藤高和輝 『〈トラブル〉としてのフェミニズム 「とり乱させない抑圧」に抗して』 : 北村紗衣組の ジュディス・バトラーもどき
書評:藤高和輝『〈トラブル〉としてのフェミニズム 「とり乱させない抑圧」に抗して』(青土社)
本書を購入したのは、「フェミニズム」の勉強のためだ。昨年から「フェミニズム」の勉強を始めた私は、ひとまず、あまり専門的にすぎるものではない、つまり取っつきやすそうなフェミニズム書ということで、日本人著者のそれをいろいろと購入してみた。
なんで日本人著者のものは取っつきやすいのかというと、日本人著者の本というのは大概の場合、オリジナルな議論を展開する先鋭なもののではなく、外国の著名学者の学説の解説書であることが多いからだ。
つまり、「入門書」的な性格が強く、深くはないがわかりやすくはある場合が多いからである。
したがって、フェミニズムの初学者である私としては、そうした「入門書」をいくらか読んだ後に、少しづつ歯応えのあるものに挑んでいこうと考えて、日本人著者のフェミニズム書を20冊ほど買い込んだ。
で、その中に本書も含まれていた、という次第である。

本書を購入した直接の原因は、先に読んでいた、高島鈴の著書『布団の中から蜂起せよ アナーカ・フェミニズムのための断章』に、本書が推薦図書として紹介されていたからだ。日本人著者の「フェミニズム本」と言っても、それは山ほどあるのだから、ひとまずの目安として、「推薦されている本」であれば、それなりに優れているのだろうと考えたのだ。
ちなみに、高島鈴の『布団の中から蜂起せよ』を読んだのは、同書が「紀伊國屋じんぶん大賞2023 読者と選ぶ人文書ベスト30」の「第1位」に選出された本だと、知っていたからである。
本書『〈トラブル〉としてのフェミニズム 「とり乱させない抑圧」に抗して』は、購入後、半年近く寝かせることになった。とにかく、フェミニズム関連書だけでも20冊ほど買ったし、私は、それ以外の本も色々と読めば映画も見て、それぞれにレビューを書くということをしているから、なかなか本書に辿り着けなかったのである。
フェミニズム書の中でも本書を「あと回し」にするにあたっては、それなりの理由があった。
私が「フェミニズム」に興味を持つようなきっかけは、「武蔵大学の教授」で自称フェミニストの北村紗衣から、ネット上で、いきなり難癖をつけられたためである。
「で、なんだこいつは?」ということになったのだが、私は「学問としてのフェミニズム」というものにはまったく無知だったので、北村紗衣の著作を読むと同時に、北村の依拠する「フェミニズム」という思想についても、ひととおり勉強してみることにしたのだ。
で、北村紗衣の著作をひととおり読んでしまうと、次に読もうと思ったのは、そんな北村紗衣の「お仲間」である、主に大学教員のフェミニストたちの著作である。
で、どうやって「お仲間」認定するのかといえば、ひとまずその目安となったのが、かの「オープンレター」。
正式名称的に言うと、「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」である。
この「オープンレター」は、ネット上において、北村紗衣を批判だか攻撃だかをしていた社会学者の呉座勇一が、それとは別に、ネット上のクローズドの場所(鍵アカウント)で、北村紗衣の悪口を書いていたのが、北村紗衣にリークされて、その証拠画像を入手した北村が、「呉座にこんなことを書かれて、私はとても傷ついた。こんな人物を野放しにしておくべきではない」と訴え、知り合いの大学教員フェミニストやフェミニズム本などを刊行している出版社の編集者にも働きかけ、「発起人(呼びかけ人)」十数名、「賛同署名者」千数百名を擁する「公開状」として、前記の「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」を、ネット上に「一般公開」したのである。
その結果、呉座勇一は、その圧倒的な「数の力」によって、二度にわたる不本意な「公開謝罪」を強いられることになった。
時は、アメリカでの「#Metoo」運動が盛り上がって、ハリウッドの男性著名人が、何人も「セクハラ」容疑等で映画業界を追われるという「キャンセルカルチャー」が、顕著な成果を上げた後の時期だった。
要は、「#Metoo」に続けということで、「オープンレター:女性差別的な文化を脱するために」には、千数百名もの署名が集まり、世間的にも、その圧力を無視できないまでの「力」を持つに至っていた、ということである。
で、呉座勇一としては、基本的には、個人的に「貶し合い」をしていたつもりが、いきなり千数百名もの賛同署名を集めた「オープンレター」が公開されて、一気に事が荒立ってしまい、職場の目にもつくようにもなったので、これはまずいと、悔し涙を呑んで謝罪することにしたのであろう。
だが、呉座の謝罪が「心からのもの」ではないというのは、傍目にも明らかなことなのだから、当然「北村紗衣組としてのオープンレター連」にもそれは明らかなことなので、世間でもよくあるように「かたちばかりの謝罪ではなく、誠意を示せ」という無理難題を呉座に課することになり、呉座は、主語「北村紗衣先生」だか「北村紗衣様」だかに対する卑屈なまでに遜った謝罪文で、二度にわたる公開謝罪によって「誠意を示す」ことをせざるを得なくなったのである。
しかも、哀れなことには、こうした「公開謝罪」をしたにも関わらず、呉座の勤務先は、問題を起こした呉座を解雇してしまい、北村紗衣の方はそれで溜飲を下げたのか、(偽署名問題もあったにしろ)公開していた「オープンレター」から、発起人と賛同署名者の名前を、すべて削除してしまった。
一一まるで、呉座勇一1人を社会的に抹殺すれば、それで「女性差別的な文化を脱する」ことができたと言わんばかりの、その本音が透けて見える振る舞いをしたのである。
そんなわけで、少々遠回りになってしまったが、私が「北村紗衣の仲間のフェミニスト」に認定する、最初の目安になったのが、この「オープンレター」だったのだ。
だが、今回とり上げた『〈トラブル〉としてのフェミニズム』の著者である藤高和輝は、「オープンレター」の発起人ではないし、賛同署名者ではなかったようだ。
そのため私は、藤高和輝をあと回しにして、「オープンレター」の発起人である、清水晶子や河野真太郎、田中東子、三木那由他、隠岐さや香などを、優先したのである。
ちなみに、買っておいてはいたものの後回しにしているうちに、私はこの藤高和輝の他の本を、それ以前に買っていたことに気がついた。
それは、藤高和輝の本としてではなく、哲学者ジュディス・バトラーの「入門解説書」として買っていたのである。藤高和輝は、バトラーの研究者だったのだ。
ジュディス・バトラーについては、「パレスチナ問題」へのかねてからの興味から、2021年にその著書『分かれ道 ユダヤ性とシオニズム批判』を読んで、好感を持っていた。
私が「フェミニズム」に興味を持つ、ずっと以前の話である。
だから、その後は、バトラーに興味はあれども「フェミニズム」書には興味がないから、他の著作は読めずにいたのだが、それでもバトラーその人には興味があったので、その入門書を買って、積んでいた、という経緯だったのだ。
その著者が、藤高和輝だったのである。
で、その後、私は藤高和輝の「バトラー入門書」を読むこともなく、先にバトラーの主著である『ジェンダー・トラブル』を読むことになった。
フェミニズムを勉強するからには、この機会に同書を読もうと、そう覚悟したからである。
しかし、そのおかげで、フェミニズム関連でその後に読んだ「トランスジェンダー問題」関連書では、いかにジュディス・バトラーの議論を理解しないまま、バトラーを敵視している人が多いという事実を知ることにもなったし、そうして意見への反論も可能になっていたのである。
この『ジェンダー・トラブル』は「難解」で知られる本らしいのだが、私としては意外に理解できた。
もちろん、専門的な細かい議論にはついていけない部分は多々あったが、同書でバトラーが「どのような理路で、何を訴えているのか」、その基本的なところは、抵抗なく私の中に入ってきたのだ。
それは私が、すでにバトラーの『別れ道』を読んでいたせいかもしれないし、それに共感と好意を思えていたのだから、バトラーは基本的に、私には理解し易いタイプの思想の持ち主だったということなのかもしれない。
少なくとも、以前読んで完全にお手上げだった、ロラン・バルトの『零度のエクリチュール』とは違って、『ジェンダー・トラブル』は「半分はわかった」と言えるくらいには理解できたのである。
そんなわけで、藤高和輝の場合は、北村紗衣との直接的なつながりは(見え)なかったものの、「フェミニズム」研究者であり「バトラー研究家」という2つの側面から、私としても「そろそろ読まなければなあ」と思っていたところに、「第3の決定的な要因」が加わった。
一一「北村紗衣組としてのオープンレター連」が中心となって新たに設立した「現代フェミニズム研究会」に、藤高和輝が参加していることを知ったのである。
この「現代フェミニズム研究会」の「設立趣意書」の末尾に付された会員名簿には、最初から藤高和輝の名前があった。
藤高和輝は「現代フェミニズム研究会」の「呼びかけ人」でこそないが、「呼びかけ人」に直接声をかけられたのであろう、言うなれば「第1次賛同会員」の一人だったのである。
で、問題となるのは、この「現代フェミニズム研究会」が、「北村紗衣組としてのオープンレター連」が中心になって設立されたグループだというだけではなく、その「設立趣意書」に明記された、その「排他的な党派性」なのである。
これについては、これまでに何度も論じてきたことだから、詳しくは説明しないが、この「設立趣意書」に書かれているのは、
「私たちは、トランスジェンダーを差別する、えせフェミニストと徹底的に闘うことを決意する、真のフェミニストであり、真のフェミニズムの研究者でたらんとするものである」
ということであり、その「設立趣意書」の末尾には、
『以上の趣旨に賛同する皆さんに、ひろくこの研究会への参加を呼び掛けたいと思います。』
とあるように、要は、彼(女)らが特定するところの「えせフェミニスト」と闘う(敵対する)気のない者の参加は「認めない」、ということなのだ。
この設立趣意書には、
『(※ 問題なのは)「フェミニスト」によるトランスジェンダーへの差別的な攻撃・差別扇動的な言説(ヘイトスピーチ)の拡大です。そこには、ジェンダーやフェミニズムを研究してきた一部の研究者も加担しています。』
という文言があって、その『一部の研究者』というのは、内々では明らかに「個人特定」されている。
要は、こうした『一部の研究者』をフェミニズム学会で生かしておくことを許さいないという覚悟のある者だけに、「現代フェミニズム研究会」に入会する資格があると、そう言ってるも同然の、これは一種の「血判状」的な性格を持つ「趣意書」だったのである。
で、こんな「現代フェミニズム研究会」に参加している以上は、藤高和輝も、その「設立趣旨」に賛同したということになるし、この「排他的な研究会」の「排他性」を容認したということなのだから、この「排他性」に責任を有する者の一人だということにもなる。
その上、藤高和輝も「大学フェミニズム」の狭い世界の住人である以上、「オープンレター」のことを知らないわけがなく、「現代フェミニズム研究会」が「北村紗衣組としてのオープンレター連」が中心になって設立されたグループだということも、当然承知した上で、「オープンレター」を批判することもなく、この「現代フェミニズム研究会」に入っているのだから、当然、藤高和輝は「オープンレター」を、容認または支持する立場だと考えるべきであろう。
一一ならば、今や藤高和輝は、「北村紗衣の仲間の大学フェミニスト」だと認定すべき存在、だということになる。その認定要件を十分に満たしているのだ。
だから、本稿では、そうした観点から、本書を検討していきたいと思う。
ちなみに、私は以前に、藤高和輝が寄稿している本を読んでいる。
それは、稲原美苗・川崎唯史・中澤瞳・宮原優 編『フェミニスト現象学入門 経験から「普通」を問い直す』だ。
藤高和輝は、同書の編者ではなく、寄稿者の一人として、この本に短文を寄せているのだが、この段階での私は、藤高と「現代フェミニズム研究会」との繋がりを知らないまま、藤高文について、次のような感想を書いている。
『本書には、「はじめに」の他に14本の論文と、数本のコラムが収められているが、これらの中で私が「面白い」と思ったのは、第7章の池田喬による「一人暮らししなければ一人前じゃないのか? 〈家に住むこと〉のフェミニスト現象学」だけだったと、そう断じても良い。この論文に限っては、何度かハッとさせられ、「なるほど」と思わされたのだ。
そのほかで比較的にマシというか、期待の水準に達している書き手は、せいぜい第10章「「性別違和」とは何か? トランスジェンダー現象学の導入に向けて」の藤高和輝くらいのもの。
あとはもう、私のようなアマチュアをして「当たり前のことしか書いていない」と、そう評価するしかないレベルのものだったのである。
(中略)
一方、藤高和輝は、すでにジュディス・バトラーに関する著作を持っていることからもわかるとおり、「フェミニズム哲学」をやっているとは言っても、いわゆる「フェミニズム」や「フェミニスト」と表記されるジャンルには限定されない、広く「クィア」問題されるものの方を重視しているようである。まただからこそ、寄稿論文のサブタイトルを、「フェミニスト現象学」ではなく、わざわざ「トランスジェンダー現象学」としているのである。
藤高の立場は、「フェミニスト現象学」は、どうもしばしば無自覚に「男性・女性」という二項対立を前提としてしまっているように見えるが、ジュディス・バトラーがその著書『ジェンダー・トラブル』で指摘したように、そもそも「男女二項」という考え方が「社会構築的な制度としての思考」に毒されたものであって、より本質な「男女二元論には回収不能な存在」としての「トランスジェンダー」という存在を起点として、ジェンダーの問題を考えなければ、いくら「フェミニスト現象学」などと言ってみたところで、「色眼鏡としての臆見(ドクサ)」からは逃れられないと、大筋でそのように考えているようだ。
だからこそ、本書のグループが掲げた「フェミニスト現象学」という看板に自足するのではなく、より本質的な「トランスジェンダー現象学」こそが必要だと、わざわざ訴えているのである。』
つまり、池田喬の文章は面白かったが、藤高和輝は「当たり前の問題提起はできていた」という評価だったのである。
○ ○ ○
さて、それでは本書『〈トラブル〉としてのフェミニズム 「とり乱させない抑圧」に抗して』の検討に入ろう。
まず、本書を一読して、総論的に言うならば、本書は「問題提起書としては間違ったことを書いてはいないが、著者自身の思考的実践がまるで見えてこない、哲学書ではない解説書だ」ということになろう。
つまり、先に紹介した『フェミニスト現象学入門 経験から「普通」を問い直す』収録の藤高の短文と、基本的には何も変わらない印象だった、ということである。
本書『〈トラブル〉としてのフェミニズム 「とり乱させない抑圧」に抗して』の内容は、そのタイトルのとおりで、おおよそ次のような趣旨のものである。
「世の中に伏在する各種の問題を顕在化させるためには、〈トラブル〉を起こす必要がある。社会から白い目で見られるのを怖れる「ことなかれ」では、世の中に伏在している問題は、そのまま温存されてしまう。そうした意味で、フェミニズムは〈トラブル〉そのものである。フェミニズムという〈トラブル〉が顕在化させたのは、この社会において不可視化されていた「女性差別」であり「トランス差別」であった。私たちは、フェミニズムを知ることによって、これまで隠されていたそうした問題の存在を知ることになった。だからこそ私たちは今後も、当たり前・普通だと考えられている社会の常識に対して〈トラブル〉を起こさなければならない。そのことによって、この世の中を、すべての人に平等に、住みよい世界に、変えていかなければならない。
しかしながら、当然のこととして、既存の社会は、そうした〈トラブル〉を「取り乱した」態度であるとして否定して抑圧し、そうした問題提起を潰そうとするだろう。だが、私たちは、それに抗して、取り乱さなければならない。トラブルメーカーになることを恐れてはならないのだ」
本書の「序 〈トラブル〉としてのフェミニズム」で語られているのは、この私の「まとめ」に尽きると言ってもいいだろう。
しかし、上のような「主張としての行動指針」自体は正しいのだが、しかし本書において問題なのは、著者その人は、自身の語った「行動指針」にしたがった「実践」を、ほとんどしていないというのが、本書の中身にこそ窺える点なのである。
「君たちは前線で戦え。私は後方で指揮を取ろう」と、そういう感じなのだ。
つまり藤高和輝は、本書に「みんな、社会を良くするために立ち上がれ!」という「檄文」は書いているけれども、自身の「日常」においては、当たり前に「ことなかれ」であり、「既存の体制への順応者」であるというのが、容易に窺えるのだ。
もちろん、ぜんぜん何ひとつ、〈トラブル〉的なこと、「取り乱し」的なことをしていない、というわけではない。
藤高和輝が実践している「〈トラブル〉的なこと、「取り乱し」的なこと」とは、藤高が「生物学的性別男性で、異性愛者で、結婚もしており、子供もいる」にもかかわらず、「中性的あるいは女性的」な服装などを好んでするという、その一点である。
「それだけ」だと言っても良い。
『 私は現在、戸籍上「男性」であり、パートナーと結婚している。私が自己をどう思い描こうと、社会は私に「男」や「異性愛者」としての「特権」を与えている。そのような社会的な立ち位置に留意すべきであるし、それを批判的に反省するべきだと当時は考えたし、いまでもそう考えている。けれども、先に引いた論文の結語に、私はどうしても違和感を拭い去れないし、それはこの論文を書いた約四年後の現在においてさえそうである。
男性学やメンズリブは社会的規範としての「男らしさ」を問い直す実践であるが、それはもちろん、「男性」という性別アイデンティティをも問い直す実践であるというわけではない。だが、私の場合、「私は男である」というそのアイデンティティそのものに違和感を拭い去れない。私は果たして男なのか、と何度自らに問うてきたか、もはや分からない。実際、いま私が普段している格好はかなり中性的で、時々「女性」としてパスしてしまうような曖味なジェンダー表現をしているし、それを気に入っている。すれちがう人に白々しい視線を向けられたり、ときに凝視される私は、似たことを経験しているトランスジェンダーに強い共感を抱くし、Xジェンダーという言葉や英語圏のジェンダークィアやノンバイナリー・ジェンダーという言葉にときに自らを重ね合わせたりする。だが総じて言えば、私は男性アイデンティティとトランスジェンダー・アイデンティティのあいだで揺れ動いている、というのが実情だと思う。したがって、私にとっての「アイデンティティを引き受ける」とは正確を期して言うなら、この揺れを生きることなのだ。一体、こんな〈とり乱し〉に誰が付き合ってくれるというのか、この〈とり乱し〉を曝すことに何の意味があるのか、この文章が誰のためになるというのか、一向に分からない不安のなかで、私はこの論考を書き進めている。』(P159〜160)
つまり、
「私は「男」として、この社会から「特権」を与えられている人間であり、その意味では「抑圧された性としての女性」に対して「有責な立場」にあると言えるわけなのだが、しかし、個人的なことを言えば、私はその「男である」ということに異和を感じ、むしろ「男女二元論」的な世の常識によって苦しめられている「トランスジェンダー」たちにこそ、シンパシーを感じる人間である」
と、大筋そのように語っているのだ。
これをさらに平たく言えば、
「私は、加害者側の人間(男性)だが、心情的には被害者側に近い(女性的な)人間だ」
「私は、支配者側の人間(マジョリティとしての異性愛者)だが、心情的には被支配者側(マイノリティ側としてのトランスジェンダー)に近い人間だ」
ということになる。
一一要は「美味しいとこ取りの二股膏薬」的な立場だ、ということなのだ。
だからこそ、「みんな、社会を良くするために立ち上がれ!」という「檄文」は書いているけれども、自身の「日常」においては、当たり前に「ことなかれ」であり、「既存の体制への順応者」であることも、容易に可能なのだ。
言うまでもなく、こうした「どっちもありの美味しいとこ取り」な立場は、誰がどう考えても、一番「おいしい」のである。
では、ここで、話を「序 〈トラブル〉としてのフェミニズム」(※ 以下「序文」と記す)に戻して、著者の藤高和輝が「読者に、何を求めているのか」を検討していこう。
『フェミニズムの歴史はトラブルのを起こすことの歴史である。 一一サラ・アーメッド
フェミニズムはトラブルである一一それはトラブルのなかから生まれ、社会に対してトラブルを引き起こすのだから。例えば、「一億総活躍」とか「女性活躍」とかが謳われる社会的風潮のなかで、子どもを保育園に預けることができず、仕事を辞めざるをえなくなって「ふざけんな」と感じた女性がブログに書き殴った「保育園落ちた日本死ね!!」という一言が連日メディアや国会で取り上げられ、実際に待機児童問題を可視化し、国会を動かすきっかけのひとつになったように。ブログの書き手はその文章を書いたとき、これほど大きな「騒動」になるとは思わなかっただろうし、ましてや社会運動を組織する意図などなかっただろう。
それはただ、トラブルの渦中にある人が発した、やむにやまれぬ叫びだったのではないだろうか。しかし、その言明された〈トラブル〉は、社会に実際にトラブルを引き起こしながら、他方で、同様にトラブルの渦中にある人たちとの結びつきや共同性を作っていった。実際、「#保育園落ちたの私だ」と書かれたたくさんのプラカードがその叫びに呼応していったのだった。〈トラブル〉はある人がやむをえず陥る状況であるが、そこには、社会を批判的に問い直し、「私たち」を結びつける力があるのではないだろうか。
トラブルの状態になることは自分自身が傷けられうる状態になることであるし、トラブルを引き起こすことは周囲から面倒を起こすものとして厄介者扱いされ、他者からの攻撃にさらされやすい状態でもある。社会はその秩序を脅かすトラブルを厄介払いし、遠ざけようとするし、そして社会的秩序から逸脱する者たちをトラブルの状態に置く暴力を容赦なく振るう。だから、トラブルは一般に避けられる傾向にある。しかし、それに対して、フェミニズムはトラブルと向き合い、それを引き受け、社会に対してトラブルを引き起こしてきた/いる実践である。〈トラブル〉なしに、フェミニズムを語ることはできないだろう。そして、フェミニズムの歴史/現在はトラブルの価値を転倒し、そこに社会を変革していく力を見出してきたのである。もし〈トラブルの哲学〉が可能であるなら、それはなによりもまずフェミニズムの歴史的実践のなかに求められるべきだろう。』(P9〜10)
最後の『〈トラブルの哲学〉が可能であるなら、それはなによりもまずフェミニズムの歴史的実践のなかに求められるべきだろう。』といういう部分に明らかなように、ここでまず注目しなくてはならないのは、藤高は、「社会の理不尽」に立ち向かう実践的な思想を、まるで「フェミニズムだけ」であるかのように「話題を限定して語っている」という点だ。
しかし、なぜ『なによりもまずフェミニズム』なのか? 一一という問題である。
そもそも、私が北村紗衣の「フェミニズム」に疑問を感じたのは、世の中には「いろんな差別」が存在するのに、北村紗衣が語る差別は、もっぱら「女性差別」に限定されおり、せいぜいそこに、「現代フェミニズムにおける金看板としての交差性(インターセクショナリティ)」の顔を立てるが如き、人種問題やトランスジェンダー問題が、おまけのように言及されるだけだった、という事実である。
私は、北村紗衣の「フェミニズム」におけるこうした「偏頗さ(偏向性)」を指摘して、大筋、次のように批判した。
「女性差別が許されないと主張するためには、そもそもその大前提として、差別そのものが許されないという認識がなければならない。つまり、どのような差別も許されないが、そうした差別のひとつとして女性差別も看過できないという立論でなければならない。ところが、北村紗衣の反差別は、シングルイシューと呼んで良いほど、女性差別反対の一本槍である。
北村紗衣の反差別には、部落差別(同和問題)も、従軍慰安婦問題も、朝鮮人徴用工問題も、在日朝鮮人差別問題も、沖縄への米軍基地押しつけ問題(沖縄差別)も、いっさい出てこないのだが、これはどうしたことなのか? 無論、すべての運動に関わることは物理的に不可能なのだが、差別反対という気持ちが本物なのであれば、そうした問題にも黙ってはいられないはずではないか。なのに、北村紗衣が、そうした差別問題を平気で等閑視できるのは、結局のところ、北村紗衣の女性差別反対とは、女性である北村紗衣自身の、党派利益のための運動でしかないということなのではないのか?」
ということであった。
そして、こうした観点からすれば、本書における藤高和輝の態度も、北村紗衣とまったく同種のものであり、要は「トランスジェンダー的な私」の党派利益にかかわる「反差別」でしかなく、そのための「フェミニズム」なのではないか、ということである。
だからこそ、藤高も『〈トラブルの哲学〉が可能であるなら、それはなによりもまずフェミニズムの歴史的実践のなかに求められるべきだろう。』と主張はしても、部落差別(同和問題)、従軍慰安婦問題、朝鮮人徴用工問題、在日朝鮮人差別問題、沖縄への米軍基地押しつけ問題(沖縄差別)、といった問題は、まるで存在しないかの如く等閑視し、「まず注目する必要のないもの」の如く扱われるのである。
序文の続きを見てみよう。
『 私たちに「提示できるのはパラドックスのみ」なのは、まさに私たちが生きているこの社会的状況そのものが矛盾やパラドックスに満ち満ちているからである。なぜ、家事や育児は女性の仕事とされるのか。男性が育児をすれば「イクメン」などともてはやされるのに対して、女性の再生産労働が空気のように扱われるのはなぜなのか。どうして、男女間に賃金の格差が存在するのか。非正規労働者のほとんどが女性であるのはなぜか。なぜ、女性の政治家は男性に比べて少ないのか。性暴力被害は男性に比べて女性が圧倒的に多いのはなぜか。どうして、居酒屋でビールを注ぎ、サラダを取り分ける圧力がとくに女性に強いられるのか‥‥‥。私たちが生きているこの社会的世界はジェンダーにもとづいたものをはじめとした差別的な規範によって不平等に構造化されている。この社会的規範の存在によって、一方の者たちは理不尽に傷つけられ、他方の者たちは丁重に保護されるという矛盾に満ちた状況が生まれる。「規範(norm)」とは“normal”に由来していることからもわかる通り、その社会において「普通」「自然」「常識」「当たり前」とされているものである。したがって、その規範から恩恵を受けている者たちはその暴力の存在そのものに気づきにくい。最近、ジェンダーをテーマにしたある授業で男性の学生が「女性専用車両」と「レディース・ディ」について言及したのだが(それは本当によくあることだ)、「ジェンダー」と聞いてまずそれらが思い浮かぶ、そのイマジナリーこそをまずは批判的に問うてみるべきだろう。
いったんフェミニストになれば、この世界に理解不能で理不尽なことがどれだけたくさんあることか、否応なく気づかされる。理解不能で理不尽な仕方で作られているこの社会的世界を私たちが生きている以上、〈トラブル〉は避けようがないし、この〈トラブル〉はなによりもまず身体的な水準で生じる。ジュディス・バトラーは身体の基礎的な様態を、「直面すること(coming up against)」と規定している。私たちは身体的な存在として、意図しようとしまいと、この世界に様々な仕方で「直面する」。この世界に触れられ、この世界に直面する経験のなかには、あなたをフェミニストにするような〈トラブル〉の経験があり、それらははじめ「意味不明」で「理解不能」なものとして現れる。』(P 12〜13)
たしかにこの世は『矛盾やパラドックスに満ち満ちている』。けれども、そうした矛盾やパラドックスは、何も「女性差別」に限ったことではないというのも明らかだ。
にも関わらず、ここでは、話が「女性差別」あるいは「性差別」に限定されていく様が見て取れるはずだ。
そして、そんな「恣意的な限定」の後に、
『いったんフェミニストになれば、この世界に理解不能で理不尽なことがどれだけたくさんあることか、否応なく気づかされる。』
と、さも「フェミニスト」には「特別な洞察力(眼力)」が与えられるかのような「自己申告」をする。一一このあたりが、いかにも胡散くさい。
要は「我々だけには、見えている」と言っているのであり、だから「あなたもフェミニズムに帰依せよ」と。
しかしながら、部落差別(同和問題)、従軍慰安婦問題、朝鮮人徴用工問題、在日朝鮮人差別問題、沖縄への米軍基地押しつけ問題(沖縄差別)、といった問題は、「フェミニスト」にならなくても、「当たり前の問題意識」があれば、気づき得ることだ。
にも関わらず、そうした当たり前に気づき得る問題を、まるで存在しないかのように無視する、「フェミニスト特有の眼力」とは、いったい何なのか?
普通に考えれば、それは「党派利益」への集中による問題意識でしかない、ということになろう。
誰だって、他人の不幸よりは、自分の不幸に敏感なのは当たり前。そんなことなら、フェミニストでなくても敏感なのだ。
ここで、ジュディス・バトラーが言っていることも、特別な話ではない。
ただ、バトラーの名前が持ち出されることで、何やら並々ならぬ「深いこと」が語られている、かのように演出されているだけだ。
当たり前の話だが、バトラーは「フェミニスト」になれば、人並み以上の「眼力」がつくなどとは考えていない。
まただからこそ、バトラーが参照するのは、男女を問わない、一流の哲学者の思考なのだ。そのなかには、「優れた」フェミニストもいる、というだけの話なのである。
ところが、藤高和輝は、話を手前味噌の個人的な経験に結びつけて、自分の立ち位置を「特権化」しようとしている。
「反差別」を訴えながらも、実は「フェミニズム学者」という立場の「特権化」には、余念がないのだ。
「差別されるのは嫌だが、特別扱いにはされたい」という本音が、そこに露出しているのである。
前の引用部は、次のように続く。
『幼い頃の私にとって、「女らしさ/男らしさ」の言説や性別役割分業は理解不能なものであり、長い間、違和として残りつづけたのだった。年を経てフェミニズムに出会って以降、私はこれらの経験をかき集めて、それらの背後で働いているジェンダー規範の存在に気づき、認識していった。サラ・アーメッドは『リビング・ア・フェミニスト・ライフ』で、「フェミニストになること」は「意味不明で理解不能なことのカラクリがみえてくるようになること(to make sense of what doesn'tmake sense)」であると述べている(Ahmed 2017:21)。「フェミニストになること」を通して、私たちは「理解不能なこと」の背景にある社会構造を読み解き、それに対峙し、「いま・ここ」とは異なる別の世界を夢見、それを求めていく。』(P13〜14)
このとおり、「フェミニズム」を特権化し、それと自分の個人的な体験を接続することで、自らを特権化する。
その際に参照されるのは、これも「フェミニスト学者」の言葉である。
『「フェミニストになること」は「意味不明で理解不能なことのカラクリがみえてくるようになること』であると。
しかし、これは「女性の立場に立つことで、女性の立場が見えてくる」ということでしかない。
言い換えれば、「男性の立場に立つことで、これまで気づかなかった男性の立場が見えてくる」とか「アニオタになることで、アニオタの置かれた社会的立場が見えてくる」というのと、同様の話でしかない。
「黒人の立場に立つことで、黒人の不利な立場に気づくことが出来るようになる」と表現すれば、それはたしかに「フェミニズム的」にはなろうが、問題は「性別」や「人種」だけではないのである。
ただ、フェミニズムがすでに学問化されており、学問として特権化されているから、そうした話題を語っていれば、何やら特別に「深いこと」、他の問題を差し置いてでも考えなければならないことを考えているかのように、「錯覚」させるだけなのだ。
その「幻惑力」によって、「女性差別」問題さえ考えていれば、他の差別的問題たる、部落差別(同和問題)、従軍慰安婦問題、朝鮮人徴用行問題、在日朝鮮人差別問題、沖縄への米軍基地押しつけ問題(沖縄差別)、などは、考えなくても「許される」という特権が、与えられてでもいるかのような「錯覚」を、読者に与えるのである。
だが、こんなものは所詮、手前味噌なペテンにすぎない。
「女性っぽい男性」である藤高和輝は、話題を「女性差別」や「トランスジェンダー差別」に限っているかぎりは、「正義の味方」であり「被害者」側にいられるだろう。
だが、池田緑のを著書『ポジショナリティ 射程と社会学的考察』のレビューでも論じたように、いったんその目を、部落差別(同和問題)、従軍慰安婦問題、朝鮮人徴用行問題、在日朝鮮人差別問題、沖縄への米軍基地押しつけ問題(沖縄差別)、といった問題に向ければ、藤高もまた「日本人」の一人として、「加害者責任」の一端を担わなければならない立場であることが、露わになるのである。
だが、藤高和輝は、北村紗衣と同様、あるいは、北村紗衣周辺の「オープンレター」フェミニスト学者たちと同様に、自身の「加害責任」からは、逃げることしかしない。
その点では、「日本の加害責任」を否定しようとした「ネット右翼」たちと、五十歩百歩なのである。
実際、彼らネット右翼たちも、自分たちの「被害者性」のアピールには余念がなかった。
やれ「東京裁判は、勝者の裁判だ」「日本国憲法は押しつけ憲法だ」「日本人は、GHQのWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)に洗脳された」だのといった、被害者アピールのことだ。
藤高和輝や北村紗衣のような「(自称)フェミニスト」も、ネット右翼のような「(自称)愛国者」も、自身の「加害者性」には頬かむりをして、もっぱら自分たちの「被害者性」をアピールする。
そして、それを聞かされた頭の悪い人たちは、その「視野限定による思考誘導」に、まんまと乗せられてしまい、自分たちだけが「最も大切なことに直面している」という思い違いを、刷り込まれてしまうのである。
前の引用部は、次のように続く。
『 この世界はジェンダー規範にもとづいて構成されており、それによって私たちは様々な暴力に直面するのだが、それは「私」にとって、謎めいた、意味不明な出来事として襲来し、「私」に〈トラブル〉を与えていく。この〈トラブル〉の感覚が「私」をフェミニストにするのだ。』(P14)
たしかに、この世界は「ジェンダー規範」に基づいてもいるが、それだけではない。一一当たり前の話だ。
だが、そうは思わせないところに、「思考誘導のレトリック」がある。
このあと、話を「ウーマン・リブ」の運動家であった田中美津に、強引に結びつけて見せるが、これとて「必然性」のあることではなく、所詮は藤高和輝の「権威主義的な箔付け」であり、他の今どきのフェミニストは持ち出さないがゆえの「オリジナリティ」アピールの域を出るものではない。
「田中美津に接続する」と書けば、何やらありがたく聞こえるけれども、所詮は「必然性」のない「故事つけ」なのである。
で、そんな「箔付けのペダントリー(衒学)」部分は省略して、次はこう続く。
再び、フェミニズム学者リタ・アーメッドの登場である。
『フェミニズムは〈トラブル〉から生まれるのだが、同時に、フェミニズムは社会に対して〈トラブル〉を引き起こしていくものでもある。アーメッドは「フェミニズムはキルジョイ(kiljoy)である」と述べている。彼女は例として「家族の食卓」を挙げている(Ahmed2010:65)。「家族の食卓」は「幸せ(happiness)」の象徴として社会的に流通しているイメージであるが、そこでは私たちは毎日同じ席に座り、食事をとりながら和やかに談笑する様子が想像される。しかし、私たちフェミニストはたびたび経験するのだが、「誰かが、あなたが問題だと感じる発言をする」、そして、「あなたは応答する、おそらく注意深く。落ち着いた調子で話すかもしれない」(Ahmed 2010:65)。それでも、その場は凍りつき、水を差され、盛り下げられ、緊張が走ることになり、あなたは場を壊し、空気を乱す者とみなされていく。
ときには、たとえなにかあなたが発言をしなくとも、ただ「笑みを返さない」、それだけで「フェミニスト・キルジョイ」になりうる(Ahmed 2010:65)。食卓を囲む彼/女らからすれば、その「平和」を破壊するのはフェミニストであるあなただとされ、あるいはそのような行為によってあなたは「フェミニスト」とカテゴライズされていく。そして、いったん周囲から「フェミニスト」と烙印を押されると、あなたの発言は緊張を生むものとして警戒されていく。フェミニストは「トラブルメーカー」(Ahmed 2010:59)なのである。
それでも、私たちは「平和」や「幸せ」、「談笑」や「他愛もない会話」をキルしていき、空気を乱していく。私たちがそうするのは、そこに性差別が存在するからであり、問題は「世界」の側にあるのであって、「私たち」の側にあるのではない一一食卓を囲み、フェミニストを厄介払いしたがる彼/女らにとってはあたかも「私たち」の側に「問題」があると考えているのだが。フェミニズムの歴史とはトラブルを引き起こしてきた/いる歴史であり、それは「個人的なもの」一一つまり小文字の「政治的なもの」一一から大文字の「政治的なもの」まで、その大小を問わず、〈トラブル〉の歴史である。私たちが〈トラブル〉を起こす、あるいは起こさざるをえないのは、この世界が間違っているからだ。』(P14〜16)
「キルジョイ」などという耳慣れない言葉を使うのは、権威主義者の常套手段である。
この点については、北村紗衣が無駄に「マンスプレイニング」だの「ワン・トリック・ポニー」だのといった耳慣れない言葉を使いたがる問題としてすでに指摘したことだが、藤高和輝にしても、それはまったく同じ。
こうした「耳慣れない言葉」や「有名人の言葉」で「箔付け」されていなければ、藤高和輝の言っていること自体は、何も目新しいことではなく、極めて凡庸な内容でしかない。
要は、「事を荒立てよう」と、それだけの話なのだ。
こんな話なら、私の場合は、山口昌男の「トリックスター」論に学んだ昔から、そのまま実践して来たことにすぎない。「硬直して制度化した秩序を、引っ掻き回すことで、世界を生気返しする」。
藤高和輝がここで語っているフェミニズム論とは違い、山口昌男の「トリックスター」論の方は、もう少し謙虚だった。
自身を犠牲にしてでも、世界の「垢」を落とし、「硬直」を解除しようとするものだったからだ。
ところが、藤高がアーメッドから引用する「キルジョイ」とか「トラブルメイカー」というのは、自分の「地位」と「党派利益」を守るための、「敵」に対する「攻撃」限定である。だから、「キルジョイ」も「トラブルメイカー」も、「身内」に向けてなされることは、金輪際ない。
だからこそ藤高和輝は、「現代フェミニズム研究会」の「設立趣意書」を受け入れることもできた。
藤高は決して、その「食卓」を凍りつかせるような言葉を、口にしたりはしないのだ。
例えば、一一「異論のある人の入会を拒否するのではなく、むしろそういう人を受け入れて、議論する場にすべきなのではないか。差別に反対しているはずの現代フェミニズム研究会が、論敵を悪魔化して差別し、対話を拒否するというのは、自己矛盾の言行不一致でしかないでしょう」などとは、金輪際言わない。
しかし、本来なら「フェミニズム内部において」も、キルジョイは為されて然るべきなのだ。
その事実を、藤高和輝自身が、アーメッドの権威に従いつつ、ブラック・フェミニストたちによるキルジョイ実践の実例を、前の引用部に続いて、次のように紹介している。
『 このようなフェミニスト・キルジョイはフェミニズム内部においてさえ生じうるとアーメッドは述べている。彼女が例に挙げているのはブラックフェミニズムである。オードリー・ロードやベル・フックスの名を挙げながら彼女が指摘しているのは、「怒った黒人女性はキルジョイとして記述しうる。彼女はフェミニスト・ジョイをキルしさえするかもしれない一一例えば、フェミニズムの政治内部の人種差別を指摘することによって」(Ahmed 2010:67)。アーメッドは次のフックスの言葉を引いている。「たとえば、互いに面識のない白人のフェミニストのグループがフェミニズム理論について議論する会議に加わっているとしよう。白人女性たちは同じ女性であることにもとづいて結びついていると感じているかもしれない。しかし、有色人種の女性がひとり、部屋に入ってきたとたん、その場の雰囲気はがらりと変わってしまう。白人女性たちは緊張し、リラックスできなくなり、お祭り気分は消え失せてしまう。無意識のうちに白人女性たちが互いに親密感を覚えていたのは、人種的アイデンティティーを共有していたからなのである」(フックス 2017:870)。
「フェミニズム」それ自体の中に〈トラブル〉が含まれているのは、また、その言葉の中にラテン語の「フェミナ(女)」に「女たち」の諸差異が胚胎しているからでもある。ベル・フックスの著作のタイトルの表現を借りれば、周縁化されてきた「女たち」の存在から「私は女ではないの?」とフェミニズムは繰り返し問われてきた。ある意味では、「フェミニズム」という看板を掲げる以上は、そこで示唆されている「女」とは誰なのかと問われる事態は不可避だろう。バトラーは『ジェンダー・トラブル』で、「肌の色やセクシュアリティや民族や階級や身体能力についての述部を作り上げようとするフェミニズムのアイデンティティ理論は、そのリストの最後を、いつも困ったように「エトセトラ」という語で締めくくる。修飾語をこのように次から次へと追加することによって、これらの位置はある状況にある主体を説明しようとするが、つねにそれは完全なものにはならない」(Butler 2010a:196)と述べている。このように、「女」とは誰なのかを説明する試みはその「他者」あるいは「無限のエトセトラ」(Butler 2010a:196)に直面する。言い換えれば、フェミニズムそのものもまた、この社会を規定している社会的規範から決して自由ではなく、その反復を完全になくしてしまうことはできないのであり、それゆえ、メインストリームのフェミニズムから排除され周縁化された「女たち」の存在からの声や問いかけに直面せざるをえない。』(P16〜17)
本来『直面せざるを得ない』『メインストリームのフェミニズムから排除され周縁化された「女たち」の存在からの声や問いかけ』を拒否しているのが、他ならぬ「現代フェミニズム研究会」であり、その「設立趣意書」なのだ。
そして、それに注文のひとつもつけずに賛同し、喜んで入会したのが、他ならぬ藤高和輝その人なのである。
また、ここでジュディス・バトラーの言う「無限のエトセトラ」の実例こそが、私の指摘した、部落差別(同和問題)、従軍慰安婦問題、朝鮮人徴用工問題、在日朝鮮人差別問題、沖縄への米軍基地押しつけ問題(沖縄差別)、といった問題なのだ。
藤高和輝は、バトラーの権威を利用しはしても、バトラーの課してくる難問の方は、体良くスルーするだけ。
そんな藤高和輝は、まるで他人事のように、前の引用部に続いて、こう書いている。
『 したがって、フェミニズムの歴史とは、「私たちとは誰なのか」を批判的に問うてきた歴史でもある、フェミニストとして語るあなたとは誰なのか。その語りはどんな場所からなされているのか。その語りからは誰が排除されているのか。「私たちが共にあること」はいかにして可能なのか。フェミニズムはもちろん一枚岩ではない。それでも、私にとってのフェミニズムとは、自己の、そして他者の〈トラブル〉直面しながらその声に応答しようとしてきたフェミニズムである。少なくとも、それが私にとってのフェミニズムであり、その洞察から私はたくさんのことを学んできたし、引き継いでいかなければならないと考えている。』(P17〜18)
『私にとってのフェミニズムとは、自己の、そして他者の〈トラブル〉直面しながらその声に応答しようとしてきたフェミニズム』だと言っているが、そのフェミニズムをいっかな引き受けようとしてはいないのが、藤高和輝自身なのである。
で、こうした「言行不一致のフェミニスト」が、やる気もないのに、必ずアリバイ的に持ち出すのが「インターセクショナリティ(交差性)」であるというのは、この言葉が「現代フェミニズム研究会」の設立趣意書でも強調されている点に明らかだろう。
藤高和輝は、前の引用部に続けて、次のように論じている。
『 インターセクショナリティという概念はまさにそのような歴史から生まれてきた概念だ。第二部第二章で詳述するが、それはもともとブラックフェミニストのキンバリー・クレンショーが作り出した概念であり、「黒人女性」が「人種差別」と「性差別」の「交差点(intersection)」でその両方向から「轢かれる」経験を明らかにするために導入された概念だ。それは、彼女の言う「シングルイシュー・モデル」では、「黒人女性」のような「交差点」を生きる者たちの実存や経験が扶消されてしまうからだ。実際、ベル・フックスは『アメリカ黒人女性とフェミニズムーベル・フックスの「私は女ではないの?」』(一九八一年)でインターセクショナリティという概念が提示される前に、「黒人女性」が直面していた当時の現実に関して次のように述べている。「黒人女性ほど、自己を押し殺すように社会化された集団は、アメリカにはほかにない。この文化の中で、私たち黒人女性が黒人男性と別個の集団であると認められることはめったにないし、「女性」という集団の一部と認められることもほとんどない。
黒人について論じられるときは、性差別のせいで黒人女性の声がかき消され、女性について論じられるときは、人種差別のせいで、やはり黒人女性の声がかき消される。黒人について論じられるときは、たいてい黒人男性に、女性について論じられるときは、たいてい白人女性にスポットライトが当てられる」(フックス 2010:20)。性差別も人種差別も、それらを別々に切り離された単体の権力構造と理解するなら、そこから「黒人女性」の実存は抜け落ち、珠消されてしまう。インターセクショナリティはまさに、「黒人女性」をはじめとした「いなかったことにされた」者たちの実存を可視化するために要請された概念だった。「第四波フェミニズム」においてもインターセクショナリティはその運動を特徴づけるキー・タームとして認識されているが、それはブラックフェミニズムをはじめとしたフェミニズムの歴史からの教訓を引き継いだものなのである。
インターセクショナリティはしかし、「私たち」にとっての「出発点」である(Ahmed 2017:5)。バトラーがすでに指摘していたように、インターセクショナリティの「リスト」一一そんなものがあるとして一一をいくら挙げていったとしても、そこから溢れ落ちる他者は存在するだろう。そう、リストは「無限のエトセトラ」に直面する。そのとき、「私たち」は「見知らぬ他者」にどのように向き合うのか。そして、「私たち」はどんな政治、どんな共同体一一すなわち、どんな「私たち」一一を作っていくのか。「私たち」はつねにすでにそのような「緊張」を生きているのであり、その「緊張」は決して解かれることはない。むしろ、私たちはその「緊張」一一「私たち」につきまとう、「私たち」そのものの「緊張」一一と共にあらねばならないのだ。
〈トラブル〉こそ、フェミニズムを駆動するものである。〈トラブル〉はフェミニズムの出自であり、武器であり、「私たち」を結びつける絆一一あるいは少なくともそのような絆を作り出すためのチャンス一一である。私たちは〈トラブル〉をいかに生きることができるのか。フェミニズムの歴史/現在はそのヒントに満ちている。本書はそのようなヒントの一部を私なりに拾い上げる試みである。』(P18〜20)
ほとんど、自分に酔っているだけの「うわ言」である。
言うに事欠いて、
『バトラーがすでに指摘していたように、インターセクショナリティの「リスト」一一そんなものがあるとして一一をいくら挙げていったとしても、そこから漏れ落ちる他者は存在するだろう。そう、リストは「無限のエトセトラ」に直面する。そのとき、「私たち」は「見知らぬ他者」にどのように向き合うのか。』
「どのように向き合うのか」ではなく、「どのようにして避けるのか」ではないか、実際には。
藤高和輝は、ここでベル・ブックスを肯定的に紹介しているのだが、引用するのは(自分には突き刺さってこない)「白人に対する黒人」の部分ばかりで、次のような「裏切り者のフェミニスト」に関する部分は、本書で触れていないばかりではなく、本書以前も本書以後も、一度として触れてはいないはずだ。
『『スーキー・スタンプラーは著書『ウーマンリブ 将来の青写真』(1970年)の導入部分で、(※ 男性を批判することで、一気に世界が変えられるとする)そうした急進的な精神をこう表現している。
〈(※ フェミニズムの)女性運動家は、有名人やスーパースターをつくりあげようとするマスメディアのために、いつもわき道に脱線させられてきた。これはわたしたち(※ フェミニスト)の基本理念に反することである。私たちは、名誉や名声を鼻にかけるような女性たちと関係を結ぶことなどできない。わたしたちは、特定の女性の利益や特定の女性集団のために闘っているわけではない。わたしたちは、すべての女性にかかわる問題に取り組んでいるのである。〉
ブルジョワ的イデオロギー
運動の初期、こうした意見は多くのフェミニストによって支持されていた。しかし、それは長続きしなかった。フェミニズムの文章を書いたり、あるいは労働における平等を要求するフェミニズム運動によって利益を得たりして、名誉や名声や金を手に入れる女性が多くなるにつれて、自分勝手な日和見主義が横行し、集団闘争の訴えの土台は(※ こうした、堕落したフェミニストによって掘り)崩されていった。そして、社会、資本主義、階級差別、そして人種差別に反対する気もない女性たちが、自らを「フェミニスト」と称した。』
( 『ベル・フックスの「フェミニズム理論」 周辺から中心へ』P26・〈 〉内はフックスによる、スーキー・スタンプラーの著書からの引用文)
以上、序文の大半を引用して批判を加えたが、本書の内容は、この序文に体現され尽くしている、と言えるだろう。
つまり、言ってることは、なるほどご立派だが、実践する気はさらさらない。そんな、「語られない本音」の部分で、誤魔化しのある序文であり一冊の本だ、ということになるのだ。
ここからは、藤高和輝の本書における主張と、「現代フェミニズム研究会」という「対話拒絶型党派(グループ)」が、いかに相反するものかという事実を、補足的に確認していこう。
藤高が本書で一貫して訴えているのは、「排除ではなく(マイノリティとの対等な)共存を」という、わかりやすく真っ当な話である。
『バトラーは論文「模倣とジェンダーへの抵抗」(一九九一年)で、当時のアメリカ合衆国の政治の文脈のなかでゲイ男性に対してレズビアンが「禁止された対象としてさえ呈示されない」としながら、「表立って禁止されれば、言説の場を占めることができるし、そこから逆転した言説とでもいうべきものを言葉にすることができる。〔だが、〕ひそかに追放されてしまうと、禁止の対象の資格さえもないということになる」(Butler 2010b:127 〔 〕内は引用者)と述べ、権力の働きとしての「抹消という計略(ruse of erasure)」(Butler 2010b:136)に言及している。ここで、バトラーは「抑圧」と「抹消」を区別していると言うことができるだろう。前者は「禁止の対象」を明示し、それを抑圧する権力の働きであるが、後者の「抹消」においては、ある人々の「現実」、その人が生きているという「現実」そのものが「なかったことにされる(derealized)」。 』(P41)
『ゲイ男性に対してレズビアンが「禁止された対象としてさえ呈示されない」』とは、どういう意味かというと、要は、当時のアメリカ社会での文脈においては、ゲイ男性(男性同性愛者)にとってのレズビアン(女性同性愛者)というは「無価値な存在」であると考えられる以前に「存在を認知されていない存在(不可視化された存在)」であったということだ。
つまり、「抑圧」された存在であれば、その抑圧に抵抗することで、現状に対して一定の影響力を行使することができるけれど、「抹消」された存在、つまり「不可視化された存在」だと、相手にもされないから、影響力を持つこともできない、ということである。
つまり、「敵」を否定したい者が、ます考えるのは、相手の「抹消」なのだ。要は「無視」である。
「無視」して済むんなら、それに越したことないからで、わざわざ抑圧したり批判したりする手間をかける必要がない。
ところが、「無視」しきれない「敵」については、やむを得ず「抑圧」を加えるというかたちで「攻撃」することにより、実質的な「消去」を遂行しなければならない。
つまり、北村紗衣にとっての私は、当初の「抑圧」の対象ではなく、もはや「抹消」すべき対象なのだ。
最初は、「note」管理者に通報することで、私を「抑圧」し、発言権を奪うことで「消去」しようとした。
しかし、それに失敗したので、方針転換をして「無視黙殺」による「抹消」というやり方に切り替えたのである。


そして、これが北村紗衣だけではなく、その周囲のフェミニストたちの「常套手段」なのだ。
具体的に言えば、清水晶子、河野真太郎、田中東子、三木那由他、隠岐さや香らも「右へ倣え」している、姑息な戦術なのである。私のような「実戦派のアマチュア(アウトロー)」は、相手にすると厄介だから、無視するに限るということである。
その一方で、彼(女)らが、「現代フェミニズム研究会」の設立趣意書で言うところの『一部の(※ フェミニズム)研究者』を、ほとんど名指し(フェミニズム関係者なら誰のことを指しているのかが判るかたち)にして「抑圧」を加えているのは、その『一部の研究者』が、彼(女)らと同じ「肩書き」を持つ「大学教員=研究者」だからだ。
つまり、自分たちの「大学教員フェミニスト」という立場の「特権性」を温存しようとするかぎりは、同じ肩書きを持つ「敵」を無視することはできない、ということなのだ。
「所詮は、いち研究者でしかない大学教員の言うことなど、無視したらいい」とは言えない立場だということである。
そして、このことから言えるのは、彼(女)らが「差別反対」を掲げて「性差別」や「人種差別」や「階級差別」にも反対しているように見せかけていたとしても、実際のところ、自身の「党派利益」に直結する「階級差別」だけは温存しようしている、という事実なのである。
一一つまり、彼(女)らは、決して「大学教員」「専門家(プロ)」という「肩書き」の特権性だけは、捨てはしない。
「大学教員」や「研究者」と言っても、それはピンからキリまでいて、全体9割がキリ寄りであり、当然「現代フェミニズム研究会」の会員の大半も「キリ寄り」でしかなく、優れたアマチュアに劣る存在であったとしても、「プロ」という肩書きにおいて、アマチュアを無視黙殺する「業界的な特権」だけは、決して捨てる気はない。
個人的な「出来」の良し悪しに関わりなく、「貴族の子は貴族であり、庶民の子とは違う」という、階級(差別)意識の持ち主なのである。
これは、「優れたアマチュア」が、「専門家」から「抹消」される中で、ごく例外的に生き残った人物として、南方熊楠や牧野富太郎を例に挙げて、すでに論じたことでもある。
彼ら「大学教員フェミニスト」は、どんなにレベルが低かろうと、ただその「肩書きの権威」だけは捨てない。
しかし、その「肩書きの権威」とは、間違いなく「階級」の一種であり、彼(女)らのやっていることは、「階級差別」そのものなのである。
つまり、本書で、藤高和輝が「トラブルを起こせ!」と、いくら声高に世間を煽ってみせても、職場としての大学の中でやっているのは、せいぜい「女性っぽい服装」をして、それを「ジロジロ見られる」のは不本意だなどと、自身の「被害者性」をアピールするのが精一杯で、教師と学生の、あるいは、教授と助教といった「階級」を打破しようとか、ましてや「専門家と非専門家の階級的な壁」を打破するための「トラブル」を起こそう、などとは、決して考えないのだ。
「大学教員」「専門家」といった「階級」だけは、絶対に温存されねばならないし、死守すべき「特権」だと考えているから、「女性差別」や「トランスジェンダー差別」といった、一般的、あるいは、マイナーな問題以外の、直接自分自身の「特権」に関わる、身辺的な「権益差別」については、決して触れようとはしないのである。
『同様の例として、“Black Lives Matter”と“AIl Lives Matter”の関係を挙げることができるだろう。「すべての命が大切だ(All Lives Matter)」という主張は当然の主張内容だが、“Black Lives Matter”という主張が示しているのは、まさに“Black”が“AII”に含まれていない、その社会的現実である。』(P65.欄外註)
「すべての人は平等でなければならない」と訴えられているにも関わらず、しかし、現実には、その「すべての人」の中に「黒人」が含まれていなかったからこそ、「ブラック・ライブズ・マター」運動が発生したのであり、それとまったく同じ理由で、「大学教員フェミニスト」の唱える「すべての人は平等でなければならない」の中には「アマチュア」は含ませておらず、実力を問わない「階級差別」が意識的に温存されているからこそ、私はこうして彼(女)らの「言行不一致」と「偽善」を批判しているのである。
次は、ジュディス・バトラーからの引用部である。
『 ヘーゲルは、ある党派がみずからを普遍とみなし、一般意志を代表していると主張するときに何が起こるかを、はっきりと示している。そこでは一般意志は、それを構成している個人の意志に取って代わり、事実、個人の意志を犠牲にして存在しているものである。その結果、政府によって公的に代表されている「意志」は、その代表機能から排除された個々の「意志」に憑きまとわれることになる。ゆえに政府は、代表領域から排除された個々の意志の残滓を消し去ることによって、それ自身の普遍性を主張し続けなければならないという強迫観念的な仕組みを、その根底にもつものとなる。(Butler 2000a : 22)』(P71)
まさに「現代フェミニズム研究会」のこと、そのものではないか。
『一部の研究者』を「抑圧」し、同時に「アマチュア」を「抹消」して、「我らこそが、フェミニズムの一般意志である」と主張しているのが、他ならぬ「現代フェミニズム研究会」なのだ。
しかし、「現代フェミニズム研究会」は、『代表領域から排除された個々の意志の残滓を消し去ることによって、それ自身の普遍性を主張し続けなければならないという強迫観念的な仕組みを、その根底にもつものと』現になっている。
それを端的に象徴したのが、あの「設立趣意書」なのだ。
『 バトラーにとって、普遍を〈いまだ実現されていないもの〉として考えることは、その〈いまだ実現されていないもの〉を既存の普遍の枠組みに組み入れ、包摂するインクルージョンの政治ではない。それは「語りえないものを、語りえるものの領域のなか一一支配的な既存の規範の内部一一に住まわせるために、前者を後者に順応させることではない」(Butier2000a :179)のだ。むしろ、バトラーが示そうとするのは、既存の「普遍」とされているものが実際には他者を排除した排他的なものであり、またその排除によって下支えられており、それゆえ普遍そのものが十分には普遍ではなく、いかに脆弱な基盤によって成り立っているかということである。したがって、「支配の自信を打ち砕き、その普遍の主張がいかに不確かなものであるかを示し、その不確かさをたどって、その体制の崩壊に到達し、翻訳(※ 訳を翻す)作業そのものによって引き起こされるオルタナティヴな多様な種類の普遍へ向けて、隙間を広げていくこと」(Butler 2000a:179)こそがバトラーが志向するものである。そして、この「オルタナティヴな多様な種類の普遍」は「政治的な読解可能性の境界に位置している痕跡から、主体であるという特権を与えられてこなかった主体〔‥‥‥〕から」(Butler 2000a:178)生まれる。』(P75)
ここを読めば、ジュディス・バトラーの思想が、どれほど藤高和輝の思想と隔たっており、真逆に近いものかも判るだろう。
平たく言えば、バトラーはラディカルであり、藤高和輝は、バトラーの権威を利用する「(自分)保守派」なのだ。
藤高が出来ることとは、せいぜい、自分たち「大学教員=専門家」と権威を保った上で「一般人=アマチュア」の意見にも「耳を貸してあげよう」というパターナリズム止まりであり、現体制としての「専門家と非専門家」という「階級」だけは温存したいのだ。
だから、自分が「特権階級」でいられる「専門」に話題を限定し、自分が「一般人」と同等であったり「加害者」の側であったりするような「専門外」については、触れようとさえしないのである。
だか、バトラーが目指しているのは、そうした「普遍」を僭称する現「支配(※ 体制)の自信を打ち砕き、その普遍の主張がいかに不確かなものであるかを示し、その不確かさをたどって、その体制の崩壊に到達し、翻訳(※ 訳を翻す)作業そのものによって引き起こされるオルタナティヴな多様な種類の普遍へ向けて、隙間を広げていくこと」なのである。
つまり、バトラーの言う「政治的な読解可能性の境界に位置している痕跡」「主体であるという特権を与えられてこなかった主体」とは、藤高和輝や北村紗衣らのことではなく、私のような「名もなき、読解可能性の境界に位置している痕跡としての存在」なのだ。
『 その「隙間」からどんなオルタナティヴな普遍が、どんな未来が立ち上がるのか、それは分からない。それは〈いまだ実現されていないもの〉の到来であり、そうである以上、それが何か、あらかじめ言表することはできない。それはバトラーが述べているように「普遍」と呼ばれるかもしれないが、竹村が述べていたように「他の言葉や表現」でありうる。〈いまだ実現されていないもの〉は「いま・ここ」において、すなわち現行のヘゲモニーにおいて、居場所をもたず、排除されているものであり、「いま・ここ」における「語りえるもの」から零れ落ちるものであるから、私たちはそれを語る十全な言葉をもたないのである。
しかし、そうだとしても、それをやはり「普遍」とか「個別」といった形式的な言語の内部で語ろうとするところにバトラーの苦境、隘路がある。竹村(※ 竹村和子)の苦言が関わるのはそこであり、それゆえ、この批判は開かれておく必要がある。しかし同時に、竹村が訴えているのは、私たちは「他の言葉や表現」を探ることを諦めるべきではないということである。
ここでの私の試みはそれゆえ、〈トラブル〉をそのような「他の言葉や表現」として確保しょうとするものである。〈トラブル〉とは、まさにこの〈いまだ実現されていないもの〉の顕現ではないだろうか。「普遍」という「承認」の枠組みから排除された者たちの身振りが〈トラブル〉であらざるをえないとすれば、〈トラブル〉とは「いま・ここ」において〈いまだ実現されていないもの〉の現れではないか。バトラーの表現を借りれば、普遍から排除された者たちが普遍を主張する言語行為とは、既存の普遍において〈いまだ実現されていないもの〉を「体を張って=身体を境界線上に置いて(put one's body on the line)」(Butler 2000a: 178)示す実践である。この「体を張って=身体を境界線上に置いて」という表現から想起されるのは、例えば、警察権力を前に対峙するデモ行進者たちの身体であり、その身体はまさに〈トラブル〉にさらされているものとして存在する。「境界線上」というこの位置、それは、既存の普遍の構造から排除され、声を奪われた存在が、しかし、そのとり乱した身体を通して、声を上げ、支配的な規範を揺さぶる、そのような位置を示しているだろう。〈いまだ実現されていないもの〉が現れるとき、それは〈トラブル〉という形をとらざるをえない一一〈トラブル〉にさらされていると同時に社会に〈トラブル〉を引き起こすという双方の意味で。
〈いまだ実現されていないもの〉としての〈トラブル〉、それはムニョス(※ ホセ・エステバン・ムニョス)の言い方に倣えば、「いま・ここ」の「否定」一一「いま・ここ」によって「否定」されるものであると同時に「いま・ここ」を「否定」するもの一一として存在し、「いま・ここ」にはない私たちの居場所を未来において手繰り寄せるものである。それがどんなものかはわからない。それは〈いまだ実現されていないもの〉であり、それは「普遍」という言葉で呼ばれるかもしれないが、「他の言葉や表現」によって呼びかけられうるものでもある。〈トラブル〉は〈いまだ実現されていないもの〉への合図である。』(P75〜77)
ここまでの私の解説を読んでくれた人には、上の(引用)文章は、さほど難しいものではないはずだ。
藤高和輝は、ここでバトラーやアーメッドやムニョス、あるいは田中美津に倣って、「とり乱せ」、「普遍を僭称する現体制」に抗って〈トラブル〉を惹起し境界線を揺るがせと、そう煽っている。
しかしでは、その〈トラブル〉の主体、「とり乱し」としての主体は、誰であるか? 一一それが、「現代フェミニズム研究会」の会員である藤高和輝でないことだけは、確かであろう。
したがって、『「境界線上」というこの位置、それは、既存の普遍の構造から排除され、声を奪われた存在が、しかし、そのとり乱した身体を通して、声を上げ、支配的な規範を揺さぶる、そのような位置』とは、一一まさに、私の立場である。
『バトラーは次のように述べている。「そもそも連帯とは、その内部の矛盾を認め、それはそのままにしながら政治行動をとるはずのものではないか。またおそらく対話による理解が引き受けねばならない事柄のひとつは、相違や亀裂や分裂や断片化を、しばしば苦痛を伴う民主化のプロセスのひとつとして受け入れることではないか」(Butler 2010a : 20)°』 (P161.欄外註)
こうしたバトラーの言葉を山ほど引用している、ジュディス・バトラーの「研究者=専門家」である藤高和輝は、しかし、バトラーのここでの言葉の真逆をいく「現代フェミニズム研究会」の会員であり、あの、
『以上の趣旨に賛同する皆さんに、ひろくこの研究会への参加を呼び掛けたいと思います。』
という、「敵性人物の排除」を明記した「趣意書」に同意して、入会した人なのである。
そんな人の書いた本が「ろくなものではない」というのは、わかりきった話ではないだろうか。
(2025年7月6日)
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(※ 北村紗衣は、Twitterの過去ログを削除するだけではなく、それを収めた「Togetter」もすべて削除させている。上の「まとめのまとめ」にも90本以上が収録されていたが、すべて「削除」された。そして、そんな北村紗衣が「Wikipedia」の管理に関わって入ることも周知の事実であり、北村紗衣の関わった「オープンレター」のWikipediaは、関係者名が一切書かれていないというと異様なものとなっている。無論、北村紗衣が「手をを加えた」Wikipediaの項目は、多数にのぼるだろう。)
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