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ヴィクター・フレミング監督 『風と共に去りぬ』 : 北村紗衣は、現代日本のスカーレット・オハラ?

映画評:ヴィクター・フレミング監督『風と共に去りぬ』(1939年/アメリカ映画)

本作も、個人的にはあまり興味のない作品だったのだが、名作の誉れ高い有名作ということで、教養として見ておくことにした。

ちなみに、私は本作『風と共に去りぬ』は、映画だけが有名なのか、原作も名作として名高いなのか、そのあたりも、よく知らなかった。なにしろ興味が無かったからである。

しかし、興味がないにもかかわらず、本作のタイトルは、昔からしばしば、私の耳目に入ってきた。

それは、主としては名作映画として、ヴィヴィアン・リーの演じた主人公のスカーレット・オハラと、クラーク・ゲーブルの演じたレット・バトラーがキスをしようとしている有名なポスターや、リーのスカーレット・オハラが、その特徴的な右の片眉だけをすこし上げて、下から睨めつけている写真などを見てであり、また、この二人を再現しようとした「宝塚歌劇団」による『風と共に去りぬ』公演のポスターなどによってであった。

私は生まれてこのかた、ずっと大阪在住であり、阪急電鉄沿線の住人なので、子供の頃から阪急電車を利用しているのだが、この阪急が宝塚歌劇団を経営しているため、その電車内や駅構内で、いつも宝塚のポスターを目にしていたし、『風と共に去りぬ』は、宝塚の定番作品でもあるから、定期的にそのポスターを目にしていたのだ。
そのため、『風と共に去りぬ』自体を見たことはなかったものの「よっぽど有名な人気作品なんだろう」とは、昔から思っていたのである。

しかしながら、宝塚で定番だということは、要は「女性向け」の作品であり、ポスターから「ベタな恋愛ものなのだろう」と、おおよその察しはついたから、『風と共に去りぬ』は、長らく私には縁もゆかりも興味もない作品だったのだ。

だが、数年前から、映画を古典まで含めて見るようになったので、あまり興味はないけれど「そろそろここらで見ておくか」ということになった。

もともと私は活字派だったから、本当に興味のある作品であれば、まずは原作小説の方を読んでからとも考えるのだが、『風と共に去りぬ』には興味が無かったし、また、原作小説は翻訳の文庫本で5、6巻ある大作だということだけは知ってもいたので、評判の高い映画の方で、ひと通りの内容さえ知ればいいやと、そう考えたのだった。

で、そんな軽い気持ちでDVDを見始めたのだが、いきなり、映画が始まる前の、音楽だけが流れるパートが始まったので、「これはかなりの大作だぞ」と気づいた。
そこで上映時間を確認したところ、本作は原作小説の長さに相応しい「3時間58分」の大作だとわかり、これは「普通の恋愛映画ではないな」とも気づいたのである。

ちなみに、こうした音楽のみが流されるパートというのは、近年の映画ではまったく見られないものだが、昔の大作映画では、ごくまれにあったようだ(超大作で、途中に「休憩時間」を入れるような場合にも、同様のパートが置かれた)。

(この静止画をバックに劇伴だけが流れる)

これはたぶん、まだテレビが一般に普及しておらず、映画を見に行くというのが、特別なイベントであった時代の、「観劇」などに倣った慣習や、その名残りなのであろう。
今なら長々と予告編などをやっている、本編が始まるまでの時間帯に、音楽だけが流れる「気持ちを盛り上げる時間」みたいなものが設定されていた、ということなのではないだろうか。本編が始まる直前まで、忙しなく宣伝をたれ流すというのではなく、せっかくの大作映画を、しっかりと楽しんでもらうための、ちょっと贅沢な時間みたいなものだったのではないかと推測される。

私の場合は、DVDでではあるが、こうした「アバンタイトル」の音楽パートのある映画として、『エデンの東』(1955年/エリア・カザン監督)や、アンソロジー映画『ザッツ・エンタテインメント』(1974年)などを見ていたので、「これも大作だぞ」と気づけたのである。

そんなわけで、当初は2時間ほどで、原作の縮約版としての映画『風と共に去りぬ』を見(られ)るつもりだったのだが、この映画版は、かなり頑張って、原作の中身を再現しようとした作品だというのが察せられた。
無論、全5、6巻にもなるような大長編が、4時間に収まらないのはわかっていたが、それでも「一部分だけを切り取って」というような作りの作品ではないとわかったし、当たり前の「恋愛もの」では済まないというのもわかったのである。

では、結果としてどうだったかというと、本作は、19世紀後半のアメリカ南部を舞台にした「気丈な女性」スカーレット・オハラの半生を描いた、ある種の「歴史映画」であった。
その中で「恋愛模様」も描かれるが、必ずしもそれが中心というわけではない。

物語は南北戦争前から始まり、南北戦争時の混乱をへて、戦後までを描いており、映画では明示されてはいないものの、最低でも15年、長くて前後25年間ほどを描いている。
南北戦争自体が4年間あり、物語は、スカーレットが十代半ばであった戦前から始まって、敗戦によって家が没落し、好きでもなかった夫も戦死したので、戦後の混乱を乗り越えるために、スカーレットが「好きでもない男」と二度も再婚するといった、その波乱の前半生が描かれる。
つまり、それぞれの結婚生活が短かったとしても、そのくらいにはなるだろう、ということだ。

(南北戦争による、南部側の傷病者の群れ)

さて、上の説明からも分かるとおりで、本作は、いわゆる「純愛もの」ではない

スカーレットは、没落した家と故郷の土地(地名タラ)を守ることを第一と考える女性であり、それほど「土地」に特別な愛着を抱いている。タラは、彼女のいちばん幸せだった時代の象徴のようなものなのだ。
だから、タラを守るためなら、その美貌を生かした財産目当ての結婚は無論、妹の恋人を奪うことさえも、厭わないような女性だったのだ。

ちなみに、本作のタイトル『風と共に去りぬ』(原題: Gone with the Wind)は、

アーネスト・ダウスンの恋愛詩「シナラの詩の一句から引用したもので南北戦争という「風」と共に、当時絶頂にあったアメリカ南部白人たちの貴族文化社会が消え「去った」ことを意味する。』

(Wikipedia「風と共に去りぬ」

ものであり、当然のことながら、「黒人奴隷」の犠牲によって支えられた南部文化の最盛期を懐かしむ作品である。

(乳母の黒人奴隷マミー役のハティ・マクダニエルは、黒人初のアカデミー助演女優賞を受賞するが、その後に黒人が同賞を受賞するには四半世紀かかった。もちろん本作は「黒人公民権運動」以前の作品である)

したがって、原作小説では、黒人についての差別表現が多々あるものの、そのあたりは映画では極力薄められている
またそれでも、「北部を恨む気持ち」は、この映画でも、ほぼそのまま表現されている。そこまで削ると、違った作品になってしまうからである。

一一つまり本作は「そういう作品」なのだ。

(※ 上は、「映画の父」と言われたD・W・グリフィスの、悪名高き作品『國民の創生』。南部の没落家庭出身者ならばこそ、黒人に対する本音が、とてもよく表れており、四半世紀後の『風と共に去りぬ』とは比較にならない)

だから、ポスターなどを見ていると、スカーレットとレット・バトラーの「熱愛もの」かと誤解してしまうが、そんなものでは、まったくないのである。

レット・バトラーというのは、クラーク・ゲーブルが演じた見かけどおりに、女たらしのニヤけた二枚目なのだが、それでいて「北部と戦争をしたら勝ち目はない」と当初から見抜いていたような、強かなリアリストだ。
だが、そんな自信家のレットだったからこそ、彼に靡かないスカーレットという変わった女に、一目惚れしてしまったのである。

(レット・バトラー)

そして、長らくスカーレットに袖にされながらも、いつかはものにしてやると、スカーレットにちょっかいを出しながら気長に待っていたところ、戦後になっての2人目の再婚相手として、とうとうスカーレットと結婚することになる。
そして、娘も生まれてうまくいったかに見えた二人だったが、映画を見るかぎり、スカーレットの方は、レットに対してどこまで本気だったかは、かなり疑わしい。

と言うのも、スカーレットには、戦前の娘時代から、好きで好きで仕方のなかった男性アシュレー・ウィルクスレスリー・ハワード)がいて、そのアシュレーが、人を疑うことをしない心清らかな女性メラニーオリヴィア・デ・ハヴィランド)と結婚した後も、彼のことが忘れられられず、本心を偽ってメラニーと「親友」づきあいをしながらも、隙あらばアシュレーに言い寄ったりしていたのである。

(若きスカーレットとアシュレー)

つまり、スカーレットは、自分とは正反対の「知的で倫理的なお坊ちゃん」であるアシュレーを慕い続け、アシュレーはスカーレットの美貌に惹かれながらも、スカーレットは結婚の相手ではないと正しく見抜いて、心優しき人格者でもあれば家庭人でもあるメラニーと、賢明にも結婚したのだ。

ところが、アシュレーとしては、スカーレットが、いつまで経っても彼のことを諦めてくれず言い寄って来るし、彼としても美人のスカーレットに言い寄られて悪い気はしない。
それに、妻のメラニーは人が良すぎて、スカーレットの下心を疑おうとはせず、むしろ「大切なお友達」として遇するため、スカーレットとアシュレーの関係は、つかず離れずで戦前から戦後まで、ずっと継続したのである。

で、当然、女たらしのバトラーは、スカーレットがアシュレーを好きだというのは、百も承知していたのだが、仮にスカーレットがアシュレーと結ばれたとしても、うまく行くわけがないと高を括っていたので、スカーレットがアシュレーを諦めて、自分の腕に飛び込んでくるのを、気長に待っていたと、そういうわけなのだ。
彼としては、スカーレットと自分は「世の常識などなんとも思わない、主体的な自由人」として「似たもの同士」であり、二人はいずれ結ばれる運命にあるとそう確信していたので、余裕を持って、スカーレットとつかず離れずの関係を保っていたのである。

だから、アシュレーがメラニーと結婚したことへの当てつけでスカーレットが最初の結婚をしたときも、その夫が戦死し、戦後の実家の没落のせいで、スカーレットが心にもない政略結婚の再婚をしたときも、レットは「戦前からの友人」という距離でスカーレットとつきあってきたのだが、二人目の亭主にまで死なれて、いよいよ窮地に立たされていたスカーレットに、レットは救いの手を差し伸べ、「俺しかいないぜ」ということで、ついに二人は結婚したのである。

だから、普通の「恋愛もの」なら、これで「収まるべき鞘に収まった」ということになるはずなのだが、それでもやはりアシュレーはそばにいるので、スカーレットの心は、レットの上には落ち着かない。

レットとの間に娘ができても落ち着かないどころか、レットの方が娘にベタ惚れの親バカになってしまい、その立場からスカーレットに、「もうそろそろ落ち着け、お前はこの娘の母親なんだぞ」的な真面目さを見せ始めるのだが、スカーレットの方は、むしろそれが気に入らない。娘は「私の娘」だけど、レットは別にどうでもいいみたいな態度を見せ始めるのだ。
スカーレットのそうした態度に、ついに業を煮やしたレットは、娘を連れてイギリスに去るものの、可愛い娘が「おうちに帰りたい」と泣くので、レットは仕方なく、スカーレットのもとへと帰って和解をする。

しかし、そんな時に、最愛の娘が、レットの教えた乗馬での事故で急死してしまい、レットはその罪の意識で絶望し、一方のスカーレットはそんな彼を責めたので、ついにレットはスカーレットに対して、もうお前には懲り懲りだと、彼らしくもないきつい言葉投げつけて家を出て行く決意を示す。すると、そんなレットの本気を感じて、今度は彼に縋りつくスカーレットを残して、ついにレットが一人去ってしまうのだ。

だが、それでもスカーレットは「私にはタラ(故郷の土地)がある」と、不屈の闘志で再起を決意するところで、この物語(映画)は、幕を閉じるのである。

一一で、皆さんは、この物語をどうお感じになるだろうか?

私は、このラストに、正直、呆気にとられてしまった。「えっ、これで終わりなの?」と思ったのである。一一これが、名高い「名作」なのかと。

 ○ ○ ○

たしかにスカーレットは、「美女」であり「強い女」ではあるけれども、忌憚なく言わせて貰えば、「身勝手で、すごく嫌な女」である。
一一こんな女の半生記の、いったい何か面白いのだろうか?

たしかに「女らしさという型にハマらない」強い女性というキャラクターは、新しかっただろうし、社会的に長らく忍従を強いられてきた女性たちが、こうしたキャラクターに「痛快さ」を感じたというのも、わからないではない。

だが、スカーレットの場合は、単に「強い人」なのではなく、「自分勝手な、鼻持ちならない嫌な奴」なのである。そう断じても、まったく過言ではない。
だから、スカーレットがもしも男だったなら、こんな奴は、男からも女からも、総スカンを喰らうこと間違いなしなのだ。

だが、それでも「これまでには無かった、自由な女性」だということで許されるどころか、スカーレットは、多くの読者や観客に好意を持たれるキャラクターなのであろうか?
一一私には、さっぱり理解できない。

例えば、アシュレーの妻であるメラニーは、最初から最後まで「聖女の如き」心優しく思いやりのある立派な女性で、誰からも愛され尊敬される人なので、私も当たり前にメラニーの方が好きだし、なにより人として高く評価する。立派すぎて、信じられないほどの人物なのだ。
したがって、「家庭向き」とかいったこととは関係なく、単純に「人間として素晴らしい」のだから、スカーレットみたいな「嫌な女」となど比べなくても、メラニーに惹かれるというは、男女ともにごく自然なことなのではないのだろうか?

(アスレーの妻メラニーオリヴィア・デ・ハヴィランド

一一しかしながら、これを「フェミニズム」の観点で見るならば、スカーレットのような「最低の女」でも、「なにものにも縛られない、強くて自由な女」だというその一点において、男性中心社会の中で、長らく劣位に置かれてきた女性たちの場合なら、中には、スカーレットの言動を見て「痛快さ」を感じたり、自分にはない「ヒーロー性」を見て、スカーレットに憧れたりするのかも知れない。
ましてや美人で、伊達男のレット・バトラーに一方的に愛されるのだし、と…。

(※  若干似たところがあるとは言え、ジェイン・オースティン『高慢と偏見』なら、私も納得ができる)

だが、そういうことなのだとしたら、女性たちが男性社会の中で強いられてきた屈従というのは、やはり私を含む男性の、想像を絶したものなのであろう。そうとしか考えられない。

そしてそれが、スカーレットのような女が愛される理由なのだとすれば、私たち男性は、今もなお続く男性中心社会における、女性への抑圧というものの底しれない罪の重みを、もっと真剣に捉えなければならないのではないか。
「男は、女性たちの精神をここまで歪め、抜き難いルサンチマンを植えつけてしまったのか」と。

 ○ ○ ○

さて、話は変わるが、私はここ1年ほど、「武蔵大学の教授」で自称フェミニストの北村紗衣を批判している。

それまで「フェミニズム」というものに、特別な興味の無かった私が、その存在さえろくに知らなかった北村紗衣なる人物を批判するようになったのは、北村紗衣の方から私に「因縁をつけてきた」からである。

1年少し前のその頃、アマチュアの映画マニアである須藤にわか氏と北村紗衣との間で、「アメリカン・ニューシネマ」の定義をめぐる論争が、ネット上で戦わされていた。

一方の私は、たまたまその頃「アメリカン・ニューシネマ」に興味を持ち始めていた時期だったので、これもたまたま須藤にわか氏の記事を読み、そこで初めて知った「北村紗衣」なる人物の、「アメリカン・ニューシネマ」に関わる当該ネット記事(インタビュー記事)ブログ記事を読むことになった。

そしてその結果、「なんだ、こいつ? 大学教授というわりには、ぜんぜん大したことないな」と思ったので、須藤にわか氏の「note」記事のコメント欄に、そうした感想を書き込んだのだ。それが次の、

年間読書人
2024年8月25日05:14
(※ 承前)それを、それこそ『ダーティハリー』すら見てなかった(※ 映画の)素人が、「アメリカン・ ニューシネマ」は「こういうものだ」なんて、知ったかぶりで語るのは、まさに 「盲目、蛇に怖ず」ってやつだと思います。
そして、そうした態度の根底にあるのは(※ 大学教授という肩書きにあぐらをかいた) 「差別的な上から目線」。だから、そこで「フェミニストの恥さらし」にもなるわけです。

今度、北村さんの本を読んで、きっちり切り刻んでやろうかな(笑)。』

というコメントだったのだ。

だが、須藤氏と論争していた北村紗衣は、この記事のコメント欄までチェックしていたので、見も知らぬ私のコメントにもカチンと来たのであろう。

まあ、それはかまわないのだが、北村紗衣の「悪質」なところは、私に反論することもなく、わざと私のコメント末尾部分だけを切り取り、それを曲解することで「脅迫」だと決めつけて「管理者通報」し、当該コメント欄を含めた須藤氏の記事を「削除」させようとした、その陰湿さにある。

北村紗衣
2024年8月27日09:36
須藤にわかさん、あなたは私が「お姫様 になることが女性の権利向上と考えてい るフシがある」などと私が思ってもいないことを言って人格攻撃を行いました。 それが弁護できることだとでも思ってい るのでしょうか。フェミニズム観の違いに逃げようとしても無駄です。
年間読書人さんの、私の本を切り刻むというコメントは通報いたしました。』

見てのとおり、誰が見ても、私が「北村紗衣の本の内容を、詳細に酷評しようかな」という趣旨で書いたことを、まるで私が、北村紗衣の本についての「器物損壊予告をして脅迫した」かとように言い換えることで、「虚偽の管理者通報」(誣告)をしたのである。

そして、こうした小狡いやり口に対して、同じコメント欄で私のした反論を紹介した私の「note」記事までも、北村紗衣は「管理者通報」することで、「閲覧停止」にしてしまったのだ。
私への反論は、一度もないままでである。

(※ ちなみに、須藤氏の元記事は、北村紗衣が不満を表明したタイトルや内容を修正した、上の「改訂版」に差し替えられ、おのずと元のコメント欄ごと失われてしまった

(こちらが元記事)

一一以上のようなわけで、私はそれ以来北村紗衣批判」を続けているのだけれど、当初は、「X」で私の陰口ポストだけは立てていた北村紗衣も、そのことさえ私に指摘されて以来、いっさい反応をしなくなった。
一度も反論していないだけではなく、完全な黙殺の殻に閉じこもって、今に至るのだ。

そのため、私の方は、北村紗衣の著作は無論、フェミニズムの本を読むなどして、その度に、北村紗衣という「大学教授・フェミニスト・映画評論家」が、いかに低レベルかを論証する批判論文(レビュー)を書いてきた(下はそのごく一部)。

だが、北村紗衣の場合、その「低能」だけが問題なのではない。
一連のやり口からも分かるとおりで、北村紗衣の場合は、その「人格が低劣」であることがそもそもの問題なのだから、私は、北村紗衣の著作と「X」などでの発言を論拠として、その「人格」をこそ批判したのである。

だが、そんな人間であるにも関わらず、驚くことに、北村紗衣は、「Xのフォロワー5万人強」という、人気インフルエンサーであった。

須藤にわか氏が北村紗衣から難癖をつけられたのも、北村紗衣に対する須藤氏の批判記事(元記事)のタイトルが「北村紗衣というインフルエンサーの人が」云々というものだったのをとらえて、北村紗衣が「私はインフルエンサーではありません。シェイクスピアの研究者です」だなどという、どうでもいい注文をつけてきたことが、一連のトラブルの、直接の発端(接点)でもあった。
普通に考えたら「インフルエンサー」に違いないのに、そんなところにまで「難癖をつける」のが、当時の北村紗衣だったのである。

ま、それはともかく、私は、北村紗衣Xのフォロワー5万人」という事実が、不思議でならなかった。

もっと頭の良い人も、もっと立派な人も、もっと美人も、世の中には他にいくらでもいるというのに、どうしても、選りに選って、北村紗衣なのか?

流行りの「フェミニスト」だと言っても、普通はそんなに多くのフォロワーを持つことはないようなのに…。

私はずいぶん前、「Twitter」時代の「X」で、ネトウヨ と徹底的に喧嘩したおかげで、これも度重なる「管理者通報」によって、アカウントを永久凍結されていた。
だから、「X」の事情については疎いのだが、それにしてもフォロワー5万人というのが、尋常でない数字だということくらいはわかった。
しかも、タレントやアイドルならばともかく、仮にも「大学教授」がだ。

で、約1年間、北村紗衣のことを批判する中で、北村紗衣が賛同署名千数百名も集めて、歴史学者の呉座勇一を告発した「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」の発起人であり、また、呉座を擁護して北村紗衣を批判した山内雁琳に対しは「名誉毀損のスラップ訴訟をしかけ、200数十万円もの賠償金をせしめた、「話題のフェミニスト」だということを知った。
(※ ちなみに、北村紗衣「Wikipedia」編集権を持つ直接関係者なので、北村紗衣関連のWikipediaの記述を鵜呑みにしてはいけない。無論「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」の項目も、同様である)

こういう派手な事件にからむ「話題の人物」だったからこそ、「フェミニズム」ブームに乗った一般女性たちが、北村紗衣のフォロワーになったのかもしれない。一一とは考えた。

しかしながら、それでもなお、こんな「能力」も低ければ、「性格」も最低な、話題性だけの女に、どうしてもフォロワーが5万人もつくのかと、私は今なお、釈然とはしていない。

もちろん、「X」のフォロワーなんてものは、所詮は「その程度」のものだはわかっているし、北村紗衣の「常識はずれに居丈高な物言い」を、かえって「痛快」だと感じる人がいるというのも、わからない話ではない。

だが、理屈はそうでも、私の実感としては「どうして、選りに選ってこんなゲス女を喜ぶのか。しかも5万人もがだ」という疑問を、拭いきれなかったのだ。

一一だが、もしかするとこれは、スカーレット・オハラのような女が、ある種の女性から支持されるのと同様の理由で、北村紗衣もそうした女性から好かれるのかも知れないと、今回そう思い至った。

普通に考えれば、男であろうと女であろうと、スカーレットよりもメラニーに好感を持って当然だろうに、それでもスカーレットの「やりたい放題」に惹かれるほど、女性たちは長らく、社会的に忍従を強いられてきた。一一と、そういうことなのかもしれない。

だとしたら、それは男性の想像を絶した悲劇だった、ということになるかもしれないのである。

そんなわけで、「北村紗衣は、現代日本のスカーレット・オハラである」と考えば、私としても、わかりやすい。
この両者が好かれるというのは、私にとっては、どちらも理解不能な現象なのだけれど、少なくとも北村紗衣一人の「例外的な事象」ではない、という点では納得できるからである。

一一だが、それにしても、多くの女性が、スカーレット・オハラを支持し、『風と共に去りぬ』を支持するというのは、ある程度は理解できるところだとしても、男性の映画評論家でも、この映画を高く評価できる人がいるというのは、やはり理解不能である。

たしかに、当時は、原作が大ヒットした後の『風と共に去りぬ』ブームの真っ最中での映画化であり、そのヒット小説に比較的忠実な映画化作品ということで、映画が大ヒットしたというのも、それは理解できる。所詮「流行り物」とは、いつの時代にも、そういうものだからである。

しかし、同時代のアメリカ人ではない、日本の映画評論家が、「なかなか、よくまとまった大作」という程度の評価ならまだしも、『風と共に去りぬ』を、歴史的名作だなどと絶賛するのは、どうにも得心がいかない。

もしかすると、この作品が「当時」の大ヒット作で、アカデミー賞をいくつも受賞した作品だからという理由で、名作だと思い込んでいる、ということなのだろうか?

しかし、だとしたらそれは、北村紗衣を「大学教授」だから、「きっと有能に違いない」とか「人格的にもしっかりしているに違いない」と思うほどの、度し難い「権威主義=肩書き主義」と言うほかない。

私としては「ちゃんと、作品(もの自体)を見て評価しろよ」としか、言いようがないのである。


(2025年9月13日)


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(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)


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