シェイクスピアの研究者だ」と訂正を求めたりしたのだが、「Xのフォロワー5万人強」の「saebou@Cristoforou」が、インフルエンサーでないなどとは、普通は誰も考えはしないだろう。
・シェイクスピア研究者の北村紗衣さんがアメリカン・ニューシネマについて俺の個人的なニューシネマ観とはかなり違うことを書いていたのでそれを説明しつつニューシネマのいろんな映画を紹介する記事〔改訂版〕
(※ 北村紗衣からの「私はインフルエンサーではない。シェイクスピアの研究者だ」といった苦情を受けて、タイトルと中身の書き換えられた「改訂版」)
そして、そんな北村紗衣自身の語る「ジェンダーギャップ解消のための活動」とは如何なるものかと言えば、要は「女性は男に差別されている」であり「男が悪い」という、フェミニズムの何たるかを学ぼうともしない女性にほど、わかりやすい理屈である。
いや、理屈と言うよりは、すでに理屈以前の「党派イデオロギー」だ。
だから、北村紗衣は、声高に「女性差別」には反対しても、日本人として無視し得ない、「部落差別(同和問題)」や「従軍慰安婦問題」「朝鮮人徴用工問題」「在日朝鮮人差別」「沖縄への米軍基地押しつけ」といった差別には、一言半句触れようとはしない。
一一これは何故か?
無論それは、女性である北村紗衣にとって「女性差別」を訴えることは、被害者の一人として、その党派利益に資するものであると同時に、自らの個人的な利益にもなるし商売にもなるのだけれども、上に挙げた「部落差別(同和問題)」や「従軍慰安婦問題」「朝鮮人徴用工問題」「在日朝鮮人差別」「沖縄への米軍基地押しつけ」といった問題は、自身が「差別加害者」の側に立たされてしまう性格のものであり、なんら「美味しい思い」のできないものだから、それらを打算的に敬遠しているのである。
そうでなければ、どうしても頑ななまでに、こうした「差別問題」については、口を閉ざしていられるのであろうか?
フェミニストの中には、そうした差別に取り組む人も、現にいるというのに。
結局のところそれは、北村紗衣が、美味しいとこ取りだけを狙う、流行便乗型の「今どきのフェミニスト」であり、昔の「高級娼婦」と似たような「立ち位置」の存在だということなのだ。
『常識、紋切り型、偏見、型にはまった感情が公の交際の基本で、たいていは誠実さを心底まですっかり失ってしまっている。嘘と誇張のあいだで言葉は自滅する。高級娼婦の生涯は客寄せ芝居だ。その言葉、身振りは考えを表現するためのものではなく、効果を生むためのものなのだ。庇護者に愛の芝居を打つ。』
当時の「高級娼婦」とは、男性中心社会に「リーン・イン」していた、「勝ち組女性」だった。
まさに、機を見るに敏な「セレブリティ」だったのである。

そして「高級娼婦」の「庇護者」に当たるのが、「今どきのフェミニスト」の場合だと、その言葉に踊ってくれる「無教養な一般女性」の「お客様」だということになろう。
北村紗衣のような「セレブリティ・フェミニスト」は、リーン・インすることなど到底不可能な大半の「平凡な女性」からの支持を調達することで、そうした「客層」の支えられて、自分だけが、男性中心社会の中で成り上がるのである。
(2)『女たちが男性世界の英雄や法に払う尊敬の念は、彼女たちの無能と無知から来ている。彼女たちはそれらを、判断によってではなく、信仰の表明によって認めるのである。信仰は、それが知識ではないというところから、その狂信的な力を引き出す。信仰は盲目的で、情熱的で、頑固で、愚かしい。信仰が提起するものは、無条件で、理性に反し、歴史に反し、いっさいの反駁を寄せつけないといったかたちで提起される。こうした一途な尊敬の念は、場合に応じて二つのかたちをとる。つまり女が情熱的につき従うのは、ある時は法の内容であり、ある時は法の単なる空疎な形式なのだ。既成の社会秩序から利益を得る特権的なエリートに属している女であれば、秩序が揺るがないことを望み、その非妥協性で際だっている。男は他の制度、他の倫理、他の法律を作れることを知っている。自分を超越と捉えているので、歴史をも一つの生成と見なす。きわめつきの保守主義者であっても、ある程度の進歩は避けがたく行為や考えをそれに適応させなければならないことを知っている。だが女は、歴史に参加していないので、そうしたことの必要性がわからない。未来を警戒して、時をとめたがる。父や兄弟や夫からさしだされた偶像がうち壊されてしまうと、どのようにして天にふたたび偶像を住まわせたらいいのか、いくら考えても考えつかない。だから、それらの側像を必死で守ろうとするのだ。アメリカの南北戦争のとき、南部連合派のなかでも女ほど熱心な奴隷制擁護論者はいなかった。イギリスではブール戦争の際、フランスではパリ・コミューンに対して、最もいきりたっていたのは女だった。女たちは感情の激しさを示することによって、行動の欠如を埋め合わせようと努める。勝ったときは倒された敵にハイエナのように襲いかかり、敗けたときはいっさいの和解を激しく拒絶する。女たちの考えは態度にすぎないので、とっくに時代遅れになっている主義主張を平然として守ろうとする。一九一四年に正統王朝派になることもできるし、一九四九年に帝政派になることもできる。男は時に微笑みながら女たちを励ます。男は、自分がなるべく節度をもって表現している意見が狂信的なかたちで反映されるのを見るのがうれしいのだ。しかしまた男は、自分の考えがそのように愚かしく頑固な様相をおびるのに苛立ちもする。
女がこのように断固として見えるのは、高度に組織化された文明や階級だけである。一般的には女の信仰は盲目的で、女が法律を尊重するのはそれが法律だからである。法律は変わっても、その威を保つ。女の目には、権利を作り出すのは力であると映る。女が男に認める諸権利は、男の力から生じるものであるからだ。一つの集団が解体するとき、まず女たちが勝者の足元に身を投げ出すのはそのためだ。女たちは、いまあるものを受け入れる。女を性格づける特徴の一つは、あきらめである。ポンペイの灰のなかから遺骸が発掘されたとき、男は天に立ち向かったり逃げようとしたりして、反抗の動作のまま硬直していたが、それに対し、女は体を曲げ、うつぶせになって顔を地に向けていた。女たちは、火山、官、主人、男など、事物に対して自分が無力であることを知っている。「女は苦しむようにできている。それが人生‥‥‥どうしようもない」と女たちは言う。このあきらめが、よく称賛される女の忍耐を生み出す。女は男よりずっと肉体的苦痛に耐える。必要に迫られれば毅然とした勇気も出せる。男のような攻撃的な大胆さがないかわりに、多くの女たちはその受け身の抵抗の穏やかな粘り強さで優る。』
(第3巻・P231〜233)
ここで批判的に描かれているのは、もちろん「かつての保守的な女性」のことである。
だが、そうした「愚かな女性」が、現代においては、どのような態度を採りがちなのか、ということを、少しは考えて欲しい。
つまり、昔は、男たちが直接、こうした「愚かな女たち」を踊らせ、利用していたのだが、今の時代は、もう一段「手が混んでいる」のだ。
つまり、直接、支配階級の男たちが、一般女性をコントロールするのではなく、男性中心社会の「侍女」である「リーン・イン・フェミニスト(セレブリティ・フェミニスト)」を使って、一般女性を踊らせることで、搾取するのである。
だから、上の引用部冒頭の、
『女たちが男性世界の英雄や法に払う尊敬の念は、彼女たちの無能と無知から来ている。彼女たちはそれらを、判断によってではなく、信仰の表明によって認めるのである。信仰は、それが知識ではないというところから、その狂信的な力を引き出す。信仰は盲目的で、情熱的で、頑固で、愚かしい。信仰が提起するものは、無条件で、理性に反し、歴史に反し、いっさいの反駁を寄せつけないといったかたちで提起される。』
の部分を、次のように「現代風」に読み替えてみるといい。
「女たちが男性世界に反抗する英雄としてのフェミニストや、その法であるフェミニズムに払う尊敬の念は、彼女たちの無能と無知から来ている(実際、彼女たちはフェミニズムのことを、ろくに知らない)。彼女たちはそれらを、理性的な判断によってではなく、フェミニストやフェミニズムへの信仰の表明によって認めるのである。信仰は、それが知識ではないというところから、その狂信的な力を引き出す。信仰は盲目的で、情熱的で、頑固で、愚かしい。信仰が提起するものは、無条件で、理性に反し、歴史に反し、いっさいの反駁を寄せつけないといったかたちで提起される。」
実際、北村紗衣などの人気フェミニストのファンたちは、その「無知無能で愚かな頑固さ」によって、彼女らが信仰する「神」の意見に反駁する者を「理屈抜き」で否定するし、例えばTwitter(現「x」)で寄ってたかって攻撃するといった狂信者的な行動などは、与那覇潤も下のように指摘している、事実なのである。

言うまでもなく、これらは決して「反論」などではなかった。
だから私は、北村紗衣の著作について、それが「クズ本」だと、根拠を示して論じたレビューを書いた際に、「北村紗衣の著作については、まともな書評が一本も書かれていない。また、名のある人は北村紗衣の著作に推薦文など書いていない。なぜなら、無理にでも誉め上げた提灯持ち書評は書けても、論理的に褒めることなど不可能だからだ」と、書けるものなら書いてみろという調子で挑発したが、それから1年近くが経っても、未だ「まともな(肯定的)書評」は、一本たりとも書かれてはいないのだ。
(ちなみに、北村紗衣の「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」や「現代フェミニズム研究会」の仲間ですら、推薦文を書いていないことからも、北村紗衣のフェミニズムのレベルを推して知るべきであろう)
(3)『 論理的原理や道徳的命令を拒み、自然の法則に対して懐疑的である女は、普通の感覚をもたない。世界は個々の事態の雑然とした集まりのように女には見える。女が科学約な説明より近所の女の噂話をじやすいのはそのためだ。印刷された書物を尊敬するかもしれないが、その尊敬は書物の内容をつかむことなく、書かれたページにそってすべっていく。ところが反対に、なにかの行列やサロンで見知らぬ人間の語った逸話はすぐに圧倒的な権威をおびる。女の領域ではすべてが魔術である。外界はすべてが不可解だ。女は何が真実かというその基準を知らない。自分自身の経験でも、また他人の経験でも、それが十分に強く主張されるのなら、確信をもたらすのは直接的な経験だけだ。女は家庭に孤立していて、自分を他の女たちと積極的に対比することがないので、自然に自分が特異な立場にいると考える。運命と男たちが自分にいいように例外を作ってくれるのを待っている。誰もが承認できる論理より、自分の心によぎる霊感の方をずっと信じる。
女はそのような霊感が神だとか世界の得体の知れない霊のようなものから送られるのだと想定しやすい。ある種の不幸や事故については、平静に、「私にはそんなことは起こらないだろう」と思う。また逆に、「私は例外にしてもらえるだろう」と思い込む。女は特別待遇を好む。商人は割引きしてくれ、警察官は通行許可証なしに通してくれるだろう。人は女の微笑の価値を過大評価することを女に教えたが、女は誰でも微笑するものだということを教えるのは忘れた。それは女が隣の女より自分の方がすばらしいと思うからではない。つまり、女は比較をしないからなのだ。同じ理由から、女が経験を得て誤りを取り消すことはめったにない。一つひとつの失敗は拭っても、それらを総決算することがない。
だからこそ、女は男に挑戦できるような確固とした「反・世界」をうまく構築できないのである。』(P 256〜257)
女性が大半を占めるのであろう「北村紗衣の5万人のフォロワー」は、しかし、Xで私の悪口は書けても、「反論文」を書くことはない。
北村紗衣の著作についての「まともな書評」が書けないのと同様、「反論」が書けないからである。
『論理的原理や道徳的命令を拒み、自然の法則に対して懐疑的である女は、普通の感覚をもたない。世界は個々の事態の雑然とした集まりのように女には見える。女が科学約な説明より近所の女の噂話をじやすいのはそのためだ。』
北村紗衣ファンの女性が、私がすでに山ほど書いた北村紗衣批判論文の存在を知っていながら、それでも「反論」して来ないのは、彼女たちが、物事を「論理的に」見ることができず、世界を「雑然とした集まり」のように捉えているからであり、その結果「信じたいものを信じる(盲信する)」ことにしかならない。彼女たちは、ろくに本すら読まない(北村紗衣の本すら読まない)自分の直観(センス)を、無根拠なまま信じている、宗教信者にはありがちな、わかりやすい愚か者だからなのだ。
例えばそれは、「創価学会員が、池田大作名誉会長の醜聞を、決して信じなかった」のと同様で、「北村紗衣が三流フェミニズム学者だという批判」には、決して耳を貸さない。
北村紗衣ファンと創価学会員に共通する心理とは、万が一にも、そうした批判的な意見に耳を貸したならば、自らの「愚かさ」を認めざるを得なくなるからなのだ。
だから彼女たちは、自らの「信仰」に、是が非でも、しがみつくのである。
『女が経験を得て誤りを取り消すことはめったにない。一つひとつの失敗は拭っても、それらを総決算することがない。
だからこそ、女は男に挑戦できるような確固とした「反・世界」をうまく構築できないのである。』
ここなどは、まさに北村紗衣当人のことであろう。
北村紗衣は、他人を批判することはしても、自身の「誤り」は決して認めず、ダンマリを決め込むし、これは「今どきのフェミニスト」の特徴でもあって、批判者に対する「ノーディベート(議論拒否)」という頑なな構えは、しばしば指摘されているところなのだ。
例えば、北村紗衣は、私が、須藤にわか氏の記事のコメント欄に「今度、北村紗衣の本を買って、コテンパンに批判してやろうかな」という趣旨で書いた「切り刻んでやろうかな」という言葉を、私が北村紗衣の著作を「物理的に切り刻む=器物損壊する」と書いていると、故意に捻じ曲げて解釈し、それを理由に「note」管理者に管理者通報して、私の記事を「公開停止」にしてしまったりした。


そこで私はこれを、北村紗衣の意図的な曲解による「誣告」だと、何度も名指しで北村紗衣を公然と批判しているのだが、北村紗衣は、一度として反論したこともなければ、むろん「謝罪」したこともない。
自分は、ネット上で、歴史学者の呉座勇一に悪口を書かれたと言って、千数百名の賛同署名を集めた「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」を公開し、その「数の圧力」で、二度にわたって呉座に屈辱的な「公開謝罪」をさせ、さらにはその職を奪ったり、また、呉座を擁護して北村紗衣を批判した山内雁琳に対し「名誉毀損のスラップ訴訟」を起こして、200数十万円の賠償金をせしめたりもしておきながら、自分のしたことにはついては、ダンマリなのである。
ボーヴォワールの言う「男に作られた女」についての、『女が経験を得て誤りを取り消すことはめったにない。一つひとつの失敗は拭っても、それらを総決算することがない。』とは、まさに北村紗衣のことでなくて、誰のことであろう?
(4)『実際に、高校ではカリキュラムが同じなのに、女子の教養は男子ほど深められない。いくつかの例外を除くと、たとえば、女子の哲学クラスは全体的に男子クラスよりもあきらかに下である。生徒たちの多くは勉学を続けるつもりはない。勉強の仕方が非常に表面的であったり、競争心に穴けている。試験がかなりやさしいあいだは、女子の学力不足はあまり感じられない。だが、厳しい選抜試験にのぞむ時期になると、女子学生は自分の足りない点に気づく。彼女はそれを自分の教養の貧弱さのせいにせず、自分が女であることに付随する不公平な不運のせいにする。この不公平をあきらめて受け入れることで、彼女はそれをいっそうひどくする。自分の成功の可能性は忍耐と応用のなかにしかないと信じ込んでいる。それで、自分の力をけちけちと節約することに決める。これこそいやらしい打算だ。とくに、多少の創意や独創性、ある程度の細かい着想が必要とされる研究や職業においては、実利的な態度は有害である。カリキュラム以外の会話や読書、精神が自由にさまよえる散策は、何冊もの部厚い文法書を単調に引き写すことよりは、ギリシア語のテキストの翻訳そのものにはずっと役立つ。あまりにまじめな女子学生は、権威の尊重や学識の重さに押しつぶされ、偏狭な考え方から視野は狭くなり、自分のうちの批判精神や知性さえも殺してしまう。彼女の型どおりの勤勉さは緊張と倦怠を生む。セーヴルの女子高等師範学校の受験準備をしている女子高生のクラスでは、窒息しそうな雰囲気が支配していて、わずかに生き生きしていた個性もすべて意気消沈してしまう。受験生は自分自身で徒刑場をつくりながら、そこから逃げ出すことしか考えない。本を閉じると他のことばかり考える。彼女は、勉強と気晴らしが一つに溶け合い、精神の冒険が生き生きと熱気をおびるあの充実した瞬間を味わうことがない。勉学の成果が上がらないことにうちのめされ、自分は勉学をやり遂げるのには向いていないと次第に感じるようになる。教授資格試験を受けるある女子学生が男女共通の哲学の試験のとき、こう言っていたのを思い出す。「男の子は、二年で合格できるけど、私たちは少なくとも四年はかかるわ」。試験に出題される著者カントについての本を読むことを指示された別の女子生徒は言った。「この本はむずかしすぎるわ。男子高等師範生用よ!」。彼女は女はおまけしてもらって選抜試験に合格できるのだと勝手に思い込んでいるようだった。つまり、最初から引きさがって、成功のチャンスをすべて男に譲っていたのだ。』
(第3巻・P416〜418)
これもまさに、「男に作られた女」である、北村紗衣ことであろう。
『彼女はそれを自分の教養の貧弱さのせいにせず、自分が女であることに付随する不公平な不運のせいにする。』
例えば、次の部分も、私が指摘した「北村紗衣の学問の、独創性の無さ」としての「外国で仕入れた知識の切り売り」という特性を、そのまま指摘するものであろう。
『自分の成功の可能性は忍耐と応用のなかにしかないと信じ込んでいる。それで、自分の力をけちけちと節約することに決める。これこそいやらしい打算だ。とくに、多少の創意や独創性、ある程度の細かい着想が必要とされる研究や職業においては、実利的な態度は有害である。カリキュラム以外の会話や読書、精神が自由にさまよえる散策は、何冊もの部厚い文法書を単調に引き写すことよりは、ギリシア語のテキストの翻訳そのものにはずっと役立つ。』
北村紗衣の、けちくさい『実利的な態度』というのは、北村紗衣自身の、次の言葉に明白だろう。
こんなケチくさいことの書ける男性は、滅多にまずずいない。ケチであっても、こんなことは恥ずかしくて書けないからだ。
『経験から言いますが、謝金も出ないし名前も出ないテレビからの問い合わせには一切、専門家は応じないほうがいいです。無料で協力してもたいがい提供したものが無駄になるか歪曲されるだけなんで。知識を無料でばらまくならもっといい場所がたくさんありますよ。ウィキペディアとかな。』

(5)『 女の行動は挑戦と漠然とした自己表明の繰り返しである。それこそ確信のなさが引き起こす最も大きな欠陥である。この主体は自分を忘れることができないのである。この主体はおおらかな気持ちで一つの目的をめざすということがない。世間が自分に要求する価値の証拠固めに懸命なのだ。目的に向かって大胆に身を投げだせば、幻滅を味わう危険がある。しかしまた、思いがけない結果に到達することもある。慎重さが強いるのは凡庸さである。女には冒険への志向や無償の体験への関心、利害を超えた純粋な好奇心はあまり見られない。彼女は、他の女たちが幸福を築くように、「キャリアを築くこと」をめざしている。彼女は男の世界に支配され、包囲されている。だが、その天井を突き破る大胆さはない。情熱的に自分の企てに身を投ずることはない。彼女はまだ自分の生活を内在的企てとして捉えている。一つの目的をめざすのではなく、その目的をとおして自分の主観的な成功をめざすのである。これはとりわけアメリカの女たちに顕著な態度である。彼女たちは「仕事」をもち、それを具体的にやりとげることを証明したいと思っている。だが、仕事の内容にはそれほど関心をもたない。同時に、女はこまかい失敗やささいな成功にこだわりすぎる傾向がある。やる気をなくしたり、大いにうぬぼれたりを繰り返す。成功は、予想されていた場合には、淡々と受けとめられる。しかし、正否が疑問視された場合には、うっとりするような勝利となる。これが、女たちか権威に夢中になり、ちょっとした業績でこれ見よがしに自分を飾りたてる理由だ。女たちはつねに後ろを振り返り、自分のたどってきた道をおしはかる。しかし、それは女たちの飛躍を断ち切ることだ。こういうやり方をすれば、かなりのキャリアは実現できても、偉大な行動は実現できない。多くの男たちもまた平凡な運命しか築くことができないことを付け加えておくべきだろう。非常に稀な例を除けば、女がまだ後ろからついていく存在に見えるのは、男たちのなかの最も優れた者と比べてということでしかないのだ。私がこれまであげてきた理由はそれを十分説明している。そして、そうした理由があるからといって、それによって〔女の〕未来が限定されるわけではない。大きなことを成し遂げるために、現代の女に基本的に欠けているのは、自分を忘れることである。だが、自分を忘れるには、まず今すでに自分を見出していることがしっかりと確認されていなくてはならない。男たちの世界に新しく入ったばかりで、男からの支援もほとんどない女は、まだ自分を知ろうとすることで手いっぱいなのだ。』(第3巻・P420〜421)
ここでボーヴォワールが書いているのは、「なぜ女性は、男性のような偉大な業績を残せないで来たのか?」という、現実に即した疑問に対する回答だ。
つまり、「不利な立場に置かれてきた女性は、どうしても目先の利益の確保に走ってしまい、小さな権益を得たことで満足してしまうことになる」ということだ。
言い換えれば、立場的に恵まれた男性のように「おおらかに、損得抜きで挑戦する」ということが出来ないから、どうしても「正確ではあっても、小さくまとまる」傾向になってしまうと、そう説明しているのである。
したがって、そんな女性らしく、
『権威に夢中になり、ちょっとした業績でこれ見よがしに自分を飾りたてる』
北村紗衣は、わかりやすく、いまだに「男に作られた女」の典型だと言える。
そうでなければ、
『あなたがいくら何を言おうと、私これまで2冊 映画の本を出してて(1冊目は賞もとってます)、これから出る映画の本も1冊あるんで、 夜中に女性を脅して映画ファンを遠ざけてるあ なたよりはるかに多くの人に映画の楽しさを届けますよ。』

などという、男ならば恥ずかしくて言えない、こんな身も蓋もない言葉を、公の場所で発することなど、できる相談ではないのである。
(6)『多くの女たちは、成功して男と同じ価値があることを証明するために、まず男の支えを性的な手をつかって確かなものにしようとする。彼女たちは、二股かけて、昔からの敬意と新しい評価の両方を要求し、古い女の魔力と最近の諸権利の両方に賭ける。そうなれば、男が苛立って防態勢をとるのも理解できる。しかし、男の方にも女に対してふた心があり、女が正々堂々と勝負することを要求しながら、警戒心と敵対心から勝負に必要な切り札は女に渡そうとしないのだ。というように、闘いは、男女にあっては、はっきりしたかたちをとらないだろう。なぜなら、女の存在そのものが不透明なものだからだ。女は男に対して主体として立ち向かいはしない。女は、逆説的に、主体性がそなわった客体として男に対する。女は自分であることと他者であることを同時に引き受ける。この矛盾が困った結果を引き起こすことになる。女が自分の弱さと強さの両方を武器にするとき、よく考え、計算したうえでやっているわけではない。つい女はこれまで押しつけられてきた消極性という道のなかに救いを求めてしまうし、同時に、積極的に自分の主権も要求するというわけなのだ。このやり方はたしかに「正々堂々として」はいない。しかし、これは単に女に割り当てられた両義的な状況を女がそのまま表わしているにすぎないのだ。それなのに、男は、自分が女を自由な存在として扱おうとしているのに、女が男に罠をしかけると言って怒る。その一方で、男は、女が男の獲物であるうちは女にお世辞を言い、満足させてやるが、女が自律を求めれば、今度は苛立つのである。いずれにしろ、男はだまされたと思い、女は侵害されたと思う。
男女がお互いに同類だと認め合おうとしないなら、つまり、女らしさをそのまま永続させてしまうなら、こうした闘争はいつまでも終わらないだろう。女らしさを維持するのに熱心なのは、男と女のどちらなのだろうか。女らしさから解放された女でも、その特権だけとっておきたいと思うものだし、男の方は、それなら、女らしさのなかにとどまってもらいたいと言うだろう。「一方の性を非難するのは他方の性を弁護するより容易だ」とモンテーニュも言っている。いずれにしろ、どちらかの性に対して非難したり称賛したりしても意味がないのだ。実際、こうした悪循環を断ち切るのがこんなにも難しいのは、両性ともそれぞれ自分の犠牲者でもあるし、相手の犠牲者でもあるからである。しかし、対立する両者が純粋な自由のなかで向かい合うなら、和解は楽にできるはずである。それにこの闘争は誰の得にもならない。といっても、この問題全体にわたる複雑さは、それぞれの陣営が敵の共加者でもあることからきている。女は責任放棄の夢を見続け、男は自己疎外の夢を見続ける。非本来的な生き方では何も得られはしない。それぞれが、安易さの誘惑に負けてみずから招いた不幸を相手のせいにする。男も女も、相手の嫌なところと見ているものは、実は他ならない自分自身の自己欺瞞や臆病さによる明白な失敗なのだ。』(P449〜451)
この部分でボーヴォワールが語っているのは、「主体」であることを望む女たちは、しかし、それまで強いられてきた習慣にしたがって、自らを、男に対する「客体」であり「他者」としても提示するという、言うなれば「ダブルスタンダード」を使いがちであり、その意味では、女もアンフェアなのだが、しかし、そうした「女の卑怯さ」を責める資格など、男には無い、ということである。
それが、下の部分だ。
『女は、逆説的に、主体性がそなわった客体として男に対する。女は自分であることと他者であることを同時に引き受ける。この矛盾が困った結果を引き起こすことになる。女が自分の弱さと強さの両方を武器にするとき、よく考え、計算したうえでやっているわけではない。つい女はこれまで押しつけられてきた消極性という道のなかに救いを求めてしまうし、同時に、積極的に自分の主権も要求するというわけなのだ。このやり方はたしかに「正々堂々として」はいない。しかし、これは単に女に割り当てられた両義的な状況を女がそのまま表わしているにすぎないのだ。』
では、私たち男性は、例えば「北村紗衣の卑怯なダブル・スタンダード」を、黙認しなければならないのだろうか?
もちろん、そうではない。
私たち男が、これまでどおりの「男性中心社会」を温存しようとして、「女は女らしくあれ」と要求するのなら、女たちが、そうした「男にとっての女」観を利用し「ダブル・スタンダード」を駆使することについて、文句を言う資格はない。
だが、「男と女は、同じ人間」であり、「女らしさも無ければ、男らしさもない。ただ、真っ当な人間らしさがあれば良い」という立場に立つのならば、その立場において、北村紗衣の性別が、男であろうと女であろうと、差別なしに、その「人間としての卑怯」を批判することができるのである。
それが、ボーヴォワールの言う、次の部分だ。
『男女がお互いに同類だと認め合おうとしないなら、つまり、女らしさをそのまま永続させてしまうなら、こうした闘争はいつまでも終わらないだろう。』
ボーヴォワールが、(6)の引用部で「女性を擁護」しているのは、あくまでも「男たちが、それまでの利権を守ろうとしてという前提」での話なのである。
(7)『これがまさに女を育てるやり方である。自分の生を自分で引き受ける必要を女にけっして教えない。それなら、女が保護や愛や援助や他人の指導を当てにする方向に喜んで行くのは当然である。自分の存在を実現しようと今何かをするかわりに、いつかできるという希望に魅惑されてしまう。こうした誘惑に負ける女はたしかにまちがっている。しかし男がそういう女を非難するのも筋違いである。女にそう仕向けたのは男なのだから。こうして両者のあいだに葛藤が生じたときに、この状況の責任は相手にあるとそれぞれが思うことになる。女は、この状況をつくったのは男だと非難する。「誰も私にじっくり考えること、自分で稼ぐことを教えてくれなかった」‥‥‥男は、そんな状況を受け入れたのは女だと非難する。「おまえは何も知らない、おまえは無能力だ」‥‥‥それぞれが、攻撃することで自分自身を正当化したと信じる。しかし、一方の誤りでもう一方を無実にすることはできない。
男女間の数え切れない葛藤は、一方が提案し、もう一方が受け入れるこの状況の結果すべてに対して、両方とも責任を負おうとしないことから来ている。「不平等のなかの平等」というこの疑わしげな観念は、一方が自分の横暴を、もう一方が自分の無気力を隠すために使うものだが、経験すれば、それが偽りであることがわかる。女は保証してもらった抽象的な平等をよこせと要求するし、それと交換に、男は具体的な不平等を認めるよう要求するからだ。ここから、与える、取るというあいまいな言葉をめぐって、果てしない論争があらゆる男女関係のなかで続くことになる。女は自分がすべてを与えたと不平を言うし、男は、すべてを取るのは女だと抗議する。女が理解しなければならないのは、一一経済学の基本法則なのだが一一提供される商品の値段が、売り手でなく買い手によってつけられ、この値段によって交換が行なわれるということである。女に無限の値があるかのように思わせて、人は女をだましてきた。』(第3巻・P455〜456)
ここで語られているのも、要は「女の愚かさや弱さや卑怯さ」というのは、結局のところ、男による「男性中心社会」が作ったものなのだから、「男性中心社会」の犠牲者たるが故の、強いられた「女性の難点」を論って、「だから女は、男に従うべきなのだ」などという資格は、男には無い、ということである。
他でもない、これこそが本書『第二の性』の、中心的な主張なのだ。
一一だが、だとすれば、私たち男性は、女性に対して、どう向き合えば良いのか?
難しい話ではない。
男だからといって「男性中心社会」の特権に胡座をかくことをせず、個人である「私」、性別を問わない「私」として、個人である「他者」、性別を問わない一人の人間としての「他者」と向き合えば良い。それだけなのだ。
例えば、私が北村紗衣を批判するのは、北村紗衣が「女性だから」でないのは無論、「フェミニスト」だからでもない。
事実、むしろ私の方こそが、真性のフェミニストであると主張して、私は「偽フェミニスト」である北村紗衣の、その「偽」性を批判しているのである。
また実際、私がこれまで批判してきた相手は、笠井潔をはじめとして、その大半は「男性」である。
ではなぜ「男性」が多かったのかと言えば、それは、これまでの社会が男性中心社会であったからであろう。打倒すべき悪の位置も、おのずと男性が占めていたのである。
だが、男女平等が進めば、私の批判対象も男女同数に近づくだろうというのは、理の当然である。
だから女性は、男性から「手加減なし」に批判されることを、むしろ喜ぶべきなのだ。
男と女は、対等に批判し合えてこそ、それもまた「男女平等」の、あるべき姿なのである。
ボーヴォワールが本書『第二の性』において、「これまでの女性」の問題点を厳しく指摘しているのも、それは、女自身が変わらなければ、社会を変えることなど出来るわけがないと、そう考えているからなのである。
そして私が北村紗衣を批判するのも、それは、北村紗衣その人が、「リーン・イン・フェミニスト(セレブリティ・フェミニスト)」であることからもわかるとおりで、いまだ「男に歪められた女」のまま、だからなのだ。
北村紗衣もまた、「男の罠」から救われなければならない女性であり、北村紗衣を救うことが、男である私に課せられた使命であり、男の端くれとしての、罪滅ぼしなのだ。
だから、手抜きなど許されはしないのである。
(2025年8月31日)
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(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)
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