パーシヴァル・エヴェレット 『ジェイムズ』 : 北村紗衣、アファーマティブ・アクション、黒人差別
書評:パーシヴァル・エヴェレット『ジェイムズ』(河出書房新社)
本書は、アメリカの国民文学作品、マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』を下敷きにした現代小説である。

本書の帯には、
(1)『黒人奴隷ジムが語る「ハックルベリー・フィン」。過激な笑いと鋭利な真実でくつがえす、前代未聞の話題作。』
とある。
ところが、本稿を書くために先ほど、Amazonの本書紹介ページをチェックしたところ、上の文言は、下のように微妙に書き換えられていた。
(2)『逃亡奴隷ジェイムズの過酷な旅路の果てに待つものとは──。「ハックルベリー・フィン」を過激な笑いと皮肉でくつがえした、前代未聞の衝撃作。全米図書賞&ピュリツァー賞受賞。』
私の場合、書店で本書を見かけ、面白そうだと思って購読したので、本書への私の第一印象は、帯に刷られた(1)によるところが大きい。
私の場合は、本書の「原作」にあたるトウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』(以下、原作と記す)を、昨年になって読んでいる。
だから、同原作では主人公ハックルベリー・フィン(以下、ハックと記す)と共に旅をする、逃亡奴隷ジムの視点から語られる本作なら、賞もたくさん受けていることだし、きっと楽しめるだろうと、そう思って読むことにしたのだ。
ちなみにこれも、本編読了後の「訳者あとがき」(木原善彦)で知ったことだが、作者のパーシヴァル・エヴェレットは、アメリカの黒人作家である。
私の場合、本作を書いたのは「アメリカの白人作家」だという誤ったイメージで読んでいたせいもあって、ほとんど終始、腹が立って仕方がなかった。
なんで「腹が立って仕方がなかった」のかというと、本作における「黒人差別批判」の仕方が、所詮は「後知恵」よるものでしかなく、今の時点での「常識」で、当時の黒人差別を「後進性」を、嘲笑する類いのものであったからだ。
現在のアメリカは無論、わが国・日本も含めて、今の世界では、「人種差別」か許されない悪徳だというのは、小学生ですら知っている「常識」である。
だから、それをあえて正当化しようとするような者など、よほどの確信犯的な人種差別主義者しかいない。
したがって、そんな人たちは、もともと本書など読まないのだから、本書は、人種差別に反対の著者と、人種差別に反対する読者との間での、言うなれば「身内」同志による「そうだよね」「そうに決まっているよ」といった頷き合い、あるいは「馴れ合い」に立脚した小説でしかないと、私にはそう感じられたのだ。
つまり、人種差別や黒人・奴隷差別だけではなく、あらゆる差別に反対しているつもりなのであれば、「あいつらは差別者だ(った)」と他人事のように、他人の差別を「糾弾」するだけではなく、今もなお「自分自身の意識の中に潜む差別意識」をこそ批判すべきなのだ。そうしなければ、差別が無くなるわけなどない。
なぜならば、差別者というのは、自分のことを差別者だとは思ってはいないものだからである。
一一ところが、本書にはそうした「自己批評性」や語の本来の意味における「反省」が、まったく完全に「無い」。
だから、なんとなく「アメリカ白人の著者」をイメージしていた私は、本書を読みながら、「現在の常識=多数派の常識」だけに立脚し、ハックのみを例外として「昔の白人」たちを、まるで「人の皮を着た猿」ででもあるかのごとく見下して描く作者に、「いい気な野郎」だと、そんな「嫌悪感」を、読んでいるあいだ中、ずっと感じ続けていたのである。

無論、当時のアメリカにおける「黒人奴隷制度」は間違ったものだったのだから、それは批判されなければならないものではある。
しかしながら、なぜそれが批判されなければならないのかと言えば、それは「いまだに世界のすべての場所で、現に差別が存在するしているから」である。
もちろん、現在もなお、黒人差別や人種差別も残っているが、それ以外の多種多様な差別も残っている。
だからこそ、「かつての典型的な差別」である「アメリカの奴隷制度」も、いまだに批判され続けなくてはならないのであって、それは「差別した者への後知恵による批判」であったり、「差別された者の、差別した者に対する報復や腹いせ」であったり、あるいは「あいつらは差別者だったが、それを批判する私(たち)は差別者ではない」とアピールすることによる「アリバイ作り」であったりしてはならないと、私はそう考えるのだ。
つまり、「差別」を他人事とは考えず、「いま現在の私」の問題であると捉えて、自省するのための作品として書かれるべきだったと、そう考える。
だから、そうした「自省」のかけらもない本作には、ただただ不快感を覚えたし、こんなものを褒めるような輩は、本書を褒めることによって「私は差別に反対しています。決して差別なんかしない人間です!」と、そう声高にアピールしたい、無反省な「差別者」でしかないのであろうと、そう考えたのだ。
実際、「反差別」を声高に語る者が、自分自身の差別性については、からっきし無反省だというのは、よくある話である。
すでに何度か書いていることだが、私の父も、時に「あいつは四つ(被差別部落民)や(だから、あんな嫌なやつなんだ)」というような言葉を内々で口にしていながら、差別問題を扱ったテレビの特集番組などを見ると、差別されている人たちに同情して「あの人らは、何も悪いことなんかしてないのに(可哀想や)なあ」などと「本気」で言っていた「愚かな庶民」の一人だった。
またそのために、当時中学生であった私から、人前で(創価学会の座談会で)呵責なく、その点を糾弾されて、面子を丸潰れにされるたりもしたのであった。
「人前ではご立派なことを言っているが、自分がそんな人間だなんて、勘違いするなよ」と、自分の親なればこそ、私の嫌悪感と怒りが爆発したのである。
だが、こうした「無知な庶民」的とも言える「無自覚な差別意識」なら、まだ啓蒙も可能であろうけれど、差別の問題性についての十分に知識を持っていながら、それでも時に、その隠された差別意識を露呈してしまうような「知識人の差別意識」というのは、より悪質であり度し難いものだというのは、論をまたないであろう。
庶民にありがちな、自覚が無いから反省できないというのとは違って、半ば自覚はあっても、それを改めようとはせず、ただ自分の社会的な立場を守るためだけに、殊更に「反差別者」であることをアピールして、アリバイ作りをしているような、「知識人」や「著名人」などのことである。
例えば、私が現在批判している「武蔵大学の教授」で、自称フェミニストである北村紗衣などはその典型であり、北村紗衣は「女性差別(性差別)」に反対すると声高に叫びながらも、それ以外の差別については、ほとんど何も語らない。
なぜ語らないのかと言えば、すべての差別に対して、厳格に反対を唱えるなら、その言葉は自分自身に跳ね返ってくるというのを、北村紗衣は重々認識しているからである。
つまり、女性である自分が「女性差別反対! 女性に対し、男性と同等の権利と権力を保証せよ!」と訴えている分には、自分が「得をする」だけだけれども、例えば、「部落差別」や「在日朝鮮人差別」などの問題なら、自分は差別する側の日本人としての「歴史的な責任」が問われるし、「沖縄への米軍基地押しつけ問題(一極集中問題)」については「本土人」としての責任が問われることになる。
つまり、「損得」の問題で考えれば、それらの差別問題に言及することには「何のメリットも無い」からこそ、北村紗衣は「差別反対」を声高に語りはしても、自分にメリットのある「女性差別」の問題か、日本人が加害責任を問われることなどほぼ無い「黒人差別」や、日常、身の回りの問題として接することのない「トランスジェンダー差別」問題などについては、「ついで」のアリバイ作りのように触れるだけなのである。
言い換えれば、北村紗衣のような人物は、「差別という行為の中に、損得打算による序列」つまり「差別」を設けているのだ。
「女性差別は絶対にいけません。だけど、沖縄への米軍基地押しつけ問題については、私は直接関係はないので、ノーコメントということにしておきます」一一と、そういう、いかにも確信犯的な「差別者」らしい、得て勝手な態度なのだ。
そんなわけで、私たちに必要なのは、「他人の差別意識を糾弾する」ことではなく、「それを通して、自分自身の差別意識を洗い出し、それを殲滅する努力」なのであろう。
なぜなら、私たちは誰しも、今なお、多かれ少なかれ、差別意識を持っているのである。
したがって、「私は、100パーセント完全に、差別意識を持たない人間です」などと本気で思っているのは、よほど頭の悪い、無知な庶民的「差別者」でしかないのだ。
一一そんなわけで、私は本書『ジェイムズ』を読みながら、終始ムカムカしていた。
作者の、わかりやすく「正義」を振り翳した、差別をまるで他人事としか考えていない、その「無自覚な差別性」に発する、威丈高に「嘲笑」的書きっぷりが、私には不愉快きわまりなかった。
著者が、「アメリカ白人」だと思っていたので、それに対して「後知恵だけで、いい気になりやがって」と、そう腹が立てていたわけである。
ところが、「訳者あとがき」で、作者のパーシヴァル・エヴェレットが、現役の「アメリカの黒人作家」だと知って、それで納得できたのかと言えば、そうではない。
そのあとは、なおさら不愉快が強まったのである。
一一どういうことか。
アメリカ白人の著者が、「後知恵」で本作を書いたのなら、「いい気な馬鹿野郎」でしかないし、たぶん本書が数々の文学賞を取ることもなかったのではないか。
それどころか「おまえが言える立場か」と、少なからぬ黒人から糾弾されたのではないだろうか。
ところが、著者か黒人であるために、同じ作品であっても、無条件に持て囃されることになったのだとしたら、これも一種の「裏返された人種差別」でしかないと、そう考えたからである。
したがって本書は、言うなれば、アファーマティブ(格差是正)的に「優遇された」作品なのだ。
社会的な地位における「男女格差」を是正するために、あらかじめ「女性枠」を設定しておいて、その枠を満たすために、「同じ能力の持ち主であれば、女性を優先する」といった「アファーマティブ・アクション」の、「文学」版である。
たしかに、いまだ性差別の残る社会的においては、アファーマティブ・アクションも必要ではあろう。
是正対象となる「男性中心組織」の良識に任せていては、いっこうに是正進まないというのは、当たり前にある現実だからだ。
しかしながら、こうした「アファーマティブ・アクション」の問題点は、「数合わせのために、女性を(男性に)優先するもの」であるにもかかわらず、優先されて選ばれた女性が、より能力的に優れた男性を犠牲にしてでも選ばれたのだという「事実」を、当人の女性はもとより周囲も、曖昧に誤魔化しがちであり、まるで、能力だけで選ばれたかのように語りがちである点(欺瞞)だ。
では、そうした「誤魔化し」が、なぜ発生するのかと言えば、それはたぶん、アファーマティブ・アクションによって、優遇されて選ばれた女性が失策をした場合、「そうれ見ろ。その失策の責任を誰が取るんだ?」と、そう言われかねないからであろう。
つまり「能力に優れた男性を選んでいれば、避けられた被害・損失」が発生した場合、その責任を、アファーマティブ・アクションによって優遇された女性当人は無論、その制度を採用した組織責任者も、決して取らない。
なぜなら、そうした制度が採用されるのは、一部の人の意志によるものではなく、その組織・集団に所属する人の「総意」によるものだという「建前」になっているからだ。
つまり、「アファーマティブ・アクションのせいで、何らかの損失が生じた場合にも、それは総意によって採用された制度なのだから、その痛みは、皆で分け合いましょう」ということになっているためだ。
言い換えるなら、「誰も責めてはいけません」ということにして、責任を回避しているのである。
ところが「アファーマティブ・アクション」というのは、たいがいの場合、決して「総意」によって採用されるのではなく、その組織なり集団なりの上層部が決定して、それをトップダウン式に、組織や集団全体に押しつけるものなのだ。
だからこそ、「実害」が生じた場合には、「アファーマティブ・アクション」という制度を「押しつけられた」と感じている人たちは、それを「押しつけた側」である、組織や集団の上層部や、もちろんそれを望んだ女性たちに対して、しばしば「結果責任を取れ」と要求することにもなるのである。
だから、「アファーマティブ・アクション」というのは、たしかに現実的には「必要な強制制度」なのではあるけれど、「強制するんなら、その強制責任も負え」というのも、決してわからない心情ではないのである
したがって、「アファーマティブ・アクション」を採用する際には、「能力的に劣っていても、あえてマイノリティの側を採用する。これは、社会的な平等実現のために必要不可欠なものなのだ」という意志を、明示しなければならない。
ところが、現実には、そこまで明確に語って、結果に対する「責任」を引き受けるほどの、組織有力者もいなければ、優遇措置を受けるマイノリティ当事者も、ほぼいない。
「アファーマティブ・アクション」によって、優遇した側も、優遇された側も、選ばれてしまえば、たいがいは「実力で選ばれました。だから皆さん、ちゃんと尊敬してください」というような顔をしたがる。
まただからこそ、その人が失策した場合には、今更のように「アファーマティブ・アクション」という制度の妥当性が問われることにもなってしまうのだ。
繰り返しになるが、したがって、「アファーマティブ・アクション」は、現にある社会においては、必要なものである。一一ただし、その運用にあたっては「あえて、能力に劣った者でも採用する」ということを、常に明示しなければならない。
それをやらないからこそ「アファーマティブ・アクション」を「逆差別」だとする批判がなくならないという、「悪循環」にもなるのである。
だがしかし、そうした「アファーマティブ・アクション」を、「文学」や「芸術」の世界にも持ち込むべきなのかと言えば、私はそうは思わない。
なぜなら、「文学」をはじめとした「芸術」の世界というのは、「作品という結果がすべて」であって、作者の属性で、作品評価を変えるべきではないからである。
つまり、作者が、猟奇連続殺人者であろうと、ロリコンであろうと、女性差別者であろうと、人種主義者であろうと、犬や猫であろうと、逆に、良家の出であろうと、フェミニストであろうと、障害者であろうと、その作品さえ優れていれば、その作品自体は高く評価され顕彰されるべきだし、逆に作品が不出来なら、作者が何様であろうと高く評価してはならない。作者の属性によって、作品まで差別をうけるべきではないのだ。
つまり「傑作は傑作であり駄作は駄作で、それ以外、評価のしようはない」のである。
また、そうした観点から、私は近年問題になっている「キャンセルカルチャー」には、明確に反対である。
前述の北村紗衣は、自分を馬鹿にした歴史学者の呉座勇一を、「女性差別者」だと呼んで、「女性差別反対」のネット署名を集め、それをインターネットに公開した。
それが「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」である。
呉座が北村紗衣個人を、どのような言葉でどの程度、馬鹿呼ばわりしたのかは別にして、一般論として「女性差別はいけない。呉座に女性差別的な意識があったのなら、そこは反省すべきである」というのは、当たり前の話でしかない。
また、「馬鹿を馬鹿だと評価すること自体は間違いではない」が、それを公の場所ですれば「名誉毀損罪」にも該当する。それが事実か否かに関わりなくだ。
なぜなら、「人を罰する行為」は「国家の専権事項」であって、個人の勝手ではないからである。
したがって、個人に可能なのは「批評・批判」までなのである。
しかし、にもかかわらず、「批判」の範疇であったはずの、この通称「オープンレター」に問題があったのは、
「こんな差別者とは、安心して席を同じくすることもできない」
と、そう訴えて、実質的に「呉座勇一を、学会から排除せよ」と訴えた点にある。
そして事実、この「オープンレター」のせいで、呉座は「二度にわたる公開謝罪」では済まされず、職場を追われることにもなったのだ(のちの裁判によって、職場復帰を果たしたとしてもだ)。
だいたい、この「キャンセル・カルチャー」というのは、いつでも「やりすぎる」というところに問題がある。しばしば、抑制が効かないのだ。
「自分たちは社会的弱者であり、敵は社会的な強者なのだから、普通に批判していても埒があかない。だから、強権的にでも排除・抹殺しなければ、差別はなくならない」という理屈なのだが、しかし、「排除・抹殺できる強権」を持った段階で、その人は間違いなく「権力」者そのものであり、「あらゆる権力は腐敗する」ものだし、「暴走するもの」なのだ。
例えば、「キャンセルカルチャー」の流行のひとつのメルクマールとなったのが、アメリカ映画界における大物プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインによる「性的暴行」事件であった。
「いい役が欲しかったら、俺と寝ろ。さもないと、この業界では生きていけないぞ」と、平たく言えば、そういう圧力を女優たちにかけて、性的暴行を長年続けていたのだが、「ニューヨーク・タイムズ」記事に端を発して、「私も被害に遭った」という連鎖的な告発が続いた。それが、かの「#MeToo」である。
もちろん、ワインスタインは許されざる人物であり、彼が逮捕され有罪になって、その地位を奪われた(キャンセルされた)のは、当然の結果である。
ところが、この結果、自分たちの「告発力」に自信をつけた女性たちは、全員とは言わないまでも、それまで抱え込んでいた男性へのルサンチマンを爆発させ、少しでも「女性差別」の疑いありと見なした男性については「ハリウッドから追放せよ」とやり出してしまった。
こうした「キャンセルカルチャー」によって、職を奪われてしまった、男性ハリウッド人は決して少なくなくて、その代表が、名監督として知られたウディ・アレンだ。
彼は、養女に対する性的暴行「疑惑」で、「キャンセルカルチャー」の標的となって、その仕事を完全に奪われたしまった。
それまでは、アレンのことを「巨匠」として持ち上げていた俳優たちの多くが、男女を問わず彼から離れていき、時には「今となっては、彼と仕事したことを恥じる」などという「転向声明」を出して、保身に走ったもいた。
ウディ・アレンが、実際に養女に性的暴行を加えていたというのであれば、そうした「キャンセル」もやむ得ないところではあろう。
だが、アレン自身は犯行を否認しており、あるのは、養女本人の供述だけである。
つまり、こう言ってはなんだが、アレンの「非モテ的な外見や作風」だけで「あいつなら、きっとやってる」と、半ば決めつけられ、キャンセルの標的にされ(差別され)たのだ。
無論、本当にやったのかやらなかったのかは、たぶん当事者の二人にしかわからないことだし、しばしば当事者ですら、その現実認識に齟齬の生じる場合がある。
まさに、状況は「藪の中」であり、そんなことは、案外よくあることなのだ。
だが、それが「あったかも知れない」という「推定」だけで、人を社会的に抹殺することなど、許されるべきではないというのは、裁判制度における「推定無罪」の原則にも明らかなことだ。
当然のことながら、「憶測による断罪」というのは、きわめて危険なものだからである。
それでも「疑いが濃厚だ。罰すべきだ」と言うのであれば、少なくとも自ら、その「立証」努力はすべきなのだが、ウディ・アレンの場合もそうであるように、その立証責任を負負うとはしない、言うなれば「外野」が、「容疑者」を有罪だとしたのが、「#MeToo」であり「キャンセルカルチャー」なのである。
そして、そんな具合だからこそ「キャンセルカルチャー」は、しばしば「冤罪」事件を生み、ひと一人の人生を台無しにすることも、当然ある。
だが、その「容疑」が、裁判で「冤罪」だという判決が下された場合でも、しばしば容疑をかけた側の者(検察側であれ、フェミニストであれ)は、その判決を不服として、頑なに受け入れようとはしない。
判決を受け入れて自らの誤りを認め、謝罪するということを、しないのである。
なぜなら「真実は、当事者以外の誰にも分からず、裁判官にさえ判るわけではない」と、そう考えるからだ。
つまり「誰にも分からないことであれば、裁判の結果がどうであろうと、私の疑いの方が正しいかも知れないのだから、謝らなければならない理由は無い」と、そのように自己正当化するのである。
たしかにこれは理屈としては正しい。
すでに失われた「過去の真相」は、本質的には、誰にも知り得ないことなのだ。
だが、だからと言って、「裁判の結果」を無視するというのであれば、その人は「法律」の外で生きると宣言しているも同然であり、「法律に従わなくてもいい」とすると立場でなくてはならない。
しかし、そこまでの覚悟を持って、言うなれば「反法治国家」的に、裁判結果に反対する「フェミニスト」など、存在していないと断じてもよい。
ならば、そんな輩は所詮「得て勝手」の自己中心主義者でしかない。
信念を持って、国法をも無視するような、徹した思想の持ち主は、すでに「フェミニズム」などという「制度内思想」を担ぐだけでは済まされないからだ。
さて、そんなわけで私は、「文学」をはじめとした「芸術」の世界に、「アファーマティブ・アクション」を持ち込むべきではないと考える。
しかしながら、現実には多くの場合、「アファーマティブ・アクション的に、この作品に受賞させました」とは、公式には言わないからこそ、実質的に、そうとでも考えるしかないような本作『ジェイムズ』が、数々の賞を受賞したという事実は、大問題なのだと、私はそう言いたいのである。
前述のとおり、「大臣の数」でも「教授の数」でも、「アファーマティブ・アクション」は推進されているし、それが必要なものであるというのは、私も認める。
ただし、その当然の前提条件として、
「選ばれた女性は、同能力の男性に優先して選ばれた」
とか、
「選ばれた黒人は、同能力の白人に優先して選ばれた」
と、その事実を明示されはければならない。
そうでなければ、それは「制度の趣旨に反するペテン」でしかないからである。
ましてや、「人の社会的な立場に関するアファーマティブ・アクション」は必要だとしても、「文学」をはじめとした「芸術」作品における「アファーマティブ・アクション」など、あってはならないと、私は考える。
前述のとおりで、作者がどんな属性の持ち主であろうとも、「作品」は「作品そのものとして評価されるべき」だと考えるからだ。
手塚治虫の『ジャングル大帝』をパクった場合、それが世界的に著名な有力者であるアメリカ人、ウォルト・ディズニーであろうと、日本の無名の作家であろうと、どちらもパクリ(盗作)であることに違いはなく、その人の「社会的な地位」や「国籍」などの属性の違いで、区別してはならない。
なぜならそれは、「階級差別」や「人種差別」に他ならないからである。
したがって、本作『ジェイムズ』が、白人が書いた作品であったなら、ほぼ間違いなく黒人から叩かれましたであろう内容でありながら、被差別者側の黒人が書いた作品であるがゆえに、同じ点が問題視されることもなく絶賛されるというのは、作品に対する「人種差別」だと言えるだろう。
無論、こんなことを許しては、芸術は政治的に、「政治的な差別」によって堕落するだけなのである。
本作で、なにより呆れたのは、作中の黒人奴隷ジム(ジェイムズ)が、実はたいへんな知識人であり、ただ、差別される黒人奴隷の立場として、白人から睨まれるのを避けるために、わざと「無知で愚かな黒人」のふりをしていただけという、トリッキーな設定である。

この点については、「白人の所有する本を盗み読みして、教養と思考力を身につけた」という、一応の説明はあるものの、それでも、まったくリアリティの無い、無理筋の設定であり、またそこが、最初に引用した帯文の、
(1)『過激な笑い』
あるいは、
(2)『過激な笑いと皮肉』
ということになるのだろう。
つまり、作者は、こうした「設定」にリアリティが無いことなど、百も承知の上で、しかし、その「後知恵」において、「かつての差別者たちを嘲笑う」ために、こうした「メタフィクション的な手法(作中人物の位相と読者の位相の意図的な混淆)」を採用したのである。
だから、かつての「奴隷制度」や「黒人差別」の問題をろくに知らない者や、『ハックルベリー・フィンの冒険』を読んだこともないような日本人には、本書は、現代的に「わかりやすい」が故に、便利な作品なのではあろう。
なにしろ、語り手であるジム(ジェイムズ)が、作者の「後知恵」による身内語で、登場する白人たちを、解説的に、こき下ろしてくれるのだから、読者の方は「なるほどそうか」と、頭を使わずに読むだけで済むからである。
しかし、こうした「甘やかされた読者」というのは、原作である『ハックルベリー・フィンの冒険』を読んでも、そこで描かれている「当時の差別」を、現代の目でしっかりと捉える能力を持ってはいないだろう。
その能力が無いからこそ、本作のような「わかりやすい虎の巻」をありがたがれるのである。
だが、所詮、虎の巻は虎の巻にすぎない。
それで「わかったつもり」になるような読者は、金輪際、自分自身に潜む「差別意識」に気づくことはない。
なにしろ「差別を見抜く目」を鍛えていないのだから、見えにくくもあれば、見たくもない「自分自身の差別意識」など、気づける道理がないのだ。
そして、このように「差別被害者の立場に胡座をかいた」本作の中でも、特に呆れさせられたのは、本書の終盤で明かされる「じつは、ハックはジムの実子だった」という「真相」である。
そのために、その前段において「白人にしか見えない黒人(ハーフ・ミックス・ダブル)」を登場させてもいる。
当時は、黒人の血が入っていれば、その人は黒人扱いだったのだ。
本書の「訳者あとがき」(P405)でも紹介しているとおり、原作である『ハックルベリー・フィンの冒険』が、前作の『トム・ソーヤーの冒険』をさしおいて、
『今日のアメリカ文学はすべて『ハックルベリー・フィンの冒険』という一冊の本から生まれている。』
(アーネスト・ヘミングウェイ)
とまで言われるのは、主人公のハックが、教養のない浮浪児にも等しい少年でありながら、その無垢な人間性において、差別される黒人奴隷に同情できる感性の持ち主として描かれていたからであろう。
つまり、ヘミングウェイとしては「黒人差別をした事実が、アメリカ人の本来性を示すわけではなく、ハックの示した当たり前の人間性こそが、アメリカ人本来の良心であり、またそうでなければならないのだ」と、そう言いたかったのであろう。
だが、本作の作者である黒人作家のパーシヴァル・エヴェレットは、こうした白人ヘミングウェイの考え方が「所詮は、白人の自己正当化に過ぎない」と見抜いた上で、「嫌がらせ」的に、ハックを「実は、黒人だったんだよ」としたのではないだろうか。
「ハックが、黒人に同情的だったのは、アメリカ人的な自然的良心のせいなどではなく、単に黒人の血が流れたからじゃないの?」
と、「アメリカ白人の誇り」である「ハックルベリー・フィン」を「簒奪」することで、嫌がられをしたのである。
「このような解釈も成り立つし、こう解釈していけない理由も無いでしょう?」と、白人たちが反論できないことを見越した上で、
『「ハックルベリー・フィン」を過激な笑いと皮肉でくつがえし』
て見せたのだ。
しかし、こうした「強い立場」に依拠した陰険なやり口は、たとえそれが「黒人」によってなされたものであろうと、品性下劣なものだとしか、私には評価し得ない。
だから、こんな作品に賞を与えて御追従に走った白人の賞選考委員や、こんな作品を絶賛するような、本書の訳者や推薦者たちをについても、嫌悪と軽蔑を感じないわけにはいかない。
なぜなら、こうした輩は、世間の風向きさえ変われば、それに合わせて、いくらでも真逆なことの言える手合いでしかないからだ。
例えば、戦争中にはその体制に「翼賛」して戦争支持派だったくせに、敗戦になった途端に、世間の風向きを読んで「平和主義者」に転向したような、そんな知識人の末裔としか思えないからである。
残念ながら、知識人を含めて、多くの人は「歴史」に学ばないし、反省もしない。
「歴史」を、他人事としてしか見ていないからだ。
もしも自分が、奴隷制度があった時代の、南部アメリカの裕福な白人家庭に生まれた白人であったとしたら、果たして黒人を「奴隷扱い」にしなかっただろうか?
はたして「無教養な変わり者のハック」のように、「黒人奴隷」を「同じ人間」だと思えただろうか?
一一そんなことを自身に問うこともしなかったような人間だけが、本作を能天気に絶賛できるのである。
最後に、本書の帯の背面に刷られた「推薦文」を、引用紹介しておこう。
物語は往々にして誰かの人生を破壊し、利用する。だが、鮮やかなやり方で新たな命を与えることも出来る。この小説のように。
一一一西加奈子
読み始めたが最後、「ハックルベリーの冒険』を愛する私がいかに「白人」であったか、自分を笑い飛ばして痛快になる。
一一一星野智幸
地獄の故郷を抜け出して、いっしょに生きよう。この小説にそう誘われた気がした。
一一一三宅香帆
容赦なくも慈悲深く、美しくも残酷で、悲劇であり茶番劇。
一一一エルナン・ディアズ
恐ろしくも抱腹絶倒、そして深く胸を打つ。
一一一アン・パチェット
この本は読者の心をまっすぐに撃ち抜く。
一一一ニューヨーク・タイムズ
衝撃的で爽快な結末。
一一一ワシントン・ポスト

(2025年11月11日)
○ ○ ○
○ ○ ○
○ ○ ○
● ● ●
○ ○ ○
・
・
・
○ ○ ○
○ ○ ○
・
○ ○ ○
・
○ ○ ○
