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頭の良い人・悪い人 : 北村紗衣 武蔵大教授に学ぶ

「頭の良い人・悪い人」と言っても、実はいろいろとあります。

でも、大別すれば、「頭の良さ」というのは、

記憶力
思考力

という二大要素から成っており、この2つのそれぞれの「量」と、両者の「兼ね合い」によって、「頭の良さ」というものが構成されているのだと、ひとまずそう考えてもいいでしょう。

つまり、記憶力も思考力も、共に多い(強い)に越したことはないのだけれど、どちらかだけでは役に立たない。

いくら記憶力が良くても、それに応用をきかせるための思考力がなければ、その人は、歩くメモ帳か、歩くボイスレコーダーみたいなものでしかありません。

かと言って、いくら思考力があっても、記憶力が無ければ、思考は決して深められないから、結果としては、その思考は、浅いところで堂々巡りするしかありません。

もちろん、どっちか一方しかないというような人は実在しておらず、現実には、多少なりともこの2つの能力を併せ持ってはいるのですが、だからこそ、その両方がどちらもそれなりに優れていて初めて、「頭の良い人」ということになるのです。

しかしまた前述のとおり、記憶力の方は、メモ帳やボイスレコーダー、スマホなどの「外部記憶装置」の発展によって、かなりのところ補えるような時代になってきました。

「あれは、何と言うんだっけ?」という時に、昔なら、人に尋ねたり辞書や本をひっくり返して調べなければならず、とても手間がかかったのですが、今ではスマホのAI検索により、一瞬で回答が得られるようになりました。

もちろん今でも、子供であれば、素頭の暗記力(記憶力)だけで、「頭がいいね」と言ってはもらえます。ですが、大人になると、それだけでは通用しません。
何も、すべてを自分の頭の中に詰め込まなくたって、軽便な「外部記憶装置」に代替的に記録しておくことが出来るようになったからです。

つまり、大人になっても「頭の良い人」だと評価されるためには、記憶力が良いだけではダメで、それを「応用的に駆使する」ことができるだけの、思考力が求められるのです。

さて、ここまで書いた、2種類の「頭の良さ」があるという話は、当たり前と言えば当たり前の話なんですが、しかし、人は得てして、この二つを区別しないで、曖昧に混同したまま、「頭の良さ」というものを語りがちです。

もちろん、どちらも「頭の良さ」には違いないんですが、その性質はまったく違う。
だから、そこを区別して論じないと、議論が曖昧なものになってしまいます。

さて、「武蔵大学の教授」で自称フェミニストの北村紗衣に対する、ここ1年あまりにわたる私の批判は、その立派な「肩書き」にそぐわない、北村紗衣人格的な低劣さ、つまり「卑怯さ」についてのものでした。
社会の模範ともなるべき立場の人が、恥ずべき行いをすれば、批判されるのは当然でしょう。

北村紗衣にかかると、上の『北村さんの本を読んで、きっちり切り刻んでやろうかな(笑)』が、下のとおり『私の本を切り刻むというコメント』だと、器物損壊予告の脅迫ということにされ、管理者通報の理由にされる)

(※ 上は、北村紗衣が主導した「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」の関連ログが、次々と削除され、証拠隠滅されているという事実を指摘して、その記録保全を訴えている記事)

ですがまた、そうした社会的な文脈での「人格批判」とは別に、客観的な事実として、私は北村紗衣「頭の悪さ」をも問題にしています。

なぜ北村紗衣の「頭の悪さ」を問題なのかといえば、それは北村紗衣が憎いからではなくて、北村紗衣「大学教授」として社会的に遇され、「頭の良い人」だと誤認されている現実があるからです。

そのせいで、武蔵大学の学生はレベルの低い授業を受けなければならないし、北村紗衣の著書を読んだ、読書経験の浅い「若い人」は、それを鵜呑みにして、「優れて思考的な文章」であると誤認してしまいがちだからです。
つまり、「賢い」とか「知的に優れている」というのが、そうしたものなのだと勘違いさせられてしまい、目指すべき方向を誤らせてしまう。

北村紗衣の頭が「あまり良くない」というのが良くわかる、わかりやすい事例を紹介しましょう。

北村紗衣は、その第一著書 『お砂糖とスパイスと爆発的な何か 不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門』(書肆侃侃房)の前書きで、こんな話をしています。

楽しむ方法を見つける

 私は一年に百本くらい映画を映画館で見て、かつ百本くらい舞台も劇場で見ます。
その全部について簡単な批評を書いて自分のブログにアップしています。また、一年に二六〇冊くらい本を読みます。
 おかしいですよね。いくらなんでも多すぎます。大学教員なので、昼は授業をしています。でも、私の仕事は単に出勤して授業時間に話すだけではありません。きちんと研究して、その成果を授業で学生に還元しなければなりません。そのために映画や舞台を見たり、本を読んだりするので、まあこういうのは仕事の一部としてやっています。
 でも、これだけたくさん見たり読んだりするのは、仕事だからというだけでは無理です。楽しくないと続けられません。私が年間百本ずつ映画と舞台を見る生活を続けられるのは、楽しむ方法があるからです。私の場合、その楽しむ方法が「批評」、とくに「フェミニスト批評」を用いた批評です。
 楽しむというのは、ただ見て「面白かったー」と言うことではありません。もちろん、最初はそこから始まります。何かを見て面白いとか、美しいと思うのはとてもステキなことで、それだけで価値がある体験です。問題は、それだけでは満足できなくなった時です。
 ただ「面白かったー」がなんとなく物足りなくなってきて、もう一歩、深く楽しんだり、調べたり、理解したいな……と思う時に必要なのが「批評」です。そもそも批評って何でしょうか? 作品から隠れた意味を引き出すことだとか、いや作品を価値付けすることだとか、批評の役割が何であるべきなのかについてはいろいろ議論があります。私は不真面目な批評家なので、批評を読んだ人が、読む前よりも対象とする作品や作者をもっと興味深いと思ってくれればそれでいいし、それが一番大事な批評の仕事だと思っています。楽しければ、何でもありです。』(P8〜9)

要するにこれは「一見自慢話ではない自慢話」なのです。

いかにも読者に媚びた『楽しければ、何でもありです。』という結論もどうかと思います。

ですが、ここで問題とすべきなのは、「批評の意義を説くための前振りとして、自分のことを実例的に語っている」と見せかけて、実は「私はこんなにたくさん鑑賞してますよ」というのを自慢し、自分で自身に「箔付け」をしているという点なのです。

本音では「私はこんなにたくさんの作品を鑑賞しており、豊富な知識を有しているんだぞ」ということを、読者に印象づけたい。
「すごい!」とか「さすがは大学教授だ」と思って欲しいがために、「こんなにたくさん鑑賞している」というのを、「具体的な数値を示して」書いているのです。

当たり前の話ですが、「私はいま自慢話をしています」と断って、自慢話をする人などいません。
自慢話とは、このように「自慢話ではなくて」と断りながら、するものなのです。

ただ、単純に「鑑賞数」自慢なんかしてしまうと、多くの人に「自慢話かよ」と簡単に見透かされてしまい、馬鹿にされてしまう。
だから、そう思われないための「自己正当化のための予防線」として、

「いや、これは自慢話が目的で書いたのではなく、楽しむ方法を見つけるためには、いろんな作品をたくさん見て、それについて考えてみる、批評してみるということをしなければならない、ということを語っているんですよ。それに私は大学の先生だから、自分自身が常に勉強していないと、学生に教えることができないからで、鑑賞数自慢をしたいわけじゃない。そんなことを自慢するのは愚かだってことくらいはわかっています」

と、そう言い訳しているのです。

実際、「note」の利用者を見ていても、読書系の書き手には、「月に20冊読んでます」「年に300冊読んでます」「これまでに2000冊読みました」というようなことを書いている人が少なくありません。

そしてこういう人は、必ず「人並み以上に多い数字」を書いているはずです。
「私は月に1冊しか、活字の本を読みません」なんて正直に書いている人なんて、なかなかお目にはかかれませんよね。

つまり、わざわざ「具体的な数値」を書いている人というのは、単なる「客観的な事実の報告」をしているのではなく、自慢が目的で、そのために書いている。
当人は認めなくても、それが「当人の認めたくない事実」なのです。

つまり、なんで「私はこれだけ読んでいます」なんてことを書くのかといえば、それは、「私は一廉の読書家だぞ」と、そう世間に向けてアピールするためです。それが目的。

「だから、私に一目置いてください。そして、できれば尊敬してください」ということ。

言い換えれば、自身の「承認欲求」を満たすために、聞かれもしないのに、自分から進んでそんなことを書いている。

自分が、単なる「読書好き」ではなく、「人に秀でた読書家」だとアピールしたいから、人並みではない「冊数」を示して、「普通の読書好き」との差異化を図ろうする。

けれども、それこそ「まともな読書家」ならば承知していることですが、本というのは、たくさん読んでいれば良いというものではありません

こう言ってはなんですが、実際のところ、たくさん読んでいても、「馬鹿は馬鹿」。
いくらたくさん読んでも、そこから先の思考が無い人は、よくて口まね九官鳥のような暗記装置にすぎません。

ではなぜ、本をたくさん読んでも「馬鹿は馬鹿なのか」といえば、それは「たくさん読むこと」が目的化されてしまっており、その本から「学ぶ」ということ、そこから「自分なりに思考を働かせる」ということをしていないからです。

「冊数」をこなすことが目的化してしまうと、よくあるのが、

薄い本を選ぶ
読みやすそうな本だけを読む
・漫画も哲学書も、同じ1冊としてカウントする(その結果、難しそうな本は読まない

といったことでしょう。

当然、このような読書とは「できるだけ頭を使わないでいられる読書」ということになるのですから、ますます頭を使うことはなくなっていって、読んだ冊数だけはすごいけれど、そのわりに、その当人は頭自体は少しも良くはならないし、読解力もついていない、なんてことになるのですね。

だから、このくらいのことがわかる程度の頭がある人なら、単なる「冊数」自慢なんてことはしないし、恥ずかしくて出来ない。

その人が「どの程度の(力量を有する)読書家なのか」というのは、冊数を示さなくても、その人の読んでいる本の内容で、おおよその検討はつくのだから、冊数を示す必要はない。

無論、だからといって「難しそうな本」を読んでいれば良いというものでもありません

「難しい本を読んでいる」ということと「その内容を理解していること」とは、別問題だからです。

また、ここで勘違いしてはいけないのは「内容を理解している」というのは、その内容を「説明できる」ということとも同じではない、という点です。

例えば「ハイデガーが、その主著『存在と時間』で語っていたのは、こういうことだ」と説明することは、ある程度の理解がなければ出来ないことだというのは確かです。
けれども、そうした「要約的な説明だけなら、内容をまったく理解していない、AIにだって可能」なことなのです。

つまり、本質的な理解が無くても、ある程度は頭が良くて、「要約能力」に秀でた人なら、ひととおりの「説明」は可能なのですが、しかし、実のところその「要約」は、ハイデガーの哲学とは「似て非なるもの」なのです。得てして解説屋は(研究者ではあっても)、哲学者ではない、ためです。

喩えていえば、「他者を愛しなさい」という思想の「字面の意味」を理解することなら、誰にでも出来ます。
けれども、他者を愛することが、なにゆえにどれほど重要なことであり、同時にそれが、どれだけ困難なことであるのかということまで、理解している人はほとんどいません。

でも、そこを理解しないで「ああ、できるだけ多くの人を愛するようにすればいいんだね」と思っただけでは、「他者を愛しなさい」という思想を理解したことにはならないのです。

つまり、少し遠回りをしたけれども、読書において大切なのは、「冊数」ではなく、その「読書の仕方」なのです。

だから、それがわかっている人は、「冊数自慢なんかしない」だけではなく、「こんなに難しい本を読んでいます」自慢もしない。
一一そんなことをするのは、その人の「頭が悪い証拠」にしかならないというのを、知っているからです。

だから、本当に頭が良くても、その人が文章も書かない無口な人だったら、その人の頭の良さは、他人からは窺い知ることは出来ません。

けれども、その人だって、ぜんぜん文章も書かなければ、ひと言も話さないというわけにはいかないので、そんな人がたまに書いた文章や発した言葉に、人は「こいつ、只者ではないぞ」と驚かされることにもなるのです。

そうした人の場合は、ことさらに他人を驚かせようとか、教養をひけらかそうなんて思ってはいなくても、持っているものが、おのずと否応なく出てしまうだけであり、むしろ隠し切ることこそ不可能だ、ということになるのです。

みなさんは、

「知る者は言わず、言う者は知らず」

という諺をご存知でしょうか?

この諺を知っていたなら、「読書冊数」自慢なんて、恥ずかしくて出来ないのではないでしょうか。

したがって、本当に頭が良くて、物の見えた人というのは、「読書冊数」自慢に代表されるような、浅薄な自慢話はしません

そんなことをしなくても「わかる人にはわかるし、わからない人にまでわかってもらおうとも思わない」からです。

しかしながら、北村紗衣のように、嘘でも「自分を賢く見せたい人」、それによって「自身の商品価値を高めたい人」は、「わかる人にはわかる」で済ませるわけにはいきません。

むしろ、世の中には「わからない人」の方が多いのだから、少数の「わかる人」に正しく評価してもらうよりも、おおぜいの「わからない人」たちを騙してでも「賢い人」だと思わせた方が、自分の商品価値を高められると考えるから、馬鹿みたいな「冊数自慢」をするのです。

ではどうして、開き直って「冊数自慢」をするだけで済ませるのではなく、「冊数自慢をしているわけではないのだ」という「言い訳」まで付け加えないではいられないのでしょうか?

それは、いくら「読めない人(わからない人)」を騙した方が、商品価値を高めるには効率が良いとは言っても、やはり、だからと言って「読める人(わかっている人)」からだって、できれば「馬鹿にはされたくない」からです。

つまり、単純な「冊数自慢」を、臆面もなくするのは、「読めない人(わからない人)」向けの「わかりやすいアピール」でしかない。
しかし、それでもそこに、「自慢ではない」という「言い訳」を付け加えてしまうのは、少数ながら存在する「読める人(わかっている人)」からも、できれば「軽蔑されたくはない」からなのです。

しかしながら、少し読める人であれば、そうした言い訳を付け加わったところで、それを鵜呑みにしたりはしないし、だから、大学教授にもなって、まだ「作品鑑賞数」を自慢しているような北村紗衣を、軽蔑することにもなるのです。
そうした「言い訳」の意図までも読み取ってしまい、「もう、そんなつまんない言い訳はいらないから」と、そう見抜いてしまうわけです。

「そもそも、そんな言い訳をしなければならないような、露骨かつ幼稚な自慢話なんかするなよ。あなたが本当に頭の良い人だったら、そんな鑑賞数自慢なんかしなくても、あなた文章からは、おのずと、あなたの頭の良さが伝わるはずなんだから」

と、そう考えて、「鑑賞数自慢」なんか「しなければならない人」というのは「頭が悪い(能力が低い)」のだと、そう察してしまう。

実際、この程度のことは、特別に頭が良くなくても可能なことです。
つまり、詳しく説明することまでは出来なくても、たいがいの人は、直観的理解している

「読書数自慢をするやつは馬鹿」
「難しい本を読んでます自慢をするやつは馬鹿」

という、本質直観的な正しい理解です。

だから以前、「note」の利用者の間でも「読書数自慢によるマウンティングはウザい」という批判が巻き起こったこともあります。

「マウンティング批判」も、それはそれで「マウンティング」の一種でもあったのですが、いずれにしろ「読書冊数によるマウンティングは恥ずかしい」といった、わりあい「常識的な観点」からしても、北村紗衣の著作における「鑑賞数自慢」というのは、いかにも馬鹿っぽいとしか言いようがない。

「中身」で勝負できないから、中身の保証のない「数字」で、若い読者を欺こうとしているというのが、見え透いてしまうのです。

だから、本当に自分の知性に自信があるのなら、「鑑賞数自慢」なんかしない方がいい。
それは、それくらいしか自慢するもののない、頭の悪い人のすることだからです。

例えば、北村紗衣の「隠れファン」で、アマチュア批評家の「itchie」氏は、北村紗衣に倣って、言論や議論によって意見を闘わせるのではなく、論敵に対しては、問答無用の「管理者通報」で、相手の発言能力を奪おうとする人です。

「itchie」氏は、私とちょっとした論争になって、1週間もかからない2往復ほどのやりとりの後、いきなり沈黙したかと思うと、「管理者通報」によって、私の反論記事を削除させました
つまり、自分の意見だけを残すことで、さも私を「論破したかのように見せかける」なんて、ケチことをしたのです。

しかも、半月ほどの間に、3回も管理者通報をしたのですから、かなりの「通報マニア」と呼んでもいいでしょう。

当初「itchie」氏は、私に対し「機関銃のような批評ではなくて、スマートな批評をしましょうよ」というようなことを、上から目線で書いていました。

氏としては、私が、毎日のように批評文を書くことをして、質より量の「機関銃みたいな批評」だと評し、そうではなく、量より質の「スマートな批評」を書きましょうよと、そう言いたかったのでしょう。

けれども、結果としてはどちらが「機関銃」みたいであり、どちらが「スマート」だったでしょう?

結局のところ「itchie」氏は、ご自身のおっしゃる、量より質の「スマートな批評」による反論なんか出来ないまま沈黙してしまうと、それこそ「機関銃のような管理者通報」を始めてしまったのですから。

当然それは、「スマートな批評」などではなく、むしろ北村紗衣に倣った「スマートな管理者通報」だったということなのでしょう。

「itchie」氏にとっての「スマート」とは、詐欺師のように「小狡い(狡猾)」という意味だったのかもしれません。

でも、「機関銃のような管理者通報」なんてのは、かなり恥ずかしいものだと、私は思います。

そんなわけで、北村紗衣の、若い人への「悪影響」は、洒落にならないものがあります。

なぜなら、「itchie」氏だけが特別だというわけではないだろうからです。
なにしろ、仮にも北村紗衣は「武蔵大学の教授」なのですから。

ともあれ、「itchie」氏も、師匠の北村紗衣に倣ったというわけでもないのでしょうが、「類は類を呼ぶ」で、やはり「読書数」自慢がお好きなようです。

同氏は、「note」だけではなく、SNS「読者メーター」を利用しています。
このSNSは、基本的には「読んだ本」のレビューなどを書いて、自身の読書記録にすることを目的としたものなのですが、「itchie」氏の場合は、「読んだ本」だけではなく、「読みたい本」まで登録なさっている。

『※読んだ本、読みたい本を登録しただけで感想を書かないことも多いです。投稿の多さが気になる場合は、設定→タイムライン表示項目設定から、「本の登録」の表示をオフにしてください。』

たぶん、「itchie」氏としては、「読みたい本」も含めて、自身の好みや方向性を「見せる」という狙いなのでしょうね。

まあそれはそれで、ぜんぜんわからない話ではないんですが、ぶっちゃけて言ってしまえば、読書家なのであれば、「読めるのであれば、全ての本を読みたい」というのが、本当のところなのではないでしょうか?

けれども、現実には読書に割ける時間は限られているし、そもそも人間はいつかは死ぬんだから、すべての本を読むというのは、物理的に不可能です。

それに、難しい本を読み解けるようになるまでには、それなりに時間もかかり、最初から難しい本がすらすらと読めるわけではないので、おのずとその時々、自分の力量に合った本を選ぶしかありません。
成長のためにこそ、ちょっと背伸びした読書をするとしてもです。

したがって、「読みたい本」というのは、決して「今のその人」を示す(語る)ものではなく、その人が「そうなりない姿」を示す(語る)ものでしかない

つまり、「すべての本を読みたい」という読書家の夢とは、実のところ「全知の神のようになりたい」という欲望の現れなのです。

一一けれども、有限な存在である人間は、決して「神」にはなれないし、だから「すべての本を読む」ことも、原理的に出来ないのです。

だから「読みたい本」を示すことで「自分を示す」ことができると考えるのは、明らかな間違いなのです。
それで、自分を示すことは出来ない。

「読みたい本」を示すことで出来るのは、「なりたい自分」という「自分ではないもの」でしかなく、単なる「願望の姿」でしかないのです。

したがって、それがわかっている人は、「読みたい本」を示すことで、自分を語れるなんてことは考えない。

それは、「現実の(今ここの)自分」と「理想の(存在しない)自分」を混同している人のすることなのです。

その二つを混同することで、自分を「水増し」して、実際よりも大きく見せようという欲望にとらわれている人のやることなんですね。

でも、そんなことばかりしていると、ますます「現実の自分」と「理想の自分」を、自分自身でも混同してしまうことになる。

だから、無駄な論争になどかまけない令和人文主義へのシンパシーを語り、スマートな批評家を自任しながらも、実際には、スマートな議論や論争をする力が無いために、「管理者通報」によって、他人(管理者)の力で論敵を黙らせようなんて、狡っからいことをすることにもなるわけです。

実力があれば、堂々と意見を闘わせることができるはずだし、むしろそれを望むはずなのに、いざとなったら、それが出来ないというのは、その人が、日頃から自分の実力を勘違いして「過大評価」していたからであり、いざ議論や論争となって、初めて自分にその実力のなかったことに、はたと気づいたその結果、裏工作的な手段に走ることしか出来なかった、ということなのでしょう。

(※ 当初はこのように強がっていた「itchie」氏でしたが、後には、このコメントも自ら削除してしまいます。「管理者通報して、論争から逃げた」ので、それ以前の強がりぶりが、恥ずかしくなったのでしょう)

そんなわけで、本当に「頭の良い人」とは、どういう人なのかと言えば、それは、自分のことを、過大評価もしなければ過小評価もしない、自分のことを適切に評価できている人だと、そう言えるのではないでしょうか。

そういう人なら、自分の「弱点」も自覚しており、そこを補おうとして努力もするから、成長もする。

ところが、現実を見ることの出来ない「弱い人」は、むしろ現実から目を逸らしてしまい、現実と願望の区別がつかなくなるので、自分の欠点も見られず、おのずと成長することも出来ない

したがって、私たちが北村紗衣武蔵大学教授から学ぶべきは、「自分の現実を正直に認めなければ、いずれ恥をかくことになる」という事実であり、教訓です。

「鑑賞数」自慢のような、中身の保証のない、ハッタリめいたことで騙せるのは、所詮「見る目のない人」「読めない人」に限られおり、そうではない人からは、その「誤魔化しの所作」によってこそ、かえって馬鹿にされ、軽蔑されてしまう。

ですから私たちは、「武蔵大学北村紗衣教授」を、わかりやすい「反面教師」として、そこから様々なことを、学ばなければならないのではないでしょうか。

その意味では、北村紗衣教授の授業を受けている武蔵大学の学生さんたちは、またとない「痛々しいまでの失敗例(反面教師)」を目の当たりにする機会を得ているのですから、きっと、そこから学ぶことは少なくないはずだと、私はそう思っています。

(2025年12月26日)


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(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)
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