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シン・宗教としての「令和人文主義」 : その承認欲求とコスパ重視

つい先日、「令和人文主義」という言葉を知り興味を持ったばかりなのだが、その後、あれこれ読んだり書いたりする中で、私の「令和人文主義」に対する評価は、暴落の一途をたどっている

「令和人文主義」の主導者である谷川嘉浩と、谷川に「あなたも令和人文主義者」だと名指された「同類」としての仲間たちが、この新しい自己レッテルによって、流行り物に飛びつきやすい若者層を狙い、ブームを作ろうとしている。

歴史学者で現在は文芸評論家を名乗る与那覇潤が「令和人文主義」を批判して言うとおり、「学知」というのは、本来その「中身」で評価されるべきものであって、「人気」で評価されるべきものではない。
「学知」とは本来、「商品」とは一線を画するものであったはずだからだ。

しかしながら、1990年代初頭にバブル経済が崩壊して以降、落ち目一方の日本に育ってきた世代は、もはや「長い目で物を見る」とか「腰を据えてじっくり取り組む」というようなことが出来なくなっている。

社会全体が好景気だった頃には、それも可能だったが、今では、そんなのんびりしたことを言っていたら、食っていくことすら出来ないという、焦りの感情が常態化したからであろう。

したがって、これは学問だって同じことなのだ。
数百、数千という本を読み込んで、基礎知識をしっかりを身につけてから一一などと悠長なことは言っていられない。
すぐにでも結果を出さなければ、世の中に置いていかれてしまう。

ノーベル賞を受賞した日本人科学者が、しばしば「昨今の日本では、基礎研究が蔑ろにされており、日本の科学の先行きが危ぶまれる」といった趣旨の警告を発するもの、同様の事態を指してのものなのであろう。

「実用化という目先の実利」ばかりを優先するあまり、日本の科学知はどんどん痩せ細っており、世界から取り残されかけているのである。

一一では、どうすれば良いのか?

「令和人文主義とは何なのか」を知りたければ、それを「わかりやすく解説しているインターネットサイト」を読めば、それで良いのだろうか?
例えば、

世界一わかりやすい「令和人文主義」入門〜わーい、“知”って楽しいー

なんてものを読めば、それで片づくのか?

これさえ読めば、突っ込んだことまではわからないし知らなくても、ひと通りの「知ったかぶり」くらいならできる。

それに、この文章を書いているのは、『史上最強の哲学入門』なんてベストセラー書を書いている売れっ子作家なんだから、それなりに信用できるはずだ。一一という安心感もある。その本を読んでいなくてもだ。

ちなみに、この飲茶氏の「note」における自己紹介文は、次のとおりである。

『日本で一番売れてる哲学作家/IT企業経営者。著作は重版率100%、累計68万部以上。人生の目的は、すべての「知」をnoteに面白くまとめること。メンバーシップ登録ですべて読めます。作家活動を続けるためにも、応援よろしくお願いします!』

これひとつ見ても、「飲茶」氏の本質が、当たり前の文筆家や哲学者などではなく、「売れてなんぼ」の「事業家」だというのが、手に取るようによくわかる。

日本で一番売れてる哲学作家』と、自分で書ける神経は、並大抵のものではなく、何か大切なものを捨てた人以外には、とうてい不可能なことなのだ。

だが、そんな氏だからこそ、「令和人文主義」の紹介文だって、臆面もなく、

世界一わかりやすい「令和人文主義」入門〜わーい、“知”って楽しいー

というような、あまり「日本的」なものとは考えたくないような、身も蓋もない、アメリカンなタイトルにもなる。
「商売」的には、「遠慮したら負け」という意識なのであろう。

当然のことながら、「令和人文主義」なんてものは、極東の小国において、ごく最近話題になったばかりの、地方のトレンドでしかない
だから「世界一わかりやすい」も何も、世界の知識人は、そんなものの存在すら知らないだろうし、知ったとしても、

「ほう、そうですか。日本では、そんなものが流行ってるんですか。まあ、これからは身の丈にあった国になるしかないんですから、そのように国内で小さく満足できるのであれば、それはそれでいいんじゃないですか」

などと冷笑されることだろう。

だが、「飲茶」氏の読者や、「令和人文主義」という「田舎のトレンド」で満足できるような人たちは、世界の知的レベルなど気にしないだろう。

また、右派の人なら気にするだろう、中国の知識人にも冷笑されるようなものだって、少なくとも自分たちの狭い庭の中での「知識人」ごっこで満足できるというのであれば、それはそれで結構なことである。

誰もが、一流の料理を味わわなくても、かまわない。一流の料理の「味がわかる舌」を持たなくでもかまわない。
大味な駄菓子だけで満足できるのなら、それでいいではないか。何より身の丈に合って、安上がりなのだから、「うまい棒」だけで十分だ。

同様に「知」や「学問」だって、世界に通用するようなものなど知らなくてもいい。
そもそも、大半の者は、いくら頑張ってみても、そんなものには生涯無縁なんだから、知ろうと頑張るだけ無駄である。

ならば「100円ショップ」で売っているような「お手軽な知」では良いではないか。なにも、本物の知識人や哲学者になろうというのではないのだ。
その気分さえ楽しく味わえればそれでいいというんだから、「ごっこ」で上等ではないか。
「ごっこ遊び」のどこが悪いと言うのか?

つまり「令和人文主義」とは、ひとことで言えば、お手軽な「ファスト人文主義」である。あるいは「100円ショップ人文主義」。一一これだ。

よく言われることだが、私が若い頃には、「マニア」と呼ばれる人たちがいた。
「切手マニア」「鉄道マニア」「ミステリマニア」「SFマニア」などなど。

ちなみに私自身は、「ミステリマニア」になろうとして、なりきれなかった人間だ。
ミステリファンとして、ミステリマニアのサークル「SRの会」に入会し、そこでプロにも勝るマニアたちの存在を知り、その徹底性を思い知らされたから、あれこれと気の多い私は、そんなマニアになど到底なれない、マニアを名乗ることなどおこがましいと、そう悟ったのだ。

まあ、それはそれとして、こうした「マニア」と呼ばれる人の特徴というのは、とにかく守備範囲内のものは「ぜんぶ押さえる(フォローする)」という点にあった
そして、その性向を端的に示した行動が、「コレクション(蒐集)」である。

しかし、こうした「マニア」というのは、「バブル経済の崩壊」と「インターネット時代の到来」というダブルパンチで、ほとんど死滅したと言ってもよかろう。

ではなぜ死滅したのかと言えば、コレクション的な物理的収集には「経済的な裏付け」が必要だったのだが、それがバブル崩壊で無くなってしまった。

また、ミステリ小説マニアが「早川ボケミス」を全冊揃えるとか、全冊読む、なんてことをやっていたのも、これは当たり前のコレクションであると同時に「頭の中へのコレクション化=情報のコレクション」ということだった。
だが、今のようにインターネットによって簡単に、ひと通りの情報が手に入るようになれば、こうした「情報のコレクション」の価値は下落してしまう。

昔は、実際に読んでなければ語れなかったのだが、今では、読んでなくても、ひと通りのことなら語れる。
それが自分の「理解」などではなく、つまり他人の知識の丸パクリだとしても、そんなこと、言わなければ、バレはしないのだ。

つまり、昔なら「マニア」と「オタク」は、ほとんど同義語であり、その「マニア」的な「濃さ(過剰性)」が、一般の人たちからは「ウザい」「キモい」と言われもしたのだが、今どきの「オタク」は、もうそのように否定的に語られることはなくなった。

なぜなら、今どきの「オタク」とは、昔の言葉で言えば、単なる「ファン」でしかなくなったからだ。
「マニア」が持っていた、「コレクション趣味」に象徴される、濃厚な「執着心」を失ったのである。

で、どうしてこうなったのかは、すでに説明したとおりである。

すなわち、人々の多くが、物理的に所有するための「経済的な裏付けを失った」のと同時に、自分の頭の中に「情報をコレクションする」意味も無くなったからだ。
すでにインターネットは「記憶の外部装置」となったのである。

だから、今どきの「オタク」は、鬼のようなコレクションもしなければ、鬼のような知識を持とうともしなくなった。

そんなことをして感心されるのは、小学生まで。
電車の名前や駅名を暗記して感心されるのは、子供の「暗記力」なればこそなのである。

だが、職業人である大人になれば、そんな効率の悪いことをしなくても、それを語りたければ、「世界一わかりやすいネット記事」を検索して、それを読めばいい。

そこで言及されている作品や著作のことは知らなくても、その点に触れさえしなければ、バレることなく、「知ったかぶり」だけで語ることが出来る。
対面口頭でなら「そこをもっと詳しく」などと突っ込まれる怖れもあるが、ネット記事にしてしまえば、バレはしない。仮に質問があっても、検索してから回答するくらいの時間的な余裕は取れるのである。
一一そしてこれが、今どきのネット記事の大半なのだ。

こうした「日本」社会の状況は、何も「趣味的な事柄」に限った話ではない。
「文学」だって「思想」だって、同じことだ。

つまり、実際のところ、自分の頭の中は空っぽでも、もっともらしい体裁だけを整えて、素人を騙す程度のことなら、ネットで得られる知識だけで十分である。
読者の知識だって、たいがいは似たようなものなのだから、バレる気遣いなどほとんどない。

小説を書くのも、イラストを描くのも、「結果」だけを求めるのならば、「生成AI」を使えばいい。
自分の実力では、死ぬまで努力しても、書けない(描けない)ような小説やイラストが、たったの数分で書けて(描けて)しまうんだから、コスパ的に言って、使わない手などない一一ということになる。

「文学」でさえ、ひと通りのものなら、生成AI使って書いたほうが、見栄えの良いものができるのだから、「思想」や「哲学」だって同じこと
所詮は、他人からパクった思考の「お手軽な編集もの」でしかなくても、そもそも人間はゼロから物を生むわけではなく、先人から学んだものを自分なりに変形発展、つまり編集して生むのだから、だいたい似たようなことではないか。

ならば、自分で素材から集めて、それをいちいち自分の手でこね上げていくなんて面倒で手間のかかることなんかせずに、100円ショップで売ってるものを適当に按配して、「これが私の思想(哲学)です」と言って見せた方が、コスパが良いに決まっている。

うんうん言って努力した末に評価されるよりも、努力せずに評価される方が、楽でいいじゃないか。なにしろコスパが違うのだ。

人様から「世界一の哲学者」だとか「天才哲学者」だなんて言ってもらうためにいくら努力しても、死ぬまでそんなふうには呼ばれない可能性の方が、だんぜん高い。

ならば、自分から(仲間などを使って)「世界一の哲学者」だ「天才哲学者」だと、恥も外聞も捨てて、自家喧伝すればいいじゃないか。
そうすれば、そのコマーシャルを見た、何も知らない人たちが、それをそのまま信用して、それをまた受け売りで「あの人は天才哲学者だ!」と吹聴してくれるに違いない。

例えば、ファッションにおけるトレンドなんてものが、まさにそうだ。
それが素晴らしい物だから流行るのではなく、「これが今年のトレンドだ」と宣伝するから、それが流行るのである。

ならば、中身の問題ではなく、要は「宣伝戦」の問題でしかないのだ。
「宣伝で勝つ」一一これほど、コスパのよいものはないのである。

大量宣伝によって、愚かな大衆を洗脳するならば、クソだって黄金と同価値になる。それがこの資本主義社会の原理なのだ。

客観的に価値のある物に高値がつくのではなく、主観的に価値があると認められたものに高値がつく。
それが、資本主義経済なのだから、中身なんか無くてもいいのだ。肝心なのは、「共有されたイメージ」なのだから、大切なのは、宣伝によって「イメージ」を捏造することなのである。

コレクションが流行らなくなる一方で、「断捨離」が持て囃され、好きなものに囲まれた生活ではなく、シンプルな生活がカッコいいと感じられるようになったのも、それは間違いなく、日本人が貧乏になったからだ。

求めても得られないものを求めて苦しむくらいなら、最初から「そんなものはいらないよ。私は、物に縛られる生活なんかしたくない」なんて言ってた方が、悟ってるようでカッコいいではないか。

近江商人的な「三方よし」なんて綺麗事ではなく、人を騙してでも手っ取り早く稼げれば、それに越したことはない

テレビニュースでお馴染みとなった「トクリュウ(匿名・流動型犯罪グループ)」による詐欺だってそうた。
今ならネットで、ひと通りの詐欺手口の知識くらいは簡単に手に入るし、便利な秘匿性の高い通信アプリもあるのだから、それで頭の悪い奴らを騙してカマして、金をふんだくればいい。
「悪い」のは、こちらではない。こちらは頭が「良い」のだ。「悪い」のは、騙される奴らの頭の方なのだ。

だから、ビジネスマンも、近江商人みたいな「(商いの)倫理」なんてものを持つのではなく、自己啓発書なんかで、手っ取り早く「成功法」を学べばいい。
難しい哲学や文学の本を読んだって、すぐに身にもつかなければ、ビジネスの現場で役に立つことなんてない。

ビジネスに必要な「話題」なら、3倍速で見る「ファスト映画」で十分であり、それさえ面倒なら、「世界一わかりやすい映画の紹介サイト」を読めばいいのだ。
それで、自分と同程度の無知な人間なら、十分に騙せるのだ。

一一したがって、「令和人文主義」が、ビジネスマン層をターゲットととしているのも、それは、「成果主義」に追われて、余裕のない人たちを客層に設定しているからである。

「これ一冊で、あなたもエリートビジネスマンになれる」とか言ってやれば、なれるわけがないとは考えずに、きっとわれ先に飛びついてくるだろう。
世に「詐欺」の蔓延るのも、当然の結果なのだ。人々は、一瞬立ち止まって考えるという余裕すら失うほどに、成功(承認)に飢えているのである。

分厚い哲学書や文学書を1ヶ月かけて読んでも、それがすぐに役立つことはない。
その点、「令和人文主義」が主戦場とする、1日で読める新書本なら、すぐに役には立たないとしても、損をした気にはならない。少なくとも、少しは賢くなったような気になれるだけでも有り難いではないか。

本格的な哲学書や文学書を頑張って読み、その結果、自分の頭の悪さを思い知らされて落ちこむくらいなら、「あなたはそれで良いんだよ」と言ってくれるような、お手軽な本の方がいいに決まっている。

「そうでないと、何者でもない私は、生きていく気力さえ失ってしまうだろう…」。

そんなわけで、「令和人文主義」は、日本の経済的な貧困化と、それに伴う精神的な余裕の喪失(精神の貧困化)を背景とした、さまざまな事象における「100円ショップ商品化」の一形態なのではないだろうか?

最近読んだ、武田崇元横山茂雄霊的最前線に立て! オカルト・アンダーグラウンド全史(国書刊行会)の中で、銭儲けになど直結しない「オカルト」なんてものを研究している(私よりも年上の)両者が、つくづくと語っているのは、

オカルトスピリチュアリズム陰謀論も、ぜんぶ薄っぺらくなってきている。

という事実だ。

横山 ともかく、ソロモンの秘宝に「遭遇」して、「世の中には変な人がおるんやなあ」と実感した。これが直接的に不思議研究会を作ろうと思った動機になったとは思いませんけど、何か関係しているかもしれない。大学でUFO超心理研に入ったら、北から南まで、おかしな人に逢いに行くということをしていました。UFO目撃者、超能力少年、超能力研究者から永久機関開発者、霊能者、拝み屋さんまで、とにかくたくさんの人に会って話を聞いた。その時に実感したのは、世の中っていうのは自分が想像していたより変な人ばっかりなんだなと。しかも、多くは一見したところ普通のおじさん、おばさんなんです。地元で特に異常視されているということもなくて、ごく普通に暮らしている。ところが口を開けたら異常な、とても信じられないようなことを言い出すわけですよ。行動がおかしい人が世の中にはいるぐらいは僕も知っていましたけど、世界観自体が異様な人がごろごろしているなんて、学校や家庭では教えてくれなかったから(笑)。それがわかって、良い意味で驚きましたね。
武田 七〇年代はまだ今のようなロンダリングされた精神世界(笑)じゃなくて、本当に土着的な、生のオカルトが残っていた。なんか今の奴らって、おかしなことは口走っても、それおまえあれのパクリやろ、しかもソースはネットやろというのが多くて興醒めになることが多い。
(P129〜130)

「令和人文主義」とは、いま風に「ロンダリング(洗浄)された教養」なのだ。だから、毒気を抜かれて接しやすく「薄味」なのである。
昔の哲学者のそれにように「マジ」ではないからこそ、接しやすくお手軽なのだ。

武田 篤胤が寅吉(※ 平田篤胤がその著者『仙境異聞』で紹介した、神隠し体験をした少年)に異常な衝撃を受けたのも、土俗との出会いの衝撃だった。だから篤胤も民俗学の源流と評価される。
横山 接点がないというのは、今でもある問題です。
武田 現代では接点がないインテリほどそういう世界に触れるとコロッといってしまうという問題がある。その点、わしもあなたも初期の段階でワクチンを打たれてたんだよ、土俗オカルト・ワクチンを(笑)。中沢新一あたりはそれを打たれてなかったから、オウムあたりにころっと同調してしまう。
横山 ああ、そういう見方もあるのか。たしかに、僕も大学生時代にUFO超心理研究会で、そうとう「未開」のものに触れていたから‥‥‥
武田 最初から強力なワクチンを打っておけば、半端なものには惑わされない。今はそのワクチンの供給元が(※ 武田の経営する)八幡書店なんや!もちろん副反応もあるけど(笑)。
(P276)

現代の読者は、「ファスト読書」で得た「ファスト教養」しか持たないから、専門家風の人が、自信ありげに大仰にぶち上げたものに『コロッといってしまう』。
若いうちにワクチンを射っておらず、そうした「ハッタリ」に対する、耐性を持たないからだ。

横山 そう、節操なく、関係ないものをむやみに継ぎ接ぎしてる。要するに、ぐちゃぐちゃ。オカルトっていうのは、そもそも、既成の世界観に対するアンチテーゼとして大きく異なる世界観を提示するわけだけれど、その際に雑多なものを取り込んで混済するシンクレティズムとなることも少なくない。神智学が好例でしょう。ただ、麻原(※ オウム真理教の教祖・麻原彰晃)の場合、取り込みかたが極端に雑で無神経一一適当にいろいろなところから見つくろって持ってきているだけという印象がある。通販カタログで商品を買っている感じとでもいうべきか。ヨガからはこれがいいかな、超古代史からはこれでいこう、みたいな。
武田 核心にあったのは超能力志向なんだろうけど。
横山 オウムがいろいろなものを取り込んだのは事実でしょうが、基本的にはそれまでのオカルト的伝統とは切れているんじゃないかな。(以下略)
(P342)

オカルトに限らず、哲学や思想の多くは、庶民には見えていない「世界の真相」を剔抉し、それを指し示して見せるものであり、その意味では『既成の世界観に対するアンチテーゼとして大きく異なる世界観を提示する』ものだった。だからこそ、「難解」なのである。

だが「令和人文主義」は、庶民大衆をターゲットとし、「お客さま」として媚びてみせるものだからこそ、「皆さんの見ているものこそが真実。哲学者や思想家の語る小難しい話など、浮世離れした戯言にすぎないのです」なんていう調子にもなるのだ。

つまり「学問的な教養などいらない!」一一そして「あなたは、あなたのままでいい」となる(反教養主義)。

(著者の松井健人は「令和人文主義」一党のお仲間。本書は、同党首・谷川嘉浩によって絶賛された)

横山 知性の低下っていうのはどうかな。大昔から常にずっとそういわれてきたし、僕自身も知性に富むとはとてもいえませんからね。ただひとつには、インターネットと関係があるんでしょう。つまり、ネット上のことをリアルだと考える人が増えてる。
武田 ニューエイジが陰謀論と融合するようになったのは9・11ぐらいからで、ちょうどその頃に初めてインターネットで、現在に近い形のコミュニケーションが成り立つようになってきた。それまで紙媒体で発表していた人たちがネットで発信するようになった。
横山 何しろ安上がりだから。自費出版はお金がかかるから、それは大きいよね。八幡書店とかに頼んだら、高い編集料や手数料を取られるし(笑)。
武田 何を言うてんのや、うちは良心的で安いんやで。とはいえブログなりツイッターなりで流せばお金がまったくかからない。しかも何のチェックも入らないから、でたらめだろうが書きたい放題。そして既存のメディアは信じないけど、SNSは信じちゃうという単純な人たちが増えていく。
横山 ネットの情報はすべてが等価に並ぶということがポイントかもしれない。グレードの高い情報か低い情報かを見分けるには、かなり高い知性と経験がいるわけで、そうではない人たちが一瞬にしてこれは嘘だと見抜くのは難しい。事前に知識を持っていなければ、区別のしようがないわけです。そしてSNSだろうがなんだろうが、そこに書かれてあるものはリアルだと考える。自分のスマホ画面の上に、これこれはこうだと言いてある文章が現れる。現前していること自体は本や新聞雑誌と同じくリアルだから、その内容を特に疑う根拠はないと考える人も多い。それは大きいと思う。
(P388)

「令和人文主義」を信奉している人の「ソース」も同様であろう。「令和人文主義者」の言うこと以上に、遡れる根拠なんてない。

もっともらしいことを書いていたとしても、結局は『それおまえあれのパクリやろ、しかもソースはネットやろというのが多くて興醒めになることが多い。』のである。
お廉く捏造された文章には、書き手の個性やオリジナリティや熱意など、感じられるわけがないのだ。

横山 (※ 赤間剛は)フリーメイソンユダヤの陰謀論で、かなりの数の本を書いてますね。
武田 彼はすでに八〇年頃には(※ 新左翼から転じて)陰謀論者になっていましたが暗い影があった。そしてある日、彷徨中に遭遇した西川口の路地裏の「小人バー」について語り、わしを案内したいが場所を思い出せないと言ったまま消息を絶った。後に『ツイン・ピークス』ディヴィッド・リンチ監督、一九九〇~九ー)を見て、赤間はんの行った世界はこれやったんやなと妙に納得した。
横山 実在が定かでない「小人バー」、そして失踪‥‥‥ほんとにリンチ的世界ですね。
武田 そういう暗い影がいまの陰謀屋にはない。ちなみに「事実ではなくても真実なんや!」というのが、陰謀論に懐疑的なわしに赤間剛が言い放った名言やった。わしは「一本取られましたなあ」と膝を打った。赤間のいう「真実」には構造主義の「構造」に近い含蓄もあった。いまのアホたれどもにはそういう含蓄すらない。
 社会学的に言うとなんなんだろう。日本では戦闘的な労働運動は完璧に崩壊しているけど、アメリカではどうのこうのと言ってもぜんぜん健在で強力。なのにそれに希望を託せない。それでもやっぱり駄目やったやないか、となると、意識変える論みたいなのが出てきて、それが陰謀論と融合するというような過程があったのかなと思いますね。
横山 なるほど、意識が変われば世の中が変わっていく(※ という、安易な方に流されていく)と。僕なんかが違和感を覚えるのは相変わらず単純な進歩思想ですね。社会や人間は常に進化していくということを頭から前提にしている人、無条件に進歩を肩じている人がいるってことですね。人間なんか進歩しようがないじゃないかとかは思わないのかな。社会の進歩と同時に精神も進歩すると無条件に信じすぎている。
武田 いやそこは発想が逆なんです。精神が覚醒しないと社会は進歩しないというふうに転倒してるわけです。いずれにせよ、そういう無条件に進歩を信じるノーテンキなところがQアノンにはある。』
(P401〜402)

「令和人文主義」には、「事実ではなくても真実なんや!」という、気迫が無い。魂の叫びが無い
なぜならば、世間の凡人たちの感じていることに迎合するのが彼らの商売なのだから、世間が「事実」だと思い込んでいることを、ただ追認するだけだからである。

ともあれ、表であれ裏であれ、昔の「知」というものは、主流や多数派のそれに異を唱えるだけでは済まず、それに取って代わろうという野心を持った、世界認識の大伽藍であったし、そうあろうとしたもの特有の、スケール感であり迫力があった。

だから、それが、妄想に過ぎなかろうとも面白かった。
「もしかすると」と思わせてくれる、本物の迫力において、そうしたものは、現実の世界認識に食い入ってくる力を持っていたのである。

ところが、今どきのオカルトやスピリチュアリズムや陰謀論は、ぜんぶ「お手軽」なのだ。良くも悪くも、欲が無くて淡白。

インターネットを使って、先人の考案したあれこれのアイデアを寄せ集めてきて貼り合わせ、それなりのものにしてはいるが、自分の力で一から作ったものなだけに宿る「力」など、当然そこからはすでに失われている。つまり「魂の抜け殻」。

まさに「100円ショップのオカルト」であり「100円ショップのスピリチュアリズム」であり「100円ショップの陰謀論」でしかない。

「新新宗教と呼ばれた「オウム真理教」「幸福の科学」なんかが、その良い例だ。

「オウム真理教」は、チベット仏教とアニメ『宇宙戦艦ヤマト』コスモクリーナーDを、平気で並置できる程度の美意識しか持たない、安っぽい陰謀論宗教だった。
「幸福の科学」は、釈迦もイエス・キリストもムハンマド孔子も、ぜんぶ掻き集めてきた上で、「私は、彼らの上位神である、エル・カンターレである」などと、子供の「僕はその上」自慢と同レベルの、薄っぺらいな、アル・バカターレの教団である。

「貧すれば鈍する」で、アガサ・クリスティーではないが、

そしてみんな薄っぺらくなった

のである。

そしてそのひとつか、他でもない「令和人文主義」なのだ。

今の日本人には、いかにも似つかわしい、「(知的)貧乏人の承認欲求」をお手軽に満たすための「ファスト人文主義」であり、コスパ最高の「100円ショップ人文主義」である。

「令和人文主義」は、シン・エコノミックアニマルたる、あなたがた日本人に似つかわしい、分相応の「知のトレンド」であり、短命間違いなしの「シン・宗教」に他ならないのだ。

(2025年12月12日)


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