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北村紗衣・被害者の責任 : 池田緑 『ポジショナリティ 射程と社会学的系譜』

書評・第2回:池田緑ポジショナリティ 射程と社会学的系譜』(勁草書房)

「ポジショナリティ」という考え方の難しい(誤解されやすい)ところとは、その人が現に立っている「立ち位置」が、例えば「男性」であったり「日本人」であったりという、当人が選択したものではないにもかかわらず、現にその「立ち位置」にあるが故の「責任」を問われるためである。

例えば、「男性」であれば、「女性」から「男性社会における女性差別の現状に対して、責任を感じて行動せよ」と言われたりする。
「日本(本土)人」として、「沖縄(の)人」から「米軍基地を沖縄に押しつけているという現状に対して、責任を感じて行動せよ」と要求されるなどのことがそれで、本書『ポジショナリティ 射程と社会学的系譜』の著者である池田緑が主に関わっているのも、こうした「性差別」や「沖縄差別」問題なので、本書では、そうした問題からの例示が多い。

しかし、これはあくまでも「例示」であって、「すべて」ではない。
と言うのも、このグローバル化した今の世界においては、一人の人間は、ほとんど無限と言ってもいいような、多様な「ポジショナリティ」に立たされているからだ。

例えば、私も貴方も「ガザの現状に責任を負っている」とか「地球温暖化に責任を負っている」などと言われて、初めて「それもあるのか」と気づく人といれば、言われてさえピンと来ない人も多いのではないだろうか。

実際、私が批判している「武蔵大学の教授」で自称フェミニストの北村紗衣や、その仲間である「現代フェミニズム研究会」の面々なども、「女性差別」や「トランスジェンダー差別」は問題にしても、それ以外の部落差別(同和問題)」や「従軍慰安婦問題」「在日朝鮮人差別」「沖縄への米軍基地押しつけ問題(沖縄差別)」などについては、一言半句、口にしようとはしない

一一なぜ、そうした「差別問題」について、触れようとしないのか?

それは、それらの問題に触れることで、自分たちの「加害者としてのポジショナリティ」が、藪蛇的にあからさまになって、「正義の味方」という立場のみに止まってはいられなくなる恐れがあるからである。

だから、そんな不利な「ポジショナリティ」の存在には気づきたくないし、気づいたとしても、気づかないふりをして、話題を、自身に都合の良い「ポジショナリティ」としての「専門分野(フェミニズム)」に限定し、それで事足れりとしている(したい)のだ。

そして、上のようなことを指摘したのが、本稿の「第1回」であった。

自分が「好きで」「進んで」選んだ「立ち位置」ならば、多少なりとも自覚もあるし、多少の「責任」意識も持てるだろう。
だが、「男性」であるとか「日本人」である「今を生きている人間」であるとかいったことについては、その「立場としての責任」と言われても、ほとんどの人は、きっとピンと来ないはずだ。

ちょっと前には「日本は、朝鮮半島を侵略した歴史的事実に責任を感じて、その被害者である従軍慰安婦朝鮮人徴用工に対する、償いを十二分にせよ」と言われて、「ネット右翼」や「エセ保守」などが、さかんに反発していたのも、要は、彼らの多くが「戦後生まれ」であり「私個人の責任ではない」のに、という意識が、根底に強くあったからではないだろうか。

「日本の誇るべき歴史」なら高らかに語っても、「恥ずべき歴史」については、ほおかむりをしたがるのが、「日本の歴史」に責任を取らず、その受益だけに与ろうとする彼らの、無責任な態度なのである。

責任が問われている「日本」に、自分たち「戦後生まれ」も含まれているという点が、彼らには不満なのだろう。
「なんで私たちまで、非難されなきゃならないんだ。私は何もしていないのに」という、ほとんど「難癖をつけられた被害者」的な意識があって、本当はそんな「自分の立場」を正当化するために、彼らは「日本の歴史まで改竄」しようとしたのである。あくまでも、自分のために(つまり、歴史修正主義)。

だが、「ポジショナリティ」という考え方が意図する「立場の有責性」とは、その人「個人の行動や意識」の問題ではなく、その人が「現に立っている立ち位置(の性格)」の問題なのだ。
その人が、現にその「立ち位置」に立っていることによる「受益」や「受苦(損失)」など、その事実性を問題としているのである。

例えば、その人が「日本人」として、現在その立ち位置において、何らかのものを「日本」という国から「受益」しているのなら、「日本の歴史」に対しても「責任」を持たなければならない。
なぜなら、「今の日本」が斯くあるのは、善行も悪行も含めた「過去の日本」の歴史があるからである。

「過去の日本」が良いことをしたので、何もしていない「今の日本人」である貴方が「得をしている(受益している)」場合もあれば、「過去の日本」が悪いことをしたので、何もしていない「今の日本人」である貴方が「損をしている(損失を強いられる)」場合もある。
しかしそれは、貴方が現在の「日本人」である以上は、引き受けなければならない「立場責任」なのだ。

そして、これは「男性」であることの「女性」に対する加害責任、「日本人」であることの「沖縄人」や「朝鮮人」に対する加害責任なども、まったく同じことである。
現に「日本人」である以上は、そのひと個人の「思想」や「行動」には関係なく、それ以前に存在する「大前提」としての「立ち位置責任」としての「ポジショナリティ」というものの存在を、考えようとしているのだ。

ただ、この「責任」の自覚というのは、やはり、なかなか困難なことではある。
いくら、自認の如何に関わりなく「立ち位置そのものに伴う責任」がある、とそう言われても、たいがいの人はピンと来ない。やっぱり「自分がやったことでもないのに」というところに、意識が舞い戻ってしまいがちなのだ。

自分が「自覚的」「能動的」に為した言動以外の「責任」、その「ポジショナリティにおける責任」というのが認識困難なのは、一体なぜなのだろうか?

一一その一つの原因は、「責任がある」と理解する場合に、そこに「因果律」を求めるからだ、ということが、本書の「第5章 ポジショナリティと集団の責任」で語られている。今回はその問題を、私なりに考えてみたい。

(※ なお、最後にもう一度、北村紗衣に結論的に触れる)

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さて、この「第5章」で紹介されている、社会学者ゲオルク・ジンメルの議論が、「なるほど」と思わせて興味ぶかい。

『 ゲオルグ・ジンメルは『社会(的)分化論』において、集団の責任(集団的責任)と個人の責任を集団の分化様態の変化と捉えて論じている。『社会的分化論』の第二章は「集団的責任(集合的責任:Kollektivverantwortlichkeit)」となっており、相当の紙幅でこの変化を論じている。その議論を要約すると、近代以前の社会では、個人の犯罪や責任がその行為者のみならず。家族や部族、ときには後の世代までに負わされ、処罰されたり処刑されたりということがあった。個人的にはなんの罪もない人までが罰せられるという、わかりやすい連帯責任である。これは政治的に統一された集団(中央集権的集団)による裁定であろうと、一族といった私的集団間の紛争であろうと同じであった。この機序をジンメルは社会圏という用語で説明する。個人の罪は家族や部族など社会圏の罪と同一視され、社会圏の範囲が小さければ小さいほど個人と全体の融合は強く認識が分化していない。一方で近代以降の巨大な社会圏においては、個人と全体の結合は弱くなり、個人が認識上社会全体から分化されることにより、責任も個人に分化され、集団の責任という考え方は無くなっていった。
 ジンメルによれば、社会分化の程度と結合の強さの変化が集団の責任という視点を解体し、個人に責任が特定されるようになった、ということである。これは客観的に観察可能な社会圏の機能的結合という側面と個人の主観的観測という二つにおいて相互的に作用する。たとえば近代社会においても、家族に連帯責任(犯罪者の家族や係累が社会から非難され排除されることなど)は、家族が(他の社会圏と比べて)分化していないことから生じた解きがたい連帯責任に対する信仰が、第三者になされた個人的行為に対して課されるべき懲罰を家族全体に対して課し、そのことがまた他からの攻撃を防ぐために家族をきわめて緊密に結合させ、この信仰の基礎をさらに強めると論じる(Simmel, 1890=2011:23-26)。前近代的懲罰の集団性から近代的懲罰の個人性への移行についてのジンメルの見解は、興味深いものである。結合強度と社会圏の分化は負の相関関係にあり、その原則に沿って、社会分化が多様化・増大化した社会圏においては、複雑な社会的分化によって相対的に個人の社会圏からの独立性が高まり、役割と紐帯と因果律が個人を軸に分別可能となり、それが懲罰の個人化をもたらしたとの認識には、一定の説得力がある。
 このような議論を前にすると、ポジショナリティとそれに付随する責任を論じることは、現代の高度に複雑化した社会的分化のありようを無視した暴論と、一見映るかもしれない。』(P176〜177)

昔の「社会(圏)」は規模の小さいものだったので、「その世界がすべて」というような感覚であった。つまり「社会の分化」が進んでいなかったからこそ、「責任」というものの「個人」への「分化」も進んでいなかった。
今の目で見ればそれは、とんでもなく不合理な「連帯責任」と映るものであった、ということだ。

半世紀前の日本なら「連帯責任」ということも、よく口にされたものだが、「個人」の自由が強く強調される今日においては、おおむね、論外の「悪」だということになっている。
「その人がやったことでもないのに、どうしてその人までが責任を負わされなければならないのか」と、そう考えられるわけだが、そう考えるのは、その責任が問われている「悪しき行為」と「その人」との間に「因果関係が無い」と認識されるからであり、「関係のないことの責任を負わされるのは間違いだ」という認識機序である。

しかし、このように言われる場合の「因果関係」というのは、「直接的な因果関係」だということに留意しなければならない。

なぜ、その昔「家族の連帯責任」(「クラスメイトの連帯責任」等でも同じ)が問われたのかと言えば、「家族ならば、家人の行動に注意を払い、善行を進め悪行を止める責任がある」というふうに考えられていたからであろう。それほど「家族の紐帯」とは、良くも悪くも強いものだと考えられていたわけである。
「個人によって形成された家族」であるよりも「家族あっての個人(成員)」だという感覚だったのではないだろうか。それほど「社会性」が重視されていたのだ。

ところが、「個人」が「家族(集団)」に縛られて融通がきかない(フレキシブルではない)ようでは、社会の発展も望めない
そこで現代においては、「個人の自由」ということが重視されるようになり、「家族」あるいは「家」というものは、「個人」の背景としか考えられなくなったのではないだろうか。
ひと昔前の日本でも、「家」のために苦しんだ人たちの多かったことは、島崎藤村『家』などにも描かれて、よく知られているところである。

だが、そうした時代の変化もあって、「個人」の意思を差しおいてまで重視されるような、所属「集団」における「責任」というものへの意識も、おのずと薄れることにもなる。

「個人責任」ということなら、親が子をどんな育て方をしようと、所詮、子は子で「個人」なのだから、その子がどんな人間に育って何をしようと、「親の責任」を問うことはできない。
例えば、子が、猟奇殺人犯になって、多くの罪なき人を殺そうと、母親が「お前は、歴史に残るような殺人鬼になれ(育て)」とか「大きくなって、たんと人殺しをしろ」などと言った(教唆した)わけではないのなら、親の「育て方」と「子のなした行為とその結果」についての「合理的な因果関係(因果律)」など特定しようもないから、法的には「親に責任は無い」というのが、現在の当たり前の「法体系」である。

だが、私たちは、こうした「個人主義的な割り切り方」の「合理性」を一応は認めるものの、やはりどこか釈然としないものを感じるのではないだろうか。
たしかに「法的」には、そうならざるを得ないのかもしれないが、しかし「倫理的な責任までもが、無いと言えるのか」というような感覚である。

例えば、社員の起こした業務上の不祥事について、「社長」が出てきて謝罪会見をするなんてことはよくがあるが、別にその「不祥事」は、社長が指示してやらせたことではない。だが、社長である彼には、社員を管理し統率する者としての「立場責任」があるから、社長はその「責任」において頭を下げるわけなのだが、この場合の「責任」とは、「責任者(立場)としての論理的責任」なのか、あるいは「社長職における不作為についての個人責任」なのか(それとも両方なのか)、なかなか分かりにくいところなのではないだろうか。

東日本大震災にともなう「福島第一原発事故」に関して、「東京電力」の歴代社長らの「法的責任」が問われたけれども、結果としては「無罪」が確定した。
その理由は、彼らは「予見できた災害に対する対策を、故意に怠った」という個人責任が認定されず、「予見できなかったが故の対策不足(は、故意のない配慮不足)」に過ぎないと、そういう判断がなされたためであろう。

例えば、最近よく話題にのぼる「危険運転致死傷罪」の認定判断だが、「酒を飲んで」「制限速度をはるかに超えたスピードで」「バック走行」したりすれば、「死人が出ても当然」なのだから、そんな奴には、「過失致死傷罪」ではなく、より重い「危険運転致死傷罪」を適用すべきであると、そう考えるのが「世間の常識」ではあろう。
しかし、そうした「第三者の常識」と「当人の自覚・自認」とは、多くの場合、一致しない

なにか「犯罪」なり「不祥事」なりを起こした場合、多くの「被疑行為者」は、「悪気はなかった」「そのつもりはなかった」「こうなるとは思わなかった」などと言い訳するのが常で、これは、そういう人に向かって「そんなわけないだろ!」と責めている人たちだって、自分がその立場に現に立たされたら、そんな間抜けな言い訳を、本気でしてしまいがちなのではないだろうか。

それにしてもなぜ、こんな「言い訳」が、当たり前のように、口にされるのだろうか?

それはたぶん、「故意」が無ければ、「行為者」と「行為結果」の間の合理的な「因果関係(因果律)」の存在が認定できず、行為者の「責任」は問えないと、誰もがそう思っているからではないだろうか。
「たまたまそうなった」だけで「そうしようとして、そうした」わけではないのなら、それは「不運」でしかなく、当人に「責任は無い」のだから「責任は問えない(問うべきではない)」、というロジックである。

ならば、多くの「犯罪被疑者」が「故意」を否定し、「予期せぬ結果」であったと主張するのも、自然なことではないだろうか。「なにしろ自分は、そんなこと、特には考えていなかった」のだからと。

もちろん、責任逃れのために「嘘」をついている者も少なくなかろうが、心の底から「そんなつもりはなかった」と主張する者も少なくないというのは、容易に推定できるところでもあろう。
そもそも、そんな無茶なことをすれば、おのずと高い確率で被害も出て(出してしまい)、それで警察に捕まって処罰されるだろうというのは、まともな頭があれば予想できそうなことなのに、それでもそれを現にやってしまうような人というのは、日頃から「ろくに何も考えずに、生きてきたのだろう」と考えた方が、よほど理解しやすいからである。

しかし、第三者から見れば「結果」は同じなのに、「故意」があったか無かったかで、科される刑罰が大違いだというのは、どうにも納得しにくいところではあろう。
しかしながら、「責任(能力)」の有無というものが「因果律」的に考慮せざるを得ないかぎりは、「こうしたから、こうなった」の前に「こう考えたから、こうした」という部分も問わざるを得ないのだ。

つまり、それを「やろう」という意志としての「故意」がなければ、基本的には「責任」は問えない。
問えたとしても、「結果責任」だけなのだが、多くの人は、「故意」があろうと無かろうと、この「結果」こそが重要なのだから、「結果責任」を負うのは当然だ、と考えるだろう。
たとえ、科される刑罰は軽くても、その行為を現にしたという「責任」において、その者は「心からの反省と償い」をしなければならないと、そう考えるのだ。

一一つまり「責任」とは、「因果関係」によって初めて発生するものなのではなく、「結果」があるだけで、当人にその「自覚」としての「故意」があろうが無かろうが、「責任」はある、ということなのだ。

言い換えれば、「因果関係」において問われる「故意」とは、その「負うべき責任の質や量」を認定するための材料であって、「責任の有無」を問題にするための材料ではない、ということなのではないだろうか。

例えば、よく問題になることだが、「心神喪失」時における「犯罪」においては、「被疑者」は「無罪」になる。
なにしろ、ほとんど「何も考えられないような精神状態」だったのだから「故意」などというものがあろうはずもなく、彼の「意識」と「結果」の間に「因果関係」を認めることなど、到底できないからである。
つまり、その結果は、完全に偶発的なものであり、要は「災難だった(運が悪かった)」ということだ。

しかし、では、その被疑者に「結果責任」が皆無なのかと言えば、そうではない。
そうではないから、「病院送り」にされて「その病気が治るまでは、娑婆に戻れない」のだ。決して「無罪放免」というわけではないのである。単に「(現行)法的に罪は問えない」だけで、「罪が無い=結果責任が無い」ということではないのである。

そして、このように考えてくると「ポジショナリティ」における「責任」というのも、この種の「直接的な因果関係における責任」ではなく、「結果責任」の一種だと考えることができるのではないだろうか。

誰もすき好んで「心神喪失」になるわけではないのだが、そうなってしまい、その結果として何らかの「あやまち」を犯してしまうと、その「責任」を問われることになる。
「こんな自分に産んでくれと頼んだ覚えはない」と言っても、それでは許され得ない「責任」が、当たり前に生きているだけで、そこにはすでに発生しているのだ。

同様に「男に産んでくれと頼んだおぼえはない」とか「日本人に産んでくれと頼んだおぼえはない」というのも、同様のことなのだ。

例えば、その男性「個人」と、「女性の社会的劣位」に「直接的な因果関係」は無いだろう。だが、その男性が「男性中心社会の中で、自覚もなく、その立場から受益している」という事実は否定できないし、それは、女性から見れば「女性差別による、不当な(分配的)受益」なんだから、その男性にも「責任」があるとするのは当然であり、その「責任」とは、前記の「結果責任」のようなものなのではないだろうか。

そしてさらに言えば、「責任」とは、本来、その「自覚」の有無に関わりなく、その人の現にそのように生きているという事実から自ずと発生するものであり、「法的に問われる責任」とは、そのごく一部の「最低限度の責任」ということなのではないだろうか。

言い換えれば、「責任」とは、自覚の有無に関わりなく存在しており、私たちに求められるのは、その「自覚しにくい責任」の自覚であり、その自覚に伴う「引き受け」なのではないだろうか。
そしてそれを、「責任感(覚)」と呼ぶのではないか。

そうした意味で、「責任」とは本来、他者から「問われるもの」なのではなく、当人が「自覚し引き受けるもの」だったのではないだろうか。

したがって、「責任=責めに任ずる」とは、「他人を責める任に就く(担う)」ことではなく、「自らの責めから逃げずに、それを担う」ということなのではないか。

「男としての責任」「日本人としての責任」「人間としての責任」とは、できれば誰も担いたくはないという、そんな自身の責めを、みずから担うことであり、そういう人を「責任感(覚)のある人」と言うのではないだろうか。

「他人の責めばかりをあげづらい、自らの責めから逃げている人」こそが、まさに「負うべき責任を負っていない」と意味において、「無責任」な人なのである。

例えば、私の「めった切り批評」のことを「器物損壊罪」だと、故意に言い換えて、「note」管理者に誣告(讒言)し、自身への批判記事を削除させた、北村紗衣という自称フェミニスト。

(私が「須藤にわか」氏のノート記事に上のコメントをしたところ、私にヘボ評論家認定された北村紗衣ご本人が、いきなり上のようなコメントを書き込んできた。これが全ての発端である。北村紗衣にかかると「めった切り批評」も「器物損壊罪」にすり替えられ、管理者通報されてしまう。こうして多くの北村紗衣低評価がネット上から消されていった)

その虚偽申告(誣告)を、私に指摘されて以来、うんともすんとも言わなくなった、そんな「武蔵大学教授」である北村紗衣とは、典型的な「無責任」人間であり、そんな「無責任女」が「女性の権利が侵害されている」などと言ってフェミニストを名乗ったり、「武蔵大学の教授です」などと、若者に適当なことを教えていることこそ、まさに「無責任な所業」でなくて何であろう。

北村紗衣は、1000人を超える賛同署名を集めた公開質問状「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」で、呉座勇一を「女性蔑視者」であると名指して攻撃し、その「数の力」で呉座を屈服させたのだが、その「オープンレター」公開の数日前に受けたインタビューでは、しおらしい「被害者づら」で、北村紗衣の性格をよく知る者を唖然とさせるような、まるで不似合いな「大嘘」を、ぬけぬけとついている。
きっと、腹に一物もちながらも、こんな被害者づらで、少なからぬ人をまんまと誑かして、「オープンレター」への署名をせしめたのであろう。無論、騙されて署名した者も、署名した責任は免れないのだが。

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武蔵大学准教授・北村紗衣氏インタビュー (後編)
自分を責める気持ちが湧いてきて…呉座勇一氏“中傷投稿”問題、北村紗衣氏が語る「二次加害の重み」
(「文春オンライン」2021/04/01 ・インタビュアー 西澤千央)

『――北村先生の活動がツイッターで注目される理由のひとつに、寄せられるリプライに淡々と反論するスタイルがあると思います。「わきまえろ」の圧力を日々感じている人にとっては、あぁこういうやり方があるんだとすごく勇気を感じるのではないでしょうか。

北村 元から全然わきまえてない人は、自分がわきまえてないことも気づいてないんですよね。なんでしょう、革命家になるような人って、全然自分が革命を起こしていることに気付いてないって話ありますけど。私あんまりそういうのに気づかずに暮らしてきたので、ちょっとよくわからないところがあります。
 たぶんそうでないと、いきなりスクショ公開して怒ったりしないですよ。

――逆に、フェミニズムにあまりいいイメージを持っていない人には腹立たしくてしょうがないものに映るのかもしれない、とも。北村先生もツイッターで吐露されていましたが、被害にあった側なのにどんどん新たな加害にさらされると、もしかして自分が何か悪かったのかと、そういう気持ちになってしまいますよね。

北村 私、今までそういった二次加害の事例に関する本もたくさん読んできたはずなのに、実際に自分の身に起こると、やってもいないことに関して悪いことをしたんじゃないだろうかとか、自分は取るに足らない人間なのではないだろうかとか、そういうネガティブなことばかり思い浮かんできます。やはりいくら本を読んで学んでいても、そうなるんだなぁと。 』

見てのとおりで、自身を『革命家』に擬しているところも相当ずうずうしいが、言うに事欠いて、

やってもいないことに関して悪いことをしたんじゃないだろうかとか、自分は取るに足らない人間なのではないだろうかとか、そういうネガティブなことばかり思い浮かんできます。』

である。どこの「繊細な女性」の話をしているのか、呆れて物も言えない。

ともあれ、そんな、しおらしい人間が、自分の現にやったこと(誣告)に頬かむりとは、一体どういう了見なのか?
これも一種の「後遺症」なのか? それとも、よっぽど「トンデモない人間」なのか?

だが、答えは簡単。

北村紗衣は最初から、自分の言葉に「責任」を持たない、正真正銘の「虚言癖の持ち主(嘘つき)」だったということなのである。

そして私の方こそ、北村紗衣のような「嘘つき」が野放しされていることによる、「二次被害者」なのだ(よって、文藝春秋にも責任の一端はある)。

だが、現在の私は、そんな「被害者としての責め」を引き受けて、「加害者である北村紗衣」を批判している。

「責任」を負うとは、そういうことなのである。


(2025年5月29日)


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(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)


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