三木那由他 『会話を哲学する』 : 北村紗衣グループのトランスジェンダー
書評:三木那由他『会話を哲学する コミュニケーションとマニピュレーション』(光文社新書)
三木那由他の名を初めて知ったのは、たぶん、かの「オープンレター:女性差別的な文化と訣別するために」の賛同者リストに、「発起人の一人」として、その名が挙がっていたのを見た際だと思う。
隠岐さや香 名古屋大学大学院教授
金田淳子 やおい・ボーイズラブ研究家
北村紗衣 武蔵大学准教授
木本早耶 出版社勤務
河野真太郎 専修大学教授
小林えみ よはく舎
小宮友根 東北学院大学准教授
清水晶子 東京大学大学院教授
関戸詳子 勁草書房
津田大介 ジャーナリスト/メディア・アクティビスト
橋本晶子 勁草書房
松尾亜紀子 エトセトラブックス
三木那由他 大阪大学講師
宮川真紀 タバブックス
八谷舞 亜細亜大学講師
山口智美 モンタナ州立大学准教授
(「呉座先生復職記念:「オープンレター」に署名した人達(2023/10/02)」より)
この段階では、私が名前を知っているのは、北村紗衣と津田大介の二人だけだったはずで、津田大介に関しては「フェミニズム」関連とは別のところで知っていた。
その後の私は、この「オープンレター発起人」メンバーの著作を順に読み、それぞれの人間的な本質を、個人レベルで理解しようと考えた。
個人的に因縁のある北村紗衣は当然として、その「脇を固めている仲間」についても、それぞれの著作において、隠しようのないところで理解しようとしたのである。
そして今回は、これも「オープンレター発起人」の一人である、三木那由他だ。
三木那由他については、私は、まだ前記の「オープンレター賛同者リスト」を見て北村紗衣と津田大介の名前しか知らなかった段階で注目した。
大した理由ではない。「那由他」という名前が特殊なものだったからで、しかも元創価学会員である私が、若い頃に朝晩の「勤行」で唱えていた「法華経」に、「那由多」という言葉が出てきたのを憶えていたからである。
「那由他=那由多」は、仏教用語で「極めて大きな数量」という意味であり、きっと三木那由他のご両親は、息子に「大きな人間になってほしい」と願って、この名をつけたのであろう。
ここで、三木那由他のことを、ご両親の『息子』だと表現したが、現在の三木は「女性」である。つまり、「元男性」から「女性」に「性別移行(性転換)」したため、現在は女性なのだ。
私は「性別移行(性転換)」のことは詳しくないのだが、「LGBT」の専門サイト『PRIDE JAPAN』の「LGBTQ用語解説」には、次のように説明されている。
『性別移行
自認するジェンダーに合わせて外見や身体を移行させる(変える)こと。トランジションとも言います。
メディアで”性転換”という言葉を目にしますが、当事者があまり快く思わない言い方ですので、性別移行と言うほうが望ましいです。
性別移行には,ホルモン療法や性別適合手術等による身体的な性別移行と,他者や社会との折り合い、相互承認によってもたらされる「社会的性別移行」という二つの側面があると言われています。
戸籍性を変えたいと望むトランスジェンダーの方は、いきなり性別適合手術を受けるのではなく、服装や髪型などの見た目(性表現)を変えたり、ホルモン療法を受けたりしながら、実際に望む性で生活体験をして(リアル・ライフ・エクスペリエンスと言います)、社会的性別移行を経たのちに性別適合手術を受け、戸籍性の変更を申請するという、ある程度の年数にわたる移行過程を経験します。性別移行期は、変化が外見に表れることになるので、どうしても家族や友人、職場の人たちにカムアウトせざるをえません。当事者の多くは、見た目が変わっていくことで「差別を受けるのではないか」と不安を感じています。職場での理解・支援が重要になります。』
つまり、三木那由他の場合、現在どの段階にあるのか詳らかではないのだが、個人的には縁もゆかりもない三木那由他の、現在の生物学的な性別は、私にはどうでもいいことなので、ここでは、ご当人が自認する「女性」として、「彼女」等と表記することにしよう。
ともあれ、三木那由他は、かつては「女性になりたかった男性」であり、現在は基本的には「女性になったことに満足している女性」だということである。
わざわざこういうことを書くと、「無神経」だとお感じになる人もあるかもしれない。だが、私は「無神経」でこういう書き方をしているのではなく、自覚的にこのように書いている。
すなわち、本稿が「三木那由他」の「心理分析」を意図したものである以上は、こうした「重要な事実」は決して無視できないし、無かったことにも出来ないからだ。
それに三木那由他は、すでに著作を多数持つ「言論人」であり、「教育者」でもある。
したがって、その意味で、「公人」性を強く帯びた社会的な立場にあるのだから、必要とならば、政治家が「私生活」に関わる部分まで問われるのと同様のかたちで、その「公的責任」を問われることにもなるのである。
もちろん、「性別移行」したという事実自体は、直接的には「公的な事実」ではなく「私的な事実」ではあるのだが、三木那由他が「トランスジェンダー」であるという事実を公にして、「その立場(アイデンティティ)」において「公的な発言」をしている以上は、「トランスジェンダーという、特別な立ち位置」の有する「意味」は、決してその「評価」とは無縁ではありえないし、その意味で無視し得ないのだ。
そんなわけで、三木那由他を論じるあたっては、彼女が「トランスジェンダー」の「元男性」であることに触れるのに、遠慮する必要はないし、遠慮などすべきでもない。
無論、「嫌がらせ」目的でそれをするのは、その対象が「トランスジェンダー」であろうとなかろうと、関係なく許されないことであるが、「批評」目的で、それに触れることが必要なのであれば、堂々とそれに触れるべきであり、腫れ物に触るがごとき腰のひけた態度など採ってはならないのだ。
批評とは、「公明正大」に「正々堂々」と行うべきものなのである。
なお、そんな私が、「オープンレター賛同者リスト」の次に三木那由他の名を目にしたのは、歴史学者で文芸評論家の与那覇潤による「note」記事の、次のような記述においてであった。
『三木氏は言語哲学が専門にもかかわらず、「本を読まずにレビューを見て批判します」との態度を表明して炎上し、直後に(※ Twitter)アカウントごと消すふるまいを示して、笑いものになったようだ。』
具体的に紹介すれば、三木那由他による問題の発言は、次のとおりである。
『 三木那由他
@NayutaMiki@fedibird.com
シュライアー本は、もちろんヘイト扇動の本と言えるだろうけど、根本的にはトンデモ医療本であり、トンデモ医療を通じてトランスの生を困難にする構図になっているあたりが、あんまり広く共有されていない気がする。(私もばかばかしくて、反ワクチン本をわざわざ読まないというのと同じ理由でちゃんと読んではいないのだけれど、レビュー等は読んでいる)(※ 以下略)』

このツイートは、すでに三木那由他本人によって「削除」され、「証拠隠滅」されているのだ。
無論この「自身に不都合な発言」を「削除して証拠隠滅」という姑息な手口は、私の専門である「北村紗衣」が得意とし、常習的に行ってきた手法なので、特に驚くべきものではない。
なにしろ、昔から世間でも「類は類を呼ぶ」という格言もあるのだから、「大学教授」である北村紗衣がやることを、その仲間である「大学講師」の三木那由他が「見習った」としても、なんの不思議もないからである。
つまり、世間には、いくらでもあることなのだ。
一一ただし、北村紗衣は無論、三木那由他も、「言論人」として「公的責任」を帯びた存在なのだから、「世間一般」がそうだからといって、こうした行為を見逃されていいということにはならない。
いや、見逃すべきではなく、きちんと責任を取らせるべきなのである。
○ ○ ○
さて、今回初めて読んだ三木那由他の著作とは、『会話を哲学する コミュニケーションとマニピュレーション』(2022年・光文社新書)である。

「哲学する」などというと難しげに聞こえるが、決して難しい本ではない。
要は「漫画・小説・映画」などを題材にして、人間の「コミュニケーション」というものの「意外な複雑さ」を解説したものである。
平たくいえば、私たちが「日常的に行っている会話」レベルのこと、あるいは、私たちが「当たり前に読み取っている漫画(などのフィクション作品)」の内容レベルの会話を、あらためて丁寧に説明しているだけなのだ。
言い換えれば、私たちが「あまりにも当たり前にやっていて、いちいち意識化しないこと」を、こと改めて「丁寧に説明」したものであり、だからこそ、そういうことをあまり考えたことのない人には、「なるほど」と感心されるものになっているし、説明されれば、容易に理解できる程度のことしか扱ってはいない、とも言えるのである。
また、言い換えれば、「文学作品」などで扱われるような「複雑微妙」な心理や「言葉の綾」といったことまでは扱われていないから、長年文学に親しんできた者には、「何を今さら」という物足りなさの否めない内容なのである。
ところが、この程度の軽い内容であっても、本書は非常によく売れた本である。
私が入手した古本は、2022年8月30日の第1刷の刊行から、わずか40日ほどで「第4刷」されたものだ。
これは、前著の『言葉の展望台』が「紀伊國屋じんぶん大賞2023」で2位となったというのが大きいのは無論、なにより本書が「人気漫画」などを題材に扱った、若い読者に馴染みやすく興味を惹きやすい内容であったことが、最大の要因であろう。
別項に、論じていることだが、日本における昨今の「インターネット世代フェミニスト」というのは、こうした「カルチャー」ネタが大好きであり、そうした特徴などから「第四波フェミニズム」と呼ばれたりもしている。
つまり、それまでの「フェミニズム」が「学問的」にお堅い印象で、一般人には近寄りがたかったのに対して、今どきの「第四波フェミニズム」は、「サブカル」に親和的であり、その意味でお手軽に大衆に親しまれ、学術的価値は低くても、「商品価値」は高い、という特徴を有しているのだ。
北村紗衣の著作は無論のこと、先にご紹介した、北村紗衣の「オープンレター」仲間の大学教授である、河野真太郎や田中東子などの著作が、まさにそのような、「若いオタク」狙いの本だったのである。
無論、多くの人に親しまれるのは、大いに結構なことだ。
しかしながら、「多くの人に受ける本」であることと「多くの人に受けるために、読者に媚びた本」とは、やはり「似て非なるもの」であろう。
大西巨人の言葉で言えば、後者は「俗情との結託」でしかない、ということになりがちで、つまり「甘やかしてほしい人たちを甘やかすだけのもの」となりがちなのだ。なぜなら、それが「売れる」からであり、「売らんかな」で書かれているのである。
そしてそれは、本書『会話を哲学する コミュニケーションとマニピュレーション』(以下、『会話を哲学する』と略記する)も、まったく同じことだ。
本書を読んで、多少「賢くなったつもり」にはなれても、大して賢くはならない。
もちろん、読まないよりは読んだ方がマシだが、こんな本を読むくらいなら、ちょうとしんどいくらいの名著を、うんうん言いながら読んだ方が、間違いなく力がつく。
本書のわかりやすさは、所詮「虎の巻」的なものでしかなく、そんなものを読んでも、力などつくわけがない、ということだ。
先述のとおり、本書は「コミュニケーションというのは、意外に複雑なものである」という事実を解説した本なのだが、それだけでは「当たり前」すぎて、「哲学する」などという大袈裟な話にはならない。
では、どのようにして「哲学」風の内容に見せかけているのかと言えば、それは、
「哲学の世界でも、会話という現象に関する理解は、意外に単純で浅いものだ」
と、そう訴えた上で、「それに比べて、私の理解は、もっと複雑ですよ」と訴える、「偽の比較」という手法を用いているのである。
『 気になるのは、哲学者たちが想定する会話やコミュニケーションが、妙に偏って見えるということです。映画や演劇を見たり、漫画や小説を読んだりしたら、あなたたちの会話観では対処できなそうなやり取りはいっぱいあるのではないか、それなのになぜ自分たちのお気に入りの例で満足して、そうしたやり取りを真面目に取り上げようとしないのか。そう感じていました。もちろん、私の見ている哲学者の範囲が狭すぎるのかもしれませんが。』(P5「はじめに」)
最後に「予防線」を張りながらも、ここには、読者に対する意図的な「誤導(マニュピレーション)」が仕掛けられている。
ここで語られているのは、
「有名な哲学者たちって、案外〝会話〟の現実が、わかっていない。彼らは、自分に都合の良いモデルケースだけで、その理論を構築するから、現実には合致しない理論を構築してしまうのだけれど、私の場合は、漫画や小説などを例にとり、私たちの日常に馴染みのあるリアルな〝会話〟を取り上げることで、より現実に即した〝会話〟の理論を、ここで紹介しています。」
と、こういう趣旨なのだ。
しかし、実際に「哲学書」をいくらかでも読んだことのある人なら、三木の上の言葉の「嘘」に、すぐに気づけるはずだ。
と言うのも、仮にも「一流の哲学者」と呼ばれる人であれば、そんなに「薄っぺらい」ことは考えていないし、日本の若手研究者が簡単に批判できるようなものではないというのを、読書経験的に実感して知っているからである。
つまり「あいつらって、意外に大したことないよ」などと、目の前で大口を叩かれても、それなりに哲学書を読んでいる人なら「おお、この田舎教師、大きく出たもんだな」としか思えないのだ。
しかしながら、そもそも哲学書などほとんど読んだことがなく、本書『会話を哲学する』で扱われているような「漫画や小説や映画やゲーム」にしか親しんでいない若い読者が、「有名な大学教師」からそのように断言されると、つい「そういうものなのかな?」と思ってしまいがちではあろうし、それもある程度は止むを得ないことだ。
一一だが、「ペテン師は、自信満々に嘘をつく(ろくな証明もせずに断言して済ませる)」ということを、若い人たちは知っておいた方が良い。
世の中には、自信ありげな断言に騙されて、泣きを見る「いい歳をした大人」が、ごまんと存在するのだから、まして人生経験に乏しい若者が騙されやすいというのは、間違いのない事実なのである。
さて、それにしても本書における三木那由他の場合は、単に「一流の哲学者って、意外に大したことない」と断言するだけではない。
それでは、さすがに説得力が無いから、「ダメな実例」を出してきて、それを証拠として示すのだが、その「ダメ哲学者の実例」とは、本書の参考文献に上がっている、ポール・グライスという「哲学者」である。
で、私は「言語哲学」の専門家でも何でもないから、ポール・グライスが、どの程度の学者なのかは、まったく知らない。
しかしながら、「Wikipedia日本語版」にその名前が出ているから、それなりに有名な学者であり、つまりは「言語哲学」の世界で、それなりに評価されている人だと考えて良いのだが、このポール・グライスの「言語哲学」を、他ならぬ三木那由他が「批判的に研究している」のである。
そして、そのポール・グライスの「言語哲学」を念頭において、先のように、
『 気になるのは、哲学者たちが想定する会話やコミュニケーションが、妙に偏って見えるということです。映画や演劇を見たり、漫画や小説を読んだりしたら、あなたたちの会話観では対処できなそうなやり取りはいっぱいあるのではないか、それなのになぜ自分たちのお気に入りの例で満足して、そうしたやり取りを真面目に取り上げようとしないのか。そう感じていました。もちろん、私の見ている哲学者の範囲が狭すぎるのかもしれませんが。』(P5「はじめに」)
と書いているのだ。
見てのとおり、ここではポール・グライス個人を名指しにはしておらず、
『気になるのは、哲学者たちが想定する会話やコミュニケーションが、妙に偏って見えるということです。』
と表現していて、「誰(どの哲学者)」のことを指して言っているのか、それが明示されていないばかりではなく、『妙に偏って見える』と表現して、事実として「偏っている」とまでは断じてはいないのだ。
つまり、「私にはそのように見える」という、自身の「主観性」を強調して、「他の人には、そう見えないかもしれませんが」という「逃げ道」を残した書き方なのである。
また三木那由他は、まずダメな「コミュニケーションモデル」として「バケツリレー式コミュニケーション観」というものを提示し、それに自身の「約束の積み重ね式コミュニケーション観」を対置して、自身のコミュニケーション観が、いかに現実に即したものかということを強調している。(P46)

だが、ここで注意しなければならないのは、この極めて単純な「バケツリレー式」が、ポール・グライスのコミュニケーション観のすべてだとは、ひと言も言っていないという点で、ただ、読者がそのような印象を受けてしまうような書き方がなされているだけなのだ。
だがまた、そのことによって、三木那由他は、海外の有名学者や哲学者よりも、深い「コミュニケーション理論」を構築している「かのような印象」を、読者に植えつけようとしている。
もちろん、これも意図的な「誤導(マニュピレーション)」だと考えていいだろう。
一一つまり、よく読めば、三木那由多は開巻早々から、巧妙な「レトリック」を駆使していることがわかるのだ。
まただからこそ三木那由他は、決して「私は、ポール・グライスを超えた、言語哲学を構築している」とは断言せずに、漠然と、まるで自分の言語哲学が、ポール・グライスを超えている「かのような」印象を、読者に与えるように書いて、自らと本書を自己権威化しているのである。
喩えで言えば「これに投資すれば、絶対に儲かりますよ」とは言わずに「この機を逃したら、損する可能性が大ですよ」というような言い方をすると同じなのだ。
そのように言っておけば、その相手が投資に失敗して大損し「騙したな」と文句を言ってきても、「絶対に儲かるなんて言った覚えはないし、そもそも絶対に儲かるんなら、人に勧めたりはせずに、私が全財産を投資してますよ。投資は自己責任なんです」とでも言って、信じたおまえがバカなのだとばかりに、程よくあしらうというのが関の山なのである。
だから、本書を読んで、三木那由他が、有名らしい「ポール・グライス」よりも、もっと深く、もっと現実的かつ精緻な「言語哲学」を語っているのだとそう思ったのなら、すでにあなた(読者)は、半分騙されていると言っていいだろう。
しかし、三木那由他を信じるのは、彼女が学者として、世界的な実績を示してからでも遅くはないのであり、その可能性が無いとは、私だって、まだ言ってはいないのだ。
「その投資は、もしかすると大当たりするかもしれないけれど、少々ヤバイから、鵜呑みにはしない方がいい」と、そう言っているだけなのである。
しかしながら、三木那由他を「信用しない方が良い」という根拠なら、本書の中に、いくつも見出すことができる。
それができなかった人は、「本書が読めていない」ということだ。
例えば、三木那由他は、高橋留美子の短編漫画「君がいるだけで」を論じて、次のように書いている。
(1)『問題は(※ 弁当屋で働く外国人女性労働者であるアッチャラーさんに因縁をつけた、日本人である)客(※ の側)に自分の非を認める気がないということです。』(P194)
(2)『 高橋留美子はコミカルな作風でよく知られている漫画家ですが、この場面は読むたびに辛くて胸が苦しくなります。』(P196)
(3)『(※ ミランダ・フリッカーという哲学者は、その未訳書の中で)社会的マイノリティはそのマイノリティ性ゆえに、同じ条件のもとでは知識の主体としての能力をマジョリティに比べて疑われやすくなる傾向があるという議論を展開しています。
(※ この)客は、まさにこれを利用しようとしていると考えられます。』(P199)

ここで三木那由他は、「外国人労働者であり、言葉がたどたどしいが故に、日本人の客の言明よりも信がおかれにくく、客の差別意識に由来する難癖に堪えるしかなかった」ということに、深い同情を表明している。
こうした感情は、たしかに誰しもの共感し得るところなのではあろう。
だが、こうしたご立派なこと言う三木那由他自身が、他者を「差別」した場合には、一体どういう態度を採るのか、というのが問題になってくる。
「私はトランスジェンダーとして、同じ社会的弱者である在日外国人の側に共感し、断じて差別は許さない」ということが、ここでは間接的に語られているわけなのだが、しかし、現実に、三木那由他がやったことは、
『三木氏は言語哲学が専門にもかかわらず、「本を読まずにレビューを見て批判します」との態度を表明して炎上し、直後に(※ Twitter)アカウントごと消すふるまいを示して、笑いものになったようだ。』
ということなのだ。つまり、
『シュライアー本は、もちろんヘイト扇動の本と言えるだろうけど、根本的にはトンデモ医療本であり、トンデモ医療を通じてトランスの生を困難にする構図になっているあたりが、あんまり広く共有されていない気がする。(私もばかばかしくて、反ワクチン本をわざわざ読まないというのと同じ理由でちゃんと読んではいないのだけれど、レビュー等は読んでいる)(※ 以下略)』
と、このように、アビゲイル・シュライアーという見も知らぬ外国人の著作を、読みもせずに、『ヘイト扇動の本』『トンデモ医療本』であり「読むに値しない本である」と差別的に決めつけ、著者をも『ヘイト扇動』者呼ばわりしたのである。
そして、その無責任きわまりない「差別意識」が指摘され非難されると、「謝罪」することもなく、途端に、Twitter(現「X」)アカウントを削除して「証拠隠滅」し、さっさと逃亡してしまったのだ。
つまり、果たしてこんな「ご都合主義的な差別主義者」が、「トランシジェンダーである」という一点だけで、その「差別意識」を曖昧に容認されて良いものなのだろうか?
一一無論、そんなこと(差別)など、絶対に許してはならない。
三木那由他は、次のようにも書いている。
(4)『 すでに例を挙げてみたように、コミュニケーションがすれ違った場合の擦り合わせは、当事者同士のあいだで済ませる場合にも、それでは済まず周囲の人間への訴えかけがなされる場合にも、どうしようもなく会話参加者同士の力関係や社会的位置に影響されることになります。力が弱いものは当事者同士の交渉で不利になるし、社会的マイノリティは周囲への訴えかけで不利になるでしょう。私は、こうした当事者間の力関係や社会的な力関係によって、会話参加者のいずれかが不利益を被るような仕方でコミュニケーションがなされることを「コミュニケーション的暴力」と呼んだりしています。なかでも本章で取り上げたような、コミュニケーションによってつくられた約束事を一方にとって都合のいいように捻じ曲げてしまうようなコミュニケーション的暴力を、「意味の占有」と呼んでいます。発話がどのような意味を持っているのかの決定権を独り占めし、相手が口出しできないようにしたうえで、そのようにして自分に都合のよいように捻じ曲げた約束事に相手を服従させる、というイメージですね。』(P204〜205)
見てのとおり、完全に「他人事」のように書いている。
だが、「読まずに決めつけ、それを公言する」というのは、明らかに「コミュニケーション暴力」の一種であり、三木那由他はそうした不当な暴力を、「大学教員」であり「著述家」という「肩書き的な権威」において、差別的な行っている人なのだ。
だからここで言う『コミュニケーション的暴力』については、誰よりも三木那由他自身が自らに問うべき、「差別意識」の問題なのである。
例えば、三木那由他は、ここで、
『どうしようもなく会話参加者同士の力関係や社会的位置に影響されることになります。力が弱いものは当事者同士の交渉で不利になるし、社会的マイノリティは周囲への訴えかけで不利になるでしょう。私は、こうした当事者間の力関係や社会的な力関係によって、会話参加者のいずれかが不利益を被るような仕方でコミュニケーションがなされることを「コミュニケーション的暴力」と呼んだりしています。』
と、さも「自分は、社会的マイノリティであるトランスジェンダーであり、そのために被害者として不利益ばかり被ってきた」かのような言い方をしている。
たしかに、三木那由他は「トランスジェンダー」として「差別」され「不利益」を被ったことも多々あったであろう。だが、ただそれだけではなく、自身が「差別する側」であったことも、現にあるのだ。
そして、それをその度に、「無かったこと」にしようと、あれこれの手管を弄し誤魔化して来もしたのだ。
つまり、三木那由他の「言葉」には、この種の「誤魔化し」や「ペテン」がいくらでも潜んでいるのだから、三木那由他の言葉を「額面どおりに受け取ってはならない」ということになるのである。
実際、このように「実証的」に書いたとしても、私は所詮「高卒の無名人」であるのに対して、三木那由他の方は「有名大学教師」だから、そこには明かな『社会的な力関係』が働いており、その主張の内容の如何に関わらず「有名な三木那由他さんのいうことの方が正しいだろう」と思う人は少なくないだろう。
また、『社会的な力関係』での「差別はいけない」と主張しているはずの三木那由他自身、正々堂々と批判している私を、正当な「批判者」だとか「論敵」だと認めることはなく、所詮は「何処の馬の骨とも知れない奴」扱いにして無視黙殺し、「差別」するはずである。
一一北村紗衣がそうしたように、だ。
そしてそうした態度は、「オープンレターの同志」である、清水晶子や河野真太郎、田中東子といった面々が、例外なく採ってみせ、現に行なってみせたことなのだから、そのお仲間であり、かつ、アビゲイル・シュライアーとその著作に対して「露骨な差別の言葉」をぶつけておきながら、謝罪することもせずに、ただ「証拠隠滅して逃げた」ような卑怯者の三木那由他が、在野の私の「挑戦」になど、応じるわけもないのである。

他にもまだまだ、同種の「実のない綺麗事」が並べられている。
(5)『 ここまでで聞き手を話し手の都合のいい方向へと誘導しようとするさまざまなマニピュレーションの例を見てきました。重要なのは、マニピュレーション(※ 会話における誘導)は(※ 通常の)コミュニケーションとはレベルが異なってい(※ て、明示的ではなく、暗示的であ)る、ということです。それゆえ、マニピュレーションに気づいたひとがそれを問い詰めたところで、マニピュレーションの内容は約束事(※ 相互の了解確認事項)にはなっていないので、話し手はしらばっくれて、そのように解釈した聞き手へと責任を擦り付けることができます。
これについては(※ シェイクスピアの)『オセロー』が特にわかりやすいかもしれません。(※ 友人である)キャシオーが正直だと語る(※ 主人公)オセローに、(※ オセローを破滅させよう画策している)イアゴーは「(※ キャシオーが)正直、ですか?」と(※ ことさらに)訊ねていました。このとき、マニピュレーション(※ 暗示的誘導)としては、オセローにキャシオーが正直でない可能性を意識させようとして(※ 匂わせて)いるわけです。しかしここで仮にオセローが「(※ 君は)キャシオーが正直でないとでも言うのか」などと問い詰めたとしても、イアゴーは「いえ、ただ訊いてみただけです」などとはぐらかすことができるでしょう。実際、そんなことをイアゴーは言っては(※ 口にしては)おらず、そのようなコミュニケーション(※ 明示的な情報交換)はしていないのです。』(P276)
つまり、ここでも三木那由他は、他人を操るような者は「邪悪」であり、仮にその魂胆に気づいた者がいて、それを正しく批判しても、そういう卑怯者は「私にそんなつもりはありませんでした」と誤魔化すものであると、そう指摘し、そうすることで、さも「自分はそういう人間ではない」と「匂わせ」て、読者を「マニュピレート」し(あやつり)、「好感」を持たせよう、としているのである。
だからこそ、私が「三木那由他は、読者をマニュピレートしている」と、その「隠された意図」を見抜いて指摘したところで、三木那由他は、イアゴーよろしく「そんな意図などありませんよ。それはあなたの悪意ある深読みであり、邪推しかありません」と、そう言い訳すれば、それはまだ「マシな方」で、実際には、私(年間読書人)なんかは「言い訳をするにも値しない存在」だと「差別的に見下し」て、マンスプレイングに「無視する」に決まっているのである。
一一もしも、三木那由他が私を無視せずに、私の批判に堂々と応じるのなら、私は、「三木那由他は、きっと議論に応じないだろう(卑怯者である)」と言ったことについては、三木那由他とは違って、公然と「謝罪」すると、ここで公言しておこう。
だが、無論、三木那由他は「逃げて誤魔化す人」なのだから、私の「謝罪」なんかよりも、自身の「保身」を重視するというのは、目に見えているのである。
今更ながらの話なのだが、一一人間にとって本当に肝心なのは、「間違えないこと」ではなく、「間違った時に、それを反省して修正できること」なのだ。
人間は誰だって、間違える。それもしばしば、「正しいことをしているというつもりで、間違える」のだが、その「正しいつもりの間違い(誤り)」に気づいた時に、そこで正直に「自分のこれまでの確信は、誤っていた。これからはその考えを採ることはしない」と、そう正直に認めて「反省」できるか否か、そこが重要なのである。
無論、「反省する」とは、ただ単に形式的に「謝罪」すれば良いということではない。
ところが、その「形式的な謝罪」すらできない人間には、そもそも「反省する」ことなど、出来る道理がない。
だからこそ、三木那由他は、「オープンレター」に参加しただけではなく、その後も北村紗衣らのグループの一員として、先日立ち上げられた「現代フェミニズム研究会」にも、懲りずに参加することも出来た。
この「現代フェミニズム研究会」が、自分たちとは「違った立場のフェミニスト」を、その根拠も示さないまま、「差別主義者」だと決めつけ、フェミニズム学会から排除することをその目的とした、問答無用という意味で「原理主義的」な「トランスジェンダリズム」を奉ずる組織であるにも関わらず、である。
つまり、結局のところ、「トランスジェンダー」であり、「被差別体験」のある三木那由他であっても、自分が「得をする」場合には、他の人間(非トランスジェンダー)と同じように、他人を「差別する」ということなのだ。
当たり前といえば当たり前にすぎる話ではあるが、私たちは得てして「差別する人と差別される人」という「二分法」で、人間を捉えてしまいがちである。「善玉と悪玉」というのと同じで、その方がシンプルで「わかりやすい(理解しやすい)」ためだ。
しかしながら、人間とは、そんなに単純なものではない。
先日論じた「ポジショナリティ」の問題もそうだったが、ある人がある場合に「被害者」であったとしても、別の場合には「加害者」であるということなど、いくらでもあるし、むしろそれが人間存在の常態である。
だが、にも関わらず私たちは、得てして「被害者は被害者、加害者は加害者」と二分して見てしまう。
一一だが、現実には、「あらゆる人」が「ある時には被害者であり、ある時には加害者である」という「両面性(両義性)」を持った存在であり、「どちらか一方だけの人」などというものは、そもそも「実在しない」。
したがって、北村紗衣が「女性」であることを盾にとって、いつでも「男性」からの被害者であると主張したとしても、しかし、その北村紗衣は、別の面で「加害者」であるという事実は、決して消えはしないのだ。
例えば、沖縄に米軍基地を押しつけている「日本(本土)人」の一人として、北村紗衣は「加害者」の立場にある。
また、先の侵略戦争において多大なる迷惑をかけた(被害を与えた)朝鮮半島の人たちに対しては、そうした歴史の上に存在する「今の日本」から恩恵を被っている日本国民の一人として、北村紗衣は、今も「責任」を負ったままの存在、なのだ。
無論、私も、北村紗衣と同様に「日本人」としての責任を負っているから、「沖縄の米軍基地問題」や「従軍慰安婦問題」「朝鮮人徴用工問題」「在日朝鮮人差別問題」だけではなく、「部落差別問題(同和問題)」や「ガザでのイスラエルによる虐殺行為(パレスチナ問題)」にも「途上国の飢えた子供たちの問題」にも、責任を感じており、自分にできる範囲のことではあれ、自分なりにその問題に貢献したいと努力をしている。
ところが、北村紗衣の場合は、そうした「自身の加害者性に関わる問題」については、一切完全に無視黙殺で、まるで自分には「関係なし、責任もない」と言わんばかりの態度である。
だが、直接手を下していないという意味で「加害した覚えはない」というのであれば、それはほとんどの男性が「女性を差別した覚えはない」というのと同じことなのだ。
同様に、「世間」の大半の人たちも、自身の「加害者性」には鈍感であるか、気づいていても、そこから目を逸らそうとする。
だからこそ北村紗衣は、世間多数派の態度に自身もまた便乗することで、自身の「加害者責任」については頬かむりして、もっぱら「被害者としての権利」だけを訴え、そのことで「利益を得よう」としているのだ。
「正義漢ぶって、自身の加害者性などという余計なことを口にしたって、損をするだけだ。藪を突いて蛇を出すことになっては損だから、そっちについては、無かったことにしよう」というのが、北村紗衣の「意識的な戦術」なのだ。決して、気づいていないわけではないのである。
そして、これは三木那由他についても、まったく同じことなのだ。
清水晶子も河野真太郎も田中東子も、その他の「現代フェミニズム研究会」のメンバーも、一人の例外なく、同じなのである。
なぜなら、「是々非々」で、物が考えられる「フェアな人間」であれば、「現代フェミニズム研究会」の、あの差別的な「設立趣意書」に同意したうえで、同会に入会することなど、出来る相談ではないからである。
具体的にいえば、「現代フェミニズム研究会」の「設立趣意書」には、次のような文言がある。
『2010年代の終わりごろから見られるようになった、「フェミニスト」によるトランスジェンダーへの差別的な攻撃・差別扇動的な言説(ヘイトスピーチ)の拡大です。そこには、ジェンダーやフェミニズムを研究してきた一部の研究者も加担しています。』
つまり、名指しこそしていないものの、明らかに個人特定できている『一部の研究者』を、「トランスジェンダー」に対する『差別的な攻撃』者であり、『差別煽動的な言説(ヘイトスピーチ)』を行う者だと呼んでおり、それが意味するのは、そうした『一部の(フェミニズム)研究者』とは、「トランスジェンダー理解」において、「意見を異にする人」や「話し合いの相手」ではなく、「排除すべき敵」でしかない、ということである。
こうした「言葉のイメージのよるマニュピレーション(誘導)」というのは、本書『会話を哲学する』からその具体例紹介するなら、次のようなものだ。
第二次世界大戦における独ソ戦を描いた、逢坂冬馬の小説『同志少女よ、敵を撃て』の紹介部分である。
(6)『「ヒーヴィ」(※ という言葉)はドイツ軍のスパイのことです。オリガというのは(※ ソ連)兵士のひとりですが、注目すべきはこのオリガの(※ ソ連人の女性市民に対する)台詞です。「ほう、(※ おまえは)フリッツ(※ ドイツ兵を指すソ連軍内の隠語)と愛し合っているのか」という発言によって、いったいオリガは何をしている(※ どのような効果を狙っている)のでしょうか?
これによって生じるコミュニケーションは、(オリガは(※ そのソ連人)女性(※ 市民)がドイツ兵と愛し合っていると思っている)というのと同様の約束事を(※ 周囲の軍人たちの中にも)生み出すことになるでしょう。ただ、気になるのは、相手(※ のソ連人女性市民)が「ドイツ兵」と言っているのをわざわざ「フリッツ」と言い換える理由です。
すでに見たように、もともとは「フリッツ」は単に「ドイツ兵」の(※ 軍隊内での)言い換えとして導入されたはすの言葉でしたが、しかし訓練と実戦を重ねた兵士たちにとって、それらは違う響きを持っています。具体的には、「ドイツ兵」はあくまで話が通じるかもしれない人間であるのに対し、「フリッツ」は殺してもいい敵として対象を見るよう促す言葉となっているのです。
結果的に、「ドイツ兵」と「フリッツ」は言い換え可能な言葉であり、その意味でコミュニケーションのレベルでは差をもたらさないにもかかわらず、兵士たちにとっては異なる感情を喚起するものとなっていると考えられます。「ドイツ兵と愛し合っている」を「フリッツと愛し合っている」に言い換えたところで、一見すると何も変わっていないにもかかわらず、周囲の兵士たちは後者の言葉を聞いたときに、より女性市民に対する敵対的な感情を持つことになるでしょう。
オリガは、まさにそれを狙って「フリッツ」という言葉をあえてここで出しているのだと思われます。そうでなかったなら、「ほう、フリッツと愛し合っているのか」と言わず、単に相手の言葉を受けて「ならば話が早い。お前はヒーヴィであり、裏切り者だ」と言ってもよかったはずです。でも、そうはしないで、わざわざ「ドイツ兵」を「フリッツ」に入れ替て、相手の言葉を繰り返した。そうすれば兵士たちの敵対感情を刺激し、自分の意見に賛同する者が増えると見込んだのでしょう。』(P274〜276)
「あの人たち」は、「トランスジェンダーのことを正しくわかっていない(=わかっていない人たちだ)」というだけであれば、「議論」をしたり「説得」をすることも可能だろう。
だが「あの人たち」は、確信犯的に『差別的な攻撃』者であり、『差別煽動的な言説(ヘイトスピーチ)』を行う者である、ということになれば、それはもう「打倒」の対象でしかなく、問答無用で排除しなければならない、ということになるのである。
なにしろ「あいつらが、ぜんぶ悪いのだから」と。
したがって、「現代フェミニズム研究会」の「設立趣意書」とは、それを読んだ人の「フェミニスト理解」を、「悪玉である、一部の研究者」と、それに対抗する「善玉である、現代フェミニズム研究会」という、ご都合主義的な「二分法図式」に、意図的にマニュピレート(誘導)しようとするものであり、当然、このことについては、三木那由他もその専門家として十二分に気づいてはいるのだが、あえてそれを黙認している、ということなのである。
(7)『話し手と聞き手の相互調整で方針を決めていくことになるということは、話し手と聞き手のあいだで極端な力の差があった場合には、どのように方針が決まるかに関して一方が圧倒的に有利になる可能性がある、ということでもあります。『魔人探偵脳噛ネウロ』はその例にもなっていますね。(※ しかし)「魔人」という空想的な存在がいない現実の世界でも、一方が大人でもう一方が子どもであるとか、一方が上司でもう一方が部下であるとか、いろいろな場面で、自分がする気もなかったコミュニケーション(※ による約束形成)を事後的にしたことにされる(※ 強いられる)可能性があります。たぶん、少なからぬひとがこうしたことに覚えがあるかと思います。』(P191〜192)
つまり三木那由他にも、そうした心当たりがあるのだ。
そしてそれは、三木那由他が「トランスジェンダー」という「社会的弱者」として、不本意な約束的関係を強いられたということだけではない。
例えば、当然のことながら、「現代フェミニズム研究会」の中であっても、その会員が、全員「対等平等」というわけではなく、「教授」と「講師」では、おのずとその「発言権」にも違いがあるのだ。
だから、三木那由他が「その言い方は、ちょっとマンスプレイニングだ(マミュピレーション的にすぎる=押し付けがましい)」と思っても、そう口に出すことは容易ではない。
一一こうしたことが、三木那由他にも『覚えがある』はずなのだ。
もちろん、本来なら、そうした一方的な意思決定に対しては「それは決めつけ過ぎだと思います」と言えればいいのだが、三木那由他には、それを言うだけの胆力がない。
「ほう、君はフリッツを擁護するのか? もしかして君は、ヒーヴィなんじゃないのか」一一などと、「現代フェミニズム研究会」の中で、吊し上げられないからである。
三木那由他の、こうした胆力の無さ(人間的な弱さ)は、本書『会話を読む』で採り上げられている「漫画や小説や映画」などのシーンの多くが「被差別者からすれば好ましく感じられる(甘い)もの」に偏っている、という事実からも推察できる。
先に紹介した、高橋留美子の「君がいるだけで」や、逢坂冬馬の『同志少女よ、敵を撃て』のような「つらい状況の描写」は、私が現実的なものとして紹介したものであって、本作中ではむしろ「例外的なもの」でしかないし、それは三木那由他個人の「趣味」でもないのだ。
例えばそれは、すでに紹介した、
(2)『 高橋留美子はコミカルな作風でよく知られている漫画家ですが、この場面は読むたびに辛くて胸が苦しくなります。』(P196)
という箇所もそうだ。
こうしたシーンには、誰しも多少なりとは『辛くて胸が苦しく』なるし、できればこんな例ばかりを並べたくはないものであろう。
言い換えれば、心温まるシーンを優先したいというのは、特に「優しい人」に限られることではなく、当たり前の感情に由来するものすぎないのである。
だから、これだけでは「本当に三木那由他は、被差別者からすれば好ましい(理想的な)もの」を多く採用しがちなのだろうかと、本書を読んでいない人であれば、そう疑うこともあろうから、少し詳しく紹介しておこう。
本書で紹介されている作品は次のとおりで、私がそれぞれの頭に伏した記号は、主に女性の視点から見て、「○」が感じの良いシーンからの引用、「●」はその逆、「△」はどちらとも言えない、というほどの意味である。
ちなみに、『オセロー』以下の4作品は「第7章 操るための言葉」の章での作品紹介なので、おのずと「嫌な例」ばかりが引かれている。
△ 綿谷りさ 『勝手にふるえてろ』
○ 中村明日美子 『同級生』
○ 高橋留美子 『うる星やつら』
● 藤子不二雄 「ウルトラスーパーデラックスマン」
○ アガサ・クリスティー 『オリエント急行の殺人』
○天樹征丸原作、さとうふみや漫画 『金田一37歳の事件簿』
○ ラナ・ウォシャウスキー&リリー・ウォシャウスキー監督 『マトリックス』
△山内尚 『クイーン舶来雑貨店のおやつ』
○ヤマシタトモコ 『HER』
○ 横田卓馬 『背すじをピン!と~鹿高競技ダンス部へようこそ~』
○ 鎌谷悠希 『しまなみ誰そ彼』
● シェイクスピア 『ロミオとジュリエット』
○ 近藤史恵 『マカロンはマカロン』
○ 高橋留美子 『めぞん一刻』
△別役実 「魔女の猫探し」「カラカラ天気と五人の紳士』
○ 松井優征 『魔人探偵脳噛ネウロ』
○ ヤマシタトモコ 『違国日記』
● 高橋留美子 『高橋留美子劇場』所収「君がいるだけで」
● クリント・イーストウッド監督 『チェンジリング』
○ 尾田栄一郎 『ONE PIECE』
○ 魔夜峰央 『パタリロ!』
○ 荒川弘 『鋼の錬金術師』
○ Nintendo switch 『ポケモン不思議のダンジョン救助隊DX』
● シェイクスピア 『オセロー』
△ ローラン・ビネ 『言語の七番目の機能』
● 逢坂冬馬 『同志少女よ、敵を撃て』
● スパイク・リー監督 『ブラック・クランズマン』
本書を一読してわかるのは、三木那由他は「BL」を読んでおり、それにかぎらす「恋愛もの」が好きだという事実である。
これは、三木那由他が、かつて「女性になりたかった、女性的な男性であった」という事実からすれば、とてもわかりやすいところであろう。
三木那由他は、身体的には男性であったからこそ、内面的には、下手な女性より「女性的」だったのであり、本書の「文体」から受ける印象もまた「女性」そのものなのだ。
そして、そんな三木那由他が、長らく自身の「性自認」をカミングアウトできずに苦しんできたのだから、当然のことながら、そうした「苦しい現実」から救ってくれる「救いのある物語」を求めたというのも、至極当然の心理であろう。「このように、理解され受け入れられ愛されたら、どれだけ幸せなことであろうか」と。

つまり、中村明日美子の『同級生』の二人や、『うる星やつら』の二人、『オリエント急行の殺人』での「理解のある探偵」や、『背すじをピン!と』のダンスパートナーや、『めぞん一刻』の男性など、本書で紹介される作品には、「理解のある人」が登場して、語り手が「救われる」というパターンが多く、そのわかりやすい例が、鎌谷悠希の漫画『しまなみ誰そ彼』の登場人物についての、次のような感想である。
『 ともあれ、コミュニケーション論的観点からは、『しまなみ誰そ彼』の「誰かさん」(※ という名で呼ばれる登場人物)は、いったん(※ あなたの話は)「聞かないけど」という(※ ワンクッション的な)コミュニケーションをおこなうことで〈「誰かさん」は話を聞かない〉という約束事を相手とのあいだに成立させ、その約束事を利用して実際にはちゃんと伝わっている発言を「伝わらないからこそ、おこなえる発言」にしてしまい、その特異な会話の仕方が多くの性的マイノリティたちが自分のことを語れる場を作り出していると言えそうです。私から見ても「こういうひとと出会いたかった」と思えるようなキャラクターなんですよね。』(P146)

つまり、「聞いているけど、聞いていないようなフリでいてくれる人」であり、一般的な言い方で言えば「ただ黙って傾聴してくれる人」ということだ。
もちろん、なぜこのような人が好ましいのかと言えば、自身が抱える「困難や苦しみ」というのは、そう簡単に「他人が理解できるものではない」と、当人はそう思っているからである。
だからこそ、例えば「私は、身体は男だけど心は女なんだ」と思っている人は、その苦しみを、簡単に他人に吐露したりはしない。理解されない蓋然性が、極めて高いからである。
もちろん、無神経に「なにそれ? 理解不能」などと言われて傷つきたくない、というのは当然なのだが、そうではなく「それって辛いよね。よくわかるよ」などとあっさり言われても、それはそれで「(性自認が一致している)あなたになどわかるものか。気易くわかったなんて言うな!」と言いたくなるのも当然だろう。
だから、普通は、そんな悩みを他人に語ったりはしないのだ。
だが、悩みを自分一人で抱えているのは、やっぱりしんどい。だから、理解ある人に聞いてもらいたいという気持ちはあれども、そういう好都合な人は滅多にいないし、周囲にはいない。「ただ黙って聞いてくれるだけの人」「下手なコメントや意見などを口にしない人」がいたら、本当に助かるのに。
例えば、この「誰かさん」のように「私はあなたの話を聞いてないよ。だから、何の感想も持たないし、意見したりもしない。だから、勝手にお話しなさい」というのを「態度で示しつつ」、実際には「傾聴してくれる人」がいたらなあと、悩みを抱える多くの人は、「誰かさん」のような存在に憧れるのである。
一一そしてこれが、三木那由他の言う。
『私から見ても「こういうひとと出会いたかった」と思えるようなキャラクターなんですよね。』
ということであり、言い換えれば、これまでの人生で、そんな人は「いないに等しかった」ということである。
つまり、裏を返せば、「トランスジェンダーに理解があるというフェミニスト」たち、例えば「現代フェミニズム研究会」所属の男女フェミニストたちも、実のところ、世間並みに「うざい」部分のある存在であり、決して「理想的な理解者」などではなかった、ということなのだ。
そもそも、自分が「トランスジェンダー」でもないのに、「フェミニズム」という「イデオロギー」を信奉しているというだけで、「トランスジェンダーを理解しています」という顔をしていること自体が、「トランスジェンダー」にとっては、ある意味で「うざい」のであり、だからこそ、そうしたフェミニストたちに近寄ろうとはせず、ひっそりと、女性なり男性なりとして生きている「トランスジェンダー」だって、少なくはないのである。
では、なぜ三木那由他は、そのように「女性として、ひっそりと生きていく」ということをしなかったのだろうか?
無論それは、それが「職業的」に不可能だったからだ。
先日まで男性だった先生が、いきなり女性に変わって登場すれば、生徒だって同僚だって、黙って自然にそれを受け入れるというわけにはいかないから、それなりの段取りというものも求められるだろう。
また、そうした「大変な段取り」が、大変な心理的負荷を課するものであると分かっていればこそ、三木那由他は、長らく不本意な男性のままでいたのだろう。
だが、それにもかかわらず三木が、大学職員の身分にありながら、なぜ「性別移行」し得たのかと言えば、それはまず間違いなく、大学の「学問フェミニズム」の世界を中心として「トランスジェンダー」への理解が広がってきたからであろう。「今なら勇気を出して性別移行をしよう。自分の心に正直に、女性として生きよう」と決断することができたのではないだろうか。
なにしろ時代は、「#Metoo」運動に端を発する折からの「フェミニズム」ブームで、それと連動して、全般的な「反ジェンダー差別」が盛り上がり、周囲は、そうしたことに特別に理解のある環境になってきていたからであろう。
しかしながら、「周囲の理解」つまり「周囲のフェミニスト」などの理解があって、それに支えられて「カミングアウト」し「性別移行」を果たしたからには、そうした人たちへの「恩義」を無にすることはできない。
だから、「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」にも協力したし、「現代フェミニズム研究会」にも参加した。
言い換えれば、「いろいろ応援してもらいましたけど、ちょっとそういう運動めいたことは苦手なので、遠慮させてもらいます」というわけにはいかなかったのではないだろうか。本当は、気が進まなかったとしてもである。
(7)『(※ 主人公の一人)朝の選択は、美しく、勇気のあるものです。多くのひとにとって、自分が何の疑問も持たずにおこなっていたコミュニケーションによって生まれた約束事を撤回するのは難しいことです。自分はずっと、その約束事を自明視して行動してきたのに、そうした行動指針の間違いを認めるわけですから。そうした足場の揺らぐような不安を受け入れるのは辛いことです。でも、朝はそれを選んだ。自分の行動指針が揺らぐことよりも、目の前にいるえみりが大事だったから。
「約束事」と言われると、意地でも守らないとならないものに思えるかもしれません。でも、目の前にいる相手との関係においては、ときに勇気を出してそれを撤回することこそが、何よりも、誠実な選択になることがあります。私自身も、そうした勇気と誠実さを持ってくれた家族や友人たちに救われて、ここまで生きて来れました。』(P190〜191)
ここで興味深いのは、『そうした勇気と誠実さ』を持ってくれたのは、もっぱら『家族や友人たち』であって、三木那由他は、自身がそうした人たちに「救われる立場」であることを、自明視している点だ。
だから『そうした勇気と誠実さ』を、自分自身は、持つことが出来なかったのではないのか。
「自分が、それが当たり前だと思っていた誤りを撤回するのは、容易なことではない」という程度のことは、三木那由他自身も、当然わかってはいる。
しかし、三木自身は「それはそれ、これこれ」だから「署名はしません」とか「現代フェミニズム研究会には入会しません」などとは言えない『そうした勇気と誠実さ』を持てない「凡人」に止まりつつ、他人にはそれを期待しているのである。
「トランスジェンダーの私を応援してくれたことについては、心から感謝しています。しかし、それとオープンレターに賛同して署名することや、現代フェミニズム研究会に参加することとは、話が別です。それは義理人情で付き合ったりすることではなく、一人の人間として、あるいは学者として、その内容の是非を客観的に検討した上で、自分一人で決断すべきことなのです」というようなことを言えるような人間では、三木那由他はなかったということだ。
だからこそ、
『シュライアー本は、もちろんヘイト扇動の本と言えるだろうけど、根本的にはトンデモ医療本であり、トンデモ医療を通じてトランスの生を困難にする構図になっているあたりが、あんまり広く共有されていない気がする。(私もばかばかしくて、反ワクチン本をわざわざ読まないというのと同じ理由でちゃんと読んではいないのだけれど、レビュー等は読んでいる)(※ 以下略)』
などということにもなってしまったのだ。
平たく言えば、「党派性による色眼鏡」だけで「他人(の著作)を差別する」ことも、出来てしまったのである。
だから、本書に見られる「あたりの柔らかさ」は、所詮、三木那由他の「表側の半面」にすぎない。
(8)『それより重要なのはおそらく、(※ 超人的な力で人々を支配する、自称「ウルトラスーパーデラックスマン」である、本名)句楽(※ 兼人=くらく・けんと)がこの(※ ような、自身の正体が周知の)状況でも(※ 働く必要などなくても)なお会社に通って給料を得たり、片山と同僚としての会話を楽しもうとしたりしているところにあるのでしょう。句楽からしたら、ウルトラスーパーデラックスマンとして独裁的な権力と武力を保持し、世の中を思うがままにコントロールしながら、それと同時に一市民としての平穏な暮らしと友人関係を楽しみ続けたかったのではないでしょうか?
それをするためには、あくまで普段の句楽に対しては、ウルトラスーパーデラックスマンに対するのとは別の、句楽に対する態度で接してもらわなければならない。ウルトラスーパーデラックスマンの正体について人々が大っぴらに語ることを許すと、そうした内容を含むコミュニケーションによって、それとは別の態度への動機づけをもたらすような約束事が生まれかねないわけで、句楽はこれを禁じることで、あくまで句楽に対し、ウルトラスーパーデラックスマン向けではない態度を取るよう強制していたのだと考えられます。
もちろん、実際には人々の振る舞いはウルトラスーパーデラックスマンへの恐怖に支配されたものになっているのですね。句楽は自分の前ではあくまでただ句楽という一市民と話しているのだという態度を強制している。ところが、自分の思う通りにならないときには暴れるわけで、一種のダブルバインドになっています。このダブルバインドをもたらしている要因のひとつが、ウルトラスーパーデラックスマンの正体に関するコミュニケーションの禁止だというのは、逆にコミュニケーションが持つ規範的な拘束力を示しているようで、面白いですよね。』(P81〜82)
つまり、三木那由他の「あたりの柔らかさ」とは、権力者「ウルトラスーパーデラックスマン」の正体である句楽が、同僚などに見せる「対等ぶった仮面」に過ぎないのだ。
三木は「大学教員」として「著名人」として、必要とあらば、自分より「社会的地位の低い者」を無視黙殺するという「差別的な権力」を行使するし、別の時には「フェミニスト」や「トランスジェンダー」として、自分の意に沿わない存在を「差別者」と名指して排除することも厭わない。少なくとも、それに加担している。
しかしながら、句楽と同様に、自分が「敬遠されるような存在」にはなりたくないから、事情がよくわからない人(一般読者)の前では「私たちは対等な人間だよ」みたいなポーズを採って、事情に疎い人たちをケムに巻くことでマニュピレート(コントロール)しようとするのである。
実際、三木那由他は「確信犯」なのだ。
(9)『「私がこのように考えるということにしましょう」という約束事は、必ずしも本当にそのひとがそのように考えることなく形成することができる、という点に注意してください。実際にその考えを持っていなくても、その考えを自分は持っているという約束事を採用して行動するのに、特に支障はないのです。
例えば、私が勤めている大阪大学には、いろいろなマイノリティの学生や教職員が安心して過ごせるようにするためのガイドラインがありますが、ひょっとしたら大学のメンバーのなかには、そのガイドラインで語られているようなことを本心では望ましいと思っていないひとも残念ながらいるかもしれません。けれどそういうひとだって、普通は「この大学のメンバーは、このガイドラインで述べられているような方針が正しいと思っています」という約束事には参加していて、それに従って振る舞おうとはしているはずです(そうでないとそのガイドラインで語られているようなことを本心では望ましいと思っていないされます)。』(P100)
つまり『そのガイドラインで語られているようなことを本心では望ましいと思っていない』場合であっても、だからと言って、その「みんなで決めたこと」に公然と反対なんかしたら『問題視』されるのは必定なのだから、「本当は、何が正しいのかという問題は、別にして」ひとまず「ガイドライン」に沿っておくのが無難だというのが、三木那由他の考え方(処世術)なのだ。
一一そうでなければ、ここに「そのガイドラインが間違っていると本気で思うのであれば、仮に周囲から攻撃され浮いたとしても、正しいと信じるところを主張すべきなのは、いうまでもありませんが」というような言葉を、付け加えていたはずなのである。
つまり三木那由他には、自己の「不作為」を正当化したい気持ちがあるから、無意識的にも、ここはこのように書くことになったのである。
(10)『 でもその前に、まずはちょっと考えてみてほしいことがあります。あなたは誰かにそのひとが決してなしたがらないことを信じさせたい。その場合、どのように会話をしたらいいでしょう? 例えばそのひとと強い信頼関係にある別の誰かがそのひとを裏切っていると信じさせるなど。しかも実際にはそのような裏切りは起きてもいないような場合に。
もしそれをコミュニケーションによって伝えるとしたら、なかなか骨が折れるかと思います。相手に「あのひとのことを信用しすぎないほうがいいですよ」と言ったところで、おそらくは信じてくれないでしょう。それどころかそのコミュニケーションによって〈話し手はそのひとが聞き手を裏切っていると思っている〉という約束事が生まれてしまい、なぜそのような約束事を形成したかったのか、嘘をついているのではないかなどと疑念を持たれたり、仮に話し手が意図的に嘘をついているわけではないにしても、それならそれで話し手は聞き手にとって大事な友人であるひとに敵対意識を持っている(※ 悪意から悪口を言っている)と認識され、疎んじられたりするかもしれません。』(P255)
つまり、今や「オープンレター組=現代フェミニズム研究会」の中に「居場所」を持ってしまった三木那由他としては、いまさら「仲間」を裏切りことなどできないのだ。
本当なら「是々非々」で反対したり、不参加を表明したりすべきだということを頭ではわかっていながら、しかしそれを、実行に移すほどと胆力も倫理観も無いから、今の「ぬるま湯」から出ることもできない。
先日読んだ、池田緑の『ポジショナリティ その射程と社会学的系譜』の中に、さもありなんという事例が紹介されていた。それは、
「沖縄の米軍基地反対運動」に参加する「日本(本土)人」運動家は、現地人である「沖縄人」の基地反対運動家で、日本人運動家のことを「あなた方は本当に素晴らしい人たちだ。他の日本人とは違って、沖縄のために働いてくれるのだから」と褒めてくれるような人を、ありがたく「偶像化(ヒーロー化)」しがちであるし、また、そのようにして日本人運動家から持ち上げられる沖縄人運動家の方も、自分がスターにでもなったような気分になって、双方が共依存的な関係になることがある。
一一というような話である。
無論、沖縄人運動家が日本人運動家の存在をありがたいと思うのは当然のことだし、沖縄に「負い目」のある日本人運動家が、沖縄人運動家に認められるということは、その「負い目」を解消して、自分が「特別に立派な人間(日本人)」になったかのようなかたちで承認欲求を満たすことも出来るから、その沖縄人運動家を権威づけることになる。自分を権威づけてくれる存在には、権威が必要だからだ。
しかし、その一方で「当たり前の感謝」をした沖縄人運動家の方も、持ち上げられて悪い気はしないから、つい自分が「特別に立派な人間」になったような勘違いをしてしまいがちなのだが、それは所詮「共依存的な勘違い」に過ぎない。
なぜなら、「ポジショナリティ」的に言うならば、沖縄人が「米軍基地の押しつけ」に抵抗するのも「当たり前」のことなら、「日本人」がその「押しつけ責任」において、その解消に尽力するのも「当然のこと」でしかないからである。
当たり前のこと、当然のことをやるというのは、殊更に「立派」なことではない、ということなのだ。それは「すべきことを当たり前にやっているだけ」であり、問題は「すべきことをしない人たち」の存在なのである。

で、これと同じことで、与那覇潤が『(※ オープンレター)それはトランスジェンダー戦争の序曲だった』と言うとおり、「オープンレター組=現代フェミニズム研究会」にとって、トランスジェンダーであり、「トランス差別」被害の当事者である三木那由他の存在は、彼(女)らの「フェミニズム」や「トランスジェンダリズム」の正しさを保証してくれる「権威」であり、対立者に誇示すべき「神輿」ともなり得る。
なにしろ、三木那由他は、正真正銘の「トランスジェンダー」であり、非当事者が勝手に理屈をこねて「こちらのトランスジェンダー理解の方が正しい」と主張するより、よほど説得力があるからだ。
そのため、「オープンレター組=現代フェミニズム研究会」内における三木那由他の存在は、なくてはならない「アリバイ」のようなものとなる。
また、それがわかっているからこそ、もはや三木那由他は「足抜け」ができないし、それが許されもしないのである。
しかしながら、このような「解釈」を、三木那由他本人は無論のこと、その他のお仲間の面々も、決して認めはしないだろう。
なぜなら、彼(女)らにとっては、もはや「事実」が問題ではなくなっているからで、彼(女)らの言動は「イデオロギー的に、非妥協的なものなもの」と化しているからである。つまり、自分たちの「大義」のためならば、嘘だってつく、ということである。
(11)『 (※ みずからの行動を束縛することになる、他者との面倒な)約束事(※ 合意)の形成を避けつつ聞き手を(※ 一方的に)コントロールするのがマニピュレーション(※ 暗示的誘導)なのですから、(※ 現に)約東事が(※ マニュピレーションによって)形成されるかどうかと問われたら当然されていないし、されないように計算して発音がなされているわけで、だから言説的な責任は(※ おのずと)回避されているのですが、そのことは本来、倫理的な面での悪質さ(※ が問われるべきだということ)とはまったく別の話であるはずです。
そうした(※ 事の本質の)すり替えの挙句に、「不快な思いをしたひとがいたなら(※ 誤解させてしまい)申し訳なく思います」程度の謝罪で片づけられることも多いですよね。発言がもたらす結果の悪質さについては検討もされないまま、発言がコミュニケーション(※ における明示)レベルでは差別的な約束事をもたらしていないことだけが述べられ、「差別的だと感じたとしたら受け手の問題だが、とはいえそう感じたひとには申し訳ない」とばかりに、単なる受け手の心理の問題にされてしまう。』(P285〜286)
ここでいう『言説的な責任は回避されているのですが、そのことは本来、倫理的な面での悪質さとはまったく別の話であるはずです。』というのは、無論「言質を取らせないやり方(コミュニケーションではなく、マニュピレーション)でやっているからと言って、それが倫理的には褒められたものではないというのは、当然のことだ」という意味である。
だが、その「褒められたものではないこと」を、本書で現にやっているのが、他ならぬ三木那由他自身なのだ。
それだけではない。
「オープンレター」から「発起人と賛同者の名前」をすべて削除されたことについて、発起人の一人としての「説明責任」を果たしていないのも、三木那由他である。
「女性差別的な文化」は未だ脱されてはいないというのに、どうして「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」の「発起人と賛同者の名前」を、早々にすべて削除したのか?
一一「目的を達したから」というのであれば、その「目的」とは、「女性差別的な文化を脱する」ことではなく、北村紗衣をいじめた「呉座勇一個人から、職まで奪って、十分に痛めつけ、復讐してやったから」ということにしかならないはずだが、当然、彼(女)らは、このような解釈理解は認めないだろう。
であるならば、自分たちの見解を、「オープンレター」と同様に、堂々と表明して、その「集団による社会的告発」の「行為責任」を果たすのが、当然の義務なのではないのか?
だが、その義務を、三木那由他をはじめとした「オープンレター組=現代フェミニズム研究会」の面々は、まったく果たさないままなのである。
自分の責任には頬かむりをしたままで、そのほとぼりが覚めた今になって、またぞろ「われわれは、トランシジェンダー差別のえせフェミニスト闘う、真性のフェミニストだ」などと名乗りをあげているのだから、その「無反省」ぶりは明白であろう。
(12)『 私は倫理学については専門でないのであまり詳しいことはわからないのですが、少なくともコミュニケーション論的な見地からは、悪質なマニピュレーションは結果の善し悪しの点でその悪質さが問われるべきであって、それによってコミュニケーション的な約束事が形成されているのかだとか、その約束事に話し手が従っているかだとかといったことを焦点にすべきではないように思います。そこを問題にしてしまうと、あまりに最初から発言者側にとって有利にことが進んでしまいますから。』(P286)
言うに事欠いて『私は倫理学については専門でないのであまり詳しいことはわからないのですが』なとと書いているが、「専門家」ではなくても、人としての「当たり前の倫理や道理」くらいはわかるはずだ。
にもかかわらず、それさえ果たさずにおいて「専門家ではないから」とは厚かまし過ぎる。
そもそも、三木那由他は「哲学」の専門家などではなく、せいぜいが「コミュニケーション論」の研究家にすぎないではないか。
「哲学」というものの広さや深さくらいは知っていながら、「倫理学の専門家ではない」が「哲学の専門家ではある」などと匂わすのは、100年早いのである。
それに『悪質なマニピュレーションは結果の善し悪しの点でその悪質さが問われるべきであって、それによってコミュニケーション的な約束事が形成されているのかだとか、その約束事に話し手が従っているかだとかといったことを焦点にすべきではない』と、さも自分自身は「マニュピレーション」を行っていないか、少なくとも「悪質なマニュピレーション」はしていないと言いたげだが、自分自身の「マニュピレーション」を隠している点において、三木那由他の「マニュピレーション」はすでに、きわめて「悪質」なものなのである。
それなのに『悪質なマニピュレーションは結果の善し悪しの点でその悪質さが問われるべき』だなどと、まるで自分が「客観的な第三者」的な「善悪判断の自明な裁定者」ででもあるかのように語るに至っては、「現代フェミニズム研究会」の「設立趣意書」における「われわれと意見を異にするフェミニストは差別主義者である」とする「独善」を、完全にそのまま内面化していると断じても良いだろう。
「議論」というコミュニケーションを蔑ろにして、簡単に「慈悲善悪」を決めつけるなど、断じて許されはない、「独裁主義」なのである。
『 (※ みずからの行動を束縛することになる、他者との面倒な)約束事(※ 合意)の形成を避けつつ聞き手を(※ 一方的に)コントロールするのがマニピュレーション(※ 暗示的誘導)なのですから、(※ 現に)約東事が(※ マニュピレーションによって)形成されるかどうかと問われたら当然されていないし、されないように計算して発音がなされているわけで、だから言説的な責任は(※ おのずと)回避されているのですが、そのことは本来、倫理的な面での悪質さ(※ が問われるべきだということ)とはまったく別の話であるはずです。
そうした(※ 事の本質の)すり替えの挙句に、「不快な思いをしたひとがいたなら(※ 誤解させてしまい)申し訳なく思います」程度の謝罪で片づけられることも多いですよね。発言がもたらす結果の悪質さについては検討もされないまま、発言がコミュニケーション(※ における明示)レベルでは差別的な約束事をもたらしていないことだけが述べられ、「差別的だと感じたとしたら受け手の問題だが、とはいえそう感じたひとには申し訳ない」とばかりに、単なる受け手の心理の問題にされてしまう。』(P285〜286)
たしかに『「不快な思いをしたひとがいたなら申し訳なく思います」程度の謝罪』は、明らかに「誤魔化し」である。
だが、責任を問われた時に「応答責任」すら果たさず、「ログを削除して証拠隠滅」したり「Twitterアカウントを削除」したりすることの方が、もっと露骨に「悪質」ではないか。
呉座勇一の場合のような「屈辱に満ちた、強いられた謝罪」はもとより、三木那由他のように、形式的な謝罪すらせずに「トンズラをかます」というのは、社会人のするべきことではないのは無論、ましてや「大学教員」のすることではなかろう。
それとも「大阪大学」は、「武蔵大学」や「東京大学」や「専修大学」と同様に、教員の「素行」までは問わない、ということなのであろうか?
だが、そうした「責任回避」を、現に無責任にも繰り返しているのだから、三木那由他を批判するのに、なんら遠慮する理由などない。
「トランスジェンダー」を差別してはいけないが、トランスジェンダーの人が犯罪を犯したら、それを捕えて罰するのが当然であるように、トランスジェンダーである三木那由他であっても、「言論人」としての責任、「大学教員」としての責任を果たさないで、卑怯にも、それから逃げたということであれば、トランスジェンダーであるか否かは、もはや無関係な話なのだから、公平に厳しく批判されて然るべきであり、それこそが「公平・平等」ということなのである。
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それでは最後に「三木那由他による、本書読者に対するマニュピレーション」の具体例を挙げ、その解説をしておこう。
ただひとつだけ、先に指摘しておけば、一一本書『会話を哲学する』を褒めているような読者は、間違いなく、「文学作品」をまともに読むだけの力量を持たないばかりか、三木那由他程度の人間に体よく「マニュピレート」され(操られ)ている、読めない「ボンクラ」だ、という事実だ。
(13)『 さて、ここからこの小説で出てくる会話を取り上げていくのですが、ひとつ注意を。
フィクション作品を題材にするという性質上、この本ではたくさんのネタバレをすることになると思います。それがミステリなどの場合には、さすがに改めて「ここから先で重大なネタバレがあるので、気になるひとはここでいったん中断して、作品を見てみてね」といったことを書くようにするつもりですが、毎回注意書きがあるとそれはそれで邪魔くさいでしようから、そうした事情がない限りはいちいち「ネタバレ注意」とは書きません。
ただ、いまもしたように、作品を取り上げる都度、その作品のあらすじなどをまとめるようにしますので、それが目に入ったら「ここから先で具体的な場面が紹介されるのだな」と察して、ネタバレが気になるかたは該当作品を先に読んだり見たりしておいていただけたら、と思います。ネタバレが大丈夫というかたは、この注意書きについてはお気になさらず!
(ちなみに私は大丈夫なタイプだったりします)』(P22)
見てのとおり、ここは本書で扱う「小説や漫画や映画など」の作品に関する、【ネタバレ注意】の事前通知である。
一一だが、ここでどのような「マニュピレーション」が読者に仕掛けられているのだろうか?
注目すべきは、最後の1行、
『(ちなみに私は大丈夫なタイプだったりします)』
一一これである。
いかにも「さりげなく」書かれた、この部分の存在意義に気づいた人が、どれだけいるだろうか?
上の引用文全体としては、単なる【ネタバレ注意】でしかないから、本来であれば、最後のこの一文は、必要なかった。
なのになぜ、この一文が付け加えられたのかといえば、ここには【ネタバレ注意】以上の、著者である三木那由他の「意図」が込められていた、ということになる。
それでは、その意図とは何か?
それは「私は、あまり細かいことは気にしない、寛容な人間ですよ」ということを「読者」に気づかれないように「印象付けようとした」ということなのだ。
これが「暗示的な印象操作」である、三木那由他の「マニュピレーション」なのだ。
本来であれば、この一文は必要なく、【ネタバレ注意】の目的はすでに達せられていた。
しかし、三木那由他を、それにもかかわらす、あえてこの一文を、しらっと付け加えた。
さて、ここでよく考えて欲しいのは、「誰だって、ネタバレはされて嬉しい者などいない」という事実である。
たしかに、ネタバレを「絶対に許さない」人や「カンカンいなって怒る」人というのも、ごく稀にはいるだろう。
だが、あなた自身は、そこまで徹底した「ネタバレ禁止の原理主義者」なのかと問われれば、たぶんほとんどの人は「いや、ネタバレされて喜びはしないけれど、ムキになって怒るほどでもないよ」と、そう言うのではないだろうか。
つまり、ここで三木那由他が付け加えた『(ちなみに私は大丈夫なタイプだったりします)』という一文は、実質的には「ごく当たり前のこと」でしかないのだが、【ネタバレ注意】の話をした直後に「私はそれほどでもない」と言えば、さも「寛容でおおらか」な印象を、それとなく読者に与えられるはずだと、三木那由他は、当然のことながら、そう「自覚的してやった」ということなのだ。
しかし、こう書くと、「それは考えすぎなんじゃないかな。なんとなく、ひとこと付け加えただけなんじゃないの」と、そう思う人もいるだろう。
たしかに、「一般人」が同じことをやれば、「無意識にやった」蓋然性が高いだろう。
一一だが、三木那由他の場合は、日頃から「そんなことばかり考えている」のであり、それが三木那由他の研究テーマでもあるのだから、ただぼんやりと「マニュピレーション(印象操作)」をしていたわけがないと、そう考えるべきなのだ。そうでなければ、本書のようなものも、わざわざ書かないはずなのである。
そして、万が一にもそうではなかった、たまたま何となく、あの最後の一文を書いたのだとすれば、三木那由他は「コミュニケーション論」の研究者としては、あまりにもボンヤリ屋であり、素人の私以下だということに、なってもしまうのである。
(14)『 コミュニケーションとマニピュレーションの区別はわかりにくいかもしれませんが、音声多重放送における主音声と副音声みたいな関係にあると思ってもらったらいいかもしれません。
コミュニケーションはいわば話し手がおこなった発言の表の姿であり、それによって話し手が堂々と伝達し、聞き手とのあいだの大っぴらな約束事としているような、主音声的なものとなっています。けれど話し手はしばしばその裏で、まったく別の企みのもとで聞き手にメッセージを届けたり、聞き手の心理や行動を一定の方向に導いたりもします。これがマニピュレーションなのですが、こちらは話し手がおこなった発言の表の姿だけからは見えてこず、しかし話し手の心理を深く推察するなどしたならば、まるで音声切り替えをしたように聞こえ始める、副音声的なものとなっています。』(P211)
専門家として、常に「副音声=マニュピレーション」の方を意識している三木那由他が、あの最後の「必要性のなさそうな一文」を、たまたま無意識的につけ加えたと理解するのは、結局のところ「マニュピレーション(他者に対する暗示的誘導=操り)」ということを、甘く見ており、わかっていないということにしかならない。
実際、その程度の読者は、次の言葉をどう読むだろうか?
(15)『 比喩や言い換えについても、それと意識してみると、たくさんの場所で目にするかと思います。もちろん、性的マイノリティだけでなく、女性や在日コリアン、生活保護受給者、障害者、人種的マイノリティ等、さまざまな人々にそれは向けられています。
コミュニケーションとマニピュレーションの区別を意識するとき、ひとつ言えることがあります。それは、マニピュレーションに関してはコミュニケーションとは別の仕方で責任を問う必要があるのではないか、ということです。
コミュニケーションにおいては約束事が形成されます。それゆえ、その約束事に対応した責任をコミュニケーションの参加者は負うことになります。話し手がその約束事に反したならば、「嘘つき」と非難されることもあります。コミュニケーションにおいてはこのように、「コミュニケートした以上はコミュニケートしていないことにはできない」という、いわば言説的な責任とでも言うべきものが生じます。』(P283)
これでは、「マニュピレーション」というのは、まるでいつでも、「社会的少数者」や「社会的弱者」に対してだけ向けられているもののように語られているが、無論そんなことはない。
「社会的少数者」や「社会的弱者」だって、言葉を駆使し、会話によって生活しているのであれば、当然、日々「何らかのマニュピレーション」を駆使して生きているのである。
つまり、上の「書き方」には、すでに読者に対する「マニュピレーション(誘導)」が、仕掛けられている、ということである。
したがって、引用文(13)の、
『マニピュレーションに関してはコミュニケーションとは別の仕方で責任を問う必要がある』
という言明は、三木那由他の「主音声」的には「誰もが行なっているマニュピレーションも、そのつもりはなかったで許してはいけない」という主張なのだが、その「副音声」としての本音は、
「マニュピレーションの責任性を訴える私は、決して、その責任を問われるような、悪質なマニュピレーションなどしませんよ」ということでもあり、言い換えれば「私は誠実な人間ですから、みなさんどうぞ、安心して私の言い分を信用して(鵜呑みにして)ください」という、「うさんくさい」と言うよりは、いっそ「臆面もない、ペテン師の口上」なのである。
では翻って、私が本稿において行なっている「マニュピレーション」とは何なのかといえば、それは隠れもなく「三木那由他に騙されるな。こいつは信用ならないやつだぞ」ということなのである。(※ 引用文(10)を参照)
「私を信用してください」と、暗にメッセージを発することで、読者を「マニュピレート」しようとする三木那由他。
「三木那由他を信用してはならない」と、率直に伝えることで、読者を「マニュピレート」しようとする私。
一一そのいずれを受け入れるかは、読者の判断能力次第である。
私としては別に、「騙されやすい馬鹿」にまで、支持されたいとか好かれたいなどとは思わないので、あとは勝手にすればいいと、そう思っているのである。
(2025年6月13日)
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(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)
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