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三宅香帆 『考察する若者たち』 : 告げ口心臓

書評:三宅香帆考察する若者たち』(PHP新書)

三宅香帆の本を読むのは、その出世作である『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』以来の2冊目である。

『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を読み、著者に「悪印象」を持ったので、普通なら三宅香帆の本はもう読まないところだったのだが、今回本書を読むことにしたのには、いくつかのきっかけがあった。

まず、ひとつ目は、私が批判している「武蔵大学の教授」で自称フェミニストである北村紗衣の、その「隠れファン」のアマチュア批評家で、いかにも北村紗衣の直系らしく「機関銃のような管理者通報」あるいは「スマートな管理者通報」がお得意な「itchie」氏が、本書 『考察する若者たち』を、何度も「note」記事で扱っていたからだ。
三宅香帆は、北村紗衣の数少ない対談相手なのだ。

私は知らなかったのだが、どうやら本書『考察する若者たちもベストセラーになっているようで、Amazonの本書紹介ページには、現在、

★4刷・8万8000部突破!

という言葉が踊っている。

さすがは、今どきの「令和人文主義」を代表する著述家の一人だ。

一一というわけで、「itchie」氏は、私に批判されて二度ほど反論したものの、結局は反論しきれずに沈黙したかと思うと、自身に向けられていた私の反論記事を、誹謗中傷だとして、いきなり管理者通報を行い、なんと半月ほどの間に3回も管理者通報するという、機関銃ぶりを見せてくれたのである。

それが「反論」だったら、感心もできたのだが、まあ、そんなことを「通報教授」北村紗衣の信者に期待しても無駄なのである。

ともあれ、その「itchie」氏が、三宅香帆の批評に、一人前に注文をつけていたので、どんな本なんだろうと、興味を持ったというのが、まずひとつ。

そして本書に興味を持った二つ目の理由は、本書が、若者の「考察」文化を考察している点である。

私もかねてから、近年流行っている「考察」というものに居心地の悪さを感じていたので、私よりはずっと若い、三宅香帆の意見を拝聴してみようと思ったのだ。

そして、三つ目の理由としては、私と同じく、北村紗衣批判を継続的に行なっている「安達」氏が、三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を批判する記事を書いていたのを読み、またその記事の中で、以前、私が批判した、現だか元だかはよく知らないが、笠井潔が組織した「限界研」(元・限界小説研究会)の飯田一史が、やはり三宅香帆の同書を批判し、そして三宅がこれに反論している、というのを知ったからである。

安達「「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」論争の争点、U字カーブって何?」

飯田一史「『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』はどこが間違っているのか(抄)」

三宅香帆「「『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』はどこが間違っているのか」はどこが間違っているのか」

つまり、以前に私の批判した二人が、相互に批判反論しあっているというので興味を持ち、そんなこんなで三宅香帆の本の中では、比較的興味の持てそうなテーマを扱った本書『考察する若者たち』を、読んでみることにしたのである。

 ○ ○ ○

三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』で主張した「労働期間中にのみ、特定の読書層(の読書冊数)が凹む(減る)」というデータを示した上での主張が、飯田一史「安達」氏の指摘するとおり、「データの濫用」による、誤った決めつけかどうかには、ハッキリ言って、ほとんど興味がない。

なぜなら、三宅香帆の「データの扱い方」が、飯田一史「安達」氏の指摘どおりに誤ったものであったとしても、「一般論」としては「仕事がいそがしくなったら、本が読みにくくなる」というのは、物理的な事実だからだ。

だから私は、先に紹介した『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』のレビューでも、そこを問題とはしなかった。
むしろ、そんなわかりきったことを語るのに、どうして「読書史と労働史」なんてものを仰々しく持ち出すのかと、その「隠された意図」を問題にしたのである。

で、今回、飯田一史「安達」氏が問題にしているのも、三宅香帆が主張する「労働期間中にのみ、特定の読書層が凹む」という事実の有無ではなく、それを主張するにあたっての「データの扱い方の恣意性」なのであった。

つまり、「結果としての事実」が問題なのではなく、それを「証明するための手続き」において、三宅香帆には「不正」があったのではないかと、彼らはそう言っているのである。

もちろん、「不正」ではなく、視野狭窄による「初歩的なミス」だった可能性も無いではない。
だが、飯田一史の批判を受けてもなお、三宅香帆はこれに反論して、自らの「やり方」が「正しかった」と主張しているのだから、すでに現段階では、「過失」認定はできず、「明確な意図」を持ってなされたことだと考えるしかない。

三宅香帆の「データの扱い方」は、結果として正しかろうと間違っておろうと、いずれにしろ「故意」であったということにしかならないのである。

そして、前記の「安達」氏がやっているのは、飯田一史の批判に対して三宅香帆の行った反論では、まったく不十分であるから、「データを限定した理由を明確に示せ」ということなのである。
だが、当然のことながら、三宅香帆「安達」氏に対しては反論しておらず、「安達」氏が示した「疑問点(疑義)」は、いまだ解消されていないのだ。

で、私も三宅香帆と同様、「統計的な数字」にはあまり興味がないから、そのあたりで飯田一史「安達」氏のように、三宅香帆のやり方の「胡散くささ」に、ツッコミを入れようとは思わない。

私がやりたいのは、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』に限らず、三宅香帆というのは、平然と「雑に単純な絵を描く評論家」なのではないか、ということを、本書『考察する若者たち』の読解を通して明らかにすること、これである。

実際、本書『考察する若者たち』は、いろいろな意味で「雑な論考」なのだ。

どのように雑なのかというと、「わかりやすく面白い見取り図」を示すために、あれこれを引っ張ってきて、こうした数々の事実の背景には、こうした「共通点としての本質」があるのだと指摘しているわりには、その「個々の根拠的な事実」の扱いが「雑」であり、ほとんど「恣意的」なのである。

つまり、本書の構成は、「多様な現象の中から、共通する本質を見出した」という「体裁」になっているのだが、実際には「見出したとされる共通点(状況の本質)」をでっち上げるために、「個々の事実」を恣意的に歪めて提示しているようにしか見えない。
要は、「結論ありき」の「こじつけ」なのである。

私は先日、笠井潔のミステリ小説『夜と霧の誘拐』を論じて、「帰納」推理と「演繹」推理ということを語った。

これは、一般には帰納法と演繹法」ということで語られるものを、ミステリ小説の中の「名探偵」の推理というものに置き換えて検討したものである。

『名探偵は、一見したところ「帰納」推理をしているように見えるけれども、その本質は、じつは「演繹」推理なのだ。

まず、「事件の本質」を直観した後、それに従って数々の情報を取捨選択し、それを整理し再構築することで、事件の「真相」へと至る。

言い換えれば、名探偵が語る最後の推理(説明)は、名探偵が実際に行った思考経路をそのまま語るものではなく、結果から逆算して構築した推理を、時間軸に沿って並べ直したものでしかないのである。』

上のレビューで、私は同作中の「名探偵」の推理を批判したわけではない。
そうではなく、同作中の名探偵が語る「名探偵の推理論」を解説しているのである。

つまり、作中の名探偵・矢吹駆が語るとおりで、
一一読者にとっての「フィクションの名探偵の推理」というは、「与えられた情報から、真相を発見する」かのように語られているが、実は、先にその事件の「真相(本質)」に気づいているからこそ、無限に存在する情報(データ)の中から、適切にデータを選び出し、それを構成することで、「事件の真相」という「絵」を描いて見せることができるのである。

そして、三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』や、本書『考察する若者たち』でやっていることも、この「フィクションの名探偵」と同じことなのだ。

つまり、「数々のデータから、その本質に至る」のではなく、「結論ありきで、データが恣意的に集められている」ということなのである。

ただ、「フィクションの名探偵」の場合は、その真相を「作品世界の創造神たる作者」が保証してくれているから、その推理が「事件の真相」であったということにも、なる。

だが、神の存在しない「現実世界」を相手にしている、三宅香帆を含む私たちが、演繹法で推理する場合には、常に「予見した真相」が間違っている可能性に配慮して、何度でも、その推論の見直しをしければならない。結論の方こそ間違っている場合があるからだ。

だから、そうした慎重さを持たないと、その「結論ありき」の「見込み捜査」によって、「冤罪事件(フィクション)」をでっち上げることにもなりかねないのである。

そして、飯田一史「安達」氏が問題にしているのも、まさにそこなのだ。

三宅香帆が、「これが証拠です」といくつかの「証拠資料」を提示し、「だから、この人が犯人です。私の推理は、こうした証拠によって裏付けられています」と主張していても、そもそも、その「証拠」とやらが捏ち上げではないのか、あるいは「恣意的に歪められたデータ」なのではないかと、飯田一史「安達」氏は、そう指摘しているのである。

そして、三宅香帆の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』について、飯田一史「安達」氏の提示した「疑義」を裏付ける傍証を、私は本書『考察する若者たち』から、いくつか提示しよう。

「こんないい加減な断定(データ処理)で、いったい何を実証したつもりなのだ」と。

 ○ ○ ○

本書『考察する若者たち』は、今の日本の若者たちに見られる数々の「流行現象」を取り上げて、その背景に「若者たちは、単なる感動や喜びだけではなく、そのあとにかたちとして残るものを欲し、そのことによって、かたちのあるかたちで報われたいと願っている」と指摘する。
彼らは、昔の「感動消費」とは違った、「報われ消費」とでも呼ぶべき消費行動を採っているのではないかと、そういう「絵」を描いて見せているのだ。

そのために、昔と今のちがいを、いくつも対比的に例示して見せている。
それが、目次にも示された、次のようなことになるわけだ。

「平成」と「令和」で何が変わったのか?
●「批評」から「考察」へ
正解のない解釈→作者の意図を当てるゲーム
●「萌え」から「推し」へ
好きという欲求→応援したい理想
●「やりがい」から「成長」へ
充実しているという感情→安定のための手段
●「ググる」から「ジピる」へ
複数の選択肢から選ぶ→AIが提示する唯一の解

■目次
まえがき――若者が考察動画を検索する理由
第1章:批評から考察へ――『あなたの番です』『変な家』『君たちはどう生きるか』
第2章:萌えから推しへ――『【推しの子】』『アイドル』『絶対アイドル辞めないで』
第3章:ループものから転生ものへ――『転生したらスライムだった件』『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』
第4章:自己啓発から陰謀論へ――堀江貴文『多動力』、ひろゆき『1%の努力』
第5章:やりがいから成長へ――『ようこそ!FACT(東京S区第二支部)へ』『働きマン』
第6章:メディアからプラットフォームへ――『スマホ脳』『一般意志2・0』
第7章:ヒエラルキーから界隈へ――『スキップとローファー』『違国日記』
第8章:ググるからジピるへ――ChatGPT、『NEXUS』『わたしを離さないで』
第9章:自分らしさから生きづらさへ――『世界に一つだけの花』『世界99』、MBTI
終章:最適化に抗う――そして『スキップとローファー』『ようこそ!FACT(東京S区第二支部)へ』
あとがき――やりたいことや自分だけの感想を見つけるコツ
参考文献――「考察の時代」を理解するための本』

(Amazonの本書紹介ページから)

つまり、ここで対比的に紹介された数々の事実が、三宅香帆による「現代日本の若者の報われ消費」という「読み(描いた絵)」を裏付けていると、そう主張しているのが、本書なのである。

で、私は、三宅香帆の言う「現代日本の若者の報われ消費」傾向というものについては、おおむね同意している。
そんな「感じ」は、確かにあるな、とは思っているのだ。

だが、ここで問題となるのは、三宅香帆が挙げている各種の事例から、果たしてそれほど確かな結論が導けるのか、という点なのだ。

「総論は賛成」でも「各論があやしい」。

たしかに「犯人は彼だ」という点には同意するけれど、三宅香帆の提出した「証拠資料」の信憑性には、疑義がある
一一端的に言って、客観性に欠ける「恣意的な資料(データ)」なのではないか、と疑われるのだ。

現実の冤罪事件でもよくあるように、検察側は、自分たちの「描いた絵」に不都合なデータを隠したり、データを歪めたりするのだが、三宅香帆も同じようなことをしているのではないかと、そう疑っているのである。

ここでは、ひとつわかりやすいところを、本書『考察する若者たち』から紹介しよう。

三宅香帆は、SNSのかたちにも、平成と令和の違いを見て、次のように書いている。

『「報われポイント」があると、令和のヒットコンテンツは生まれやすいと言える。
 だとすると、「報われポイント」として象徴的なのはSNSだろう。私は令和のSNSと平成の掲示板をこのような対比で見ている。

 SNSは「フォロワー」や「いいね」の数が見えやすい=投稿の「報われポイント」がある
 掲示板は「フォロワー」や「いいね」の数が見えない= 投稿の「報われポイント」がない


 インターネットにおけるコミュニケーションと言えば、平成初期は「掲示板」によるコミュニケーションが主流だった。現在は「5ちゃんねる」という名称になったが、昔は「2ちゃんねる」という名前で有名だった巨大掲示板を思い出す人も多いだろう。』
(P88〜89)

このように、三宅香帆は、平成を代表するSNSとして「(電子)掲示板」を挙げて、この中でも『巨大掲示板』である「2ちゃんねる」に「掲示板」を代表させて、議論を進めているのだ。

しかし、「掲示板」文化を、「2ちゃんねる」のような「特殊な個別例」に代表させても良いものなのだろうか?

20年以上にわたって、個人の「電子掲示板」を運営してきた者の経験として言わせていただくと、一般に広まった「掲示板」は、決して、「報われポイント」としての『数が見えない』わけではなかった、ということを、私はよく知っている。

「掲示板文化」においても、「数字」としての「報われポイント」は、当たり前にあったのだ。

「閲覧数カウンター」というものが、まさにそれであり、閲覧数アップのための「キリ番」なんてものもあった。
「あなたは、10000番目のお客様です!」といったものだ。

つまり、カウンターが回れば「たくさんの人に、この掲示板を覗いてもらえている」ということで、記事を書いていることが「報われている」と感じていたのだから、その点では、何も「変わってはいない」のである。

たしかに「2ちゃんねる」のような「巨大掲示板」には、カウンターは無かった。
だがそれは、それが「個人」の表現の場ではなく、「不特定多数の匿名者」のためのプラットフォームだったからである。
運営者の「ひろゆき」こと西村博個人のための、表現の場ではなかったためだ。

つまり、平成と令和のSNSの質的な違いを語るのに、「2ちゃんねる」のような例外的な「巨大掲示板」を持ち出してくるのは、見当違いなのだ。比較対照の対象を誤っている。

「2ちゃんねる」は、「個人」の表現の場ではなく、「個人の特定されない匿名者たち」の表現の場だった。
だから、個人が関心を持つ「閲覧者数カウンター」も必要なければ、「イイね」や「スキ」機能も、必要なかった
だけではないのか。

それは「時代の心理的変化」を示す特徴ではなく、単に「個人の表現のためのプラットフォーム」か「不特定多数のためのプラットフォーム」かの違いなのではないかと、そういうことなのだ。

したがって、ここで三宅香帆が、「平成のSNS文化」を代表させるものとして「2ちゃんねる」を持ち出してきたのは、故意か過失からわからないが、不適切だったのではないか、ということになる。

また、こうした「無理解による不適切な例示」が、このほかにもある。

三宅香帆「AI」について、次のように書いているが、とうてい「AI」の基本原理を理解しているとは思えない説明だ。

『 しかしAIは違う。人間の膨大な情報を吸い上げたうえで、一つの回答という名の正しさを提示する、人工知能である。だからこそ人びとはあまり「AIの論理的思考(アルゴリズム)は間違っているかもしれない」とは言わない。なぜなら、AIは正解の決まった論理的回答を提示すること一一たとえば将棋やプログラミングなど一一がむしろ得意分野だからである。
 もちろん情報の真偽はいまなお疑問視されている。しかしそれはあくまで情報の真偽であり、AIの回答そのものを疑う人は少ない。』(P 173〜174)

「AI」が「論理的に思考」しているとは、驚きの理解である。「それを疑う人は少ない」そうだ。

だが、「AI」というのは、膨大な学習データから、最も蓋然性の高い文脈に沿って、それらしい回答をつむぎ出すだけであって、その「過程」は、いまだ「ブラックボックス」なのだ。
つまり、当のAIの開発者にも、AIが実際に回答を捻り出す「経路」は不明なのだ。だから、それが「論理的」か否かの確たる判定は、下しようがないのである。
一一これくらいは、完全に文系であり、機械ものに弱い還暦すぎの高齢者の私でも知っていることなのだ。

『最近話題の、対話型AI「チャットGPT」でも同じことだ。
利用者が、問題を入力すると、チャットGPTは、もっともらしい答を、一瞬で文章化して返してくれる。しかし、こうした回答文は、今のところはまだ、鵜呑みにはできない「正答率」のものでしかない。
だが、AIの正答率を上げること自体は、さほど難しいことではない。要は、読み込ませるデータ量を増やせば、AIは、より適切な「文脈」を学ぶことで、正答率を上げるのである。

しかし、その上での残る問題は、私たちは、AIがどのようにして「解答を生成するのか」の「原理的な構造」は分かっていても、個々の問題に対する個々の回答について、どのような筋道を辿ってその結論に至ったのか、その「過程」は、複雑すぎてわからない、という点なのだ(AIが参照するデータ量を考えてみるとよい)。
とにかく、かなりの精度で正答を導き出してくれるという「結果」は分かっていても、その「論理的な途中経過」は、AI研究者にとっても「ブラックボックス」なのである。』

三宅香帆の、こうした「知ったかぶり(の断言)」による「不適切さ」は、細かく見ていけば、本書『考察する若者たち』の他の部分にも見つかるはずだ。

そして、その同じことが、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』の場合には、飯田一史「安達」氏の指摘した「統計資料の不適切な扱い」ということにもなるのであろう。

 ○ ○ ○

しかしながら、私は、こういう細かい話には、実のところ、あまり興味がない。

本書を読んで、最も根本的な部分でありながら、「これは酷い」と思ったのは、自称「文芸評論家」である三宅香帆の、「批評」観であり、「批評」理解なのだ。

端的に言って、三宅香帆は「批評」が、わかっていない。

むしろ私は、そのことにこそ驚かされたのだ。
「こんな初歩の初歩のところで間違っている者が、文芸評論家を名乗っているとは、まさに世も末だな」一一と。

三宅香帆は、本書の中で何度も、次のような「批評」理解を語っている。

(1)
考察=作者が提示する謎を解くこと
 批評=作者も把握していない謎を解くこと
』(P37)

(2)
正解がない批評、正解がある考察』(P43)

(3)
『 そして面白いのは、たしかに「考察」と「批評」の違いも、固有名詞の有無にあるということだ。作者の正解を当てる考察文化は、誰が考察しているかは重視しない。SNSや動画で考察動画を観るとき、考察者の思想の個性を求めはしない。わかりやすさは必要かもしれないが、考察者の価値観や解釈の個性は必要とされない。
 しかし批評文化では、解釈は人それぞれ違う前提になっているので、むしろ批評家の個性こそが必要とされる。小林秀雄柄谷行人吉本隆明など過剰なまでに固有名詞が意味をもつのが批評文化だった。

 考察=語り手の個性は必要ない
 批評=語り手の個性が必要
 』(P192〜193)

(4)
◆ 感想から考察へ
 本書では、令和のヒットコンテンツがプラットフォームによって生まれていることを見てきた。つまり「報われるかどうか」がわかりやすいものは、プラットフォームにおすすめされやすく、拡散されやすい。さらに現代の若い世代は自分の感情で選ぶより、最適化されたおすすめへの欲求が強いため、「報われ消費」はアルゴリズムでおすすめされやすく、ヒットにつながりやすい。
 考察を通して、エンタメですら正解を求めてしまう。それは、プラットフォーム時代特有の「自分固有の感情を重視しない」感覚がもたらした鑑賞体験だった。
 一一なぜ私がこんなに考察に興味があるのか。ここで種明かしをしよう。
 私はもともと、批評が好きだった。なぜなら、批評は皆と違う感想を言っていい場だからである。作品を読んだり観たりして、そこからどんな影響を受けて、どんな感情になったのか、感想はその人固有のものである。同じ作品を見ていても感想は違う。人によって見えている世界はこれだけ異なるのだ、と他人の感想を見ると何か世界の豊かさに触れた気分になる。
 批評が好きなのは、人それぞれ世界の見え方は異なる、ということを教えてくれるからだ。個別の見方。その人特有の読み方。同じ感想をもたなくていい。人それぞれ、感想は違っていい。そういうことを教えてくれるから、私は批評が好きなのである。
 共同体の中にいて、同じものを見ていても、人それぞれ感情や感想は違っていい。なぜならプロの批評家ですら、それぞれ異なる見方をしているのだから。
 一一そういうことを私に教えてくれたのが批評だった。
 だからこそ、感想や批評よりも、多くの人がいっせいに作品の読解の「正解」を求める考察文化の存在感に私は驚いている。
 たとえ作者であっても、作品の読み方の正解はもっていないはずなのだ。
 たとえば村上春樹に「この小説のテーマは?」と聞いても、正解は出てこない。それを一言で伝えられるなら小説家は小説を書かないからだ。物語は物語であり、その受け取り手がどんなふうに物語を見るのかは決めていい。
 だからこそ、考察文化が提示するような、作品の読解の正解は本来存在しないはずないのである。』(P208〜210)

(5)
『 本書を書きながら私はずっと考えてきたのだが、「考察」もまた、自分の創作の一つではないかと思っている。議論をひっくり返すようだが、本当にそう思っている。
 報われたくて、何が悪いのだろう。正解が欲しくて、何が悪いというのだろう。対処法が欲しくて、ラベリングが欲しいことは、何も悪くなんかない。
(中略)
 正解を求めることは、決して悪いことではない。失敗したくないのは、当然である。
 しかしもし正解を当てることに飽きがやってきたなら私は「批評」的な視点をもち込んでみることを選択肢に入れてもいいのではないか、と思う。

◆ 考察から批評へ
 考察と批評の違いは何か。
 第1章で述べたように、作者の正解を予想するゲームか、自分の解釈を発言する営みか、という違いだ。
 だとすると、「正解」らしきものを当てにいく考察からは外れた解釈をしてみたくなったとき、もしかすると本当にその作品の楽しさを見つけられるようになるのかもしれない。
 作者の考えなんてどうでもいいから、自分はこう解釈したのだ、と語ってみることから、あなただけの作品の味わい方が生まれるのではないのか。
 若い世代が「最適化」にこれだけ注力している時代である。自分はもう若くないと思う世代の方が本書を読んでくれているならば、私は言いたい。自分の好きなもの、やりたいこと、感じていること、そういうものすべてに意味があるのだと、自分の固有性を表現するものだと、私たちは若い世代に伝えていくべきではないか。
 批評とは、世界の見え方の固有性を愛する行為である。
 同じものを見ていても、あなたの解釈と、私の解釈は違う。だからこそ、面白いのである。同じ世界に生きているはずなのに、人によって見え方はこんなにも異なる。そして解釈は、感想は、どんなに近しい感想でも、別のものであっていいのだ。
 正解がない。むしろ作者すら理解していない問いを、投げかける。批評が生み出すのは問いである。人によって異なる作品の解釈を、生み出した問いを、私たちは大切にしていくべきではないか。』
(P217〜219)

(6)
『 何度も言うとおり、考察が悪いとか、プラットフォームサービスを使うのが悪いとか、そういう話ではないんですよ。なぜならこの社会の誰もがプラットフォーム的なものから逃れることはできないから。
しかし一方で、いまの社会が「普通にしているだけで、すぐ報われるゴールがあるものを欲したくなってしまう」ような構造になっているのは確かだと思うのです。
それは、ある意味で怖い。だって目先のゴールを求めないほうが最終的にはいい結果を生み出せたりするのに。短期的な成果を求めるスピードばっかり上がっていって、最終的にいいものが手に入らなかった、なんてことになったら辛い。
もう少し、正解以外のものが大切にされてもいいはずじゃないか、と思います。安心したいのはわかるけど、それでも、間違いが許されてもいいじゃないか、と。
 私が批評を好きなのは、一人だけ他人と違うことを肯定してくれるからだと思います。周りと同じ小説を読んだり同じ映画を観たりしているのに、それでも違う感想が出てくる。違う解釈でものを見ている。それが肯定されるのが批評の世界だったから。
 共同体のなかで一人だけ感想が違ってもいいんだ。そう思わせてくれたのが、私にとっての批評というジャンルでした。
 一一そういう意味で、みんなで作者の正解を予想しにいく考察の流行は、少しだけ寂しい。みんなと感想が違ってもいいじゃないか! むしろ感想が違うほうが面白いじゃないか! あなたの感想を聞きたいのに! と思ってしまう。
 だとすれば、本書が批評的な思想の啓蒙書になっていたら、こんなに嬉しいことはないのですが。どうでしょう。あなたを説得できていたらいいなあ。』(P234〜235)

私が呆れてしまうのは、三宅香帆が、

・正解が無い
・正解に至り得ない

ということの、区別もついていないという事実だ。

見てのとおりで、三宅香帆は「批評」には「正解」は無いから、「自分の解」を見つければ、それで良いんだ。だから、「批評」は自由なんだと、そう主張している

だが、これは「初歩的な間違い」である。

「文芸批評」であろうが、どんな学問であろうが、人間の認知能力では「究極の真理」には、原理的に至り得ないという「現実」がある。
だが、だとしても、それでも、その「真理」を目指して探究していくのが「学問」であり、「批評」もそうした営みのひとつなのだ。

だからこそ、例えば、文芸批評だって、「(テクストを)完全に自由に読んでいい」とは、絶対に言わない。
なぜなら、完全な自由とは、デタラメ(無原則)ということだからだ。

だが、当然そうではない。
対象を「読解」するためには、対象に「誠実」であらねばならない。可能なかぎり「対象の声」に耳を傾け、それを忠実に言葉にしていかなければならない

言い換えれば、
「ちょっと無理があるけど、こんな変な読み方は、まだ誰もしていないはずだから、この線で解釈をでっち上げたら、頭の悪い読者なら騙せて、ウケるかもしれないぞ」
みたいな「自由な解釈」は、批評では許されていないのだ。
そんなものは、お遊びの「戯論」でしかない。

つまり、批評とは、対象の中に「真理=正解」がある「つもり」で、可能なかぎり、対象に向き合うことから始まる作業なのである。

だが、結果としては、私たち人間は、その認知能力の限界において、「真理」とされるものにまでは到達し得ない。

まあ、普通に考えて、私たちは個々別々に機能の微妙に異なる認知器官によってしか、対象を認知し得ないのだから、おのずとその「理解」や「解答」が微妙に、あるいは大きくズレるというのは、当然のことでしかない。
残念ながら私たちには「それしか出来ない」のである。

だが、「頑張っても、それしか出来ない」というのと「どうせ出来ないのなら、何をしても良い」というのとは、当然ながら、大違いなのだ。

一一ところが、驚くことに三宅香帆には、この区別がついていないのである。

三宅香帆は「批評は自由だ」と言う。
だが、それは間違いだ。

批評は、その人の能力によって厳しく限定されているのだから、その意味では、極めて不自由なものなのだ。

「より正確に、より深く」読もうとしても、「認知・感受」能力や「分析・思考」能力が無ければ、「より正確で、より深い」批評は叶わない。
批評能力にも、明らかに個体差があるのである。
また、個人の中でも、未熟時と練熟後とでは明らかな差がある。だから、才能があろうとなかろうと、向上心は必要なのだ。

ところが「読者向け八方美人」の三宅香帆は、決してその事実には触れない。

なにしろ、能力のある人だけに向けて「本当のこと」を書いたら、能力に劣る人に背かれるのは目に見えているからだ。
それでは、本が売れないのである。

だから、三宅香帆は、「みんな平等に、批評能力を持っている」と思っているかのようなフリをして、この上で「あとは個性の違いでしかない」んだから「みんな自由に読んでいいんだよ」なんて言う。

端的に言って、本書の読者は、三宅香帆に舐められているのだ。
実際、舐められても仕方のない読者が、何万人もいるとしても、である。

ともあれ、これが三宅香帆の言う「批評のススメ」の実態(本性)なのだ。

この「真顔で嘘をつく」がごとき厚顔ぶりには、呆れを通り越して、空恐ろしいほどなのだが、これこそがペテンの要諦(自信ありげに嘘をつけ)なのなら、本書もまた「プロの仕事」だということなのであろう。

最近、日本で「完全版」とやらが刊行された小説『薔薇の名前』の著者で、記号論学者のウンベルト・エーコが、この『薔薇の名前』を刊行した際、世界的な大ヒットをしたのは良かったけれど、あまりにも「デタラメな深読み」が横行したことに呆れて、『エーコの読みと深読み』という本を書いた。

この本に書かれているのは、要は、真っ当な「読み」と、根拠薄弱な「深読み」とは、まったくの別物であり、その「読み」が面白ければそれで良いとするような、安易な「深読み」は間違っている、という趣旨のことである。

で、こんなことは、まともな批評文を読んでいれば、わかりきった話でしかないのだが、世の中には「面白ければ、何でもあり」「ウケてナンボ」という輩が、必ず一定数はいて、テクストを蔑ろにした、不誠実な読みとしての「深読みとやら」を、恥じることもなく公にする。
エーコは、そうした「テクストに対する不誠実な態度」を批判していたのである。

だが、三宅香帆のやっていることは、まさにエーコの批判した「それ」なのだ。

ぬけぬけと「文芸評論家」だなどと名乗りながら、批評の大原則を蔑ろにして、俗に媚びることで、ベストセラー作家になり仰せている。

自分を少しでも高めてくれる本よりも、今の自分をそのまま肯定してほしいという「承認欲求に凝り固まった読者」に対し、三宅香帆は、確信犯的に媚びて見せているのだが、これこそが、大西巨人が言ったところの、「俗情との結託」なのである。

三宅香帆は、本書の中で小林秀雄柄谷行人吉本隆明(P193)の名前に触れて、「批評」ということを語っているけれど、当然、三宅香帆は、この三人の書いたものを、理解できてはいない。理解した上で、無視しているのではなく、理解する能力がないのだ。
だから「批評は、自由だ」などと、恥ずかしげもなく書けるのである。

小林秀雄は、

「批評とは他人をダシにして、自分を語ること」

だというようなことを言ったけれども、それは、

「他人のテクストを、自分に強引に引きつけ、捻じ曲げてでも、自分を語る」

というような話では当然なくて、

「他人のテクストと真摯に向き合えば向き合うほど、自分というものが、その鏡によってあぶり出されてくるものなのだ」

というほどの意味である。

ところが、三宅香帆のやっていることと言えば、まさに前者の「他人のテクストを、自分に強引に惹きつけ、捻じ曲げてでも、自分を語る」ということなのである。

まただからこそ、「データ」の扱い方が恣意的でデタラメだと批判されることにもなったのである。

しかし、そこまでしてでも、三宅香帆は、たぶん本気で憧れたのであろう「文芸評論家」の「肩書き」が、欲しかったのであろう。

だか、文芸評論家ではありたいのだけれど、批評家に必要な「克己心」が無いから、俗に媚びて、ウケを狙ってしまう。
だから、

『 とはいえ、何度だって繰り返しますが、考察文化やプラットフォームを否定したいわけではないです。そうではなく、批評「も」面白いよ! 最適化されない、報われない、だけど面白いことって世の中にあるよ! と伝えたかったのでした。
 伝わるといいな。』(P236)

という、媚びた文章にもなってしまう。

まったく、三宅香帆の臆面もない「八方(読者向け)美人」ぶりには、呆れを通り越して、うそ寒さすら感じるのだが、しかしこれは、じつのところ三宅香帆自身にとっても、「呪い」なのだ。

つまり、三宅香帆には、自身が、自分の理想や本音に反して、「八方美人」を演じているという自覚がある。つまり、やましさや後ろめたさを感じている。

だから、次のようなことを、他人の話のようにしてでも、書いてしまうのだ。

『 同様に、(※ 高松美咲による漫画)『スキップとローファー』もまた、他者から求められるキャラを演じることに慣れすぎて、そこに過剰に最適化し続け、自分の欲望がわからなくなっている志摩たちが、みつみと出会って成長する物語である。
 学校のなかでモテていても、好かれていても、それは自分が「そういうキャラ」を演じているから、ある意味「報われそうな自分」を演じているから報われているだけだ。彼ら彼女らはいつもそう思っている。
 だからこそ本当の意味で自分を評価することができない。むしろ、いつもキャラという規範に合うことができているかどうか、そしてそのキャラを演じた結果の評価を、気にしてしまう。それはまるで、アルゴリズムのなかでデータを取って正解を求めて「最適化」していく世界の写し鏡である。
 たしかに、人生をうまくやることは重要だ。試験があったら受かりたいし、正解があったら早く手に入れたいし、身近な人間とはそれなりでも仲良くできたほうがいい。
 一一しかしうまくやることは、じつは手段でしかない。
 私が推奨するのは、「最適化」の対極にあるとも言える批評のほうだ。
 つまり、問いを自分でつくりだすこと。作者の仕掛けた問いを解くのではない。むしろ作者が気づいていない問いを見つけてみるのだ。』
(P222〜223)

もちろん、次の部分、

『 学校のなかでモテていても、好かれていても、それは自分が「そういうキャラ」を演じているから、ある意味「報われそうな自分」を演じているから報われているだけだ。彼ら彼女らはいつもそう思っている。
 だからこそ本当の意味で自分を評価することができない。むしろ、いつもキャラという規範に合うことができているかどうか、そしてそのキャラを演じた結果の評価を、気にしてしまう。

は、三宅香帆本人のこと(自白)なのだ。

夢を実現して「文芸評論家」の肩書きを得、さらには売れっ子になってさえも、これが本音なのだから、むしろ痛ましいかぎりではないか。


(2026年1月5日)

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