カスガ 『コミケへの聖歌』 : 「美しい夢」によるペテン
書評:カスガ『コミケへの聖歌』(早川書房)
本作は「第12回ハヤカワSFコンテスト大賞受賞作」である。犬怪寅日子の『羊式型人間模擬機』との、同時受賞作だ。
巻末に収録された、選考委員5人(東浩紀・小川一水・神林長平・菅浩江・塩澤快浩)の「選評」によると、今年の最終候補作は、ことのほか「水準が高かった」そうなのだが、しかしまた、最終候補作6作のうちの5作までが、商業誌に執筆経験のある者の作品であり、純粋な「新人」を言える人は、1人だけだったそうである。
つまり、いったんは他所で作家としてプロデビューしたものの、その後がパッとしなかったため、SFの新人賞を取って再デビューし、心機一転やり直そうとした候補者がほとんどだった、ということである。
したがって、本作『コミケへの聖歌』の著者名が「カスガ」と今風なのも、元々の筆名なり何なりを隠して、「新鮮さ」を演出する意図もあったのであろう。
さて、本作について言うならば、たしかに「新人とは思えぬ筆力」があって、その点では確実に「新人賞の水準をクリアしている」作品だと言えるだろう。
しかし、今回で選考委員の任期切れとなる東浩紀が『規約違反ではないが、新人賞としてあるべき姿ではない。』と、そう言うのは、まったくの正論だ。なぜなら、この公募新人賞で求められているのは、手慣れた達者さだけではなく、「新しい感性」であり、「新しいSF」を切り開いていく力だからである。
また、最終候補作の「水準が高かった」とは言っても、選考委員の評価が一致していたというわけではない。
当然のことながら、選考委員の好みや、新人に求めるものの違いで、評価は大きく違っている。

本作へのごく標準的な評価としては、早川書房の編集者である塩澤快浩による、
『 文句なしの5点を、大賞のもう一作、カスガ「コミケへの聖歌」につけた。SFコンテストの過去の大賞受賞作のなかでも、完成度では最高レベル。文明崩壊後の日本で伝説のコミケをめざす漫画研究会の四人の少女、というキャッチーな設定からは想像もできないシリアスな物語展開は、人間社会においていかに文化が必要であるかを、深く深く考察する。』
ということになるだろう。
また、前記のような「問題提起」をした東浩紀も、本作の出来については、
『大賞は二作。ひとつはカスガ「コミケへの聖歌」。筆者は本作に最高点をつけた。大破局が起きた近未来の日本。失われた消費社会と漫画文化に憧れる四人の少女が、存在するかしないかもわからない伝説のコミケを目指す物語。タイトルの印象と導入部分、そして「女子高生」の「部活」という設定から、オタクオタクしたSFで終始するかと思って最初は警戒した。しかしその予想はよい意味で裏切られた。文明崩壊後の厳しい環境、そのなかで四人の少女に割り当てられた残酷な身分格差やジェンダー搾取などが繊細に描かれ、四人四様の成長物語になっている。途中に入る作中作、最後の最後で描かれる主人公の母についての一種の種明かしも効果的。難を言えば、描かれている少女たちの悩みが漫画・アニメ的な類型でしかないようには見える(たとえば昨年の特別賞の『ここはすべての夜明けまえ』などと比較して)。しかしその類型を利用して感動的な物語を破綻なく構築できているのであれば、それも致命的な欠陥にはならない。よいエンタメを読んだ。今後の活躍に期待したい。』
と、「エンタメ」として褒めている。
さらに、小川一水もまた、
『カスガ「コミケへの聖歌」。ポストアポカリプス滅亡譚である。もし現在の日本が分裂内戦を起こしてブレーキなしで衰退していったら、山村はこのように没落するだろう、という嫌な意味でのシミュレートを高い解像度で成し遂げてしまった。
新潟の架空村で四人の少女が「部活ごっこ」をする導入部はややオタク臭くてとっつきづらいが、彼女たちの確たるキャラ立てがわかると、不安は消えて村に入っていける。衣食は不足し文化は廃れ、おぞましい性差別と身分差別が戻ってきている。開明化は提案されるも望みはない。とどめは医療の敗北によるシャーマニズムへの陥落と、四人の関係の破綻。実に手厳しい展開で、もうやめてくれと目を逸らしかけた。だがそんな中に何本かの細い救いの糸が引かれ、自らの意志により主人公たちを、ここでないどこか、あるかもしれない明日へと歩かせた。絶望と希望の配分の妙により、今回一番の作品だと評価した。』
と褒めている。
一一要は、手堅く達者に「書ける人」だということであり、塩澤、東、小川は、同方向の評価だと言えるだろう。
一方、本作に注文をつけている選考委員は、まず神林長平。
『最後は「コミケへの聖歌」、毒母の束縛からの独り立ちの瞬間を描く。そのとき主人公は自分たちがやっていた「部活」もまた、母の価値観と同じだと悟ったはずで、いまやコミケは聖地ではなく墓地だ。それでもそこを目指して旅立つのは、現実逃避を超えた自殺行為であって、それを救うのは真の創作活動しかない。だが、そこは描かれない。主人公の意識の変化、その真相に作者が無自覚だからだろう。それで評価できなかったが、結局のところ本作は、悲劇を描いたデイストピアSFなのだと解釈して、授賞に賛同した。』
そして、もう一人は菅浩江。
『「コミケへの聖歌」
謝ります。ほとんど評価できませんでした。コミュニティの内部を描くのに尽力しただけのように見えてしまって。それであれば、過去の日本のムラ社会と変わりない‥‥‥と言うと、これから発展するのと、文明を失ったあとは違う、という意見があり、そう読まなければならなかったのか、と気がつきました。
鬱屈した気分を創作にぶつける、読んでもらい語り合いたいと願う、のであれば、全篇、創作に向き合っていてほしかった。ムラを出るかどうかに終始し、肝心の創作に対する熱意やより多くの同志への憧れ、が薄まってしまったと思います。』
『謝ります。』とか『そう読まなければならなかったのか、と気がつきました。』といった言葉は、本読みとしてどうなのかと思わないでもないのの、自身の感想を率直に表明している点は評価できる。
『標本作家』が同賞を受賞した際のような、妙な(無理のある)「全員一致」は気持ち悪いからだ。
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さて、以上の選評で、本作のおおよそのストーリーはご理解いただけたかとも思うが、念のため、Amazonから同作紹介文を引用しておこう。
『二十一世紀半ばに文明は滅んだ。東京は赤い霧に包まれ、そこから戻って来た者はいない。山奥の僻村イリス沢に生き残った少数の人々は、原始的な農耕と苛酷な封建制の下で命を繋いでいる。そんな時代でも、少女たちは廃屋を改造した〈部室〉に集まり、タンポポの〈お茶〉を優雅に楽しみながら、友情に、部活に、マンガにと、青春を謳歌する。彼女ら《イリス漫画同好会》の次なる目標は〈コミケ〉、それは旧時代に東京の海辺に存在したマンガの楽園だ。文明の放課後を描く、ポストアポカリプス部活SF。』
さて、最終戦争後の悲惨な状況の中にあっても、救いを感じさせてくれる「良いお話」として開幕する本作は、しかし、だからこそ「小説に救いとしての現実逃避を求める人」や「娯楽だけを求める人」にはそれで良くても、そうではない読者には「いかにも甘い」という印象を与えてしまう。
『タイトルの印象と導入部分、そして「女子高生」の「部活」という設定から、オタクオタクしたSFで終始するかと思って最初は警戒した。』(東)
『新潟の架空村で四人の少女が「部活ごっこ」をする導入部はややオタク臭くてとっつきづらい』(小川)
といった部分だが、しかし、本作はそれで終わることはなく、
『文明崩壊後の厳しい環境、そのなかで四人の少女に割り当てられた残酷な身分格差やジェンダー搾取』(東)
『衣食は不足し文化は廃れ、おぞましい性差別と身分差別が戻ってきている。開明化は提案されるも望みはない。とどめは医療の敗北によるシャーマニズムへの陥落と、四人の関係の破綻。実に手厳しい展開』(小川)
などが、しっかりと描かれていて、単なる甘ったるいライトSFには終わっていない。
その点で著者のカスガは、たしかに「書ける人」であり、並々ならぬ筆力の持ち主なのだ。
だがまた、本作『コミケへの聖歌』の問題点は、そうした「厳しい現実」的なものを描いておきながら、結局のところ最後は、そのあたりでの追求が不徹底に終わって誤魔化されてしまう、という点にあるだろう。
そのあたりがしっかりと描けていれば、次のような不満の声が出るはずもないのである。
『毒母の束縛からの独り立ちの瞬間を描く。そのとき主人公は自分たちがやっていた「部活」もまた、母の価値観と同じだと悟ったはずで、いまやコミケは聖地ではなく墓地だ。それでもそこを目指して旅立つのは、現実逃避を超えた自殺行為であって、それを救うのは真の創作活動しかない。だが、そこは描かれない。』(神林長平)
『コミュニティの内部を描くのに尽力しただけのように見えてしまって。それであれば、過去の日本のムラ社会と変わりない』(菅浩江)
つまり、本作の「問題点」は、「現代の現実社会」にも通づる「重い問題提起」をしておきながらも、結局はそこから逃げてしまっており、「なんとなくの、感動の幕引き」で誤魔化してしまっている点だ。
そこを神林長平は『結局のところ本作は、悲劇を描いたデイストピアSFなのだと解釈』すること、つまり「あれは、じつはバッドエンドなのだと、そう理解すること」で、無理に「授賞」を呑み込んだのである。
しかし、こんな無理筋で本作を肯定しても、実際に本作を読む人の多くは、本作のラストに、偽りの「希望」を見出すだけだろう。
「小説に救いとしての現実逃避を求める人」や「娯楽を求めるだけ人」は、それで「安心して感動できる」のだろうが、「重い問題提起」の部分にテーマ性を見て、そこに期待した読者には、期待はずれもいいところなのである。「あれだけ煽っといて、結局はこれかい!」というツッコミを入れざるを得ない、そんなラストになってしまっているのである。
もちろん、私はそのようなツッコミを入れた、後者の読者の一人であるから、選考委員たちよりも詳しく、そのあたりについて論じたいと思う。
○ ○ ○
前時代の遺物として密かに残されたマンガを読むことによって、そこで描かれているような「部活」に憧れ、「部活ごっこ」を始めた4人の少女は、かつて存在した「コミケ」なるものへの止みがたい憧れから、たとえそれが今や存在しなくても、そこへ行ってみたいという話になる。
しかし、行ってみたいと言っても、そこまでの道程には、野盗など幾多の危険が待ち受けており、女の子数名で出来るような旅ではなくなっている。
そのため、村の医師の娘である主人公の「悠凪」だけはそれに反対するのだが、村主の孫娘で、いずれその地位を継ぐことになる親友の比那子は、悠凪に「コミケに行きたい」と言わせてみせるという賭けを挑んでくるのであった一一。
要するの本作は、そうした「少女たちの夢」と「村の現実」との二律背反の中で、果たして少女たちは4人揃って旅立つことができるのか、という問題を軸として物語は進んでいく。
それにしてもなぜ、悠凪だけは「コミケへの旅」に反対するのか。
それは、彼女の家が、村唯一の「医師の家」であり、彼女の母親が村唯一の医師であり、しかもその母親一人では、村の医療は回せず、例えば、母親が回診に出ている時には、悠凪が家に残って急患への対応をしなくてはならないという、そんなギリギリの医療事情にあったためだ。
そのため、作中でも語られているとおりで、そんな悠凪が「1ヶ月かかるかもしれない」あるいは「戻れないかもしれない危険な旅」に出ることは、そのまま「村人に死人を出す」という現実に直結するのであり、それでもかまわないと思わなければ、その選択はできないのである。
したがって悠凪の母が、「コミケへの旅」など絶対に許してくれないのも当たり前。
それでなくても、悠凪は医師を継がなければならず、その勉強をしなければならない立場なのに、マンガを描くなどという「お遊び」に興じているのだから、母が良い感情は持っていなかったのも当然なのだ。
一方、そんな母の無理解に反発しながらも、しかし、村の医療を一人で支えて東奔西走している母を、悠凪は尊敬してもいたし、医師を継ぐつもりでもあった。
つまり、誰よりも悠凪自身が、「夢と現実」の間で葛藤していたので、「部活」の仲間である3人が、「存在しないコミケへの危険な旅」に出るなどと言いいだしても、それに賛意を示すことなど出来なかったのだ。
これは、私たちが現実的に考えても、至極当前のことで、悠凪と同じ状況に立たされれば、ほとんどの人は「患者を置いていくわけにはいかない。行くのなら3人で行って」と、そう言うしかないのではないだろうか?
さて、話は変わって、これは完全に「偶然」なのだが、私はごく最近、本作『コミケへの聖歌』で語られたのと同様の問題を、「リアル」なそれとして論じていた。
だからこそ、本作を「お伽噺で良い」とは、とうてい思えなかったのだ。
一一どういうことか。
私が関わった問題とは「フェミニズムと資本主義」の問題である。
特に、資本主義にすっかり絡め取られてしまった「ポストフェミニズム」状況における、日本での「第四波フェミニズム」の問題。別名「リーン・イン・フェミニズム」、「キラキラフェミニズム」、「リベラルフェミニズム」の問題である。
それぞれの用語について、簡単に説明しよう。
「リーン・イン・フェミニズム」とは何かというと、それは、フェイスブック社のCOO(最高執行責任者)であったシェリル・サンドバーグに代表されるような、今の資本主義社会における「成功者」となることを目指す、フェミニズムのことだ。
サンドバーグの著作のタイトル『LEAN IN(リーン・イン) 』とは「入り込む」という意味であり、それまでは女性には「狭き門」だった、社会的な「(上位1%の高い)地位」に入るこむことを目指すのが「リーン・イン・フェミニズム」。だからこそ、サンドバークの著書のサブタイトルは「女性、仕事、リーダーへの意欲」となっているのである。

「キラキラフェミニズム」とは、社会的に成功して「キラキラ」輝く存在になることを目指すフェミニズム。要は「リーン・イン・フェミニズム」の別名である。
「リベラルフェミニズム」とは、「平等」の実現よりも「自由競争」を擁護するフェミニズム。つまり「リーン・イン・フェミニズム」や「キラキラフェミニズム」を追認する立場のフェミニズムであって、「リベラル(自由主義)」という呼称からイメージされる「弱者の味方」といったものでは必ずしもない。
例えば、前記のシェリル・サンドバークもそうだし、誰よりも、かのヒラリー・クリントンが、その代表だと言えるだろう。ドナルド・トランプとの2016年の大統領選で、誰も予想しなかった敗北を喫した、あの「リベラル派」の女性政治家である。
ヒラリー・クリントンは、なぜトランプに勝てなかったのか?
結局のところそれは、彼女が「社会的エリート」の代表でしかなく、貧しい者や差別された者の代弁者だとは見なされなかったからである。「所詮、ヒラリーは、ネオリベラルな資本主義の味方であり、弱者を顧みる気などない」と、そのように見られたからなのだ。
そんなわけで、こうした「今どきのフェミニズム」たる「リーン・イン・フェミニズム」、「キラキラフェミニズム」、「リベラルフェミニズム」の問題とは、フェミニズムとは本来「被差別者としての女性」全体の権利獲得を目指し、その意味では「人種差別」などとも連携する「反差別運動」であったはずなのに、そうした精神をすっかり失って、「一部の者であれ、ひとまず女性が高い地位につければそれで良し」とするような「エリート主義」に堕してしまっている点にある。
つまり「ポストフェミニズム」とは、従来の「反差別的な権利獲得運動」であったはずのフェミニズムがその志を失い、「もはや昔のような、市民運動的なフェミニズムは古い。これからは、各個人がその実力によって勝負すべきだ」などと考える「ネオリベラリズム(新自由主義)」的な「反フェミニズム」の立場が力を持った「時代」または「状況」指した言葉なのである。
そして、アメリカでの「Metoo運動」ブームの影響をうけ、主にインターネット上を中心に日本でも盛り上がったのが、こうした「個人主義」的傾向を持つ「第四波フェミニズム」なのだ。
そこでは、ツイッターなどのSNSを駆使した、ごく一部の「セレブリティフェミニスト」が、成功した女性のロールモデルとして、タレント的にもてはやされるばかりで、例えば、「部落差別問題(同和問題)」「在日朝鮮人差別問題」「従軍慰安婦問題」「沖縄の米軍基地負担問題」といった「現場の差別」について、まるで「どこの国の話?」と言わんばかりに、平気で無視し、我が身の利害にかかわる「女性差別」ばかりを問題にする、そんなフェミニストが、フェミニズムの表舞台に立つようになってしまったのである。
で、そういう「ツイッター・フェミニスト」(ツイフェミ)などという言葉で知られるフェミニズムなどには、とんと縁がなく過ごしてきた私だったのだが、昨年8月に「武蔵大学の教授」である北村紗衣という、聞いたこともなかったフェミニストから難癖をつけられ、私の「note」記事が、管理者によって公開停止にされたことを受けて、初めて私は、「現在のフェミニズム」問題について、本気で取り組み、北村紗衣批判を展開することにもなったのである。
で、こうした「第四波フェミニズム」の問題は、本作『コミケへの聖歌』の選考委員であった東浩紀とも無縁ではなく、東自身、私以前に、北村紗衣を批判していた人物だったのだ。
けれども、本作『コミケへの聖歌』に、より直接的に関わってくるのは、北村紗衣その人よりも、北村紗衣の「オープンレター」仲間である、東京大学院教授の田中東子に対する、私の批判である。
なにしろ、この田中東子は、現在も同人誌を作っている、現役の「腐女子」なのだ。
私は最近、そんな田中東子の著作『オタク文化とフェミニズム』(青土社)を論じて、「現役のオタク」である田中東子について、次のように書いた。
『実際、北村紗衣・河野真太郎・田中東子の共通点は何かといえば、それは、3人とも「現役のオタク」である点だ。
その事実は、それぞれの著書に、自己紹介的に示されていることだから、私が事あらためて紹介するまでもないだろうが、簡単に言えば、北村紗衣と田中東子は、女性オタクとしての「腐女子」出身であるし、河野真太郎は「アニメオタク」であり「SF映画オタク」である。
そして、そもそも「オタク」とは、「資本主義的な高度な消費社会」であってこそ可能な、生存形式なのだ。
だからこそ、その立場で自己中心的に考えれば、ナンシー・フレイザーが指摘しているとおり、「グローバルサウスに犠牲を強いる」ことになっても、「資本主義経済」を捨てること(※ を、オタクである田中東子)はできないのである。
フレイザーが望むような「フェアトレードの世界=搾取・剥奪のない世界」になれば、「オタク」は今のような水準での「過剰な消費生活」など送れなくなるから、「資本主義」そのものを(※ 田中東子は)批判することは出来ないのだ。
もちろん「オタク」であること自体が悪いわけではないのだが、しかし「オタク」というものには、総体的に言って、抜きがたい「問題」がある。それは、一一「自分たちのことしか考えていない(世間がせまい)」という点だ。
(中略)
つまり、「オタク」というのは、おおむね「お山の大将」であり「世間がせまい」。
またそれでいて、「我賢し」といった鼻持ちならなさがあって、広く世間を知ろうとするような「謙虚さ」に欠ける。
要は、自分の好きな「手持ちカード」だけで、世間全般を「説明」してしまえば、「どうだ、私はオタクでも、決してタコツボに閉じこもった存在などではなく、世間のこともちゃんとわかっているんだぞ」と、そうした「ケチな自己顕示」をやりたがりがちなのだ。』
私が、田中東子の著書『オタク文化とフェミニズム』について指摘する問題点とは、その欺瞞性にある。
田中東子と河野真太郎が、二人で翻訳したアンジェラ・マクロビーの議論をそのまま流用して行なう「ネオリベラリズム(新自由主義)」批判とは、所詮はネオリベラリズムが「資本主義社会の現形態」でしかないことを承知していながら、「資本主義」そのものを批判したくないがための行なっている、「目眩し」であり「アリバイ工作」に過ぎないのだ。
前述のとおり、「オタクという生存形式」は、「資本主義下における高度消費社会」においてのみ可能なもの。
だから、「現役のオタク」である、田中東子や河野真一郎は、左派フェミニストであるナンシー・フレイザーの、「資本主義批判」を主題とした著作『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』を読んでいながら、それでも「資本主義」批判を意識的に避けて、「ネオリベラリズム」を批判してお茶を濁しているだけなのである。
そして、こうした観点に立って本作『コミケへの聖歌』を読めば、本作における「誤魔化し=現実逃避」が、田中東子の『オタク文化とフェミニズム』と、まったく同種のものだというのがわかるはずだ。
例えば、「コミケへの旅」に反対する悠凪の母の、あるいは悠凪の立場は、間違っているだろうか?
神林長平は、悠凪の母を『毒親』と呼んでいるけれど、それは適切な評価であろうか?
私は、そうは思わない。
というのも、この母娘がいなければ、村に死人が出るというのは事実なのだから、いかに悠凪の母が、悠凪に医師になるように強いたとしても、それは、致し方のない部分があるのではないだろうか?
まただからこそ、悠凪自身、母親の押し付けがましさを厭いながらも、しかしそれはやむを得ないことだと受け入れていたし、母の仕事を尊敬してもいたからこそ、母の仕事を継ぐ運命を、受け入れていたのではなかったのか?
それなのに、悠凪の母親が、神林長平言うところの『毒親』に見えてしまうようになったのは、作者のカスガが、物語の終盤で、そのように見えるように、いささか唐突に「描き変えた」からに他ならない。
つまり、母親の医術は、所詮、本物の医学が失われた後の「真似事」であり「気休め」でしかない「ウィッチクラフト(魔女の医術)」の類いだと、そう悠凪の母自身が自己卑下的に、悠凪に語り始めたために、読者にも、そう思えるようになっただけ。
本作の筋立てとしては、そんな「偽物の医術」だったのなら、そんなものに義理立てする必要はないから、自身の「夢」を優先して「コミケへの旅へ出よう」という話にもなるわけだが、しかしこれも、神林長平が言うように、
『主人公は自分たちがやっていた「部活」もまた、母の価値観と同じだと悟ったはずで、いまやコミケは聖地ではなく墓地だ。それでもそこを目指して旅立つのは、現実逃避を超えた自殺行為であって、それを救うのは真の創作活動しかない。』
ということにしかならない。
つまり、「母の医術」を「気休めのペテン」だと呼ぶのならば、悠凪たちの「コミケへの旅」もまた「気休め」の現実逃避だという点では、まったく同じなのだ。
しかも、村の人々への気休めにもならず、4人の人生を棒にふる可能性だって低くはない無謀な試みであり、いっそ愚行なのである。
作者カスガは、物語の後半で、ミステリ小説で言うところの、いわゆる「叙述トリック」を、読者と同時に、ある作中人物にも仕掛けている。「このように見えた人物は、しかし現実にはそうではなかった」んですよという「騙し」のテクニックである。
だが、「頑固だけれど、村のために尽くす悠凪の母」の医術が、実は「偽りの魔女の医術」でしかなかったという、いささか唐突な「真相の開示」も、所詮は前記の「叙述トリック」に近いレトリックで、しかも「後出しジャンケン」的なものでしかなく、ミステリ小説的に見れば、説得力を欠く無理筋でしかない。
喩えて言えば、映画『スクリーム』シリーズ(ウェス・クレイヴン監督)などに典型される、それまでは良い人としてる描かれていた人物が、最終局面でいきなり、そのサイコな素顔を見せるというのと似たような、いささか安易なものでしかないのである。
その意味で、本作における「悠凪の母の医術は偽物だった。だから、それよりも自身の夢を優先しても良い」という、パッピーエンドを望む読者の期待に沿った、取ってつけたような「正当化の理屈」(俗情との結託)は、所詮、無理筋のこじつけでしかない。
それに、悠凪の母が、いくら自己卑下的に「自分の医術など、所詮は本物の医学ではない。科学ではない。所詮は、魔女の医術に毛が生えたものでしかない」と言ったとしても、しかしそれでも、その医術は、不十分とは言え、前時代から残されていた医術書の教えに従って、残された医薬品を使ってのものであり、決して「呪文で病気を治す」類のものではないのだ。
たしかに、今の医学と比べれば、幼稚かつ不十分なものであれ、それもまた医学に依拠した医術に他ならないし、それで救われる人も、少数ながら現にいるのである。
それを、それしかできない現状を、原始的だと見下したり、そうした過酷な現実へのやむを得ない対処を「現実逃避」呼ばわりするのは、それこそ「現場の医術」に対する誹謗であり冒涜ではないのか。
一一考えても欲しい。戦場における医術が、いつでも満足できるものであっただろうか? 現在の「ガザ」(パレスチナ)における現場の医療が完全に満足なものたり得ているであろうか。
薬も施設も電気すらない戦場で、それでも可能なかぎりの医療を施している医師たちの努力を、私たちは「所詮、気慰みの魔女の医術」だなどと呼ぶことができるだろうか? 最後に、何もかも手段を失って、それでも、患者の頭を撫でてやる医療従事者の手を、気慰みの、現実逃避の「魔女の医術」でしかないと呼べるだろうか?
そうしたギリギリの医療と、存在しないとわかっている「コミケ」への少女たちの「無謀な旅」を、同列に扱って良いものなのだろうか?
私はそうは思わない。
こんな作品を褒めているからこそ、いつまで経っても、「所詮、SFは絵空事」であり「SFの9割はクズ」(シオドア・スタージョン)だと言われるしかないのではないのか?
(2025年3月14日)
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(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)
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