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「現代フェミニズム研究会」に見る、専門家の無知と傲慢 : 今井むつみ 『「何回説明しても伝わらない」は なぜ起こるのか?』

書評:今井むつみ「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか? 認知科学が教えるコミュニケーションの本質と解決策』(日経BP

先ごろ発足した、若手のフェミニズム研究者による「現代フェミニズム研究会」「発足趣意書」の内容がひどい。一一というのを、下のレビューで、縷々説明をした。

この「現代フェミニズム研究会」の「発足趣意書」のひどさがどういう性格のものなのか、それを一言でいうならば、「独善的」ということになるだろう。

「フェミニズム」とは、これまでの男性中心社会において、不当にも劣位に置かれてきた「女性」の権利を、同じ人間として、男性と「同等」にまで高めようとする、女性のための「権利の獲得・回復」運動であり、その意味での「女性差別反対運動」であり、そんな「反差別思想」のことである。

「女性差別はいけない(間違っている)」というのは、一見「当たり前」のことに思えるかもしれない。一一だが、じつはそう簡単な話ではない。

なぜなら、「差別」そのものが「絶対的にいけない(間違っている)」ということを前提としなければ、「女性差別」だって、必ずしも「いけない」とは言えない(断じ得ない)、ということにもなってしまうからだ。

言い換えれば、「(すべての)差別はいけない(間違っている)」という考えが根底にあってこそ、「女性差別はいけない」とか「男性差別はいけない」とか「人種差別はいけない」とか「部落差別はいけない」といった(下位ジャンル的な)理屈も成り立つ。

つまり「女性差別反対」を主張するのであれば、基本的には「すべての差別に反対」しなければならない。
「女性差別には反対だけれど、その他の差別については、肯定したり容認したりすることもできる」というのでは、それは「ご都合主義的な身勝手」でしかなく、客観的な「公正さ」の担保されない主張だということになってしまう。つまり「正しい主張だとは認めてもらえない」ということだ。

ちなみに、私がここで、

『「女性差別反対」を主張するのであれば、基本的には「すべての差別に反対」しなければならない。』

と、「基本的に」という限定句をつけたのは、厳密な意味では「すべての差別に反対」することは、不可能なためだ。

例えば、人間は、牛や豚を殺して、その肉を食うのだが、それが「殺牛罪」や「殺豚罪」に問われることはない。
つまり、人間は「人間以外の生物」を明らかに「差別」しているのである。

「無用の殺生をするべきではない」という言葉もあるけれども、この言葉も、言い換えれば「有用な殺生ならしてもかまわない(許される)」という意味である。

つまり、私たちが「すべての差別に反対」だと言う場合の「すべて」とは、「すべての存在」や「すべての生物」のことではなく、「すべての人間」ということでしかない。
「せめて、同じ人間の中では、差別は止めましょうよ。だって、同じ人間なんだからお互い様だ」というだけの、ごく限られた「原則」にすぎない。
そのため私は、厳密を期して、「基本的に」という限定句を付したのである。

しかしながら、この「すべての人間に対する、差別は許されない」という「大原則」すら、絶対的なものではない。つまり、例外なら、いくらでもある。

例えば、「犯罪者」や「戦時の敵戦闘員」などは、同じ人間であっても「殺しても良い」ということになっている。

では、こうした「例外措置」を正当化する理屈とはどのようなものなのかと言えば、それは「罪なき人に、被害を与える存在」ということにでもなろう。
この場合、「犯罪者」とは「非犯罪者(罪を犯していない人)」に被害を与えるから「捕まえて罰しても良い。場合によっては殺しても良い」という理屈になっている。
一方、「戦争」の場合は、敵国を「自国の正当な権利を侵害する犯罪国」と捉え、その国の兵士は「犯罪国家の犯罪遂行者」であるから殺しても良い、ということになるのである。

したがって、以上の検討からわかるのは、人間の「すべての人間に対する、差別は許されない」という「大原則」すら、あまり当てにならないものであり、その現実とはしばしば、(かつて笠井潔が言ったように)「理屈なら何とでもつく」というものでしかないのである。残念ながら。

つまり、自分の思い通りにならない、自分には不都合・不利益な存在たる「敵」に対しては、あれこれ「理屈をつけて犯罪者認定する」ことにより、その「人権」を奪うことができるし、場合によっては「殺す」こともできる。現にそうした「非道」を、人間は繰り返してきた。

しかしながら、だからこそ私たちは、「一方的な理屈」を唱えるのではなく、自分の理屈が正しいと思うのであれば、可能なかぎり、意見の対立する相手とでも「話し合い(議論)」をするべきなのだ。
そうしないと、最後は「殺し合い」しかないからである。

どんな人間にも「誤認」があるから、おのずと「誤り(誤った行動)」はある
「誤った考え」を、「真理」であり「正義」であると、誤って信じ込んでしまうことなど、当たり前にあるのだ。

だからこそ、「知性ある人間」ならば、どんなに自分の意見が正しいと(主観的に)思えても、いや、そうであればこそ尚更、異論との理論的な対決としての「議論(話し合い)」を避けてはならない。むしろ、それを求めるべきなのだ。

ところが、「現代フェミニズム研究会」の「設立趣意書」は、「論敵」は「差別者」であると「決めつけ」ることで、排斥しようとするものでしかなかった。
だから私は、これを批判したのである。

その「趣意書」の、わかりやすく「独善的」な部分を紹介しよう。

『3つ目の理由は、フェミニズムの名の下に行われる差別や暴力が無視できないものとなっている現実です。とくに問題視しているのは、2010年代の終わりごろから見られるようになった、「フェミニスト」によるトランスジェンダーへの差別的な攻撃・差別扇動的な言説(ヘイトスピーチ)の拡大です。そこには、ジェンダーやフェミニズムを研究してきた一部の研究者も加担しています。私たちは、そのような研究者らの言動を厳しく批判するとともに、そのようなフェミニズムとは異なるフェミニズムの研究を発展させ続ける場所が必要であると考えます。鍵を握るのは、インターセクショナリティ(交差性)の視点であり、また運動の在りかたです。社会の中で支配的な意志決定層の中ではマイノリティとなりやすいジェンダーとしての「女性」集団のなかには、多様な状況・属性・アイデンティティをもつ女性たちがいます。だからこそ、それぞれの女性が被る差別や抑圧の在りかたは、同じではありません。この現実から出発し、「一枚岩的な女性の経験」に訴えることなくフェミニズム(研究)を進めること、そしてそうした交差性の視点を欠くがゆえに差別や暴力に加担してきたフェミニズムの在りかたを批判し、乗り越えること。そのために、私たちは新たな研究会を立ち上げます。
(中略)
以上の趣旨に賛同する皆さんに、ひろくこの研究会への参加を呼び掛けたいと思います。』

冒頭の「3つ目の理由」というのは、同サークルの設立理由の3つ目という意味である。

つまり、この趣意書で語られている「設立理由」は「3つしかない」のだから、このサークルにとってトランスジェンダー問題」における「打倒・差別主義フェミニスト」が、いかに重視されているのかが、ここでご理解いただけたはずだ。

つまり「現代フェミニズム研究会」は、自分たちの立場から、意見を異にするフェミニストを「差別主義フェミニスト」だと認定しており、見てのとおり、その「認定根拠」を示すことすらせずに「差別主義者=悪」だと決めつけて否定している。
と同時に、自分たちこそが「正義」の側にある、これも「無根拠」に決めつけているのである。一一だからこそ、「差別主義者と議論する気などが無いから、お前たちの入会は認めない」と、そう言っているのだ。

だが、これは、わかりやすく典型的な「敵の悪魔化」でしかない。

かつてそれは、「ユダヤ人は」と語られ、「共産主義者は」と語られて、そうした「人種」や「思想」を持っている奴らは、「人間扱いにする必要がない」とか、「理性的な検討や話し合いの対象ではない」などという「非理性的な態度」を、自己正当化してきたのである。

だが、その同じことを、現役の大学教員を中心とした「現代フェミニズム研究会」のメンバーは、現にそう宣言して行なっている。

この趣意書を書いた人だけの問題ではない。
なぜなら、「現代フェミニズム研究会」のメンバー全員が、この「趣意書」に「同意」して、参加している「同志」だからである。

その「同志」とは、次のような面々だ。

『●隠岐さや香(東京大学)●越智博美(専修大学)●河野真太郎(専修大学)●高井ゆと里(群馬大学)●田中東子(東京大学)●ハーン小路恭子(専修大学)井谷聡子(関西大学)岩川ありさ(早稲田大学)大河内泰樹(京都大学)岡崎佑香(立命館大学)小川公代(上智大学)上岡磨奈(白鴎大学/慶應義塾大学)菊地夏野(名古屋市立大学)北村紗衣(武蔵大学)小手川正二郎(國學院大学)小林えみ(よはく舎小宮友根(東北学院大学)西條玲奈(東京電機大学)斉藤正美(富山大学)三部倫子(奈良女子大学)清水晶子(東京大学)清水知子(東京藝術大学)関口洋平(フェリス女学院大学)関根麻里恵(学習院大学)高橋幸(石巻専修大学)高原幸子(金沢星稜大学)武内今日子(関西学院大学)竹田恵子(東京外国語大学)田尻歩(東京理科大学)筒井晴香(実践女子大学)中井亜佐子(一橋大学)中條千晴(リヨン第三大学)永冨真梨(関西大学)中村香住(慶應義塾大学)西亮太(中央大学)平森大規(法政大学)平山亮(大阪公立大学)藤高和輝(京都産業大学)古久保さくら(大阪公立大学)前川直哉(福島大学)槇野沙央理(日本大学/立教大学ほか)松尾亜紀子エトセトラブックス)松永典子(早稲田大学)三木那由他(大阪大学)三成美保(追手門学院大学)守如子(関西大学)森山至貴(早稲田大学)山口智美(立命館大学)山田亜紀子(サッフォー)山根純佳(実践女子大学)吉原ゆかり(筑波大学)李美淑(大妻女子大学)』
(2025年5月9日現在)

「趣意書に賛同する人」しか、「現代フェミニズム研究会」への入会は認められないと、この「趣意書」の中に明記されている。

一一ということは、少なくとも「呼びかけ人」になった中心メンバーの中では、どこの誰が「差別主義フェミニスト」なのかという認識も共有されている、と考えるべきだろう。そうでなければ、参加の可否の判定が、実質的に不可能になるからだ。

例えば、この私が「私も、差別主義者のフェミニストを批判したいから、入会を希望する。すでにこの会のメンバーである「武蔵大学教授」北村紗衣を、同じ会員の立場で真正面から批判したい」と言えば、果たして入会が認められるだろうか?

無論、そんなことは「絶対に」あり得ないだろう。
私が「大学に所属する研究者じゃないから」などと言い訳したところで、それが口実でしかないのは、誰の目にも明らかなことなのだ。

趣意書だけではよくわからないのだが、「現代フェミニズム研究会」は、「フェミニズム研究者」ではまだない「学生」の入会を認めるのだろうか?
また「フェミニズム」というのは、いろんな学問ジャンルで横断的に扱われる思想なのだが、それでは「フェミニズムに興味があります」という「大学教員」なら、それがどんなジャンルの研究者だろうと、OKということなのだろうか?
だが、私が推察するに、このあたりの「線引き」も、いたって恣意的なものであるはずだ。

そんなわけで、結局のところ、この「趣意書」が、「思想的な立場」において人を選ぶのであれば、それはもう「学問の研究者集団」ではなく「政治的なイデオロギー集団」だと呼ぶべきなのではないだろうか。

「何が真実なのか」と問うのが「学問」であり、「我々の考えこそが正しい」とするのが「イデオロギー的な政治集団」なのだとすれば、「現代フェミニズム研究会」は、明らかに後者の「イデオロギー的な政治集団」であるとしか言いようがないはずだ。

無論、私のこの「批判」に対する、「現代フェミニズム研究会」側からの反論や「言い分」も、その「心中」にならばあるだろうから、私は先に紹介したレビューでは、次のように呼びかけたのだ。

『そこで、私が言いたいのは、こうだ。

「意見が違うからこそ、議論しましょうよ」
一一これだけなのだ。』

しかし、残念なことに、私の批判に対しては、「現代フェミニズム研究会」からは無論、その周辺を含めたどこからも、反論は寄せられていない。

そもそも、私のこれまでの批判論文(レビュー)の2本の存在を、知らない者もいるにはいるだろう。

だが、「現代フェミニズム研究会」でネット検索してみればわかることだが、彼らはまだまだ反響の少ない、マイナーなサークルに過ぎないのだから、それなりに「エゴサーチ」だってやっていると見て、まず間違いない。

したがって、私の批判論文を読んだ者も、それなりにいるはずなのだが、どこからもまったく、反論が寄せられてはいないのである。

例えば、「現代フェミニズム研究会」の会員である北村紗衣なども、自身に対する私の批判文を読んでいながら、これを故意に無視していたというのは、すでに裏付けのとれている事実だ。

だから、そんな北村紗衣による「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」のお仲間が中心となって発足された「現代フェミニズム研究会」であれば、同じような行動を採るものが多くても、なんら不思議はないのである。
「オープンレター」同様に、「類は類を呼ぶ」からである。

まあ、思うに、私が「在野のフェミニズム研究者」だから、その多くが「大学の先生」である「現代フェミニズム研究会」のメンバーたちは、私のような「素人を相手にしても、何のメリットもない」というような口実で、私を無視しているのであろう。

一一だが、これは、「逃げ」や「誤魔化し」であるに止まらず、一種の「差別」なのではないだろうか?

当たり前に「教養」のある人なら、「専門家は、必ずしも素人(アマチュア)に優っているわけではない」ということくらいは、当たり前に知っているだろう。
植物学者・牧野富太郎や博物学者・南方熊楠などの例を出すまでもなく、これは常識に類する話である。

たしかに「トップクラスの専門家」に対しては、アマチュアではなかなか歯が立たないというのは事実だろう。

けれども、「専門家」や「プロ」にも、ピンからキリまでがいて、その「分布割合」を考えれば、「専門家」や「プロ」の9割までが「キリ」に近いのである。だからこそ、北村紗衣のような、「アマチュア」にも劣る「専門家」や「プロ」が、現に「大学教授」を務めてもいるのだ。
今の日本の大学は「そのレベル」だというのは、つとに知られた事実なのである。

そして、このことを私がよく引用する、SF作家シオドア・スタージョンの言葉で言うと、こうなる。

SFの9割はクズである、ただし、あらゆるものの9割もクズである。

つまり、「専門家」や「プロ」の9割も「クズ」なのだ。
「クズ」という言葉が強すぎれば、「凡庸」と言い換えても良い。

つまり、SF小説の9割は「それなりに面白い」のだが、言い換えれば「凡庸」であり、少なくとも「傑作」ではない。つまり、「読んでも読まなくてもいいような作品である」という意味において「クズ」なのだ。

そしてこれは、「専門家」や「プロ」だって同じことで、さすがに「ど素人」よりは、比較的「マシ」ではあっても、「好きで勉強しているアマチュア」や「才能のあるアマチュア」には、しばしば劣る。
つまり、「9割のクズ専門家」と「1割の優秀なアマチュア」を比較するならば、その「肩書き」どおりとはいかない逆転現象も、十二分に起こるということである。

したがって、論理的に考えれば「現代フェミニズム研究会」の9割は、「クズ」とまでは言わなくても、「凡庸」であることは間違いない。
一一なにしろ、あの「趣意書」の問題点について気づかなかった程度の人たちなのだから、「フェミニズム」を研究しているという意味での「専門家」ではあっても、あまり「賢くはない」とは言えるのである。

また、そんなことだから、素人にまで批判されて、それに反論することもできず、「素人なんか、相手にしませんよ」みたいに、から威張りをしなければならなくもなるのだ。

それにしても、最低限「学歴エリート」つまり、かつての「受験エリート」であり、まるっきりの馬鹿ではないはずの彼らが、どうして、この程度のことがわからず、愚かな「独善」に陥ってしまうのだろうか?

それは、いくら「学力」的に優れていようと、それはただそれだけのことでしかなく、人間的な「認知の歪み」を自覚できない程度には凡庸であり、「頭が悪い」からなのだ。

そんなわけで、私が今回紹介するのは、そうした「認知の限界や歪みによるコミュニケーションの困難事例を紹介しつつ、より良きコミュニケーションを目指すにはどうすればいいのか」ということを語った本である。

○ ○ ○

認知科学や教育心理学などを専門とする著者・今井むつみによる本書『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか? 認知科学が教えるコミュニケーションの本質と解決策』は、そのタイトルに、

『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか?』

とあるとおりで、世間によくある「疑問」について、認知科学の立場から答えようとするものである。

で、その回答というのは、約めて言えば、

「人間には、それぞれに〈これが当たり前だ〉とする、思考の大前提としての、思考の型であるスキーマが存在するのだけれど、スキーマというのは、人それぞれに微妙に違ったものだから、決して、自分の意図がそのまま他人に伝わりはしないものなのだ。だから、そうした本質的な困難を前提とした上で、私たちはより良き相互理解を目指さなければならないし、そのための工夫も必要なのである」

といったほどのことである。

で、このようなことは、少なくとも私にとっては「常識に類する議論」つまり「当たり前の話」でしかなかった。
なぜならば、私は長年「話の通じない人」たちとのやりとりを続けてきたからである。

例えばそれは、「ネット右翼(ネトウヨ)」「信仰者」などだ。

最近はあまり見かけなくなっていた「ネトウヨ」は、よく「朝鮮人」や「中国人」を目の敵にして、非人間呼ばわりにしていた。
その初期のベストセラー書としては、山野車輪による『マンガ嫌韓流』(2005年・晋遊舎)などのあったことを記憶している人もいるかもしれない。

(ネット右翼の「教科書」)

「ネトウヨ」たちはこうした「偏った本だけ」を読んで、いかに韓国・朝鮮人や中国人の「レベルが低いか」を語り続けた。
そしてそこでは、「韓国・朝鮮人や中国人の立場に立って考える」などという発想は、毛ほども存在しなかった。なぜなら「自分たちは日本人だ」と、ネトウヨたちは、そう考えていたからだ。
一一言い換えれば、彼らには、「相手の立場に立って考えてみる」という「思考実験」が出来なかった。その「能力が無かった」のである。

で、これは「信仰者」の多くも、まったく同じである。
宗教の場合は、歴史の中で多くの犠牲者(死人)を出してきたために、時代に合わせて「物分かりの良さそうな顔」を演じてみせることもするけれども、その本質は「我々だけが、この世界の真理を知っている」という「独善」でしかない。

だから、私のような「無神論者」が、「神が存在するというのなら、今ここで、奇跡を起こして見せてくれ」と要求しても、あれこれと言い訳をして誤魔化すことはしても、「もしかすると、神はいないのかもしれない(から、それを私なりに確かめよう)」などとは、決して考えないのである。

つまり、こういう人たちは、自分の「世界認識」が「論理的にも実証的にも正しいから」信じているのではなく、単に「自分には、好ましいと感じられるから信じている」だけなのである。
要は「信じたいから信じているだけ」で、それが「正しい認識」なのかと、自身に問うことはしないし、出来ない

その意味でそれは、「原始的な盲信」でしかないのだが、しかしまた、こうした態度は、何も「ネット右翼」や「信仰者」だけではなく、あらゆる「イデオロギー」を担いでいるたち人にも言えることで、それは「フェミニスト」とて、例外ではあり得ない。

一一例えば、「フェミニスト」を自称する人に、こう尋ねてみると良い。

「世の中にはいろんな差別があるのに、なぜあなたは、女性差別の問題を、最優先的で訴えるのですか?」

その問いに対して、公正かつ明確に答えられるフェミニストなんて、1,000人に1人もいないだろうし、ましてや「現代フェミニズム研究会」には、1人もいないだろう。

なぜなら、彼(女)らが「フェミニスト」になって「女性差別」の問題に優先的に関わるようになったのは、所詮「なりゆき」でしかないからである。

つまり、大学に入って何を学ぼうかと考えた時に「フェミニズムが流行っている」とか「面白そうだ」ということで学び、それが面白かったから、それの専門家になったというだけで、「フェミニズム」が「最も深い思想だから」と考えて選んだわけでもなければ、「女性差別」が「この世で最重要の課題である」と考えたから、というわけでもないのである。

他のことはよく知らないが、ひとまず「フェミニズム」については、専門的に勉強してきたし、そんな自分が人並み以上に語れることと言ったら「フェミニズム」くらいしかないのだから、「フェミニズムの専門家」として「食っていこう」と考えた、とその程度なのが、ごく当たり前の「フェミニズムの専門家」の実態なのである。

だから彼(女)らは、

「世の中にはいろんな差別があるのに、なぜあなたは、女性差別の問題を、最優先的に訴えるのですか?」

という問いには、明確に応答できないのだ、

「なりゆきで」とか「それで食っていけるから」とか「趣味で」とか「憂さ晴らしのために」などと、正直に答える人など、1000人に1人も存在しない。
つまり、ほぼ全員が、「綺麗事の建前」を、さもそれが「本気」であるかのように語る「大嘘つき」なのである。

そんなわけで、「大学の教員」だなどと言っても、所詮はその「9割のクズ(凡庸)」でしかないからこそ、自分を顧みることもなく、世間並みに、

「なぜ、この程度のこと(女性やトランスジェンダーが不当に差別されているという事実)を、何回説明してもわからないのか? こんなこと明らかじゃないか。よっほど、あいつらは馬鹿なのか、さもなくば、邪悪な差別者だからなのだ」

と、そんなふうに「差別的に考えてしまう」のだ。

「ネット右翼」が「韓国朝鮮人や中国人」を「非人間化」したように、「信仰者」が「異端者」や「異教徒」を「非人間化」したように、「現代フェミニズム研究会」のメンバーであるフェミニストたちは、自分たちと同じように考えない「別の立場のフェミニスト」を、「非人間化」するために、「差別主義者」呼ばわりするのである。
そして、「差別主義者の意見になど、耳を傾ける必要はない」と言って、自分たちの「正義」を、問答無用で「絶対化する」のだ。

 ○ ○ ○

『 最近はテストも少しずつ「考える力」や「想像力」をはかるものに変化しつつありますが、それでもやはり「記憶の出し入れの能力をはかる」傾向は色濃く残っています。そういった意味では、受験戦争をくぐり抜けたエリートの中に「記憶の出し入れが得意な人」は多いでしょう。
 こうした経験から、大人になった今でも、「記憶力のいい人=頭のいい人」と考えている人も多いのではないでしょうか。

 しかし、記憶力がいい人はすなわち理解力が高い人かというと、それはどうも違うようです。高学歴の方が、企業に就職してうまくなじめなかった、という話もあまり珍しいものではありません。あるいは、エリートと接する中で、
「この人は、私の話をわかってくれているのだろうか?」
 と首をかしげてしまった、という経験がある方もいるでしょう。
 学生時代の成績優秀者と仕事における優秀者は必ずしも一致せず、また、学歴の高い人の集団がときにコミュニケーション不全に陥ってしまう原因は、こういうところにあるといえるでしょう。』(P78〜79)

前にも書いたとおり、この程度のこと(学力エリートは必ずしも賢い人には非ず)は、多少なりとも「賢い人間」には、「当たり前」にわかりきった話でしかないのだが、大学教員や「教授」と呼ばれる人に中にも「自分は成績優秀だったから賢い」などと内心で思い込んでいる者が、決して少なくない。
だが、そういう者に限って、学者の中では「凡庸」なのだ。だから、「過去の(受験生時代の)実績」を誇りたがるのである。

当然、同じような意見は、他にいくらでもある。下の記事などもそうだ。

これは「専門家として知識があるから、必ず正しい判断が出来るというわけではない」ということともパラレルな事実であろう。
つまり、ピンポイントに詳しくても、その周辺の知識に乏しければ、「現実の複雑な状況」に対しては、対応しきれないのだ。

『この、新型コロナウィルス対策の事例から何をお伝えしたいかというと、仕事でも研究でも何でも、「専門性を追求する」というのは、ある部分をどこまでも深掘りするということです。それはある意味で、視点を偏らせることでもあり得るということなのです。』(P107〜108)

昔から「専門バカ」という言葉があるとおりで、上の認識も、常識的な話でしかないのだが、それでも「専門バカ」は、「専門バカ」であるが故に、「専門家」であることが「真理に近いこと」だと、そう思い込もうとしがちなのだ。

例えば、「神」について詳しい「キリスト教神学者」が、「無神論者」に「神など、どこにも存在しない」と批判されて、「神について何も知らないくせに、神はいないなどと気やすく言うな」と言い返すようなものだ。
つまり、たしかに「キリスト教神学者」は、「神は実在するという大前提に立った、キリスト教信仰の内部」においては「神」について詳しいのだが、神学者とは、そもそも「神が存在しない可能性」など考えない(考慮しない)のだから、その可能性のある「現実世界」においては、「神」のこと(現実)を知らないのは、「無神論者」ではなく、むしろ「神学者」の方なのである。

で、これは「フェミニスト」だって同じことなのだ。
「フェミニスト」は「女性差別」については、専門家としてよく知っていると、自分ではそう思い込んでいるけれども、そもそも「差別とは何か?」ということを、まともに考えたこともない「専門バカ」だからこそ、自分たちが簡単に「差別者」になってしまったりもする。
つまり「違う考え方をする人の立場を尊重できず、ただ悪魔化して排除しようとする」というような「差別」に、あっさりと陥ってしまうのだ。
「ミイラ取りがミイラになる」というやつである。

で、こんな「無自覚な差別者」が、「女性差別についてなら、誰よりもわかっている」などと自負するのは、実際、お笑い種ではないだろうか?
「差別」のことはわからなくても「女性差別」のことならわかると、そう言っているも同然だからである。

『 視点が違う状態でただ同じ議論を繰り返していても、お互いまったく相容れないことになります。何かを信じれば信じるほど、自分が論理的であると思っていれば思っているほど、他の人の意見が「間違っている」と思えてしまう。相手を攻撃してしまうこともあるでしょう。「なぜそのように考えるのか、まったく理解できない!」ということになってしまうからです。

このときに必要なのは、(中略)一歩踏み出して、「相手の視点の偏りはどこにあるのか」を考える。

そうすることで違う考えに対して寛容であることができますし、今より少し自分の枠組みから距離を取って、相手の意見に耳を傾けることができるようになるはずです。』(P111)

こんな「当たり前のこと」ができないのが、「現代フェミニズム研究会」なのだ。

私が「現代フェミニズム研究会」について論じた先のレビューのサブタイトルを、

宗教原理主義化する「フェミニズム」

としたのは、「我々だけが、絶対に正しい」とする「宗教原理主義」と、「現代フェミニズム研究会」の独善的で頑なな姿勢が、そっくりだからなのだ。

『 前述のスティーブン・スローマン教授の『知ってるつもり 無知の科学』では、様々な「認識の罠」が取り上げられています。ここでは認知バイアスに関する部分を取り上げます。

 人工妊娠中絶を認めるかどうかは、アメリカの世論を二分する(※ フェミニズム的な)問題です。
 しかしスローマン教授は、これらの問題について人々は、それぞれが政策を検討し、その政策がもたらす結果を考えた上で「賛成・反対」を示しているのではないといいます。そうではなく、自分が持つ「神聖な価値観」によって(※ 自身の態度を)決め、そしてその決定を正当化するために理由を後づけで持ってきていることが多いというのです。

 ある人にとっての神聖な価値観は「人工妊娠中絶は胎児に対する殺人に他ならない」というものですし、ある人にとってのそれは「女性には自分の体を守る権利がある」ということになります。
 こうした「神聖な価値観」を前提とした判断のため、多くの人は自分の決定に自信を持っていますが、その決定に至った理由を論理立って説明することはできません。

 自分と違う主張の人が、いくら追加で知識や情報を用意して(※ それを提供して)も、ほとんどの場合、自分の判断に影響を与えること(※ 意見を変えたりすること)はありません。さらに、その人の主張の論理的な破綻をいくら説明しようとしても、聞く耳を持ってもらえないでしょう。

 スローマン教授は、神聖な価値観とは「どのように行動するべきかの価値観」であり、「物事を過度に単純化するためのツール」であると指摘します

 要するに、熟慮して出した結論だと見せかけて、実際は厄介な細々とした因果分析をする手間を省いて自身の価値観から自動的に結論を持ってきただけで、証拠を吟味するなどの思考はほとんどまったくといっていいほどしていない、というわけです。
 そして残念なことに、こうした「神聖な価値観」による物事の単純化を、私たちは日常生活の中で、頻繁に、無自覚に行っています。』(P139〜141)

つまり、「現代フェミニズム研究会」にとっては、「女性差別は絶対に許されない」とか「トランスジェンダー差別は絶対に許されない」というのが、彼(女)らにとっての「神聖な価値観」なのである。
だから、他の意見には、絶対に耳を貸そうとはしない。なぜならば、他の意見に耳を貸すというのは、「悪魔の言葉に耳を貸す」のと同じことだからだ。

映画『エクソシスト』(1973年)の中で、老獪な悪魔祓い師であるメリン神父は、若手のカラス神父に「悪魔の言葉に、耳を貸してはいけない」と助言する。
なぜ、そのように助言するのかというと、若い神父というのは「われわれの方が絶対に正しいのだから、悪魔と議論しても勝てる」と、そういう驕りを抱きがちだからだ。だが、「悪魔」こそ、そうした人間の心理につけ込む老獪さを持った存在なのだから、議論に乗ってきた神父の方を逆に惑わし、自分の方に取り込んでしまう、というようなことをするからである。
そのため、ベテランの悪魔祓い師であるメリン神父は「悪魔の言葉に耳を貸してはならない」と言うのだ。「聞かなければ、惑わされることもいない」という理屈である。

この「悪魔祓い」における「耳を貸すな」という教えは、いちおう実践的には「正しい」考え方だと言えるだろう。
なぜなら、「悪魔」とは「人間を超えた存在」であるのに対し、「神父」は所詮「人間」だからで、対等に議論して、簡単に勝てるような相手ではないからである。

しかしながら、人間でしかない「現代フェミニズム研究会」のメンバーが、自分たちと「意見を同じくしない、他のフェミニスト」を指して「あいつらの話に耳を傾けてはいけない。議論してはいけない」などと言うのは、あきらかな誤りである。
なぜなら、どちらも同じ「人間」だからだ。
そして無論、私とて人間なのである。

言い換えれば、同じ「人間」について「あいつの言葉に耳を貸してはならない」とするような主張は、「意見を異にする人間に対する、悪魔化」であり、より平たく言えば「差別」に他ならない。
その点で、私は「現代フェミニズム研究会」の、こうした「反人間」的に頑なな態度を、「宗教原理主義化」と呼んだのだ。

『 先ほど紹介した町の例で言えば、古くから住んでいる人たちが信じていることは信念です。
 ただそれを、新しく来る人に、「この町はこういう町なので、来るならばこう考えてください。それ以外は認めません」と強いるならば(※ それはもう)信念バイアス(※ つまり、信念による偏向思考)です。新しく来る人も、来てからはその町の一員であるはずなのに、その人たちのことは鑑みず、(※ 新参者の)意見は一切認めない。その姿勢(※ こそ)が、神聖な価値観につながってしまっている(※ ということな)のです。

 これをビジネスの文脈で考えてみましょう。ある会社が、「我が社はこういう理念・ビジョンでやろう」というのは信念です。ここ数年、「パーパス」が注目されてきたように、全社で1つの目的・目標に向かっていくために、こうしようと呼びかけるのは、経営陣の大事な役目です。
 しかし、相手の事情を鑑みずその理念やビジョンと少しでも違う社員を否定したり、その価値観を押しつけたり、それ以外の価値観を否定するとなれば、話は変わってくるでしょう(※ つまり、それは好ましいことではない、ということです)。

 ただし(※ また)、「信念を他者に押しつけてはいけない」という「信念」が極端になると、他者、他国の考え方や行動に口を出すことが一切できないということになりかねないので、注意が必要です(この、相対主義が極端に進んだ認知の仕方を「相対主義の認知バイアス」といい、162ページで改めて紹介します)。
「自分の信念を、他者、あるいは社会が一様に守ることが当然だ」と思う前に、どこまでが個人で守るべき範疇なのか、あるいは社会や世界が平和であるための規範なのかを振り返って考えてみることが大事です。
 そのために、人間は皆「信念バイアス」を持つこと、自分もその例外ではないこと、専門家もまた「信念バイアス」にのっとって提言している可能性が高いことなどを理解し、特に意識することが必要なのです。』(P146〜147)

著者が断っているとおり、なんでもありの「相対主義」は間違いである。
本書でも例示されているとおり、そんな「相対主義」を認めたら、「ヒトラーユダヤ人絶滅政策」さえ「あり」だということになってしまうわけだが、それが間違いなのは明白だ。

つまり「なんでもありの相対主義は、間違いだ」という大前提に立った上で、それでも「自分の立場だけが、絶対的に正しい」とするような「絶対主義」もまた間違いであるという自覚を持たなければならない。
要は、「絶対主義」と「相対主義」の間で、バランスをとりながら、「何がベストなのか?」ということを考えなければならない、ということなのだ。

無論それは困難なことであり、面倒なことなのだが、それが困難で面倒なことであったとしても、その困難や面倒を避けないことこそが、「知的誠実」なのだ。
その逆の、イスラエル的な「根絶やし主義」は、知的退廃なのである。

だが、にもかかわらず、「異論との議論を避ける」という方針を公然と掲げて、「異論者」を悪魔化する「現代フェミニズム研究会」は、「独善的」としか呼びようがないと、そういうことにしかならないのだ。

『 人というのは、(※ 自分の意見ばかりの)話したがりです。ほとんどの人は、他人の話を聞くよりも、自分の話をしたがります。しかし大事なのは、相手の話を聞くことです。それはとても難しいことですから、それこそ「話を聞くぞ」と意識して、一生懸命に聞かなければなりません
 コミュニケーションのスタートは、相手の話を聞くこと。そう言っても過言ではないのです。』

(P154・ゴシックは原文)

これも「常識的な話」であろう。まずは「話を聞く」。その上で、「反論」があれば、反論すれば良い。

もちろん、形式的に「耳を傾ければ」良いというものではない。
ここで著者が『一生懸命に聞かなければなりません。』と書いているのは、現実には「聞いているポーズだけ」の人が多いからなのだが、それでは意味がないし、建設的な議論に資することもない。

「政府の公聴会」なんかで意見を言っても、「ご意見、確かに承りました」と応えはしても、その後その意見を検討したのどうかも、それすらさっぱりわからないような、聞きっぱなし。そんなものは「聞いた」うちには入らないのである。

だが、ましてや、その「ポーズ」さえ採る気がないとなれば、それは「傲慢」以外に何ものでもない。
まさに「何様」か、ということにもなるのだが、そんな傲慢な態度を現に採っているのが、「現代フェミニズム研究会」に他ならないのだ。

『「AじゃなければB」「賛成でなければ反対」。私たちは白か黒かで判断したがります。そのほうが、スッキリ理解できるからです。
 しかし物事はその間に存在する連続的なグラデーションの中にあることが多いものです。AかBかで考えていると、真ん中の人のことが理解できないまま、物事が進んでしまいます。
 プロジェクトに賛成か反対かで考えていると、「ちゃんと手続きを踏んで進めてくれるなら賛成」「この案では反対だけど、別の案なら賛成」などといった、賛成と反対の間にある人の声が可視化されないままとなってしまいます。そして実際には、その間にいる人のほうが多い、ということが往々にしてあるものです。』(P163〜164)

これなどは、トランスジェンダー問題」において、端的に表れた問題点である。

「性別は、当人の性自認に拠るとすべきである(法的にも、そう定めなければ、それは差別である)」という主張が、「トランスジェンダー差別」反対を唱える人の側から提出されている。

そして、これが実現すれば、「ペニスのある(性自認的による)女性」も「当然、女性トイレや女性浴場を利用する権利を持つ」という理屈にもなる。

つまり、「性別は、性自認とすべきである」という意見に「反対する人たち」というのは、「そんなことになったら、いずれペニスのある女性が、女性トイレや女性浴場に、合法的に入ってくることになるから、それは困る。怖い」と、そんなふうに考える人たちなのだ。

これに対して、「トランスジェンダー差別」反対を唱える人たちは、「当人の、自認を尊重すべきだ。心こそ大切なのだ。外見で人を差別するな。あなた方は、自分たちの都合や気持ちしか考えないのか」との批判を加えたりする。

「心こそ大切だ」という部分に対しては、多くの人は反対しないだろう。
だが、それが「法律」化され、これまでの「当たり前」が当たり前ではなくなって、「さあ、これからはペニスのある人もない人も平等に、同じトイレを使い、同じ浴槽に入りましょう」と言われれば、ちょっと待ってくれと言いたくなるのは、当たり前の人情なのである。

これに対して、「トランスジェンダー差別」反対を唱える人たちは、「そうした感情は、これまでの誤った差別的認識に由来するものなのだから、私たちはその誤った認識をさっさと捨てて、正しい認識に立たなければならない。それが嫌だというのなら、その人は確信犯的な差別者だ」と言って批判したり、それでは角が立ちすぎて「世間の賛同が得られない」と思えば、「何も性自認制が法制化されたからといって、いきなりペニスを持った女性が、女性用トイレや女性用浴場に入ってくるというわけではありません。そうした場所にはそれぞれに個別の利用規約みたいなものがあって、例えば、公衆浴場が刺青の人の利用を制限しているのと同様のかたちでの対応は、確保されるのです」などといったことで「当面の話」でお茶を濁し、「法制化」を呑まそうとする。

こうした、両者の意見を聞かされると、普通の人は、

トランスジェンダーの人を差別するのは良くないし、私もそれには反対だけで、それでもペニスのある人でも、本人が女性であると主張すれば女性として扱わなければならないと、いきなりそう言われても、それにはちょっと無理があって困る。例えば、ある人が『私は牛ですので、遠慮なく殺して、食ってください』と言われても、はいそうですかというわけにはいかないのと似たようなことだ」

などと考えるだろう。

だが、このような「(非・二者択一的な)考え方」に対して、「トランスジェンダー差別」反対を唱える人たちは、しばしば安易に「差別主義者」のレッテルを貼って、問答無用で彼らの立場を否定しようとする。
「それでは貴方は、現状の差別状態を温存継続させよと言うのか。いつかみんなが馴れるようになる日までは、トランスジェンダーの人たちに我慢しろと言うのか」と、そう責めるのだ。「我慢すべきは、彼らではなく、あなたがたの方ではないか」と。

だが、そうした考えを考えこそが「おかしい」のではないだろうか?

その「神聖な価値観」において、それは「古い偏見だ」と、単純に切って捨てることが、果たして本当に正しいのか、ということである。

むしろ「単純な割り切りによる、決断主義的な選択」は避けて、いったんは保留し、慎重な検討な付して然るべきなのではないか。
そうした、一見したところの「立派な決断」は、しかし、もしかすると一種の「宗教教義的な理想」への「信仰」にすぎないのではないかと、一度は慎重に疑ってみるべきではないのか、いうことである。

『 多くの人は、「自分は合理的に判断し、決定している」と思っているかもしれませんが、そうではありません。選択や意思決定の多くの場合、人は、最初に感情で、端的に言えば「好きか嫌いか」で物事を判断し、その後、「論理的な理由」を後づけしているに過ぎないことを示すデータが、非常に多くの認知心理学や脳神経科学の研究で報告されています。』(P192)

これも「ごく当たり前」の話に過ぎない。

つい先日も、私の「映画批評」のスタイルが「分析的であり、評価の根拠提示を重視するもの」である点について、ある人が「主観的な批評があって良いのではないでしょうか」というようなコメントをくださった。
これに対して私は「いや、私の批評だって、その評価の発端は主観です。これは面白いとか、ここは変だと感じたところから始まって、その意味するところは何なのかと突き詰めていくところで、私の批評は成り立っています。したがって、私は直感を否定するのものではなく、ただ、それに止まっていてはつまらないから、その先に思考を進めるというだけのことなのです」と、このように応答したのだった。

つまり、人間というのは、最初は「好きか嫌いか」などで直観的に判断するのだが、その次の段階で「しかし、その好悪判断は、果たして客観的にも正しいものだと言えるのだろうか?」と考えるのが、「知性的」な人間というものなのである。

言い換えれば、「トランスジェンダー差別が良くないことだなんて、どう考えたってわかりきった話じゃないか。なのにどうして、あいつらは、不平等な現状を是認するんだ」と「感情的」に判断し、その後に「相手の立場に立って考えてみる」こともぜず、「あいつらは、根っからの差別者であり、心が悪に染まった人間なのだ。だから、話すだけ無駄なのだ」といった「手前味噌な極論」に走ってしまうような人は、端的に「知性」を欠いているのである。

『 仕事ができる人というのは、
「あの人にこう言ったら、たぶんこういう反応が返ってきますよね。だからこういうふうに準備しておきましょう」
 という会話をよくしているものです。提案をする前から、相手の反応を織り込んでいるのです。「仕事は段取り8分」と言われますが、その段取りの中に「相手」が含まれることを覚えておくといいと思います。』(P277)

自慢するわけではないが、私の「批判論文」の特徴は、「現代フェミニズム研究会」の「趣意書」のように、意見を異にする相手を、一方的に「悪者」だと決めつけるような、「独言」めいたものではなく、「彼らとしては、たぶんこのように考えるのだろう。だがそれは、これこれで間違いだ。しかしまたこう言えば、それはこうだと反論するかもしれないが、それは所詮、こうでしかないのである」という形式を採るものである。

だから、そんな私から言えば「子供が駄々を捏ねている」かのように一方的な「現代フェミニズム研究会」の「趣意書」は、あまりにも「幼稚」だということにしかならないのだ。

『「いいコミュニケーション」とは何か、と考えるとき、私が頭に描く組織があります。それは、国際認知科学会(Cogritive Science Socicty' CSS)という学術団体(学会)の運営委員(Governing Board member)として私が参加している会議体です。
 この会議体には、世界各国から選挙で選出された認知科学の研究者が集まっています。そこでは、例えば次回の学会はどこで開催するか、今後の学会の運営はどうするか、若手研究者や先進的研究が行われていない地域の研究者をどうサポートするか、アカハラやセクハラを防ぐためにどう取り組んでいくかなど、毎回様々な議題について話し合いを行っています。

 その特徴は、
・意見が活発に出ること
・互いによく話を聞くこと
・誰か声の大きい人や押しの強い人が勝つわけではないこと
・揚げ足取りではなく前向きに捉え、いいところは認めて落とし穴や足りないところを見ていくこと
・追随しないこと
・険悪にならないこと
・建設的にいい落としどころに持っていくこと
 など。もともと社会貢献に関心があり、ダイバーシティを理解した優れた研究者たちが選挙で選ばれているということもありますが、これほど議論が心地よく進むことがあるのかと、毎回、感心するばかりです。
 このように、「いいコミュニケーション」と言われてすぐ思い描けるものがあるのは喜ばしいことではありますが、その反面、こうして描いた場以外では、いつもいいコミュニケーションが取れているわけではないということでもあります。
 また、こうした心地のいいコミュニケーションは、「こうすればできる」というものではない、というのが率直な意見です。本書でご紹介してきた人間の認知の力の特徴をそれぞれが理解し、配慮しあって初めて、「いいコミュニケーション」が成り立つのでしょう。』(P248〜250)

いささか、手前味噌な例でもあれば、優等生的に過ぎる意見だとも言えようが、しかし、言い換えれば、「いいコミュニケーション」というのは、当事者に、それくらいしっかりした「自制的な意志」がないと不可能だ、ということなのだ。

で、この引用部で重要なポイントとは、

ダイバーシティを理解した優れた研究者たちが選挙で選ばれている』

という部分である。
「ダイバーシティ」とは、無論「多様性」のことだ。

「フェミニスト」を自称する人たちは、しばしば「多様性」が重要だと訴える。
また、「ダイバーシティ」と言えば、まるで「フェミニスト」の専売特許ででもあるかのように語られる向きさえあるのではないか。
事実、「現代フェミニズム研究会」の「趣意書」の中にも、

『ジェンダーとしての「女性」集団のなかには、多様な状況・属性・アイデンティティをもつ女性たちがいます。』

と、「女性」の中にさえ「多様性」があって、そうした「多様さ」は尊重されなければならない、と訴えている。

ところが、斯様に「ご立派」なことを宣っている「現代フェミニズム研究会」の「フェミニスト」たち自身が、「フェミニスト」の中での「多様性」を認めず、「自分たちが正しく、相手は間違っている」として、「敵を排撃殲滅する」ことしか考えていないというのは、その無自覚が情けないでは済まず、ほとんど致命的なのではないだろうか。

前述のとおり、たしかに「何でもありの相対主義」ではいけないから、意見を異にする者の双方が、それぞれに「甲論乙駁」をすべきなのだが、そもそも「甲論乙駁」による「議論の練り上げ」というのは、議論の席につかなければ不可能なのだ。

だが、そうした「無自覚に独善的な態度」が「恥ずかしいことだ」と知っている「国際認知科学会」のメンバーとは違い、「現代フェミニズム研究会」の頑なな態度は、いかにも「お粗末」と評するしかない。

参加している学者のレベルが違うと言ってしまえばそれまでだが、「気持ちの持ちよう」ならば、決して引けをとる必要などないはずなのに、それさえもできないのが「現代フェミニズム研究会」というグループに属する「学者」たちの、偽らざる知性レベルなのである。

『 無意識の表情の変化すら、相手に影響を与えてしまうのですから、上司としては、イヤな報告を受けたときこそ、相手を褒める・感謝する」くらいの心づもりが必要です。

「リスクを早く報告してくれたから、早めに手を打てて助かった」
「君の報告のおかげで、何とか取り戻せたよ。ありがとう」』(P281)

上は、「プラスのフィードバックで、不測の事態を防ぐ」という見出しのつけられた個所からの引用だが、要は「プラスのフィードバック」によって「不測の事態」を防ごうと思う気があるのならば、「耳に痛い言葉」にこそ耳を傾け、それに対して、むしろ「感謝しろ」ということなのである。
言い換えれば、このような「謙虚」な気持ちが持てず、「イエスマン集め」しかしていないような組織は、早晩、世間から見放されるぞ、ということなのだ。

こうした考え方も、所詮は「常識的な話」であり、ごく「当たり前」のことなのだが、それがまったく出来ていないのが、やはり「現代フェミニズム研究会」の面々だ、ということなのである。

彼らはこれまで、「専門家」として「フェミニズム」を研究し、「女性差別」や「トランスジェンダー差別」に反対してきたはずなのだが、そうしたことの過程で得た彼らの知恵とは、結局のところ、「宗教原理主義的な独善」か、あるいは「政治的な駆け引き」でしかなかった、ということになるのだろうか。

だとすれば、いくら「大学教授」などの肩書きを持った人が多数参加していようと、そんなものは所詮、シオドア・スタージョンの言うところの「9割のクズ」の内でしかない、ということになるのではないだろうか。

今回私が、結論的に言いたいのは、往年の野球選手(露文学者ではない)江川卓の発した名文句である。

そう興奮しないでください。冷静に話し合いましょうよ。

ということになるである。


(2025年5月17日)



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(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)


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